読書感想文 レイ・オルデンバーグ/サードプレイス ― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

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サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」

少し前、夜の11時ぐらいに来られたお客さんが「カウンターはないんですか?」と言われ、うちの店は僕らと向かい合う形式のカウンターは撤去しているので「ないんです」とお伝えすると、いくらか逡巡したあと、「今日は人とお話がしたかったので」と言って帰られた。僕はその逡巡の時間と、そのあとに彼がくだした決定(それは少し気まずいものであったはずだ)を心底肯定したいと思って、いいと思います、そういうのすごく賛成です、今自分にとってもっとも必要な時間を過ごすべきだと思います、それに妥協や遠慮は要らないはずだと思うんです、と思って少し感動したあと、人はこんなふうにコミュニケーションを渇望するものなのだなと、何か身につまされるような気になった。

僕自身は、よく知らない人とコミュニケーションを取るハードルがすごく高く設定されているためか、バーとか小さな居酒屋に行って店の人と話をしたりみたいな過ごし方ってまるで想像できなくて、いったい何を話したらいいのかわからないし、話が続かなかったらどうしようという恐怖の方が大きいし、だからといって表面を撫で続けるようななんの内容もなさそうな会話にもまったく意義を見いだせないから、わからないのだけど、そういう時間を必要とする人がいるということに何か、ずしんと来るものがあり、思い返せば、考えてみれば、そういえば、そういう店、本書でいうところの「インフォーマルな公共生活」を営むための僕にとってのそういう店が、岡山にもかつてあったのだった、ということを思い出した。二つあった。そこに行くと僕は店の人と話したり、あるいは一人で本を読んだり、店の人に「この人」とかいって紹介される人と話をしたり、それで顔見知り的な関係になって店で会ったら挨拶をし合う仲になったり、というのがあったのだなあ、友達的な人もその場所でできた、そしてそれは、苦しいサラリーマン生活、見も知らぬ岡山生活を支える間違いない安全弁だったのだなと、思い至るわけだった。だからさっき書いたことは半分は撤回しなくてはならなくて、かつて僕にはそういう欲求があった、でも今現在は僕にとってはそれはハードルが高すぎるのでしんどい、ということだった。

 

サードプレイスという言葉を初めて知ったのはスタバでバイトをしていた大学時代で、スタッフ証みたいなやつか小さい手帳みたいなやつに印刷されていたスターバックスのビジョンか何かに「サードプレイスを提供する」という文言があって、僕はおおいに「そうだ、それはいいぞ、そいつはいいぞ」という気でいた。だからこの本を読むまでの僕にとってはサードプレイスと言えばスタバ的な場所だ。

「かつて場所があったところに、今わたしたちが見出すのは<非場所>だ。本物の場所では、ヒトが人間である。彼または彼女は、ユニークな個性をもった一個の人間だ。非場所では、個性など意味がなく、人はたんなる顧客や買い物客(…)にすぎない。非場所では人は一個の人間であることも、そうなることもできない。個性は意味をなさないばかりか、妨げにもなるからだ(P327)」と実に否定的に本書では書かれているけれど、僕にとってのサードプレイス=スタバは完璧に肯定的な意味でこれに該当して、何ものでもなくなれる場所、誰も自分を誰かだと知らず、誰の目も気にしなくていい場所、という感じだった。

 

サードプレイスで過ごす時間、エンジョイ・アワー・フリータイムは僕にとっても切実というかほとんど死活問題で、そのために第一でも第二でもない第三の場所が必要であるという点においては著者と意見が合致するのだけど、本書で著者が主張するサードプレイスは、定義が「個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場所の総称(P59)」となっているように「お楽しみの集い」がなければならず、「談話がないところに生命はないのだ(P313)」と断言するように徹頭徹尾コミュニケーションの発生を要件としていて、そういう点には僕はもう本当に「勘弁してください……」とげんなりする他なかった。

 

本書を手に取ったのは年末に読んだ堀部篤史の『街を変える小さな店』でちらっと言及されていて(しかしなぜだろうか、恵文社一乗寺店の店長という肩書がそうさせるのか、なんとなく敬称であるところの「さん」をつけないといけないような気になってくるのはなぜだろうか。著者名に敬称とか要らないとずっと思っているのだけど、これは『本の逆襲』でも感じたけれども商店主だとそうなるのか、敬称をつけた方がいいような気になる。この僕が勝手に感じている圧力みたいなものはなんなのか。)、サードプレイスって、職業柄、興味あるよね、と思って買ったのだけど、読み始めてすぐに雲行きの怪しさを感じ取りつつも読んでいったのだけど、もう本当にげんなりする他なかったし、ずっと反発をしながら読むことになった。

途中で挟まれている写真のページで著者の写っているものもあったけれど、それを見るとわりと納得で、もうなんかすっごいザ・アメリカンな感じのおじいさんで、ビールジョッキを高々と掲げてアメリカンなジョークを飛ばしてそうで、そりゃこういうことを書くわけだよなと偏見とともに納得したのだけど、あまりに「コミュニケーションこそが至高」という態度が強すぎて、明るすぎて、健全すぎて、こわかった。

76ページで記される会話のルールとか難しすぎるし、「内輪の人間たちが意外なメンバーを受け入れたときの喜びは、排他的な場所で新参者を厳格な審査に合格させたときの喜びにも劣らない(P88)」とか、いったい何のゲームをやっていらっしゃるんですか……そんな場所ではリラックスなんて絶対にできないんですけど……そういうの何よりもストレスフルなんですけど……それってとびきり心地よくない場所なんですけど……と消沈するほかなかった。

また、第12章の「男女とサードプレイス」は、なんかあの写真のおじいさんを見たらさもありなんというかこれも完全に偏見なんだけど、女性蔑視が甚だしすぎやしませんか……なんなんですか、何様のつもりなんですか……マッチョすぎやしませんか……と唖然とするほかなかった。(そのあたりのことはことごとく解説で批判されていて、こんなに清々しい、おもねらない解説なんてめったに読めないよな、という気持ちのいいものだった。「本書ではオルデンバーグがあまりにもノスタルジーに浸かっているために違和感を覚える読者がかなりいると予想される」とか「著者の女性に対する認識が「古い」としか言いようがないと思う」とか。)

なんかこの本全体が、ひとりよがりな話をでかい声でし続ける輩に与えられる「ボア」という称号を地で行っているような気がして、「サードプレイスっていうのはこんなにいいものでな、昔はそういうところがたくさんあってな、しかし嘆かわしいことに今では本物のサードプレイスなんてどこにも……」的な与太話を延々と聞かされている気分だった。

 

だから共感とかそういうものは求めずに、パブの歴史とかコーヒー・ハウスの歴史(小林章夫の『コーヒー・ハウス』も読んだけれど、本書の簡潔な説明で十分に要点は学べると思った)とかそういう歴史を粛々と学んで「へえ~」と思えたらいいや、と気分をシフトさせて読んでいたのだけど、一つだけ共感というか「いいね!」と思ったのはフランスのカフェとビストロのところで、「歩道のカフェの永続的な魅力を説明しようとした人びとが確信しているように、その秘密は公と私のユニークな融合にある。そしてその融合が促される場所は、とくにテラス席だ。「それは適度な親しみと不干渉を結びつける」とサンシュ・ド・グラモンは言い、このような環境のなかに人はいつまでもとどまって満足している、と指摘する(P250)」や「ビストロでは(…)他者との交流を求める圧力はまったくない(P251)」とあって、孤立とか一人でいることとかを糾弾しまくっている著者は本当にこれに対して賛意を持っているのか、物足りなく思っていないのか、と疑いは抱くのだけど、僕にとってはそういう、親しみと不干渉が融合し、他者との交流を求める圧力がない場所こそがいいよねと思っているし、自分たちの店もそういう場所になりたいと思ってずっとやっている。というところでこの箇所にだけは「いいね!」を押した。結局、僕が求めているもの、実現したいものは、著者のいうサードプレイスが社交とイコールであるならば、第四の場所、フォースプレイスということなのかもしれない、と思ったわけだった。

 

最後に。これは1989年の本だから当然インターネット以前に書かれているわけだけど(しかしなぜこのタイミングで邦訳されたのだろう。訳者解説もほしかった)、職場でも家庭でもなく、「形式ばらない気軽な帰属によって生じるお手軽版の友情や意気投合(P130)」やインフォーマルな公共生活、つまるところ弱い紐帯的なものと言ってもいいと思うのだけど、そういうものは現代ではある程度、どうなんだろう、SNSやネットによって補完されているところがないだろうか、ということをずっとうっすらと考えていた。ネット上にこそそういうフラットな、気兼ねのない息抜き場としての役割を見出している人たちもたくさん今はいるだろうし、僕にもいくらかそういうところがあるような気がするのだけど、著者は現代っ子のそういう意見に対してはなんて言うのだろうか。絶対に一蹴されるだろうと思う。


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