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頭が起きすぎていてまるで目が眠らない。いつからだったか、たぶん木曜日から、水曜日くらいからだったか、とにかくずっと、ずっとずっと仕事のことを考え続けている。そしてそれは僕の中に芽生えた久しぶりの欲望、欲望は言い過ぎというか種類が異なる気がするから興奮、興奮も違うような気がする今は興奮な気がするけどこなすべき課題、こなすべき課題で、それが明確というか考えないといけないことが山積しているような気に突如なって、それをずっとずっと考えていると時間が全然足りないように感じている。健康的な焦りにも思えるし、この猪突の具合はどこかでふっと電源が落ちる、それも遠くない未来にふっと電源が落ちる、そうなるような不自然な焦りにも思える。とにもかくにもずっとずっと考えている、読書会のことはそれの一端として浮かんで実行にすぐに移されたことで、他にもいろいろなことを、ちょっと手に負えないような範囲の数々のことを、同時に考えないといけないと思うけれど同時には考えられない数々のことを、考え続けている。考えることがこんなにも目の前の暗さを消してくれることだとはちょっと思わなかったというその程度に、考えることは僕に明かりを投げかけてくれる、光。これまでだったらただのうだつのあがらない暗い鬱屈した一日も、一生懸命考え続けている限り意味のある意義のある未来に投げられた一日に感じられて、そうなるとがぜん、面白い心地になる。不思議なもので。その反動というかそのしわ寄せとして本を読む気にひとつもならない。寝床に入ってからちびちびとフォークナーを読んでいるがそれ以外の時間に本を読む気にならない。昨日からはフォークナーすら置かずにノートになにごとを書きつけながら寝に入るという様子になってすらいる。本を読む欲求、それがこんなふうにしわ寄せを食らってかき消されるものだとは思ってもいなかった。これだけ前のめりになるそれだけ僕は追い詰められていたのか。今日は『チリの闘い』を見てきた。休みだったから見てきた。それも行くまではそれよりも考え事をしたいような気がしていた。二部まで見たら三部は後日に回して考え事をしにどこかに行こうかなどと思っていた。しかし実際には二部まで見たら三部まで見ざるをえない興奮を映画が与えてきたのでそれはそうならず三部まで通して見ることになった。そして三部は、退屈とは言わないし工場萌えとして見ればそれもいい気がするけれど、二部までのテンションとは異なる様子だった。しかし三部の、何度も流れるあの牧歌的な音楽のなかで駆ける、大きな大きな荷を引きながら駆ける少女のあの賭け方はなんだったのか。重力がどこかに行ってしまったような賭け方だった。どうしてあれで前進できるのか、納得がいかないような軽い軽い賭け方だった。三部は確かに、映画としてはというよりはチリクーデターの鮮烈な物語としては傍系に位置するようにも思えるけれど一方、労働者たちのあの物語は僕はこれまで知らなかったから、それは見られてとてもよかったのかもしれない。考えてみれば、イサベル・アジェンデにしたってアリエル・ドルフマンにしたって、ガルシア=マルケスにしたって、あの労働者たちのただ中で生きていた人間ではなかった。だから描かれなくてもしかたがなかった。工場を接収した労働者たちの、あの素朴で誇りに満ちた、凛々しい顔。凛々しさと誇りはしかし素朴で、簡単にやっつけられてしまうであろうことを見る者に思わせるあの顔。それを見られたのはよかったのかもしれない。帰り、カフェで長々と作業をしていた。よくもまあこんな中途半端なものを出す気になるな、と思わせる飲み物を飲んだ。美味しくないわけじゃなくて、中途半端。洒落たもののつもりなのかもしれないけれど、そこには誇りも凛々しさもなかった。何杯でも飲めるような気がする夜もあれば、ビール2杯で酔っ払う夜もある。一人だとすぐに酔うのかもしれない。人と飲むことはある程度の自制心のようなものをもたらすのかもしれない。ビール2杯で変に酔っ払った。眠らないと、明日がもうやってきてしまう。打っていたら眠くなるかもしれないという発想自体が間違い以外なにものでもないが、やはり間違いだったためまるで眠くはならなかった。眠らないといけない。


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