1月

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今日は彼女が友人の結婚式に出席するということで私はやや緊張というか身構えながら店を開け、すると日曜らしく、忙しく、ここ最近の日曜のなかでももっとも忙しい忙しさで忙しく、途中で「もうだめだ、助けて、助けて」という気になりながらカフェラテやチャイを作ったりしていた。それはカフェの光景である。日曜は日没で閉店になるため日没で閉店にし、ヘトヘトに疲れ、そして安堵もあったのか、抜け殻のようになって立て続けに煙草を吸ってからスターバックスコーヒーでコーヒーのトールサイズ、抽出から37分が経過したものを飲み、そのあとに100円おかわりのシステムに則り抽出から50分が経過したコーヒーを飲んだ。スターバックスコーヒーは抽出から1時間で廃棄という仕組みだったはずで、たしかに残り10分でしっかり残っている状況を見れば、廃棄するよりも100円で売ってしまった方がよほどいい、顧客満足度の向上にもつながるのだろう、そういうところなのだろう、と思うのだけど、抽出から50分も経ったコーヒーを飲まされる気分は決していいものではなくて、ホットコーヒーの選択肢があるときは私はそっとコーヒーを抽出する機械につけられているタイマーを見て残り時間が長い方を選択するように最近はしているのだけど、今日はあいにく、残り23分、残り10分という抽出後だいぶ経ったものにしかありつけなかった。それは果たして不幸と呼ぶべきことか。

 

そのスターバックスコーヒーの、私たちがいた席の近くに座っていた外国の方とおぼしき方は、開いていたパソコンの画面を見やると、最初に見たときは「人」という漢字が画面左部にあり右部には書き順が展開されているもので、次に見たときは「指」、その次は「馬」、次は「腰」だった。ゼーバルト・コレクションが実は完結しておらず、3月に『鄙の宿』というエッセイ集が出るらしい。これはとても楽しみなことだった。その月にはボラーニョ・コレクションの第二弾も出る。3月はだから忙しい。1月、2月のうちにやるべきことをやっておかなければならない。

スターバックスコーヒーのレシートにURLがあり、それにアクセスし、アンケートに答えるとドリンク一杯無料というのができると聞かされ、答えた。ご来店時にスタッフは心からのお迎えをしましたか。スタッフはあなたの顔を覚えていましたか。あなたの気に入りのドリンクを覚えていましたか。今月どれくらいスターバックスを利用されましたか。スターバックスの他では、タリーズ、ドトール、コメダコーヒー、サンマルク、どこを利用しましたか。タリーズの満足度はどれほどのものでしたか。

 

スターバックスコーヒーでは最近読んだ本の感想を書いていた。去年も、思い返してみれば、年初、そうやって、読んだ本、見た映画ごとにこのブログを使って感想を書いていた。年初、年が変わろうと、なんだろうと、という言葉とは裏腹に、今年は、ちゃんと感想を書くぞ、みたいなものがあるらしい。来月にはやらなくなるだろう。それを書き終えたあとはオラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』を読み始めた。おととしの年末以来だから、1年とちょっとぶりの再読となる。そのあと、家に帰り、恒例となっている鍋をしながらクロード・ミレールの『ある秘密』を見た。マヤ民族、サンタテレサあるいはフアレス、そしてユダヤ人、おびただしい数の死を、小説や映画を通して目撃する。『シチュエーションズ』だって、言ってみれば同じことかもしれないし、あるいは、言ってしまえば、『未明の闘争』だってそうなのかもしれない。ほんの少しでも積み重ねられる時間があれば、そこにはおびただしい死が横たわっている。いや、『シチュエーションズ』までは、たしかに同じようにくくってみてもいいのかもしれないけれど、それを『未明の闘争』まで広げてしまっては、今度は何も言っていないことになる。適用範囲を広げすぎないこと。いたずらに広げたところで、それはナンセンスなものにしかならないということを自覚すること。『無分別』を読み終えたら、何を読むか。ずっと放っておいた『屍者の帝国』にするか、『ピダハン』にするか。そのあとにはゼーバルトの『移民たち』を読みたい。久しぶりに、それを読みたい。

しかし一つ一つ感想文を書いていると、読み終えてから3日ぐらいは平気で経ってしまうところがあり、それをもったいないと思うのは本当に貧しくて、だから私は貧しいのだけど、頭では大切な時間と言えるとはちゃんとわかっている。しかしもったいない。そのぶん次の本に向かいたい。

 

ある秘密(クロード・ミレール)

ペギー・スーの結婚(フランシス・フォード・コッポラ)

ヴェラクルス(ロバート・アルドリッチ)

何がジェーンに起ったか?(ロバート・アルドリッチ)

トゥー・ラバーズ(ジェームズ・グレイ)

楽隊のうさぎ(鈴木卓爾)

シャイニング(スタンリー・キューブリック)

トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー)

世界(ジャ・ジャンクー)

こわれゆく女(ジョン・カサヴェテス)

ラヴ・ストリームス(ジョン・カサヴェテス)

 

今月ここまでに見た映画。ツタヤディスカスは無料期間が終わったが、今のところ、そう損はしないようなペースで見ることができている。夜に郵便ポストに投函すると、翌々日に返却完了・発送のお知らせが来、その翌日に届く。つまり中2日で届くから、その2本を4日で見れば6日で2本という、まさに、求めていた通りじゃないか。3日で1本、お前は、そのペースを求めていたのだろう、というペースで見ることができる。いつから映画は一定のペースで消化されるべきものとなったのか。堕したのか。本当にそれはろくでもない。こんなんじゃ、いったいなんのために映画を見ているのかまるでわからない。いやわかっている。ジーナ・ローランズがひらひらと手を動かしながら揺らぐ目つきで天井を見つめる姿を見るために見ているのだ。もっとも余裕のない存在になってしまったピーター・フォークがジーナに強い口調で自分らしくあれと言う姿を見るために見ているのだ。生意気な子供たちが演説をぶつ姿を見るために見ているのだ。中学生たちがその瞬間しかし得ない再現不可能な表情を見せるのを見るために見ているのだ。ギトギトのメイクの初老の女性が浜辺でうっとりと踊りだすのを見るために見ているのだ。たくさんのパルチザンが塀の上にずらっと並ぶ姿を見るために見ているのだ。アカのビートニクが何よりも詩を信じようとするその決意と弱さを見るために見ているのだ。

 

悲しいのなんてみんなわかってるんだから。なんで悲しい顔をしないんですか。笑うしかない真剣さがある。めんどくせーと言いながらウキウキしてくる、それを言えない状況がしんどい。

『未明の闘争』の中で何度も出てきた。「それらしさ」への抵抗というか、「それらしさ」への従順さへの抵抗というか。社会的に要請される「それらしさ」への抵抗というか、抵抗というか、抵抗も何も、なぜ、笑ってはいけないのか、悲しい顔をしなくてはいけないのか、いけないなんてことはまったくない、という、そういうことが何度も出てきた。不謹慎さを恐れないこと。不謹慎さを突き破ること。面倒くさく、しかし正直に生きるために、それはとても大切なことではないか。


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