チェルフィッチュ/現在地(2012年5月7日@イムズホール、福岡)

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ヒップホップはあまり聞かないけれどスラックとブルーハーブはとても好きでみたいなのと同じような感じで演劇は見ないけれどチェルフィッチュだけはやたらに好きで、2006年にスーパーデラックスで『三月の5日間』を初めて見て以来、DVDを買ったりもう一度『三月』を見にスーパーデラックスに行ったり『エンジョイ』や『フリータイム』を見たり岡山に来てからも鳥取行って『三月』を見たり神奈川のKAATで『ゾウガメのソニックライフ』を見たりとわりとできるだけ見ようと重い腰をあげているというか、あげさせられているという感じがしてとにかく大好きというか『三月の5日間』は現代の日本においてもっともアクチュアルな表現行為というのか作品というのかよくわからないけれどもそういうものなんじゃないのかというレベルで崇拝というか大好きで、とにかく好きで好きで仕方がなくて、あまりに切実で、あまりにピンポイントで私を刺してくるのでたしか『フリータイム』を見たあと、あれは大学卒業間近か直後の、つまり2008年の3月だったと思うけれど『フリータイム』を見たあとに近くの、たしか六本木ヒルズのタリーズの横ぐらいにあるカフェみたいなところで友だちと茶をしばいていたら横の席に岡田利規が来たので震える声で勇気を振り絞ってすいませんさっき買ったこのDVDにサインをしてください大好きですと、そう言ったのだし、また、大学の佐々木敦の授業のゲストスピーカーで来られたときとか、あるいは鳥の劇場のときとか、私は無謀にも挙手のち質問という愚挙に走って、ああですか、こうですか、と問うたりして胸をドキドキとさせる、という、自己同一性を揺るがされるような行動つまり自分らしくもない行動に走らされるほどに、私はだからチェルフィッチュがというのか岡田利規がというのか大好きですというのか、大好きであって、大好きという語がこれだけの文章のあいだにいったいどれだけ出てきたんだというほどにいったい大好きであるからどうしようもないのだけどど、だから、それで、今回は神奈川はさすがに遠いかなというか遠いよなというところがあったので福岡は博多に行って『現在地』を見てきた。

 

先日柴崎友香読みたさで買った新潮にあった震災後あなたの何かしらはどう変わりましたかみたいなのを100人だか50人だかけっこう大勢の小説家に聞く企画のなかに岡田利規の名もあって、そこで彼は震災を経てものすごい変わった、フィクションを書けるようになりたい、みたいなことを書いていて、あるいはネットで見た記事でも現実を挑発し現実に拮抗するものとしてのフィクションを強く立ちあげたい、みたいなことを言っていて、いったい、岡田利規の現在地はどんなことになっているのか、期待および不安のないまぜになった状態で見たのだけど、本当に、そこにあったのは真っ向からフィクションだったというか、演劇ってこういう感じなんだよね、という演劇がそこにあった。

会場で買った『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の公開リハーサルでの対談を収めた『コンセプション』をあとで読んでみて、その萌芽というか宗旨替えのようなものはこの時期から明確にあったんだということが知れたのだけど、もはや、役者たちはダラダラとあーその話し方あるよねーその言い回しみたいな感じで話し続けるわけでもなく、くねくねとあーその動き方考えたことなかったけどするよねーその腕とか脚とかみたいな感じで運動し続けるわけでもなく、セリフは明確にセリフという楔を打たれ切ったような、語尾も「わ」とか「の」で統一されたもので、神西清に訳された文章と言われても不思議でないような雰囲気だったし、動きも、体を傾けているだけでもそれが意識されるぐらいに極めて微細で、とにかく、そこで何が語られているのかに興味のほとんどが持っていかれた。そうやってチェルフィッチュを見ることはまったく初めてのことだった。そういう見方に終始していいのかは今でも不安があった。

 

話は、一応はとある村に災厄が訪れようとしている、あるいはもう訪れたという噂が立って、7人の女がそれぞれの立場を表明したりしなかったりして、逃げ出したり逃げ出さなかったりして、という話なのだけど、暗にというよりはほとんど露骨に、震災後の、基本的には東京の、放射能汚染という状況あるいは情報に対してどう振る舞うかということが主題となっていた。

噂に恐怖してその恐怖を共感してもらいたくて泣きながら話すけれど共感が得られない状況に絶望して今は自分を狂っていると言う者が多いけれどきっと少しすれば自分が言っていたことが正しかったのだと思ってくれる人が今よりも多く出てくるはずだと言う者、これまでは一人でも十分だったけれど何か漠然とした不安に覆われて絆を求める者、住んでいる土地を捨ててよそに移ろうとする者、噂を真に受けることを拒否してというか真に受けることとそれによって不安に飲み込まれることに怯えて他者に危害を加えてしまう者、各人が各様のあり方でその現実を生きていく様が描かれていた。

印象に残ったのは、ある噂が立った時にそれを真に受けるか拒否するかという判断も難しいけれど、それ以上に噂に対して自分と異なる判断を下したものとどのように付き合っていくかということの方がずっと難しいという言葉であったり、強さを持つ人、強さをまとって行動する人は、そうでない人にとって脅威になるのではないか、人を傷つけることのない強さを身に着けたいと、そう思うけれどそれは言葉のあやとしてしか成立しないもので、強さとは本来的にそれを持てない人を傷つける装置として機能してしまうものなのではないかという言葉であったり、不安に見舞われて、その不安をわかってもらいたくて伝えたら相手が「大丈夫だよ」と言う、安心させようとキスをする、そんなのは欲しくない、不安の側に少しでも下りてきてほしい(あんま覚えてない、全然ニュアンス違ったかも)みたいな言葉だったり、滅亡の危機によって移住すると言うけれど本当はそれは後付の理由でしかなくてそもそもこの土地を出たかったからこの機に乗じてというだけなんじゃないのという言葉だったり、とにかくそういう言葉の数々だった。相変わらず、岡田利規という人はものすごく鋭い視点を持っていてそれをものすごく鋭く言葉に変換するなという印象で、もう一度、テキストでもいいからそれらの言葉を聞きたい。

特に強さということについては特に考えさせられるというか思うところがあって、ここで語られていた強さは滅亡したあるいは滅亡しそうな土地を捨てて新たな土地に移りそこで仕事を得、十全に生きる、という類のものなのだけど、劇中でも強さは人に脅威を与えてるものなのではないかと話す人物がいる一方でそれをまだ若いわね、もう少しすればそればかりじゃないということがあなたにもわかるよとやんわりと応酬する人物がいたように、どちらの立場もあるような描き方がされていて、これは、熊本に移住したという岡田利規にとっても振れ幅というか色々な立場の相違が明確に見える部分なんだろうなと思った。というか、怖ろしいまでの冷徹さというか冷静さで移住というものについて考えているんだろうなと思った。どんな情緒にも流されないこの感じは、凄まじいと思った。なんだかものすごいものを見た気がした。

 

形式についてはよくはわからなくて、全員が舞台には上がっているのだけど、立って話しているとき以外は椅子に座ってまるで発表を見るような体勢で役者の演技を見ているという感じの上がり方で、その中で演劇内演劇が始まったり、なんとも不思議なレイヤーの重なり方があるように思えた。最後に、村を脱して宇宙船で移動している、村は滅亡した、という語りと、村はその後の半年に渡る降雨によって回復し、元の穏やかな世界が戻った、という語りが順番におこなわれて、あれは何を意味しているのだろうか。どのレイヤーも現実であり、どのレイヤーもフィクションであるというような印象を受けたのだけど、そのとき、フィクションもまた現実に成り代わるのだろうか。どんな立場を選択しようともそれぞれがそれぞれの正しさで正しくて、そのとき、異なった正しさは並行世界めいた形で成立するということなんだろうか。

 

それにしても終始、青柳いづみの存在感が素晴らしかった。恐ろしかった。

 

この世界を脅かすフィクション チェルフィッチュ『現在地』 -インタビュー:CINRA.NET

岡田利規 – コンセプション(BCCKS 天然文庫)

・チェルフィッチュ 「現在地」予告第2弾- YouTube

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