4月、エンジョイ、フリータイム

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何日か前に指を怪我したためいつも作っている日替わりのご飯の仕込みを彼女に準備してもらうことをおこなったときに、私はタバコを吸いながらああしてこうしてと指示を出すのだが、指示を出そうとしてもいまいち頭が上手に働かない。身体という言葉はどうも苦手でうまく使えないのだけれどもこの場合は身体というのがふさわしい気がするので使ってみるけれども、身体と思考は密接につながっていて、この場合であれば、私は野菜を包丁で切ることによって料理の思考が駆動されているのじゃないかとそのときに感じた。左手が野菜に、右手が包丁に触れているがゆえに、私の頭は料理的に動き出し、そしてあれやこれやのおかずを作成していくのではないか。右手にタバコ、左手に空気という状態は、私を料理のモードに導かず、ゆえに私の頭はどこまでも鈍重にしか働かないのではないか。今は3時になるところ。指もだいぶ治ったため、翌朝の仕込みをおこなった。2針縫われた人差し指はやはり動かしづらく、打鍵する動きもどこか人ごとのようにぎこちがない。怪我などするべきではない。

 

日曜は日没で閉店だが、それ以外の日は11時から24時が営業となるため、9時半ないし10時から24時半までは仕事になる。睡眠はどうしたって必要であるため、2時ないし3時から9時半ないし10時までをその時間にあてる。そうなると、私のフリータイムは24時半から2時ないし3時であり、その時間をいかにエンジョイするかが肝となる。今日はすでに3時を越してしまった。睡眠時間を削ることになるが、体の疲労以上に、気持ちの休息を取らないことには次の日を乗り切ることはとうていできないように思えるのでよしとする。人差し指が動きづらく、今も句点を打とうとしたときに何度も間違えた場所を押した。また、この場合は10本の指が思考するため、人差し指の変調によって「~づらい」の「づ」をここまでに2度も「ず」と打ってしまう。不思議な気もするが、間違いなくそれはこの人差し指のせいだ。そうであるならば、この指の状態の思考というものがそれはそれで独立して、普段とは異なるものとしてあるはずで、それがどんなものなのかを突き詰めて見てみたいような気もするけれど、私は何かを突き詰めるということをできるたぐいの人間ではないらしく、いつだってあやふやなまま、物事は済まされていく。

 

夕方、白人の女性が2階の窓際の席に座ってJ.M.Coetzeeの『Disgrace』を読んでいた。年末に飲んだ友人がクッツェーはとても面白いから読んでみたらと言っていたがまだ読んでいないしいまいち食指も動かないのだけれども、恥辱と訳されるそのタイトルの単語が、恩寵にdisがついたものであることがなんとなしに面白く、クッツェーは英語ではコッツェーという感じでプロナウンスすると教わった。ブッカープライズの作品であるよ、とその女性は言った。説明しづらいのだけれども、その人は変な位置に座って片膝をついた格好で本を読んでいた。いつだって、英語を喋れるようになりたいと思うけれど、いつだってその思いが持続することはなく、なんでだろうか、「じぞく」も「ぢぞく」と最初打ってしまった。人差し指のこの違和感がこういった影響(今もえいぎょうと打った)を与えることが実に面白い。面白いけれど、これはいったいなんなのか、さっぱりわからない。

 

閉店のあとにあれこれをおこなったのち、私たちは『ジャンゴ』を見に映画館に行った。いつも通り、スタバで飲み物を買って入った。スタバのドリンクを手に持って入ろうとすると、映画館の売店以外の飲み物の持ち込みは次回以降はおやめくださいと言われるのだけれども、私たちはいつもすいませんと言って次に行ったときも同じことをする。店をやっている立場からしても、持ち込みは最たるやめてください事項というか、ほぼ唯一と言っていいやめてください事項であるのだけれども、なぜか、TOHOシネマズに対しては「はいはい」という気しか湧かず、何度も同じ注意を受ける。映画館と同じフロアにスタバがあって、そしてスタバに「映画館への持ち込みはご遠慮ください」というような表記もなくて、それで持ち込み禁止というのがどうにも腑に落ちないというためだろうか。あるいは、それなら買う気になるだけのクオリティの、スタバに匹敵するだけのクオリティの飲食物の提供をその専用の売店やらでもやってくださいよ、という気持ちも湧く。以前ポテトを買ったけれども食えたものではなかった。何度もやっていて何度も注意されているんだからそんなものは理由にならないという向きもある気がするけれども、どうしてもやめる気になれない。自由競争でしょ、とかよくわからないことを思うのだけれども、同じことを自分の店で言われたら参ってしまうなと思うのだからやめるべきなんだろう。敬意とは何か、今一度考えるべきだ、私は。

 

『ジャンゴ』は、期待していたように面白かった。清々しさというものをよく感じた。いくらか前に見たフライシャーの『マンディンゴ』の記憶とあからさまに共鳴しながら、農園の緑がとにかくきれいで、そのなかで飛び散る鮮血の赤、黒と白の人。格好がよく、気持ちのいい映画だった。いくつもの場所で大笑いしながら見惚れた。サミュエル・L・ジャクソンの食堂での鬱陶しい相槌の打ち方に笑い、ジェイミー・フォックスの早打ちに歓喜しながらも、私の中で主役というか最もクールだったのはあくまでクリストフ・ヴァルツとレオナルド・ディカプリオだった。

恐ろしいほどに不感症だ。大傑作だと思う反面、物凄い楽しかったと思う反面、いささか冗長というか、これを120分に収めればもっとクールだったのにと、不遜にも思ってしまう。見たことすら、何日かすれば忘れてしまうのかもしれない。怖い。今は小説を読む気にもなれない。読んでも、どうせ面白くない。人間が腐っていく。そうはなりたくなかった大人に、どんどんとなってしまうのかもしれない。疲れすぎている。体も頭も疲労困憊といっていい状態だ。それのせいなら救われるのだけれども、実際はどうなのだろう。ただ人間として劣化していっているだけかもしれない。そう思うと実に怖いね。これが現在地。

 

エンジョイアワフリータイム、わたしたちに許された特別な時間は終わる。


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