フアン・ルルフォ/燃える平原

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燃える平原 (叢書 アンデスの風)

レミヒオがおれの前から退いたとき、麻袋に刺しておいた皮針は、月のこうこうとした光をうけてきらりときらめいた。どうしてだかわからねえが、その長い針は、不意におれのココロをとらえた。だもんでレミヒオ・トリコがそばを通るとき、おれは針をさっと抜きとって、まようことなくやっこさんのヘソのすぐわきのところにぐっと刺しこんでやった。はいるところまでぎゅっと刺しこんで、そのまま手をはなした。

しばらくするとレミヒオは、腹痛におそわれたときみてえに体をふたつに折りまげた。そしてけいれんを起こしながら、すこしずつ膝を折り、地面にすわりこんじまった。顔からは血の気が失せ、その目に怯えの色がうかんだ。

やつは手斧をふりかざしておれにおそいかかりてえとでもいうように、一瞬立ちあがるそぶりをみせたが、あきらめたのか、何をしていいのかわからなくなっちまったのか、とにかく手斧をはなして、またうずくまっちまった。

そして体の調子がよくねえときみてえに、その瞳にはだんだん暗い影がさしはじめた。あんなさびしげな目は、ひさしく見てなかったもんで、やっこさんがひどくかわいそうになっちまった。それで、ヘソのところから針を抜いて、もうちょっと上んとこ、心臓のありそうなあたりに、針を刺しこんでやった。心臓はたしかにそこにあったみてえだ。やっこんさん、首を刎ねられたニワトリみてえに、二、三度身をふるわせたきり、しずかになった。

おれがレミヒオに話しかけたときには、すでに死んでたんだろう。

「なあ、レミヒオよ、悪いけど、おれはオディロンを殺ってねえぜ。アルカラセの連中がやったんだ。そりゃ、やつが殺されたとき、おれも近くにいたけど、おれが殺ったんじゃねえよ。(…)連中はとつぜんオディロンにおそいかかって、ナイフを抜いて、兄貴をそれこそめった切りにしちまった。オディロンはそうやって殺されたんだ。これでわかってくれたとおもうけど、兄さんを殺したのはおれじゃねえ。おれはぜんぜん関係ねえんだ」

死んじまったレミヒオ・トリコに、そう言ってやった。(P27-28)

 

短編集。先日読んだ『ペドロ・パラモ』とこの短編集がルルフォの作品のすべてなので、全部読んじゃったことに。

別段メキシコにはまっているわけでもないのだけれども、カルロス・フエンテスの『澄みわたる大地』を先月末に読んで今日からはセルヒオ・ピトルの『愛のパレード』を読み始めたのでメキシコの中をうろうろしていることにはなるのだけど(そのあいだにアルゼンチンのルイサ・バレンスエラ『武器の交換』を読んだけどこれは全然楽しめなかった。アルベルト・ルイ=サンチェス『空気の名前』も駄目だったし、斎藤文子さんが訳したものは苦手なのかもしれない)、メキシコ都市小説の原点と言われる『澄みわたる大地』、そして30ページぐらい読んだ感じではその流れの先にあるのかもしれないっぽい『愛のパレード』とはルルフォの描く世界はまるで異なっている。同じメキシコなのか、というぐらい違う。ルルフォの世界には都市的な洗練などまったくなく、冒頭の「おれたちのもらった土地」は、まったくの荒涼の乾ききった土地を埃まみれの顔をしたぶっきらぼうな言葉遣いの粗野な男たちが重い足取りで歩き続けるというだけの話(なのにやたらに面白い)だけど、全体にそういう感じ。読んでいるだけで喉が乾いてくるほどに(夏なので)、埃っぽくて、乾いている。この世界にはコロナビールなど存在していないし、自身の死を恐れることはあっても他者の死は取るに足らないもののように扱われる。生きるための条件であるかのように、暴力がそこここで振るわれる。そこに大きな感情が伴う必然性はないらしい。読んでいても、何がどうしてそうなったみたいな疑問を抱く余地もなく、ああ、殺しちゃったんだね、そうですよね、という、もうそれでしかないという納得を平然とし続けるしかないような、そんな感覚に陥っていく。

どの短編も異様に充実していて、とてもよかった。

 

それにしても、『澄みわたる大地』に添付されている年表を読んだときにメキシコの歴史全然わからんなーと思って、今あらためてウィキペディアでメキシコ革命の流れを読んでみたのだけどやっぱりさっぱりわからない。勉強したい。(何のためになのかさっぱりわからないけど)


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