12月

book text

ヒップホップが引き続き私のなかで最も生々しいものとして響いているわけだけど、今のところ12月25日発売予定となっているFla$sbacksのfebbのソロアルバムがとびきりに楽しみであり、と思って改めて2Dclovicsというヒップホップ情報のサイトを見てみたところ、「12月25日発売」にも訂正線が引かれており、どうなったのだろうか。発売未定とあるけれども。いつなのか。そのサイトを見るとこの作品の発売延期具合がよくわかって愉快で、7月17日発売。9月4日発売。10月23日発売。10月30日発売。12月25日発売。それらすべてに訂正線である。どれだけ期待を高めてくるのだろうかと思う一方、何かたいへんな困難が立ちはだかっているのだろうかと心配にもなるほどの延期具合で、いったいいつ私はその音を聞くことができるのだろうか。

 

なんとなく、私は詩というものにはまるで明るくないし、詩を読むという行為は自分からはすごく遠くにあるものに感じてもいるので、それはどの程度遠いかといえば絵本を読みますというぐらいに私にとっては遠いものなので、詩というものがまるでわかりはしないのだけれども、ラテンアメリカの小説を読んでいると、それこそボラーニョの『野生の探偵たち』はずばりでそうだったけれども、あちらでは詩を読むというものが、詩作というものがいまだにそれなりの規模というか、それは言い換えると普通さというところで存在しているようにも見えて、本当にそうなのかどうかはわからないのだけれども、そういうふうに見えて、たしかに、それはラテンアメリカの記憶ではないけれども、思い出すのはデプレシャンの、デプレシャンのあれはなんだったか、『キングス&クイーン』だったかな、たぶんエマニュエル・サランジェという人が酒場かどこかで友人たちの前で何かを暗誦するみたいなのがあって、というか何かの詩を得意げに、そしてもっと言えば交互に暗誦するようなシーンって今までに何度も何度も映画の中で見ていて、日本でそんな光景ってこれまであった試しがあるのだろうかと思い、私たちの暮らしと詩というものがとても遠いものに思われているのだけれども、そういう中で、ヒップホップというものこそが、あるいはそれだけが、生活の中に詩がわりと普通にあるという文化圏のそれと、何か似ていたりはしないのだろうかと思ったり思わなかったりしているところだった。

 

何も言っていないのはよくわかっている。しかしここは野放図に、私が今年ずっとはまっているラテンアメリカ文学とヒップホップが根底というかむしろ表層というか、そういうところで結ばれているのだ、と言っておこうと思う。言っておこうと思うとか言って、言ったところで何もないのだけれども、言っておこうと思う。故のないことではないんだよと。

 

そういうところで、『街のものがたり―新世代ラッパーたちの証言』という何人かのラッパーのインタビューをまとめた本を最近読んだ。OMSBとかPUNPEEとか、あとOtogibanashi’sとか、今までに好んで聞いていた人たちの物語を聞くのは単純に楽しかったし、いろいろとすごくよかったのだけど、印象に残ったのは一度も聞いたことのない、聞いてみたけれど全然ピンと来なかったAKLOという人のインタビューで、友だちに話したら知っていたので結構有名みたいなのだけど、こんなことを言っていた。

 

アンダーグラウンド・ヒップホップを聴き出したのは、”ヒップホップってもっとカッコいいんじゃないか?”と思ったから。でもニューヨークに行ったら、アンダーグラウンド・ヒップホップに対しても”贅沢品なんじゃないか?”と違和感を抱くようになりました。なぜかっていうと、アンダーグラウンド・ヒップホップを支持している層は一部の白人と日本人なんですよ。DJ KLOCKさんがニューヨークにツアーで来たときにいっしょにライヴしたんですけど、客はナードな白人で”すげードラッギーだぁ!”とか言いながら頭振ってるんです。それを見て”俺はこんなヤツらのために音楽やってるんじゃない!”って感じたんですよ。(巻紗葉『街のものがたり―新世代ラッパーたちの証言』P19)

 

こうやって打ち込んでいるとカタカナの使い方がすごく嫌というか、自分とは違う使い方なので気持ちが悪いんだけれども、カッコいいとかヤツとか、気持ち悪いんだけれども、その「俺はこんなヤツらのために音楽やってるんじゃない!」というところだけが私の頭にはやけに痛烈に響いてきて、それはもう、何もかもに通じてそういうことは考えられるし、考えていいこと、考えたほうが長い目でみたときにはたぶんいいことだろうなと、「うわー」と思ったわけだった。そのあとにAKLOはラジオで掛かっているヒップホップを聞いてこれ流行ってるんなら取り入れていこうぜ、みたいなノリの連中に親近感を抱いて、説得力を感じて、ということを続けて語っていて、それは私にとってはすごく清々しいことのように思えるし、そこで彼が体現することにした自己礼賛型、この本で覚えた言葉を使うとセルフボーストのスタイルというのは、それ自体はすごく「いいね!」を押したい感じで、まあともかく、こんなヤツらのために音楽やってるんじゃない!はわかりやすいけれども、短絡的かもしれないけれども、金言だった。金言というほどでもないけれども、なんとなく「いいね!」と押したいというか刺さってくる類の言葉だった。では、どうするのか。兼ね合いの問題。

 

と、ここまで一昨日の晩に打って時間が遅くなったので切り上げて、その日から今日に至るまで胃が痛くて気持ちが悪く、それだけで私の人生はまるで惨憺たるものであるような気になってしまい、要は弱気の虫に食い散らかされて萎えているわけだけど今日は休みで外は雨で、おとといと同じ場所に座ってこうやって打鍵が再開される。日曜日の晩、それから昨日と、彼女以外の人間とまとまった量の会話をするという機会に恵まれ、それは私にとってとても楽しいことだった。人と話すことをわりと私の心身は欲しているのかもしれなかった。ただ、会話はいとも簡単にくだらないゴシップに堕する危険をはらんでいるため、そういったことには自覚的でありたい。自覚的であること。何においても。それはあざとさと表裏一体かもしれないが、大切な心構えであると、私は信じて疑わない。

その、続けざまの人間との会話の中でともに話題に上がったトピックとして本屋のことがあり、私は本がとても好きなので思うところは色々とあり、本屋さんも好きなのでいろいろと思うところがあり、あれこれ検索していたらちょうど先週ぐらいにB&Bの方が書いた『本の逆襲』という本が出ていたので矢も盾もたまらずに本屋に行き買ってきてあとたぶん10ページぐらいで読み終わるのだけれども、面白い。

と、ここまで打って、あと10ページなら今読んじゃえと思って読みきった。面白かった。

本の定義はどんどん拡張していっていること。それはいわゆる電子書籍によってということにはまるで限らずに。だれでも、あるいはどこでも本屋になれること。それはいわゆる書店の形態とはまるで限らずに。ということが色々と書かれていた。全体的にとても前向きな内容で好ましかった。

B&Bのこと。

 

そもそもぼくたちはイベントスペースを運営したいわけでも、飲み屋がやりたいわけでも、家具屋がやりたいわけでもありません。また、「古本はやらないのか」ということも訊かれますが、今のところ一時的な企画などを除き、本格的にやるつもりはありません。いつか「古本を扱うことで、新品の本がより売れるかもしれない」という考えに至ることがあればやるかもしれませんが、ぼくたちはあくまで、これからも成り立つ新刊書店のモデルを作るためにこそ、様々な試みをしているのです。(…)

ぼくたちはB&Bを通じて、その「本屋はメディア」を本気でやったらどういうことが可能か、という実験をしている最中です。新刊書店には、もっとできることがあるのではないか。(…)ひとつの街における情報や知的好奇心の媒介者となることで、本を売ることと相乗効果を生みながらできることを考えつつ、日々営業しています。(内沼晋太郎『本の逆襲』P153-158)

 

年末になると本屋について考えるようになるのか、去年の今頃も「本屋…」と考えていたところでB&Bに行ってみたのだけれども、私にとってはそこはけっこうピンとくる場所で、いいなと思っていくつか本を買って帰った記憶があるのだけど、今一度この年末も足を運んでみようと思った。楽しい本屋が岡山にもできるととてもいいなと夢想している。

先日初めて行った古本屋さんはわりと楽しくて、でも「これこそは今読みたかった本だ!」みたいな発見はなかったというか、発見というより自分のそのときの波長に合いそうな何かはよくわからず、それでもなんとなくアフォーダンスとか知りたいなーみたいなところからアフォーダンスの本を買った。彼女は蓮實重彦の『凡庸さについてお話させていただきます』を買っていた。

アフォーダンスのやつは思った以上に難しい内容で、難しいなーと思いながら読んでいるのだけど、盲人が足音と壁の反響音とか車の通りとか雲の厚みとか建物の途切れ具合とかを聞くというか知覚しているという話など、とても興味深いところも多々あり、それから平田オリザとの対話が面白かった。そのなかで著者がこういうことを言っていて、こういうことを言っちゃう人の書くことは真剣に読みたくなるなーというものだった。

 

役者がまばたきと首のうなずきをするときに、そのことの持っているすごみというのがあります。そういうことをみんな面白がるようになれるというのは、ちょっといいことだなと思います。なぜかというと、それはかなり他者をちゃんと見る根拠になるからだと思います。やつはどう歩くか、やつの唇はどうか、やつはどういう恋愛をしているか、そういうことを知ることも十分生きていく根拠となるはずで、僕は結構そういうことが好きなものですから、そういうことを百分の一でもわかって、それを会話にのせられることができれば楽しいと思います。(佐々木正人『知覚はおわらない アフォーダンスへの招待』P165)

 

生きていく根拠というのがとてもいい。

アフォーダンスが問題にしている事柄を読んでいると、どこか保坂和志に通じる感触があるような気がする。何が、というとよくわからないのだけど、人間が世界と地続きにある感じというか、アンディ・クラークの『現れる存在』とも通じるというか。楽しかったです。じゃなくてまだ読み終わっていないので、楽しいです。

 

最近読んだ本の中では『マテリアル・サスペンス』が群を抜いていて、衝撃的なほどだったのだけど、なかでも黒沢清との対談がすごくよかった。よかったというか、こんなに相思相愛の対談はなかなかお目に掛かれないのじゃないかというところでエキサイティングだった。黒沢さんの話しぶりがとても嬉しそう。

 

黒沢 鈴木さんに今回「踊り場」という指摘をいただいて、わが意をえたり、という思いでした。これまで誰も指摘しなかったし、自分もほとんど無意識でいたことでしたが、「踊り場」と言われた瞬間、「あぁ僕は本当に踊り場が好きだった」と思いました。実は気付かないようなところでも、踊り場を使っているのです。たとえば「アカルイミライ」で浅野忠信さんが警察につかまっている独房は、踊り場なのです。(…)

スタッフも「ここでやるんですか」と仰天しましたが、「絶対にここでやりたい。この踊り場はめちゃくちゃ面白いから」と言って、刑務所の独房に見立てて、踊り場を使いました。「LOFT」でもスライドを映写して、考古学の講義をしているような場面で踊り場を使っています。これもスタッフからは「こんなところで」と言われましたが、僕が「ここでやりたい」と言ってやりました。僕は踊り場フェチなのです。

鈴木 いや、そこまでひどいとは知りませんでした(笑)。

黒沢 隠していましたが(笑)、踊り場好きなのです。ご指摘いただいた「回路」の団地の踊り場もこのアングルに入りたいと強く言って、工事用の特別車両でキャメラを上げて撮りましたので、お金がかかりました。(…)それくらい、この位置からこの踊り場を撮りたかった。(鈴木了二『建築映画 マテリアル・サスペンス』P312-313)

 

こんなにも踊り場が意識的に撮られていたとは!そしてそれを見抜く鈴木了二の慧眼!というところでたいへん楽しかった。

『マテリアル・サスペンス』を読んで、エキサイティングな映画評論を読みたい、と書店に行ったのだけどどれがいいのかわからず、それでヒップホップの本とかアフォーダンスの本とか本屋の本とかを読んでいるのだけど、以前古本で買っていて読んでいなかった蓮實重彦のやつを今少しずつ読んでいる。

 

彼方を、向う側を、未知の領域を望見し、既知なる領域に支配している論理に従って征服の道へと踏み込み、未知を既知へと転換せしめる過程にその存在を賭けようとする怠惰な擬似冒険者ではなく、いま、ここにとどまり、既知と思われた領域の一点に未知の陥没地帯を現出せしめる反=冒険者。そんな存在が成就する死と境を接した身振りをここで「批評体験」と呼びたいと思うが(…)その体験は、「差異」を正当化する「排除」と「選別」の身振りからは気の遠くなるほど隔たった時空での「事件」であり、類似も、比較も、対立も、表象も機能しえない場に宙吊りにされたこの「事件」こそが、真の「前衛」体験なのである。(蓮實重彦『シネマの記憶装置』P74-76)

 

これはメカス論から引いた箇所なのだけど、相変わらず格好よすぎて痺れ狂う。面白くてエキサイティングな映画評論を読みたい。

 

 

休日で、雨が降っている。髪を切りに行く予定。

眼前で光を発するパソコンの画面、引用するために開いた本、黄色い煙草のパッケージ、それらが置かれた赤いこたつ机、顔を上げれば降る雨で小刻みに揺らいでいるように見える車の行き来やいくつかの木々を映す窓がある。生活の中にある様々な矩形は、すべてが書物のようであり、スクリーンのようだ。そう思ってみれば、この世界は(たとえ胃が痛くても)言葉が追いつかないほどに美しい。休日で、雨が降っている。本を読む。映画を見る。


« »