読書感想文 ロベルト・ボラーニョ/2666

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「僕が初めてロベルト・ボラーニョを読んだのは、2012年の夏のことだった。当時、僕は26歳で、岡山県の岡山市でカフェを営んでいた。件の本とは、『野生の探偵たち』である。若き僕はそのとき、その小説家がすでに没し、長大な一編の小説が遺されていることを知らなかった。だが、僕の無知、空白もしくは書誌的な怠慢は単に僕が若すぎたせいであり、その小説が僕にもたらした眩惑と感嘆は少しも損なわれはしなかった。」

 

そう書き出されたこの大きな小説を、僕は2013年の暮れから2014年の明けに掛けて読むことになった。

2013年は僕にとってラテンアメリカ文学の一年だった。その前年末に、『野生の探偵たち』も当然そうだったけれども、そのボラーニョ推薦といった惹句にまんまとつられて読んだオラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』があまりに面白く、翌2013年はラテンアメリカの小説を読みなさいという啓示を受けたかのごとくに、ひたすらに、小説に関してはラテンアメリカ以外は禁止、という自分で制定したルールに従い、読み続けた。その愉快な旅路(それは本当に旅のような気分だった。中南米の各国をキョロキョロしながら、景色を楽しみながら、練り歩くように読んでいた)の果てに向かおうと最初から決めていたのが、この『2666』だった。早い段階で、僕のルールブックには「2666は年末の帰省の際に読むこと」という項目が付け足された。

そんなわけで、待ちに待ったこの小説を、12月24日、店の冬休みの初日に岡山の丸善で買い求め、本を買うだけでこんなにウキウキできるものかというレベルでウキウキしながら、それを旅行バッグに押し込んだ。

 

奈良のゲストハウスの夜、枕元の弱い光のもと、恐る恐る、その本は開かれた。その本はそれから、京都で開かれ、横浜で開かれ、東京で開かれ、埼玉で開かれ、栃木で開かれ、そして1月の5日早朝、高速バスをおりた足で向かった岡山の喫茶店の中で読み終えられた。チリで生まれてメキシコに住まい、それからフランスやエル・サルバドル、そして終の住処としてスペインに落ち着いたコスモポリタンであるボラーニョの道程と比べてみれば、あるいはフランス、スペイン、イギリスにイタリア、そしてメキシコ、アメリカ、ドイツにルーマニアにロシアと、縦横無尽に飛び回るこの作品の語りのあり様と比べてみれば僕の「ボラーニョをバックパックに入れて旅行してきました」だなんて貧弱なことこのうえないわけだけど、それでもなお、なんとなしに、背中に重みをもたらし続けたこの分厚い小説とともにあちこちを行くことは尊く愉快な出来事であり、豊穣な記憶となった。

 

あちこちに行くこと。ベンノ・フォン・アルチンボルディという謎のドイツ人小説家をめぐってそれぞれに国籍の異なる4人の批評家たちが美しい冒険者になる第一部は、まさにあちこちに行く喜びを与えてくれる。

それぞれがどのようにしてアルチンボルディに出会ったのかが順繰りに描かれていく冒頭は、それだけであれば訳者解説にもあったように、ややもすれば「語りが叙事に偏」りかねないものに思えるが、紹介的、書誌的、伝記的な記述の、そして活劇的とも呼べるような行為の現れ(例えばP19の、アルチンボルディに感銘を受けたノートンが大学の中庭に出て雨降る空を見上げる場面とか)の積み重ねが言いようのない強靭なグルーヴを獲得していて、それはあたかもアルチンボルディというコードを与えられた4人が奏でるやたらにエキサイティングなセッションのようだった。そこで結ばれる強い友情と導入される三角関係によって彼らはいとも簡単に移動し続ける者となり、場面はスペインからイギリス、フランスからイタリアへと、軽々と国境を越えていく。それぞれ異なる母語を持つ4人は言語の壁さえも軽々と越えていく。その軽やかな越境の楽しさが、そしてワクワク感がクライマックスに達するのはもちろん「じゃ、メキシコ、行くか」という決定がくだされるときだけど、僕がとてもいいなと思うのは、4人がそれぞれの住まいから電話を掛け合うところだ。

 

エスピノーサがノートンに同じような調子で電話し、続いてノートンがペルチエに電話する、するとペルチエがモリーニに電話をかけ、何日か経つとまたもや再開される通話は極度に専門的なコードとなり、アルチンボルディにおけるシニフィアンとシニフィエ、テクスト、サブテクスト、パラテクスト、『ビツィウス』の最後の数ページにおける言語・身体的領土権の奪還という具合で、そうなるともはや話題は、映画であろうとドイツ語科の問題であろうと、朝な夕なにそれぞれが住む都市をひっきりなしに通り過ぎていく雲と同じだった。(P23-24)

 

それぞれが住む都市をひっきりなしに通り過ぎていく雲、とあるけれど、電話線を介して二人が接続されてしまうと、たちまちにして、別々の都市に暮らす人間が、その瞬間、まぎれもなく、共に、生きている、確かに存在している、ということが一挙に、ほとんど事件のように読んでいる者に体験される感じがあり、それはイメージで言えばグーグルマップを一気にズームアウトしたときのような、「なんかわからないけど、世界!」というような驚きに似ている。この通話という装置を通して実現されるダイナミックさは、僕にとっては小説固有のものに思え、映画でそれをやろうとした場合には分割画面で別々の場所にいる二人を同時に見せるといったことができるだろうけれども、それとはまったく種類の異なる驚きがあるし、そこでしか成立しない、生成されない親密さがあるように思う。通話によるたちまちの親密さの生成、それは批評家4人のあいだで交わされるものだけではなく、例えばもう残り数ページとなったところで、ロッテ・ハースがブービス社の社長、かつてのフォン・ツンペ男爵令嬢に電話するところでも見られ、これなんかは本当に素敵だと思う。瞬時にして、メキシコとドイツがつながるだけでなく、通話がおこなわれている2001年あたりと、それまで数百ページにわたって読んできた長い長い歴史、その始まり、1940年あたりが結ばれる。最後を飾るにふさわしい、まさに「わ!」という瞬間だと思う。

 

親密さ。僕はこれまで、ボラーニョの小説を、いや、どの小説を読む時でもそうかもしれないけれども、ふいに現れる、「あ、この瞬間」、みたいなものとの遭遇を求めて読んでいるように思う。それは上に挙げたような箇所もそうだし、あるいは下記に引くようなところとか。

 

「僕たちがそれぞれ望んでいるのは、君と結婚して、一緒に暮らし、子供をつくり、君と一緒に歳を取ることだ、けれど今、僕たちが生きているこの瞬間、僕たちの唯一の望みは君との友情を保つことなんだ。」(P74)

 

「あなたがわたしを愛していることに気づくのに、どうしてこんなに時間がかかったのかしら?」とわたしはあとになってから言いました。「わたしがあなたを愛していることに気づくのに、どうしてこんなに時間がかかったのかしら?」(P159)

 

少女は、素敵ね、と言ったようだった。だがエスピノーサには彼女が言ったことがわからなかった。「何だって?何て言ったの?」と彼は訊いた。レベカは黙ったままだった。(P160)

 

こんなことがあなたの身に起こるわけはないわ、とわたしは言った。あなたは若すぎて、こんなに苦しんだことはないはずよ。彼は、信じてくれてもくれなくても同じことさ、とでも言いたげな仕草をした。重要なのは、よく書けているかどうかってことなんだ、と彼は言った。違う、とわたしは言った。あなたも分かっているでしょう、大事なのはそんなことじゃないって。そうじゃない、違うわ、と言うと、彼もわたしの言うとおりだって認めたわ。(P171)

 

前に同じ場面に出くわした覚えがある、とフェイトは思った。(…)彼女の手は温かく、その体温は別の場面を思い出せたか、あるいはそれ自体が見苦しい状態の一部だった。(…)彼女が手を握り返してくれなかったら、俺はここで死んでいただろう。(P320)

 

「僕は」と、フェイトには見えないテレビに視線を奪われたまま受付係は言った。「僕たちには分からないものがマイケルには分かるという話を信じてますよ」(P336)

 

自分の相手をしてくれた女の子に踊るのは好きかと尋ねると、人生で一番好きだという返事が返ってきた。その答えは、なぜかは分からないがすばらしいものに思え、同時に哀れなまでに悲しく感じられた。(P370)

 

今回、『2666』を読みながら、ずいぶん待望した読書だったこともあり、長いこともあり、専用のノートを一冊買って気になったことや思ったことをメモをしたり、いいなと思ったところを書き抜いたりしていて、上に挙げたものはそこから適当に拾ったもので、「いいね!」という箇所、なんともいえずぐっとくる箇所なのだけど、改めてペラペラと読み返しかえしてみても、どのページにもぐっとくる何かがある。

とは言えこの長い長い、そして出口のまるで見えない、自分がどこに向かって歩いているのか、歩いているつもりだけれどもそもそもこの歩は進んでいるのか、それすらもおぼつかないような真っ暗な迷路のようなこの小説においては、「なんかぐっとくる」だけでは到底済ますことはできなくて、特に「犯罪の部」に入ってからなんて、どんな態度で読んだらよかったのだろうか。

発見時期、発見場所、名前、年齢、身長、髪の色、職業、発見時の服装、死因、推定脂死亡時期、によって表される女性の死が、いくつもいくつも積み重ねられる。いったいいくつ挙げられたのだろう。50はくだらないだろうか。事件の凄惨さの核心に、そのおざましさの根っこに少しでも近づくには、余計な装飾を排し、ただ事件を、出来事を、列挙していくほかない、とでもいうかのようだ。

 

女たちの言うことを尊重しなけりゃいけない。大事なのは女たちの恐怖に耳を閉ざさないことだよ。(P341)

 

「刑務所が生き物に見えるんです。(…)どう説明すればいいのか。たとえばアパートの建物より生気がある。はるかに生気があるんです。こんなことを言っても驚かないで下さいね、切り刻まれた女のように見えるんです。切り刻まれながら、まだ生きている女です。そしてその女のなかに囚人たちが暮らしている」(P297)

 

「犯罪の部」に入る直前、ジャーナリストの女性のだいぶきているでしょうこの人というこの発言があるし、作品を通して本当に多くの暴力がなされ、たくさんの人々がとにかく不安や恐怖を口にするけれども(恐怖恐怖症、万物恐怖症!)、まさにこの小説の、特に「犯罪の部」以降を読んでいると、それは説明する手立てのまるでない、グロテスクで戦慄を誘う生き物のようだ。

そう、本当に、適当に言ってみたけど、本当に生き物のようだ。なんせ女の体を切り刻んだとして、その手を取って、あるいは眼球を取って、どこでもいい、おっぱいでも太ももでもどこでもいい。その体の一部を提示したとして、それはもちろん、DNA鑑定なんかだったらそれだけで誰だとかが分かるのだろうけれども、そういった装置がない状態においては、つまり感覚の次元においては、体の一部を取って見てもその女の全体を表すものにはまるでならない、その女は全体でその女のわけであって、手がその女を表しもしなければ、眼球が、おっぱいが、太ももが、それぞれにその女を表すわけではない。全体で、初めてそれなのだ。

この小説も、魅力的な一節を、おぞましい一節を、何か示唆していそうな一節を、切り出してみたところで、あるいは要点を見つけて再構成してみせたところで、まったくこの小説の全体とは似ても似つかない、まるっきり遠いものしか現れないだろう。

実際、この小説が全体で一編の小説であることを担保するものなどほとんどないに等しくて、それはもちろんアルチンボルディがあり、あるいは架空の都市サンタテレサが、そしてそこで生じる大量の死があるわけだけど、それが通奏低音としてあることに違いはないのだけど、読んでいる実感として、果たしてそれはそんなに頼りになるものだろうか。

それよりも、かろうじて、この、今読んでいるものが一編の小説である、と感じさせるのは、戦略的になのか、ボラーニョの性向みたいなものもあるのかわからないけれども、いくつかの反復されるモチーフの存在かもしれない。

例えば大量の殺人(現代のサンタテレサ、1940年代のドイツ、17世紀の奴隷船)、例えば異常なまでに背の高い男の出現、例えば見舞いにおもむいた病室で決まって広げられる本、例えばロサという名前、例えばホテルに備えられた二つの鏡、例えば白斑症の人物、例えば朗読される料理のレシピ。

はっきりとは覚えていないけれど、なんか見覚えがある、というような、おぼろげな記憶と意識にプスッと鋲が刺され、長い長い一枚の布が、たわみながらも支えられていく。そんなふうにして、この長大な一編は読む者を飲み込んでいくようなところがあった。挑み、そしてまんまと捕捉された、ということだった。それは敗残者が漏らす甘美な嘆きだ。

 

いまや教養豊かな薬剤師さえも、未完の奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。(P227)

 

きれいにまとめようと思ってこの文章を書き始めたわけだけど、「未完の奔流のごとき大作」に挑んだ結果として、きれいに整った文章が紡がれるだなんて、そんな小さいところに収斂させてしまうなんて、せっかくした豊かな体験がもったいないし、自分がした体験にたいして怠惰で無責任だろう、と思うことにした。だから、こんなふうにグダグダすればいいんだと言い聞かせ、以下はよりグダグダと、思いついたままに。

 

マキラドーラ。殺されゆく女たちの多くが勤めている場所。

僕は『2666』を読むに当たり、メキシコが主要な舞台だと何かで見て知っていたこともあって、メキシコの歴史の本を二冊読んだ。どうせなら歴史を押さえておいた方が楽しいし理解も深まっていいかなと思ったため。その結果は惨憺たるもので、いくつかの固有名詞、ポルフィリオ・ディアス、ベニート・フアレス、マクシミリアンといった名前が出てきたときに、「ああ、パックスポリフィリアーナのディアスね」だとか「たしかいい人だったよね、ベニート」だとか「たしか勝手に皇帝に即位した人だったよね、あとで見てると勝手に暫定大統領を名乗る人続出だから、その先駆け的な」といった反応をする程度で、まるきりと言っていいほど役に立たなかったのだけど、こと地名に関してはわりと有用で、もう、「ああ、ソノラね、北部の。元気だった?」ぐらいの親しみがあったし、「オアハカ?まあずいぶん遠くからおいでなすって」という具合だ。

そういうなかで、マキラドーラもぼんやりと覚えていて、製造業に関して外国資本が入ってこられる特区の工場みたいなイメージだったのだけど、合っていただろうか。女工、とあったからそう遠くもないはずだ。

このマキラドーラを抱えるサンタテレサは、だからすごく面白いというかマージナルな場所で、南から、貧乏暮らしから逃れようとたくさんの人々が駆け込み、場合によっては元よりひどい生活を強いられ、少し北を見ればそこは国境で、家族の一人、また一人とアメリカに逃げようとする。そういう極貧層もいれば、外国の大資本のところなのだしきっとそうとうの富裕層もいるのだろう。そんな清濁のるつぼのような場所で女たちは失踪し、殺されていくわけなのだけど、そもそもの始まりが元失踪者めいた者たちであり、そして未来の失踪者予備軍であり、そう考えれば、彼女たちはけっきょく失踪する時期を間違えただけのようにも思える。その結果はあまりにも凄惨ではあるが。

 

メキシコにいる時点ですでに不法入国者なんだ。とは言ってもこの国じゃ誰もが潜在的に不法入国者だが、不法入国者が一人減ろうが増え用が大して違いはない。(P451)

 

違いはないのだ。どうであろうと違いはない者たちに起こったことを、つぶさに報告すること。どうであろうと違いはないなんてことはないのだと、そこには個別の痛みがあり、悲しみがあり、希望や喜びがあったのだと知らせること。始まりも終わりもない支離滅裂な叫びを、提示すること。「わたしはサンタテレサの話をしているのです。サンタテレサのことを話しているのです」

 

他者の痛みを自己の記憶に変えるのだ。痛みという持続性のある自然物、つねに勝利するものを、個人の記憶という人間的ではかなく、つねにすり抜けていってしまうものに変える。不正と悪弊のはびこる野蛮の物語を、始まりも終わりもない支離滅裂な叫びを、つねに自殺の可能性をはらむ、巧みに構築された物語に変える。逃亡を自由に変える。自由がただ逃げ続けることしか意味しないとしても。混沌を秩序へ変える。たとえそれが正気と呼ばれるものを犠牲にして成立しているとしても。(P190)

 

この一節が、ことに重要な気がしてきた。どの一節を抜き取ったとしても、何も見えてこない、と先ほど書いたばかりで恐縮なのだけど、なんだかこの一節が、この小説を読むときにとても重要な支えになるような気がしてきた。他者の痛みを自己の記憶に変えること。

延々と、女の死をタイプし続けたとき、ボラーニョのうちに、その痛みは記憶として沈殿していったのではないか。耐えながら読み続ける僕のうちにも、それに近いものが生まれたような気がした。それは確かに痛みにまつわる記憶となった。

 

ところで話変わって、「フェイトの部」のビデオ屋の店員、チャーリー・クルスが好きだ。チャーリー・クルスの家で起こる一部始終は、そこで見るロバート・ロドリゲスの幻の映画の内容も含め、本当にデヴィッド・リンチ的な、けばけばしくおどろおどろしいイメージでとてもいい。

 

「その瞬間からすべてが映画次第、そして自分次第というわけだ。うまくいけば、というのもいつもいつもうまくいくとはかぎらないからだが、あらためて、聖なるものの存在を実感できる。頭を自分の胸のうちにしまい、目を開き、見つめるんだ、とチャーリー・クルスは一語一語はっきりと言った(P312)」

 

一語一語はっきり言ったというところがとてもいい。

この小説を考えよう、捉えようとしても、頭はいつだって混沌としている。混沌とした頭は、何が筋道かなんてまるでわかっていない。だけどそんな頭は自分の胸のうちにしまい、ページを開き、見つめるんだ、どこでもいい、適当なページを開いて、かつて読んだそのページを再度読む、本当に面白い、何が面白いのか、まるでわからないけれど面白い、何もかもが響き合っているように見えてくるから不思議だ、ただ見つめること、目の前で生起する出来事を、並ぶ文字列を、ただ丁寧に、迂闊に、信じてみること。そのあとに再び混乱が訪れようが、気に留める顔などまるで見せずに、「なんかもうすごかった」と言ってのけること。

 

かっこよく決めた風だけど全然そんなことなくて、適当なことを言ってみただけだ。「あれはいったいなんだったのか」その惑いを抱えたまま、ときおり再びページを繰ってみたらいいだろうと思っている。

2666

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