カルロス・バルマセーダ/ブエノスアイレス食堂

book

ブエノスアイレス食堂 (エクス・リブリス)

毎晩、早く帰ろう、今晩こそは早く帰って早く寝ようと思うのだけれども、いざ閉店を迎えると、仕事のあとのこの時間がいとおしすぎて、結局うだうだと、遅くまで店に残ることになる。今日もすでに1時半だ。今日も金麦を飲んでいる。

先々週ぐらいだったかに怪我をして縫った人差し指は先週ぐらいに抜糸というかするするっと抜け、だけど未だにずっと絆創膏をぎゅっと貼っているような、少ししびれのある感じが残っている。両サイドに神経が走っていて、それが少し傷ついているのだろう、というようなことを若い医者は言っていた。長い人は何ヶ月か違和感が残るとのことだった。何かと不便なのだけど、タイピングが一番不便で、全然、今までと同じ感覚では打てない。今までと同じ感覚で打つと全然違う文字を打っている。ここまでに何箇所でデリートキーを押したことか。nとjの位置を何度も間違える。それに限らずたくさんの誤打をする。

 

ここのところは、花見の時期が明けてからは、全体的に暇な日が続いていて、かと思うと急に忙しくなったりしていまいちリズムがつかめないし、リズムがつかめたことなんてこの2年弱で一度もなく、そもそもリズムなんてものはないのかもしれないのだけれども、とりあえずのところは総じてゆっくりで、よく本を読めている。バルガス=リョサを終え、向井周太郎の『デザイン学』を読もうとも思っていたけれど、やはり、どうも、小説、というモードのようで、それで昨夜丸善に行って、どうしようか、いよいよ『2666』に行こうか、アジェンデの『精霊たちの家』を読んでみようか、ガルシア=マルケスのまだ読んでいない何かを手に取ってみようか、と散々迷った挙句、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』をアマゾンのマーケットプレイスで購入することにして、そのつなぎとしてそう厚くもない、軽く読めそうな、という理由でカルロス・バルマセーダの『ブエノスアイレス食堂』を買った。『野生の探偵たち』と同じ柳原孝敦が訳しているというのも選択の一つの理由だった。

バルマセーダはアルゼンチン・ノワールの旗手という方らしく、ブエノスアイレス食堂でおこった猟奇的な事件がどうの、食人がどうの、ということだったからなんだかこう、そういった嗜好のシェフが殺した人の肉を使って料理して客に供してそれが途方もない美味で、みたいな感じの下世話な話かな、と思って読み始めたら、読み始めは確かにそういう具合だった。生後7ヶ月の男の子が母親を食い殺し、無数のネズミたちとともにその肉を食う、みたいな始まりで、ああそういう感じだよね、と思って読んでいたら、どんどん、とてもいい意味で裏切られていった。半分ぐらいまで読み進んだ昨夜の段階で、「これはすごい小説かもしれない!」と結構な興奮を覚えた。

なんせ、ちょっとした猟奇事件の物語かと思いきや、その舞台となるブエノスアイレス食堂をめぐる人々の100年ぐらいの年代記であり、同時にアルゼンチンやイタリアを見舞った血まみれの歴史と人の横断、それぞれの人々の物語が仔細に描かれ、さらにブエノスアイレス食堂のシェフたちに伝わるの『南海の料理指南書』は紀元前のギリシャまでをも射程に収めるものだから、縦に横に、ものすごい広いレンジで、ものすごいダイナミクスさを獲得していた。この作者の力量はとんでもないと舌を巻いた。

だからこそ、というのか、そのクロニクルを物凄い面白く読んでいた身としては、歴史語りが終わり、現在に辿り着いてしまって以降、結末に向かって物語が加速していく部分は、どうにも興醒めというか、どうでもいいなと思ってしまった。こういう注釈は普段は入れないけれどもなんとなく今回は入れるけれども以下というか次のというかこのセンテンスのこれからのところはいわゆるネタバレというところになるけれどもこの小説の終いは当初の想定の通りの殺人及び食人シェフによる絢爛たる料理の数々というところで、まず同僚を殺し、次に養父というか育ててくれていた叔父を殺し、失踪事件を捜査していた警官を殺し、それぞれ料理し、それぞれ絶賛され、最後に愛人でもある叔母を殺してこれは一人で射精しながら堪能し、最後の最後は自分の体を最高に美味しく塗りたくってネズミに食わせるというもので、ここで自身が食い殺した母をネズミに食わせた冒頭とどうでもいい円環を作るのだけれども、なんだかもう、それは本当にどうでもいいことだった。

私としては、語りが現在に追いついたところで小説がバッサリと、あの事件はなんだったの、そして母を殺した幼児はそのあとどうなったの、ということは置き去りにして終わってしまっていたら、この小説を手放しに賞賛しただろうなと思うのだけれども、結局ジャンルの要請というのか、ノワール的に片をつけなければいけないということなのか、どうでもいいカニバリズムが描かれてしまって、なんというか本当にそれは私にとっては蛇足以外の何ものでもなかった。

この小説家がノワールという足枷を外して何かを書くとき、そのときを結構なところ心待ちに待ちたい。

 

明日か明後日にはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』が届く。とても楽しみだ。


« »