鈴木涼美/「AV女優」の社会学

book

「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか

まずもってあとがきの文章がすごくいい。これなんかは名文だと思う。

 

私たちの生きる街の売春がややこしいのはそれが黒い部分ばかりであるからではなく、どうしようもなくピンク色だったりキラキラしていたりするからなのである。売春にまつわる悲惨はそのキラキラであるが故の悲惨について描かれるべきだと思うし、売春を肯定する内部からの声もそのピンク色に自覚的であるべきだと思う。(P301)

 

なぜ今の仕事についたのか、という問いを向けられる機会はサラリーマンの時よりは確かに増したとは言えそう頻繁にあるものでもないし、日常会話の中で発せられる問いであり、答えがなんの面白みもない退屈なものであってもなんの差し支えもない。仕事を辞めたいとずっと思っていたところで、ちょうどタイミングよく話があって。それだけだ。

だいたいどんな職業であろうともそんなものだろう。なぜその職業を選択したのかと問われる機会はそうないだろうし、そもそも問う側も、そう問うてみたところで興味深い話が聞けるとはあまり期待しない。なんせ、シューカツという定型化された活動期間を経た私たちは、ほとんどの人がなんとなく、あるいは企業が選択してくれたからその職業についていることを知っている。

 

そういう中で、本書が取り上げるAV女優という職業はどうも特異らしい。

 

私がAV女優に興味を持った理由のひとつが、彼女たちの語らされる機会の多さにある。全国区で顔をさらけ出し、裸の肉体をむき出しにして、名前を持ってAVに出演する者は常に自らの性を商品化する理由を問いかけられ、動機を語ることを余儀なくされてきた。(P21)

 

そう言われればたしかに色々なインタビューがありそうな気がしてくる。読んだことも意識して見たこともあまりないが(早送りするため)、VTRの中や週刊誌の中でそういうことがおこなわれている様子は想像できるし、多くの職業にとって面白くもなんともならない問いでも、それがAV女優という「「名誉回復が不可能である」ほど、緩慢で大胆な(性の商品化に対する許容の)線の引きかたをする」職業であれば、十分に興味深いコンテンツとして成り立ちそうなことも、感覚的に理解できる。

 

本書が着目するのは、「なぜAV女優になったか」ではなく、「彼女たちはどのようにしてその流暢な語りを獲得したか」という点だ。その獲得の過程が、AV女優という職業の具体的な仕事内容とキャリアの変遷を見ていくことで浮き上がってくる。

AV女優と言ったらその仕事はカメラの前で裸になって撮影をすること、ぐらいの一面的な見方しか今までしていなかったのだけど、プロダクションに所属し、単体契約を取るためにメーカー面接に何度も回り、契約にこぎつけて向こう半年の仕事が決まり、監督面接をおこない、VTRの撮影する、ジャケット写真や広報写真の撮影をする、取材を受ける、単体から企画女優へと転身する、単体とは異なった目的のメーカー面接を受ける云々、といった具体的な業務とキャリアの流れを見ていくことはとても興味深いものだった。

そしてまた、その獲得へ至る道程には、端的に言って感動した。

 

最も重要と思われるのは、繰り返される動機語りが、いつしか戦略性を離れて彼女たちの勤労倫理にすり替わっていくことであるからだ。

本書を書き進めるにあたって、そのような「世間の興味」を逆手にとった戦略的語り口が、いつしか彼女たち自身に向けて発せられるようになっていく様を目の当たりにした。業務として、AV女優になる動機について彼女たちは饒舌に語る。その動機は、業務から派生して独立し、実際の彼女たちの動機として意味を持つようになる。彼女たちは一度目は業務の一環として、二度目は彼女たち自身のものとして動機を再び獲得する。そしてその動機は、実際に「彼女たちがAV女優になった動機」とは無関係であれ多少ひもづいたものであれ意味のないものだったかもしれないが、二度目の獲得によって彼女たちの働くよりどころ、「AV女優であり続ける動機」として機能しだすのだ。(P27)

結局、なんで(AVに)出たんですかって原点みたいなこと聞かれると、適当には答えてるけど、ちょっと考えもするっていうか、なんでだっけ、みたいになって。思いつかないもん、適当に言っていいって言われても。で、結局わかってほしい方向性って自分がやりたい方向性だから、そのために無理やり言ってるわけじゃなくて事実とそんなに遠くなくなってくる。最初、対インタビュー用って感じで、人のことエッチな気分にさせたりするのがうまくなりたいから、みたいなしゃべりはしてたけど、考えてみれば、そういうことのプロになっていくのもいいんじゃないかっていうか、実際にそうなんだよね(Y)。

 

インタビューで語られる動機は、確かに戦略的につくられたものであったかもしれない。しかし、それが事後的に内面化し、実際に彼女たちのものとなっていくことがある。ありのままを語っていたわけではないのに、事実が語れる言葉に寄り添うようになり、結果として語られる内容と現実の彼女たちの意識が一致してくるのだ。

それは、AV女優という仕事を続けるにあたって彼女たち自身が、「なぜこの仕事を続けるのか」といった問いにぶつかり、その理由を希求しだす、といった事情と、繰り返し聞かれ、自分のストーリーを語らなくてはならない日常が、同時的にあるからこそ、起こりうる現象だと言える。(P248-249)

 

また、語りの獲得と不可分に、彼女たちは次第にプロ意識を先鋭化させていく。驚いたのは、ほとんどの場合、受ける仕事の内容や引退の申し出などに対して強制が働くことはないらしく、彼女たちが自身の選択として、何に強制されることなく、仕事を選び、続けていく。単体契約という単価の高い仕事が終わると、自身の選択として企画という単価の低い仕事に身を移し、精力的に仕事をこなしていくようになるという。

様々な面接や現場を経験していく中で、当初彼女たちの中にもあった若さや美しさみたいなものを頂点とするヒエラルキーが消え、技術であったり受ける仕事の幅であったりなんやかなんやの、まったく一元的でない多様なヒエラルキー構造を認識し、「それなら私は海賊王になる」みたいな心境の変化、プロ意識の先鋭化がなされていく。

 

多くのAV女優が誰かに強制されるまでもなく、より多くの仕事をすすんでこなすようになる。ごく自然な仕事の変化の流れの中で、生活全体をAV女優としての活動にからめとられていく。その変遷を追うことは、性の商品化の渦中にあるということが一体どういった事態なのかを具体的に考える契機になるだろう。性の商品化は、確かに女性たちを夢中にさせる側面をもっている。AV女優たちが語り出すのはその「夢中になる」トンネルを幾度かくぐりぬけるからだ。その過程のなかで彼女たちは性の商品性との付き合い方をも定めていく。それはまさに、彼女たちが逞しく誇り高い存在になっていく過程でもある。(P180)

 

先ほど感動したということを書いたけれど、そのあたりはなんというか、私も店をやり始めて2年が経って、この先どういうふうに仕事と付き合っていくのか、何を目標にして働くのか、生きていくのか、という自問自答をぐるぐると、とても狭い射程の中で繰り返している最中だったからというのが多分あって、そういう中で彼女たちの姿を知るにつけ、「わ、なんか逞しいぞ」というので感動したのだと思う。

それとともに、私自身の経験としても、店のブログ等で「お客さんにひたすら楽に過ごしていただきたいんだよなー、そういう場所を作りたいんだよなー」みたいなことを繰り返し書いているうちに、その思いがより深く内面化していって、「いやそれほんと思ってるわ俺、しかも強く希求してるわ」みたいな驚きを覚えることがあって、そういう意志の強化みたいなものに出くわしている実感があったから、読んでいて、なんか、あー、それそれ、というのもあったのかと。

とか言いながらも、感動とか言っちゃうのはきっと私の中にあるAV女優に対するある種の偏見みたいなものと関係ありそうな気がしてちょっと気が引けるというか、とても程度の低いギャップ萌えというか、知らなかったけどがんばってるんだなーすごいなー感動したなーとか言ってるんだろ自分みたいなところもあって、なんというか、その、あの…という口ごもってしまう感じではあるのだけど、まあほんといろいろと、ここに挙げたことに限らずいろいろと面白かったしすごくよかったです。がんばるぞー、僕もよくよく考えるぞー、しっかりと働くぞーという思いを強くした次第。(俺はこの本をキャリア論として読んだということだろうか…)

 

本書を読んだのは、今フアン・カルロス・オネッティの『屍集めのフンタ』という、架空の街サンタ・マリアにおける売春宿を巡るあれこれのお話を読んでいるからという理由ではなくて、大学のゼミの先輩である著者の鈴木さんが本書を送ってくださったからというだけなのだけど、だから私は売春の是非を巡る議論やセックスワークに関する議論についてまるで知らないし、強く興味を惹かれることもないのだけど、冒頭に引用した箇所を筆頭に、鈴木さんの文章には、本書でもしばしばその語が出てくる「逞しさ」を感じずにはいられなかった。実感やアクチュアリティがそこここに強く溢れている感じで、とにかくなんかかっこよくてぐっとくる。のでいくつか引用。

 

性の商品化を問題視する議論の多くが、強制/自由意志であるというところに異様なまでに執着することに私は懐疑的だ。彼ら/彼女らが語る「売春(あるいは売春婦)」につきまとう不幸や悲惨は、この街の女子としての私たちの日常とは別のところにある気がしていた。それは何かについて重要な指摘や枠組みを提供しているはずなのに、私たちについて語ってはいないような気がした。私は、彼ら/彼女らの語る売春婦を空想上に仕立ててその枠組みの中で遊ぶよりも、この地続きの先を見たい。私たちが慎重にしろ無防備にしろ線を引きながらつきあってきた自らの商品性と、私たちを内包する街について知りたいと思った。(P12-13)

私は性的な女の身体を持つ者の立場で本書を綴る。(…)私は今でも、女の身体をもって東京で生きていくためには、性の商品性と向き合わなければならない場面はいつでも起こりうるし、そこを生き抜かなければ幸福が訪れないと感じている。(P37)

不安や経済的苦境やつまらなさや、そんなものがあっても決して親の悲しむようなことをしないで良いオトナになる女たちもいる。そんな女たちのことも私は高潔だと思う。けれど、そうなれない女たちがぶりぶりの服をきて上目遣いできらきらの画面で動機を語る姿もまた、同じように私を惹きつける。魂が汚れようが汚れまいが、後ろ指を差されようがちやほやされようが、キラキラした性の商品化の現場に居続ける彼女たちもアンビバレントな東京の女の子たちの姿だ。

女が身体を売る現場で働く男たちを人は時に売春婦以上に蔑視する。女衒を攻めるほど私たちは初じゃない。子供ながらにバブルもそのはじけた虚しさも冷めた目で見ることを強要されてきたのだ。私たちは資本主義の申し子だ。ピンサロ嬢が以前私に言った。「私たちは商品だから、大事にしてもらえるよ、そこにつけこんでうまくやればいいんだよ」。値段のつくものに人がむらがる、そんなことを別になんとも思わない。彼らもまた必死に生きているのだ。(P302-303)

 

全然しゃべったことのない先輩なのだけど、鈴木さん、かっこいいです!と言いたい。


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