7月

book cinema text

「ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」と蓮實重彦が語っているのを読みトム・クルーズのニヤついた顔つきを思い出した。FIFAワールドカップ2014が終わっていくらか経ち、昨日はマツダオールスターゲーム2014の2戦目がおこなわれて日本ハムファイターズの大谷翔平投手(20)が162キロをマーク、球場をおおいに沸かせた。そのとき私たち家族は夕食の直前であり、台所では母が「肉、誰か焼いて。肉、誰か焼いて」と言っていたのでテレビへの視線は釘付けにしたまま台所に立ち、焼けと言われた肉をフライパンの上に置いた。そのあとで家族団欒の時間が設けられた。

 

土曜日の朝から栃木の実家に来ていて、暇ないつも以上に暇な時間を過ごしている。やるべきことはいつもと変わらずあるはずなのに、休暇の感覚に平生以上に見舞われて寝転がったりすることに終始している。昨日は雨がよく降っていて、父と母は雨が降ると外にも出られないし何もやることがなくて困るね、と雨景色の広がる窓の前に並んで立ち嘆いていた。そんな中でも父は「記帳してくる」などと言って小刻みに外出していた。私は夜にはいとこと酒を飲みに行き、その付き合いはこの年始に初めて二人で飲んだとき以来の二度目で何かと楽しかった。「いとこと飲む」みたいなファミリー感は今までの私の暮らしにはなかったし想像もしていなかったし必要も感じていなかったことなので、こういったことを楽しいと感じている自分の変化のようなものを面白く思い、飲み過ぎてふらふらしながら夜中に帰った。

 

今日は基本的にはよく晴れていたため、父は洗車をして、母は庭の草むしりをしていた。私は二日酔いでぼやっとした感じが抜けずにスーパーに素麺を買いにでかけた。

少し前にオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』を見て、それは私にとってすごくいい映画で、ひと月ほど前に見たばかりだけどもう一度見たいし、もう一度見たい最近見た映画のもう一つはジェイソン・ライトマンの『マイレージ、マイライフ』であれは本当にとてもよかった。何から何までよかったような記憶になっている。『夏時間の庭』は、遺産相続を巡って夏の庭がとてもいいよね、光とか、みたいな雰囲気で大筋としては間違っていないと思うのだけど、だから庭と遺産が出てくる映画で、人々の顔つきや動きもとても充実していて素晴らしいなと思ったわけだけど、父が車を洗い、母が草をむしっているわきで外に出された椅子に座って煙草を吸うろくでなしみたいな格好をした私が思うのは私は死ぬまで車を持つことも、家を持つこともないのだろうな、ということだった。

父親が仕事を引退すればたちまちここに引越して、やっと自分が建てた家に住める、という生活を送ることに彼らはなるのだろうけれども、両親が亡くなったあと、この家はいったいどうなるのだろうか、ということを考えると、いったいどうなるのだろうか、と思った。私が栃木に住むということはどうも想像できないし、だからといって家を放置していればそれだけでダメになるだろうし、固定資産税などもかかってくるわけだし、土地ごと売却するのだろうか。そうなったとき、何かが決定的に失われたりするのだろうか。

 

軽やかに生きることもいいだろうが、その生き方によって軽んじられるものは、本当に軽んじられていいものなのか。うっすらとした物悲しさは覚えながらも決してネガティブなものではない、単純な中立の問いとしてその問いは浮上したのだけど、今の私の尺度では考えにくいこともあるのか、そもそも考えるつもりもないのか、考えるのをすぐによして洗ったばかりの車を借りてろくでなしのどら息子は旅に出た。

たいへん敬愛する1988 cafe shozoに行った。先月の半ばごろに大宮からわざわざ電車で行ったばかりなのだけど、昨年末の衝撃以来、私は帰省するたびにここに向かうことになるだろう。毎回いったい何に感動するのだろう、と思いながら感動して、今日も今日とて、と思ったら一時間足らずで店を出ることになった。『ドン・キホーテ』を読むぞ、第一巻を読み終えるぞ、と勇んでいたところ、持って行き忘れた、ということが致命的だった。そのためリュックに入っていたイマヌエル・カントの『実践理性批判』を読むことになって、たしかにそれは、先月だか先々月だかに買って100ページくらい読んでやっぱり難しすぎて無理でしたとなって放置されていたもので、もう一度頭から読んでみよう、という意図のもとにリュックに入れていたものだから、読もうと思っていたものではあったのだけど、今日は『ドン・キホーテ』が読みたかったし、いざ「実践理性を批判しちゃうぞ~」と思って本を開いてわきにノートを開いてボールペンを持って、理解しながら読もうとしても、やっぱり何言ってるのかまるでわからず、近くのテーブルの男女4人組がいくらか聞き覚えのあるバンド名などを出しながら音楽の話をしているのが耳に入ったこともあり、すぐ横が厨房で洗い物の音や食器の積み重ねのしっかり聞こえてきていたこともあり、まるで集中できないで腕だけモヤモヤした感じで気持ち悪くなったので早々に諦めて家帰って『ドン・キホーテ』読んだ。

大好きな場所だけどうまくフィットできない時はやはりあるものだと、半分ぐらいは自分のせいだけれども、そのように感じたわけだった。

 

『ドン・キホーテ』は無事第一巻を読み終えたのだけど、なかなかむちゃくちゃなことが起こっていた。襲撃されて倒れたドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが心配して覗きこんでいるサンチョ・パンサの画面に吐瀉物をぶちまけ、それを受けてサンチョ・パンサがドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャに嘔吐し返す、という場面があり、まるでモンティ・パイソンのような世界だと感じ入った。それにしたって何はともあれ、今のところドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ及び彼に付き従っているサンチョ・パンサがおこなっているのは完全に賊のそれで、こんなやつらがいたら本当に迷惑だ、と至極まっとうな感想をいだきました。

 

今は再び『実践理性批判』を読む気にもなれないからといってソリティアをやっているぐらいだったらブログでも書いた方がましだろうと思いこうやって打鍵をしているわけだけど、冷蔵庫あたりから発せられているときおり揺らぐ持続音がジム・オルークの『みずのないうみ』みたいでとても心地いい。


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