無言歌(ワン・ビン、2010年、香港/フランス/ベルギー)

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「不毛」を辞書で調べてみると「1.土地がやせていて作物や草木が育たないこと。また、そのさま。2.なんの進歩も成果も得られないこと。また、そのさま。」とあるのだが、この作品に当てる言葉があるとしたらこれしかないように思う。

 

学生時代に、たしかアテネフランセですごいドキュメンタリーをやるというので『鉄西区』の存在は知っていたのだけど、9時間は…というためらいから見に行くこともなく、ワン・ビンという名前を思い出すこともなくここまで来てしまい、見た人によるとやっぱりなんだかものすごいらしい『鉄西区』の人がとった劇映画はどんなだろうと見に行ってみた。原題は『夾辺溝』。『無言歌』というのはまた情緒的な邦題で、実際に目にすることになるのはあられもない即物的な人々の運動や息遣いでしかなかった。見通すことを放棄したくなるまでの凄まじい圧迫が全編にみなぎっていた。

 

スクリーン越しとは言え見ているだけで喉がイガイガして息苦しくなりそう(だがしかし、そうはならなかった)なゴビ砂漠の強制収容所は一面完全なる黄土色の世界で、強い風にあおられて砂塵が吹きすさび続ける。そこにある夾辺溝という農場(?)でおこなわれる労働改造という名の強制労働は、本来の目的は開墾であるっぽいのだけど、素人目にはどう見ても農作物をどうこうできる感じではなく、毛沢東の陰謀にはまった「右派」の人たちはスコップを地面に刺し、砂を放り上げ、その半分ぐらいが斜面にぶつかって降りてくる、そんな不毛な労働に従事している。
とは言え、労働が作中で描かれるのはほんの5分程度のことに過ぎず、他の時間はだいたい壕の中での寝泊まりの様子と、死んだ人を布団に包んで三人がかりで運んでいく様子で占められていて、というか、開墾作業以上に死体の運搬作業の方が大変なんじゃないかというふうに見えてきて、本末転倒にもほどがあるというか、強制収容ってそういうことなのかもしれないけれども、なんという、なんという不毛なんだろうと有毛である私の身の毛がよだつわけだった。

 

身の毛がよだつのはそれだけではなく、途方もない疲労の中で出てくるのは不味そうな少量のお粥だけという極限の状態の中で人々が見せる食に対するあれこれも凄まじいものがあり、実際にあった出来事に対して凄まじいという言葉でくくってしまうことには非常に抵抗があるのだけど、いい育ちをしてきてしまったのか、なんのオブセッションなのか、汚い食事みたいなものに対する強い生理的な嫌悪を私は持っているので仕方がないということにしておくけれど、捕ったネズミを煮て食べるくだりとか、同胞の吐瀉物を拾って食べるくだりとか、あるいはわけわからん焦茶色の穀物スープを舐めるくだりとか、夜の上映で空腹だったことも手伝ってかすごく気持ち悪くなった。どうもやはり、液状に近いぬらぬらの何かが食べられるところが私は本当に苦手らしい。ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』のペースト吐き出しますよーとか、ハーモニー・コリンの『ガンモ』の風呂でのチョコバー、スパゲティ、シャンプーみたいなやっちゃいけないだろその取り合わせというやつとか、ああいうのがすごく苦手だ。
かつて、本当にあった出来事の映画化であり、かつ茶色い穀物スープを飲む老人はその場の体験者であるというし、そういうものに対して「気持ち悪い」で済ませてはいけないのは重々承知しているし不謹慎と言われても仕方がないのだけど、どうにも見ていて気持ち悪いものは気持ち悪いので、それはそれでしょうがない。先程から弁明じみているけれど、仕方がない。

 

それはそれとして、穀物スープの老人がその穀物を取るシーン。大地にひざまずいて枯れ草をちぎり、ゴシゴシと両の手でしだいて少量の粒を取って内ポケットに入れるのだけど、その祈りの姿勢を捉えた映像は素晴らしかった(ポスターの写真になっているやつ)し、部屋の一番手前から長回しで撮られる、寝泊まりする壕の中に入り込む真っ白というか黄色というかの光の具合は神々しさにも似た美しさがあったし、実際仲がいいらしいし影響を受けているとワン・ビン自身も言っているけれどペドロ・コスタのいくつかの映画を想起させる厳粛さをたたえていた。
そして、ヴァンダの咳の音のように、強制労働に従事する人々が見せるどこまでもどこまでも鈍重な動きもまた、見る者をやりきれない、何か取り返しのつかない気分にさせ続けた。女が現れ、夫の死を知りひと通り慟哭しているあいだ同室の人々はまったく興味を見せず身動きもせず、というか見ているとそこに人が数人いたことすらわからないほどだったのに、お土産というか食料を置いていくので皆さんで食べてくださいと言われた途端、布団が隆起するように持ち上がり、そこから人間が出てきて、クッキーらしきものが入っている缶にぬらぬらと集合していくあの重苦しさは、ダニエル・シュミットの『今宵限りは…』をなんとなしに思い出させたけれどそんなに優雅で舞踏的なものでは全然なくて、やはりただただ鈍く、重かった。どんなゾンビよりも怖ろしい運動がそこにあった。

 

一人アクティブだったはずの女もすぐに砂漠の重力にやられてしまい、足取りもおぼつかなく、ただ泣きわめきながら、こんもりと砂をかけられただけのおびただしい数の死体が転がる場所を転々と歩き、夫の亡骸を見つけようと躍起になった。手袋を取り、砂をかき分け、最後には、埋葬後に何ものかに衣服を剥ぎ取られ尻や太ももの肉をおそらく食用にそぎ落とされた死体と対面することになるのだが、あのとき彼女はどこまで見たのだろうか。優しい人たちが死体を燃やした。火が、砂漠の中で燃え上がっていた。赤かった。

 

死んだあと老人の裸が何ものかによって裸にされていた。それを見た若い監督者が「死んだ人間よりも生きた人間が大事だ」と言って諦め、裸のやせ細った死体を運び出した。夜だった。
一方で、二人の人物が逃走した。一人は老体かつ病体ですぐに力尽きた。若者はすぐに死ぬとわかっている老人に上着を与えてその場から去っていった。オフィシャルサイトのトップに「それでも、人を想う」「希望の詩」とあるが、私にとっては上着を与える行為以外にはどんな人想いも、希望も見いだせなかった。どこまでも不毛の詩ではなかったのだろうか。浅はかな見方でしかないのだろうか。

 

OUTSIDE IN TOKYO / ワン・ビン(王兵)『無言歌』インタヴュー

・『鉄西区』Tie Xi Qu: West of the Tracks – Part 1: Rust (1/23) – YouTube

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