4月、フアン・ルルフォ、リンカーン

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昨夜セルジオ・レオーネの『夕陽のガンマン』の続きを見ていたら結局眠ってしまって、今朝返さないといけず、不甲斐ないことになってしまったのだけれども、まるで血の流れないそのマカロニウェスタンを見切れなかったことへの贖いなのか、今朝はとても久しぶりにジョー・ミークを聞いた。流麗なストリングスやコーラスに彩られた数々の楽曲の響きはただただ無意味で虚しく、それはやはり素晴らしく、かつて、ジョー・ミークを聞きながらニヤニヤと笑っていた友人たちの顔を思い出した。私たちはなぜか、誰がもっとも上手にジョー・ミークの顔を描けるか、競ったのだった。それはのちにジョー・ミークTシャツの制作へと発展し、辞退した私はフローベールの顔を描いたのだった。ギュスターヴのその顔の上には「DISCO PUNK」の文字が綴られ、そしてそれらは一様に、夜の闇の中で浮き上がる蛍光のペンで描かれたのだった。そのTシャツはいまだに着ている。襟がだいぶ伸びてしまったが、私はそれを好んで着ている。

 

フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』を早速読んだ。その前に読んでいた短編「ルビーナ」で語られる村同様に、ペドロ・パラモがかつて君臨したコマラは死者の声がこだまするだけのザ・荒涼の土地であり、そこでは現在と過去、生者と死者の境はどこまでも曖昧で、死者たちは思い思いに語りだすのだった。200ページほどの短い小説のなかでいくつもの過ぎ去った生が語られる。その土地では、死は結婚や出産と同じような、旅の途上で出くわすイベントの一つというぐらいの位置づけにあり、「もう恐がらなくていいよ。もう誰もおまえさんを恐がらせることはできないさ。楽しいことを考えるようにした方がいいんだよ。うんと長いあいだ土の中にいなくちゃならんのだからね」

死者の声が充満する。死者の声に耳を傾け続け、その中に身を沈めていくと、

 

何か言葉にしようとしばらく考えていたのだけれどもどうにも形にならない。とにかく、生きていると思っていた者たちが実は死者であると言い渡され続けるこの小説は、読んでいるあいだもそうだけれども、読んでしまったあとの時間の方がもしかしたらずっと奇妙だ。なんせ、読み終わった岩波文庫のどこかのページを開いてみる。何かしらの言葉が書かれている。それは、死者の声だ。どのページを開いてみても、それは死者の声だ。死者が語り続けている。私はいったい何を読んでいたのだろうかと、考えれば考えるほどに、時間や空間の概念がねじれていくような感覚に陥っていく。それをねじれと感じる私はとても、現代の日本を生きている。

それにしたって、なんという小説を読んでしまったのだろうと、あっけにとられるというか、愕然とする。なんという小説を読んでしまったのだろう。言い過ぎであり、妙な高ぶりによるものであるということは重々に承知しながらも、後戻りのきかない状況になってしまったように今は感じる。なんせ私はこの小説を通してすでに死んでしまった人たちの声を聞き続けてしまったのだ。風の声を聞いたり巡礼をするどころの話じゃない。

 

3本目の金麦が終わろうとしていて私は少し酔っ払ってしまっているのかもしれないというよりは如実に酔っ払っていて、頭を傾げてみたらどんよりと重いのだけれども、たしかに、この小説は『百年の孤独』に匹敵する何かだったのだろうと思う。土の声。風が町を削り取っていく。その中で豊穣の雨は確かに降り、そしてもう二度とその村は生き返らない。マコンドの歴史が羊皮紙とともに消尽するように、コマリはけたたましい鐘の音と、それに吸い寄せられた喧騒のあとで、誰も思い出そうとしない廃墟と化すのだろう。

今日セルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』をアマゾンで注文した。あとどれぐらいしたら『2666』に挑むだろうか。リチャード・パワーズの新作が出たことも知ってしまった。読みたい本は人生の時間よりもずっと多く、どんどんと山積していく。リチャード・パワーズと言えば、『エコー・メイカー』という小説がパワーズのものだったと初めて知った。なぜか、書店で手に取ったときから、作者の名前は目に入っていたはずなのに、なぜかパワーズだと分からずに、誰がこんなものを読んでやるかと、必要以上の原因不明の反感を持っていたのだけれども、パワーズだったのか、と今日知れ、それではいつか読むだろうなと簡単に手のひらを返すのだった。いったい、なんの反感だったのだろうか。

 

昨日は休みで、スティーヴン・スピルバーグ『リンカーン』を見てきた。冒頭の青灰色の戦闘の場面から、スピルバーグだけが、あるいはヤヌス・カミンスキーだけが撮ることのできる戦場の色だと、簡単に感嘆しながら、緩慢に動くリンカーンの挙動にずっと目を見張った(嘘で、途中でウトウトしてしまった。見る前からウトウトしていたからこれは仕方がない)。それにしても、最後の方でリンカーンが「可決させるんだ!」と言ったときに周りの官僚たちが「しかしどのように」と当然の問いを発し、それに対するリンカーンの答えには愕然とした。なんせ、「私は合衆国大統領だ。私は絶大な権力を持っているんだ」が答えだった。どうやっても今月のバジェットを達成するんだ、という上司に対して方策を聞いた時にこんな答えをされたらもうポカンとするほかないよなという、ブラック企業ってきっとこういう感じだったりするよな、ブラックに限らず、営業ってわりとこんな感じというかこんな感じだよなと、かつての職場を思い出した。民主主義の力を信じたとかなんとかいうリンカーンの人物像とこの言葉はまるで相容れず、よって、このセリフを採用することでこの映画をただの美談では終わらせまいとするスピルバーグの意志を強く感じた。俄然、物語に複雑味が帯びた。

そういう点ではトミー・リー・ジョーンズが、法案が可決した夜に見せる姿は実にシンプルで、その姿にほろっときて涙を流しこそすれど、そこで見られる姿は徹頭徹尾善玉のそれであり、観客は素直に感動すればいいのだから、シンプルだ。

なんというか、これもやはりうまい言葉にはならないというか考えにならないのだけれども、シンプルに感動させるところはシンプルに感動させながら、「いったいあれはなんだったんだ」という奇妙なしこりを残すスピルバーグのやり口に、私はしばしば陶然としたということだったろうか。何を書いているのかが次第に判然としなくなった。その前夜にはジェイソン・ライトマンの『ヤング・アダルト』を見た。どうしようもないバンドの演奏シーンと、どうしようもない命名式の庭での場面。露悪と言っても言い過ぎではないそういった痛みを見せつけられて、私はどのように振舞ったらいいのか、どのようにここにあるエンターキーを押したらいいのか、どのようにこの割り切れない日々を割り切ればいいのか、どのようにこの、酔っ払った10本の指の動きを制御したらいいのか、どのように、しかしどのように。


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