読書感想文 岡田利規/エンジョイ・アワー・フリータイム

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エンジョイ・アワー・フリータイム

フィクションがほしい、フィクションが!圧倒的なフィクションが!と思ったために行った丸善は、元々は『ラテンアメリカ傑作短編集』と『映画はどこにある インディペンデント映画の新しい波』を買うつもりで、「フィクション!」の欲求はラテンアメリカの短編たちによってもたらされるつもりでいて、『映画はどこにある』のある棚に向かっている途中、というかそのほんの手前、戯曲のコーナーをなんとなしに見たら岡田利規のこれがあり、読んでみたい気はなんとなくしていたというか読んでみたかったような気はあったというか読んでみたいと思ったことは何度もあったような記憶があったし、それでなくても「エンジョイ・アワー・フリータイム」という語の並びの響きは好きで、個人のブログはおろか、店のブログにおいてすらもそういった語を打ち込んだことがあったわけだったし、だから、というわけでもなく何か(それは多分、岡田利規なら今の僕にすごく刺さる言葉を与えてくれるはずだというような予感)に引き寄せられるようにして本を手に取りページをめくると序文があり、その最後に「それから、わたしにはどうにかして現実を肯定しようとする傾向がある」とあり、それで「あ、はい、買います」となった。現実を肯定しようとする傾向。

 

それでその夜は、たいへん安く、そして明るく、広く、使い勝手がいいためにここのところ何度か利用しているサイゼリヤに行ってたいへん安い赤ワインを飲みながら(フィクション!のラテンアメリカではなくこれを)読み、今また、サイゼリヤにやってきてこれを打鍵しているということになっている。サイゼリヤをとても気に入ったのかもしれなかった。平日水曜、夜の0時前の店内は今までもそうであったように3割か2割か1割程度の入りで、僕は4人がけのボックス席に座って、通路を挟んだ椅子とソファの席では若い男性二人がたぶん意中の女性の話をしていて、視界の中に入るもう一組である若い女性四人は、と打っていたところで先ほどの男性二人が席を立ってレジに向かった。大学生だとなんとなく思っていたら安そうな黒いコートと黒い鞄とその下がスーツなので若いサラリーマンだったらしく、それで視界の中に入るもう一組である若い、と言ってもたぶん僕とそう年齢が変わらない程度の若さの、だから三十前くらい、もしかしたら越しているかもしれない、女性の年齢なんてまるでわからないのだけど、女性四人はときおり激しい笑い声を上げたり手を打ち叩いたりして楽しげで、路線の名前とかが出ていたから旅行の計画でも練っているのかもしれないし、「泣いていいんだよ」というおどけた声も聞こえてきたからそのときは恋愛の話に花か何かを咲かせていたのかもしれない。今はイヤホンをつけてしまったために会話は聞こえないが、僕の座るいくらか後方にも人がいたような記憶があった。

ビールを頼もうか、赤ワインを飲んだらさすがに(弱いので)酔っ払ってこういう打鍵的な運動をできなくなる気がするのでそれではビールを頼もうか、でもビールも、どうだろうと思っていてそれじゃあサイゼリヤらしくドリンクバーなるものを頼むべきか、セットだったら170円、単品だったら280円、なんとなくだけれども単品でドリンクバーだけの客って店員にとってどうというか安い客だと、ここはお前のオフィスじゃないんだぞ、という気持ちを起こさせるんじゃないかとか要らぬ心配をしてしまうところもあって、でも考えてみたらここで働いている若かったり若くなかったりする店員にとって一人の客の注文の仕方、利用の仕方なんてたぶん本当にどうでもいいことで安いからどうとか高いからどうとか、むしろここでものすごく金を使っていく人を見たら逆に訝しく思われたりすら、とか要らぬ憶測が働いて何も頼めないまま10分ほどが経ったところでさっき帰った男性二人がこの時点ではまだ帰っていなかったのでボタンをプッシュすることによって店員を呼び寄せて「プリンとティラミスの盛合せ」と言っていて、自分が飲食業をやっているせいなのか、そういうのを聞くたびに「単語かよ」と、「文章として完結させろよ」と、「体言止めのつもりなのかよ」と、でも実際に自分で注文してみるとけっこう単語しかいけないというか、でも最後に「で、はい、お願いします」ぐらいは言えるからやっぱりそれがあるとないのではまったくの別物だからちゃんと「で、はい、お願いします」ぐらいは言った方がコミュニケーション的にいいと思うんですけどコミュニケーション求めてないっていう説はそりゃそうなんだけど求めるとか求めないとかの次元の前にそういうのあると思うんですけどどうでしょうというのがあるのだけど、ともかくその「プリンとティラミスの盛合せ」を聞き、それは、たしかに、素晴らしいチョイスかもしれない、と僕も思い、そういった甘味とドリンクバーを注文するという合わせ技を演じればいいのだ、とこれまでまるで考えていなかった選択肢があることを知り、もうそれしかないと思ったわけだったけど、無性に「プリンとティラミスの盛合せ」が食べたくなってしまったとは言え通路を挟んで横に先ほど「プリンとティラミスの盛合せ」を頼んだ男性二人がいる状況を考えると安易に注文するわけにもいかなくて、というのも、いくら僕が小声で、聞こえないように「プリンとティラミスの盛合せ」と言ってみたところで店員はとてもハキハキと明朗に「ご注文を繰り返させていただきます。プリンとティラミスの盛合せとドリンクバーでよろしかったですか。ドリンクバーはあちらにございますのでご自由にご利用下さい」とリピートと案内を大きな声でするから通路を挟んで向こうの男性二人にも筒抜けだろうし、よしんばそのやり取り小さな声でおこなわれたとしても、注文品がやってきたときに店員が「プリンとティラミスの盛合せです。ご注文は以上でおそろいでしょうか」とやっぱりハキハキと持ってくるだろう。それを通路を挟んで向こうの男性二人にもし聞かれたら「あいつ絶対俺らの聞いて無性にプリンとティラミスの盛合せを食べたくなりやがった」と言い合いニヤニヤされると思うととてもじゃないけれど頼めやしなかった。そこでわりと妥協になったのだけど「自家製クリームコーヒーゼリー」にして、ドリンクバーでは冷たい紅茶を入れて戻ってきたわけだけどリプトンのマークがあった紅茶はさっぱりしているのでグビグビと飲めてしまいすでになくなってしまったからまた立ち上がりドリンクバーに向かわなければならないのだし、そうなるとドリンクバーに行くためには旅行の計画か恋愛の話に花を咲かせている女性四人のボックス席の横を通らなければならなくて、すかさずおかわりにいく男である僕という姿をそこで晒さなければならなくて、そのときには「あいつたった今アイスティーらしき飲料をグラスに満たしてたのに、またドリンクバー行ったね。しかもグラスに入っている飲料の色を見る限り再びアイスティー。よっぽど好きなんだね、アイスティー」などと揶揄されるのが落ちでしかないだろうし、そうなったときにはチラチラとボックス席に一人座る僕は見られ、「あいつサイゼでマック開いてドヤ顔ですか」など「アイスティーを高速でおかわり」の範疇を超えた中傷すらされかねず、それに気づいた僕は今の居心地のよさを奪われ、そそくさとマックをしまって出て行かなくてはならないだろう。

しかも、というところでこれ打ち始めてたぶん今15分ぐらいは経っているのだけどまだ「自家製クリームコーヒーゼリー」がやってこず、「自家製クリーム」とは言ってもそれを今作っているとはとうてい思えないし、これはオーダーが通っていないのではないかという疑念がもたげてきて、それならばそのオーダー未遂に乗じる形で「であれば、プリンとティラミスの盛合せに変更していただけますか」ということもできるチャンスが今到来、と思っていたところ、本当にそのタイミングで今、「たいへんお待たせいたしました。自家製コーヒーゼリーでございます。ご注文は以上でおそろいでしょうか」がやってきて、「あれ、自家製クリームコーヒーゼリーじゃなくて自家製コーヒーゼリーなの?」といっしゅん思いこそすれどそれは口にするほどのことではないので何も言わず、とりあえずやってきた「自家製クリームコーヒーゼリー」あるいは「自家製コーヒーゼリー」を食べようと皿に目を向けたところ、皿の上に乗ったガラスのボウルの中にバニラアイスの乗ったコーヒーゼリー(角切りではなくゼラチンで固めて終わり)という状態なのだけど、だからこの場合の「クリーム」はきっとバニラアイスのことであろうとは思うのだけど、でも一方で、コーヒーゼリーと言えばコーヒーゼリーにコーヒーフレッシュを掛けて混ぜるみたいな風潮があると思うのだけど、そのご多分に漏れずボウルのわき、皿の上にコーヒーフレッシュがちょこんと置かれていて、それは「メロディアン」と書かれた、花の絵柄のコーヒーフレッシュなのだけど、「え、まさかクリームってこのメロディアン?であるならば、この自家製っていったいどれに掛かってるの?メロディアン絶対自家製じゃないでしょ?メロディアンは業者が、というか今調べてみたら「ポーションタイプのコーヒーフレッシュはその代表的な成果であり、当社はこの分野の先駆者であると同時に、トップメーカーでもあります」という昭和33年創業のメロディアン株式会社の商品でしょ?であるならばこの「自家製クリーム」ってどういうことなの?というかここでいう「クリーム」はおそらく「バニラアイス」であることぐらいは俺だって忖度してやるぐらいはできるから意地悪なこと言ってるのはわかるんだけどなんで明らかにバニラアイス以上にクリーム的なフレッシュを置いて人の目を惑わすの?なんで「いや、ここでいうクリームはアイスのことで、横にあるクリーム的なフレッシュとは関係なくてアイスのことで、アイスとコーヒーゼリーは自家製で、それで総称して自家製クリームコーヒーゼリーなんですよね、メロディアンのフレッシュはこの場合の自家製とは関係ない添え物でしかないんですよね」とかまで考慮するよう客に求めるの?」的な煩悶というか混乱が生じ、今そうやっているうちにコーヒーゼリーを食べ終えた。

 

『エンジョイ』と『フリータイム』は大学時代に劇場で見ていて、『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』は残念ながら未見で今回初めて触れることになった。『エンジョイ』を劇場で見た時は、ニュース映像(たしか。フランスの暴動か何かが出てきたような記憶)の使い方とかに対して「うーん、よくわからないなあ」等、いまいちピンと来なかった記憶があるのだけど、『フリータイム』は抜群に感動して、等々あるのだけど、今回戯曲として3つを読んでみて、方法論とかは僕はよくわからないし、「おっもしれーなー」ぐらいしかないのだけど、扱うモチーフが、こんなにも近いところにあったのか、ということで驚いた。

どれも労働というか働き方の問題というかあり様が取り上げられていて、フリーター、(多分)事務職の社員(もしかしたら契約社員)、契約社員と、グラデーションはあれど、わりと詰む可能性あるよね、人生、いつでも、みたいな感触と近くにいる人たちが描かれている(感触、という言い方をしたのはじゃあ正社員なら安泰なのかっていう問いで、そうじゃないだろ、終身雇用とか(笑)、みたいな感覚が今僕にはあるからで)。そういうことすら感知せずに「いいなあ、面白いなあ、ぐっとくるなあ」などと受け取っていたのだから、「どうせ俺はちゃんと就職してわりといい待遇で働いてみたいになるんでしょ、わりと高学歴ゆえに」というポジションに座っていた大学生は気楽なものだけど、今回こうやって読んでみて、人ごとではないというか、以前よりもよっぽどアクチュアルなものとして読むことになったのは、かつてそれらに触れた大学生のときと違い、会社に入り、辞め、自営業者になり、という労働者として6年ぐらいの時間を経験したからなのだろうか。

いくつものぐっとくる、プレシャスな瞬間がある。

 

店員 (その三十分を、気分が「こうやってる時間をこのまま今日はもう少し続けてみよう」って思ったときとかは、延長して一時間とか一時間半とか満喫しちゃってもたぶん大丈夫で、職場に行って「あ、私今日、ファミレスが駅前にありますよねいつも三十分くらいあそこで自分の時間って大切なので過ごすっていう日課はどうしても不可欠なんでやるんですけど、それを今日はもう少し続けてみようって思って、それで続けて来てそのぶん遅刻して今来ました」って言ったら「あ、そのくらいのことはいいと思うよ、ていうかそういうのって正直、ここだけの話大切だからそういうことしてたほうが絶対いいと思うよ三十分でじゅうぶんって思うのとかって違うと思うよ」とかって普通に許されちゃう場合ってありそう)(P84)

 

女(嘘) や、でもそんなに客となーなーみたいになっちゃいけないみたいなのは、そのほうが私もいいと思いますけど、こういうところはファミレスだし所詮、

店員(嘘) あ、はいその「所詮」って部分が相当大事だと思ってて、あ、分かってるなあっていうそういうお客さんというかお客様は助かります、(P89)

 

女 でも三十分で、結構だいじょうぶでっていうか、うん、そういう面はあって、その三十分は日記っていうのかどうか、前の日に自分に起きたこととか、それと関連して考えたこととかについて、ノートに、普通の大学ノートで横線の罫線のついた、そこにペンとかで書く時間にあてていて、ときどき三十分が、そう、ときどきでいつもそうなるわけじゃないですけど三十分がほとんど、永遠、(ウケて)、うん、でもそう、永遠! におおむね等しくなることがあるっていうことを私は知ってて、そういう経験をしたことがある、確かに知ってて/るってことが私のなにかになってて、なにかにというのは、希望の根拠、になって/なってるんです、だから三十分で私は大丈夫なんです全然それ以上要らないんだと思っていて、全然自分的にはフリータイムを三十分で満喫って感じなんです、よねー。(P100)

 

女優1 二人でいるとなんかもう、それだけでほんといいと思う、とか言うと、言葉としてはすごい普通だけど、でもほんとそう思う、

女優1 「言葉としてはすごい普通」とか言って、でも、私が今自分では相当すごいと思ってる、そういう言葉で言えるような他の気持ちと較べものに、一緒にしないでよみたいな自分の気持ちの状態は、普通の程度の言葉なんかじゃ表せないって自分では思うけど、でも、今までその言葉を使ってきた歴代の人の気持ちも、実はみんな、どれも今の私のみたいにほんとうはすごいもので、てそれぞれ思ってたかもしれなくて、だったら今のこの私の気持ちも、もしかしたら、二人でいるとそれだけでもういいと思う、ていう普通の言い方で、じゅうぶん言えてる、てことになるのかもしれないけど、(P183)

 

ところで去年読んだ『遡行 —変形していくための演劇論』で、「これまでの僕は主にフリーター、つまり「負け組」のことを描いていたので、それはわりと大きな変化だと言っていいと思う。(…)僕自身の問題であり僕らの世代の問題であるところのものを、外の世代に対してぶつけていこうっていう意識、つまりはまあ当事者意識があったのだ。けれども今はもう、僕は『三月の5日間』や『エンジョイ』に出てくる彼らと自分とが同じだ、と思うことはできない。単純に年をとったというのもあるけど、自分が演劇のつくり手としてなんだかよくわからないがずいぶんと認められてしまったというのもある。「負け組」の若者にアイデンティファイするのが、だんだん本当のことじゃなくて、ふり、になってきた。だからそれはもうやめた」ということが書かれていて、僕は『三月の5日間』をスーパーデラックスで見て以来、完全に岡田利規に帰依しているというか、もう全部信じます、岡田さん、という人間なのだけど、岡田さんのこういう誠実なスタンスものすごく好き。


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