悪魔のいけにえ(トビー・フーパー、1974年、アメリカ)

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3年ぶりぐらい3回目。『映像のカリスマ』で黒沢清がトビー・フーパーのことを涙ぐましい努力を重ねる作家という位置づけで大いなる共感を持ってけっこうなページを割いて書いていて、「『悪魔のいけにえ』だけの監督」と言われてしまうことはどうやらトビー・フーパーにとってはとても不当なことらしいのだけど、非常に悲しいことに私は『悪魔のいけにえ』と続編『悪魔のいけにえ2』しか見たことがない。ウィキペディアを見てみるとたしかに2,3年に1本ぐらいのペースでコンスタントに作品を発表し続けているみたいで、たとえそれが3度目であろうと、デビュー作だけにしか触れない私の態度はどこまでも義理を欠いたものだろう。

 

このスプラッターの始祖と呼ばれるらしい作品を見て私が感じるものは恐怖ではなく歓喜で、ひたすらにテンションが上がっていく。あんなに自信満々だったやつらが怯え、目に涙をためて許しを請い、叫び、最後まで絶望を絶望と気づかないまま殺されていく様を見るのがうれしくて仕方がないのだろうか。それもあるだろうし、なんせレザーフェイスが殺戮のあとに窓際に座って見せるなんともいえない後悔めいた仕草、仮面越しの舌なめずり、父親の前で見せるおどおどした態度、食卓で父親の顔に間欠的に現れる笑い、おじいちゃんが女の指をちゅーちゅーするくだり、ハンマーを落としちゃう弱々しい手、それを支える孫の献身、人々の無邪気さ、絶えない笑顔、そういったものの一つ一つが、よくできたホームドラマを見ているときのような生温かい気分を味わわせてくれる。一家には伝統があり、教育がある。そのことがただうれしい。

また、この映画は継承の物語でもあるらしく、墓荒しのお兄ちゃんのブブブという仕草は車椅子のフランクリンに引き継がれ、殺戮は祖父から父、父から息子たちへと引き継がれ、家族の笑いは背中丸出し女子に引き継がれる。そしてこの映画自体がたくさんの映画に引き継がれてスプラッターというジャンルに今なお大きな影響を与え続けているとかなんとか。バケーション中のリア充がとても大変な状況に陥るというスタイルの発端もここにあるのだとしたら、今作の貢献は計り知れないほど大きい。彼らが窮地に陥ることは好ましく香ばしい。何度でも見たい。

 

他の作品を見ていない以上なにも言えることはないのだけど、本作以降のトビー・フーパーが鳴かず飛ばずでデビュー作を裏切り続ける監督と言われてしまっているのだとしたら、その原因はこの映画があまりにかっこうよすぎるからじゃないかと思う。少し前に人間と話していたときに、その人間の人が「ゴダールがいいのはオシャレでポップという捉え方を許容する部分があるからじゃないか」というようなことを言っていて、要はオシャレでポップな女子あるいは男子が見ても「オシャレでポップだよね」と言って満足できるからそれはとてもいいことなのだとその人間の人は言っていたのだと思うのだけど、この作品にも似たようなところがあって、スプラッターだろうがホラーだろうがなんだろうがそんなことはオシャレでポップな女子あるいは男子には関係のないことで、もはや「スタイリッシュ」の一言で済ませられ得るほどに映像がかっこうよすぎる。

16ミリの粗い画面、冒頭に断片的に映される死体、ロードムービー的叙情を感じさせる車の停止のロングショット、あっけない殺戮、鶏が鳴き骨の転がる部屋、発電機の放つ轟音、閑散とした部屋に配置される死にかけのじいさんとミイラのばあさん、画面いっぱいに大写しされる女の目、そして朝焼けを背景にチェーンソーを持ってダンスするレザーフェイス。最後なんてほとんど祝祭的とすら言えるほどで大好きな場面だけれども、ちょっと過剰なほどにかっこういい。一緒に見たオシャレでポップな女子あるいは男子が「かっこよかった!」と言ってきてもまったく否定できない。別にだから何というわけではないのだけど、なんというか、そういうのって良し悪しだねとは。まあ、どれだけグダグダになっていくのか、あるいは涙ぐましく努力を重ねていくのか、その姿を確認するためにも他の作品も見なければならないという思いを強くした。

 

それにしてもチェーンソー男子と背中丸見え女子の追走/逃走シーンのハラハラどきどきの活劇具合を見ていると、先日見たマーティン・スコセッシ『ヒューゴの不思議な発明』の駅構内での追走/逃走劇があまりに緊張感を欠いているというのがやはり浮き彫りになったような気がした。画面内に二人を配するだけでこんなにハラハラさせられるのに、なぜスコセッシはそうしなかったのだろうか。活劇って言葉好きだけど活劇ってどんなものかわかっていないのだけど。

 

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