12月

cinema text

オマル・カベサスの『山は果てしなき緑の草原ではなく』を読み終え、それはサンディニスタによる闘争の1975年までのあれこれが描かれていて、それはそれですごく面白かったし、うわー山中でのゲリラ活動ってえげつないんでしょうねー猿とか食ったり病気の手術がむちゃくちゃだったり、と読み応えは非常にあったのだけど、描かれるのは1975年までで、読んでいる限りはまだまだソモサ王朝というか国家警備隊の脅威が強く国民にのしかかっているあたりで、そこからサンディニスタががんばってどんどん勢力拡大、いけるぞ打倒ソモサ、みたいな空気にはまだなっていないあたりで、そのあとの展開も読みたかったなという一抹の物足りなさはあって、訳者解説を読むとそのあとのことがなんとかというタイトルで書かれているらしいのだけど、未邦訳なので読みようもなく残の念はあるけれども総じていえば面白かった。

 

そういう、「山中でゲリラとかいいよね~」という流れであったからというわけではないけれども、私たちの店で上映会があり、山崎樹一郎の『ひかりのおと』と『つづきのヴォイス』を見た。『つづきのヴォイス』は岡山県北の真庭の山中で280年前に起こった農民たちによる一揆を題材にしたドキュメンタリーで、義民を顕彰する会の老人たちが様々の資料や証言にもとづきあれこれを話す姿を収めたものなのだけど、280年前を生きた不在の人物たちをめぐる語りのありようは、そういう楽しみ方がこの映画にとってふさわしいものなのかどうかはわからないにせよ、とても面白いものだった。なんせ、記憶は当然のことながら、確かな記録というものがそう豊富にはないようで、一揆を起こしあっけなく敗北を喫した農民たちがそのあとにどのような足どりを取ったのか、まるで定かではなく、そういう状況の中で、記録を信じてみたり、義民の末裔の言葉を信じてみたりと、まるで確固たる根拠を持ち得ないまま、その「どれが正しいのかはわからない」というエクスキューズは保持されながらも、あれこれと語られる。どの言葉も鵜呑みにはしてはならないという油断ならない言葉を聞き続けることの面白さ。特にそれまで個別に撮られていた老人三人が集まってあれこれを話し合う場面は面白かった。場を独占するデータサイエンティスト的な者、なかなか言葉を発する隙を見いだせない者。新たなデータの提示、そのデータを読み上げるそれまで輪に入れなかった者のいきいきした姿、「え、何そのデータ知らないんだけど」という感じを醸すデータサイエンティスト。総じてチャーミングな老人たちが映っていて、それを見続けるのは愉快な経験だった。

 

そういう、「山中でゲリラとか、一揆とかいいよね~」という流れであったからというわけではないのだけど、オリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』3部作を見終えた。第一部から第二部の途中ぐらいまでの、カルロスが現役というか現場に出てどんぱちするところまでは本当に面白く、格好よく、カルロスは世界を本気でどうにかしたいのだなあという感心とともに見ていたのだけど、そのあとどんどん、ウィキペディアの言葉を借りるならば「金次第で誰の命令でも従う傭兵のような存在になった」カルロスに流れる時間はどんどん弛緩していき、それとともに映画自体も弛緩していくようだった。気づいたら体はぼっちゃりしているし、女を抱いてばかりいるし、やたら金持ちっぽくなっているし、病気にもなるし、だんだん「エキゾチックな国が好きなブルジョアの旅行記」みたいになっていく感じがして、それはそれで面白かった。この弛緩はこの題材においては宿命で、この弛緩を見せずに成り立たせようとしたら欺瞞になるのかもしれないと思いました。なのでとても好感が持てました。

それにしてもなんというか、そういう、「山中でゲリラとか、一揆とか、あるいはテロとか世界同時革命とかいいよね~」みたいなことはまるで思ってはいないのだけど、ここのところあまりに頻繁にそういうたぐいのものを見たり読んだりしているせいか、ナンバーガールの「MUKAI NIGHT」に「そろそろ変化がおとずれる、憂いの時代に突入か」という歌詞があるのを猫の鳴き声とともにいま思い出したところだけれども、なんだか秘密保護法案とかきな臭いことはいつの時代だってそうかもしれないけれども今もあれこれあるけれども、日本人の方々はいつかそういった、サンディニスタとか、真庭の農民とか、カルロスみたいな感じで銃とか鍬とかを持って立ち上がったりするのかな、するのかな、と思う。与党の偉い人が民衆の集会をテロと呼んじゃう時代だけれども、どうすんの、みんなどうすんの、なにかすんの、と思う。何かが起こるならば私はその様子をユーストリーム越しに見るのだろう。

 

 

そういう、「山中でゲリラとか、一揆とか、あるいはテロとか世界同時革命とかいいよね~」みたいなところとはまるで無関係に鈴木了二の『建築映画 マテリアル・サスペンス』を読んでいて、これがまたやたらに面白く、すごくワクワクしながら読んでいる。こことかとてもいい。

 

建築映画とは、建築サイドから見れば、映画によって隅々まで浸されて溺れてしまった建築であり、映画サイドから見れば、スクリーンに建築が突き刺さり、突き破ってしまった映画のことなのである。(…)この事態は要するに、建築的にも映画的にも、とりあえず「台無し」ということである。したがって台無しになったという自覚なくして建築映画は始まらない。台無し、それは基盤なき時代における基盤であり、それがすべての始まりだ。(P53)

 

すごく面白い。

そういうことも相まってか、ここのところは映画をよく見ていて、それは『マテリアル・サスペンス』に触発されてというところも実際に大いにあるだろうけれどもそれだけとは思われず、一つは『2666』を年末に読み始めるまでになんの本を読んだらいいのかがとうとうわからなくなったため、映画で時間を潰す、みたいなこともあるだろうし、もう一つにはせめて一年で100本は映画見たいと年初にたしか思っていたはずで、今何本なのかはわからないし、エバーノートを調べればものの1分でそれはわかるだろうけれども今はまだ知りたくはないのだけど、そういう100本見るぞみたいなところもあり、7月の夏休みに集中的に見て以降、岡山に戻って以降ほんとうに映画を見ていなかったので、年末で一気呵成だ!逆転だ!みたいななんかこう、数字合わせみたいな気分もあるのかもなとも思うし、あるいは寒くなって店は暇で気持ちと体力に余裕があるというのもあるだろうし、あれこれあるのだけど、まあそういうことで映画をよく見ている。雑駁に言って映画って面白いですね本当に、と思う、改めて。

 

この一週間ぐらいのあいだにも、山崎樹一郎『ひかりのおと』『つづきのヴォイス』、アサイヤス『カルロス』3部作の他に、小林啓一の『ももいろそらを』、アキ・カウリスマキとペドロ・コスタとビクトル・エリセとマノエル・デ・オリヴェイラの『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』、ナンニ・モレッティ『ローマ法王の休日』、ロマン・ポランスキー『袋小路』を見た。

 

『ひかりのおと』は牛がしっかりと撮られていて、出産のシーンはもちろんこと、睡眠中の牛舎の様子とか、どの場面に出てくる牛もすごくよかった。ただ、持ち出される問題がとても多いためか、それを処理していく手つきが雑というのかわからないけれどもそれぞれの問題の解決があっさりというのか、ご都合主義というのか、牛に比べて人間はしっかり撮られていないような感じがあり、最後にはカタルシスめいたものがあって私も何やら感動をしてはいたのだけど、でもその感動は果たして適切なものなのだろうか、無理くり誘導されたものではないだろうかと思わないでもなかった。ただなんせ牛がよかったのでよかった。

『ももいろそらを』はたしか年の始めにアルドリッチの『合衆国最後の日』と『カリフォルニア・ドールズ』を見に大阪に行ったときに予告編で流れているのを見て、なんだかよさそうだなと思っていて、それでツタヤで見かけたから借りたのだけど、どういう評判なのかはまるで知らないけれどもこれがすごくよくて、女子高校生たちがちゃんと歩いて、ちゃんと会話をして、というのがちゃんと撮られている感じがして好感が持てた。インタビューを読んだら2035年の設定で主人公が過去を振り返るとかどうとかということで、あと過去の出来事を表現するためにモノクロにしたということらしく、そういえば冒頭に2035年みたいなことがあったような気がするけど始まってすぐに忘れていたのでよかったなと思っているのだけど、というかそういう作り手の意図みたいなものを先に知っていたら「それ僕は結構です」という気になっていただろうけれども、調べたら「被写界深度が浅い」というらしいまわりをぼやけさせた映像も、意図がどういうものかは聞きたくはないけれども私はすごくいいなと思って、なんせきれいだったし、まあなんせ女子高校生たちの演技が瑞々しく、心地よく、なんだかすごくよかったんだよなーこれほんとうに。と思いました。

『ポルトガル、ここの誕生す』は、エリセの工場のやつとオリヴェイラのがとてもよかったです。ペドロ・コスタはひたすらかっこいいなーと思いながらもけっこうしんどかったです。よかったです。

『ローマ法王の休日』は予告編のタッチと全く違っていい意味で裏切られました。「え~!?」と思いました。『袋小路』は、「ありゃりゃ~」と思いました。どれもとてもよかったです。

 

今年も残すところわずか。面白い映画をたくさん見るぞ、という思いを強くする一週間でした。


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