8月、ロベルト・ボラーニョ、柴田聡子

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たぶんわりと最近できた、いつもよく人の入っているスペインバルのある四つ辻には街娼が何人も立っている。お兄さんマッサージはいかがと、問うというよりは虚空に向けて放つその口調から察するに彼女たちは故国をほかに持つ者たちで、立ち退くよう警察から指導されることもない。この町から警察が消えたら私たちの商売は上がったりだよ、あとは先生と公務員。

 

日曜の夜の岡山は、まだ8時や9時だというのに人通りもまばらで、私は居心地のそうよくない喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。日に日に体が疲れていく。疲労の蓄積はまた、金銭の蓄積にもつながることであるので喜ばしいことには違いがないのだが、朝起きるときの起きにくさが日に日に強くなっていく。8月がこんなに忙しかったなんて、去年のデータは教えてくれなかった。じわじわと、ジャブのように私たちの体を責め、シャブのように私たちの体を蝕んでいく。金が手元にある。それを外貨に換えてから飛行機に乗った。街娼たちの家族に手紙を届けるためだった。メールをすればいいじゃないかと私は言ったが、彼らはアドレスを持たないと言った。それならば、こうやって手紙を手にしたところで、いったいどうやって探せというのか。途方に暮れて入った汚い飲食店の汚いテーブルのうえにその手紙を置いてきた。善行がこんなに難しいことだなんて、去年のデータは教えてくれなかった。

 

そのあとハンバーガーを食べる店に入った。フジロックに出店していた、それがやたらに美味しく、期間中に3回も食べた、と友人から聞いたためだった。店員の方がハンバーガーを出してくれた。僕のためにハンバーガーをこしらえてくれてありがとうございますと言った。パンとパンのあいだにはジューシーな肉とアボカド等が入っていた。ポテトを一緒に頼んだ。美味しく食べ、ハイネケンを飲みながら引き続きロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』を読んだ。半分を過ぎたくらいのところでこれは勢い良くいきそうだと下巻を買っていたがまだ上巻で、なかなか思ったようには進まない。探偵がウリセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノに関係した人物たちにひたすら聴取していく形式で、メキシコからパリ、バルセロナに探偵は足を運んだ。いまふたたびメキシコに戻ったらしい。二人の詩人の行く末がどんなことになるのか、ろくでもない死を死ぬだけだろうか。ときおり訪れるはっとする瞬間を頼りにしながら少しずつページを繰っている。詩人という存在には、自分があまりに縁遠いからか興味がわかない。詩人とはなんなのか。職業なのか、属性なのか、存在を規定する何かなのか。

 

柴田聡子の『しばたさとこ島』は「詩人」という言葉から始められる。素晴らしいアルバムで、何十回と聞いている。歌も歌詞もメロディーもぜんぶ、本当になんだかものすごくて、ものすごいといってもこちらを圧してくるような力強さや権力とは無関係の、回避したい言い方を使うならば等身大の、やわらかな、だからといってこちらを包み込んでくるわけでもなく、ひとりで立ってひとりで歌う。耳に残り続け、気を抜けばいつでも頭のなかに流れ始めるから本当に厄介だ。

その柴田聡子のライブがこの金曜日に私たちの店でおこなわれた。

と、ここで問題が浮上する。敬称の問題だ。柴田聡子と言ってしまっていいのか、という問題だ。柴田聡子さんというのが妥当かつ穏当なのではないかという問題だ。私は音楽をやる人や、小説を書く人や、映画を撮る人を語るとき、「さん」なんて付けるべきではないといつでも思っている。そんなことはせずに、ショーン・マーシャルをショーン・マーシャルさんではなくショーン・マーシャルと呼ぶように、個人的にどんな関係にあろうとも敬称略で呼ぶべきだと思っている。敬称をつけることは作業者に対する失礼なのではないかと思っている。敬称をつける行為は、ショーン・マーシャルと柴田聡子を同列に語ることを妨げるだけのことだと思っている。だからここは断固として柴田聡子と敬称略で書きたいのだけど、心のなかでは完全に「柴田さん」と呼んでいるのだけど、でもこれはテキストであり、柴田聡子なのだけど、柴田聡子のライブがだから先日あった。

営業中にこれでもかと流しまくったり、柴田聡子関連のツイートをRTしまくったりして、できる範囲とはいえ珍しく躍起になって宣伝して、少しでも多く来てほしいと思っていたのだけど、蓋をあけてみれば超満員といっていい入りで、立ち見が出るほどだった。広くもない地下室が50人もの人で埋まり、その光景に私は感動した。お客さんの顔ぶれを見る限り私たちの宣伝による影響はそんなにないような気もするけれども、とても嬉しかった。そしてライブは本当によかった。

「アルバムほんとすごくいいから」と言って人々をライブに呼ぼうとするときにはもちろんそんなことは言っていなかったのだけど、一抹の懸念があった。『しばたさとこ島』の素晴らしさは、もしかしたらすごく充実したアレンジに負っているのではないか、ということだった。ラブクライやテニスコーツやナツメンやジム・オルークバンドといった、少し知っている人であれば「わ」となるプレイヤーを集めたこのアルバムの演奏は本当によくて、一音一音が充実している。聞くたびにこんな音が鳴っていたのかと驚いて耳が楽しむ。それらがあまりいいものだから、柴田聡子の歌はこれらの演奏のうえでこれだけ輝いているのではないか、弾き語りあるいはシンプルなバンド編成で奏でられるそれは、もしかしたら少し見劣りするものにはならないか。それが一抹の懸念だった。とは言え実際にこの懸念は一抹のものであり、彼女の声を聞いていれば、きっとそんなことはないだろうなというふうには思っていた。

実際まったくそんなことはなかった、ということがたちまちに証明された。ギターがぽろんと鳴らされ、声がひとつ発されただけで、肌が震えた。あの声はなんなんだろうか。喉から押し出すか絞りだすかするような、消えそうでずっと続きそうなあの声はなんなんだろうか。柴田聡子関連ツイートをRT目的でtweetdeckのカラムにずっと表示させていたときに「存在自体が才能」とか「うたっている顔がほんとうにかわいい」とか「母音「う」の何度キスしたいと思ったか」とかあったけれど、どれも本当にそうだった。最高にチャーミングで最高に切実だった。いつまでも見、あるいは聞いていたかった。

まるで馬鹿みたいな言い方だけれども全曲名曲だった。「名盤とか名曲とか、言葉に垢がつきすぎて馬鹿らしくて使いたくない」とむかし友人が言っていたが、すごくわかるのだけど、それでもやっぱり奏でられるそれらは全曲名曲だった。でかい声に反応するのは安いし易いことだけれども私はやっぱりそうなってしまってその結果として特に印象に残ったのは「カープファンの子」で、何度も繰り返されるうちにどんどんぶっきらぼうにやけっぱちになっていってほとんどシャウトといっていいほどまでに展開されていって、私は簡単にできているから涙した。弾き語りだけでなく、DJぷりぷりと貝和由佳子を交えたバンド編成での数曲もとてもいいあんばいですごくよかった。ギターと鍵盤ハーモニカとキーボードだけであんなグルーヴというか熱量が生まれるのかと驚いた。

何人かの人からライブのあとに言われたように、アンコールというか、決まった儀式としてのアンコールというよりはただ単純にもっと、あるいはずっと聞きたいという欲求からアンコールを聞きたかったけれど、それはなんというかその場のお客さんたちのある種の控えめさから実現しなかったけれど、2時間ぐらい聞いていたかった。持ち歌ぜんぶなくなりましたというぐらいに聞いていたかった。

いい夜だった。ライブが終わり、営業が終わり、家に帰ってからも『しばたさとこ島』を聞き、翌日も聞いた。今日も聞いた。猿みたいに聞き続けている。ライブのときに買ったデモ音源2枚はまだあけてすらいなくて、おいしいらしいと聞いて買ってみたワインをさていつあけようか、というのに感覚が似ている。


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