オープニング・ナイト(ジョン・カサヴェテス、1977年、アメリカ)

cinema

 

カサヴェテスにはこれまでまるで縁がなく、それこそ高校時代か大学時代に『アメリカの影』を見ただけでここまで来てしまったわけで、彼のフィルモグラフィーがどんな感じだかも、どれだけの数の作品を残しているのかもまるでわかっていない。今ググればすぐにわかることだとはわかっているのだけど特にそうしたいという気にもなっていない。

そんな中で大阪にワイズマンを見に行き、せっかくなのでと第七藝術劇場まで出向き、レイトショウで『オープニング・ナイト』を見てきた。ちょうど前日に読んでいた濱口竜介のインタビューの中にも名前が出てきた作品だったしおあつらえ向きだった。

前夜ほとんど寝ていなかったこともあり、ワイズマンは寝ずにいけたけれど、もう見る前から目がしばしばしているし絶対に寝るなと思っていたが、144分、強い緊張のまま目を見開き続けることになった。ただただ圧倒された。

冒頭の、出待ちをしていたファナティックな少女の目深にかぶった帽子の陰から若い鼻とあごが覗き、そこに雨が落ちる、それだけで何かただならぬものが画面に映り込んでいるようだった。あるいは演出家の妻が寝室で見せる素晴らしい悪ふざけと運動。それらだけで私は「映画!」となるから実に簡単。

そこから先は、日中に会った友達からも予告されていた通り、ひたすらにジーナ・ローランズだった。生身、という言葉がずっと頭にあったのだけど、そこに晒されているジーナ・ローランズはどこまでも生身で、生身のジーナ・ローランズがスクリーンから溢れ出て、こちらの目と頭に向けて押し寄せてくるようだった。

いつ訪れてもおかしくない破綻を待つような、あるいはどうにかやり遂げろと応援するようなどっちともつかない心持ちで、ジーナ・ローランズ/マートル・ゴードンの芝居を見続ける時間は心臓に悪い。夫役の男にビンタをされて立たない/そのまま立たないのか/いつ立ち上がるのか。泥酔で現れるオープニング・ナイト開演時間、そこから彼女はいったいどんな芝居を見せるのか。何が壊れ、何が獲得されるのか。そこで私たちが見届けたものは、いつだって愚鈍あるいはどこまで実直とも言える客たちによるスタンディングオベーションと喝采に終わったあれは、いったいなんだったのか。
カサヴェテス全部見たい。


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