読書感想文 ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』(高橋啓訳、東京創元社)

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HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

「この平明で曇りのないスタイルは、こけおどしのたぐいを避け、あくまでも自然な語りの背後に留まろうとしているようにみえる。こうして読者は一種、陶酔状態のなかで、いつしか語られている事実の時空に運ばれ、ハイドリヒの乗るオープンカーを待ちかまえている二人の若者の熱い内部に文字どおり滑りこんでいく。計画を頓挫させる予期せぬ出来事、弾の出ないピストル、的から外れて車の一部だけを吹き飛ばす爆弾、襲いかかる追跡の手。これらの細部はどれも確かな考証に支えられているから、読者の記憶からけっして消え去ることはないだろう。(P386)」

 

訳者解説にあるバルガス=リョサのコメントだけれども、これはなんというか全然違うんじゃないのか、と思ってしまう。

「いつしか語られている事実の時空に運ばれ」というけれど、ここまでの入念かつ執拗な教育によって読者はいつ「僕」が出てきてもオーケーですよという体勢になっているから、「語られている事実の時空に」完全に運ばれるということは決してなくて、むしろ完全に運ばれてはいけないとすら思わされている節があるわけだし、実際、バルガス=リョサが挙げている場面にしても、ガブチークの短機関銃から弾が出ず、それに代わってクビシュが鞄から爆弾を取り出した、というまさにここという場面ですらもすぐに脱臼させ、「これほど完璧に<歴史>の声が響く作品にお目にかかるのはおそらく初めて」という、最近読んでいる小説の話を持ち出してくる。この中断を見てしまえば、著者は「二人の若者の熱い内部に文字どおり滑りこんで」ほしくなんかないようにどうしたって思えてしまう。

それからもう一点。「読者の記憶からけっして消え去ることはないだろう」という根拠:「これらの細部はどれも確かな考証に支えられているから」

うそだ!と思う。小説の場面が読者の記憶にこびりつくとしたら、それはただその小説の語りが充実しているから、というそれだけなんじゃないか。「確かな考証に支えられているから」記憶に残ると言ってしまったら、考証が不確かな歴史小説の場面は記憶に残らないことになるけれども、そんなことって全然ないんじゃないの、と思う。何かの支えがなければ自立できないなんて、むしろこの発言は小説というジャンルに対する見くびりなんじゃないか、とまで思ってしまう。

(そんなふうに違和を覚えながら、特に意図的にそうしたわけではなかったのだけどガルシア=マルケスとバルガス=リョサの対話、『疎外と叛逆』を読んだら、1965年のインタビューで「文学作品の大原則は、そこに描かれた現実が自立した世界として、誰の手を借りることもなく、それ自体として生命を持つことだよ。それ自体が生きた現実でなければいけない……」と発言していた。言ってること逆じゃないの、先生!となった。それにしても『疎外と叛逆』は水声社からのやつで、水声社はどうも「リョサ」ではなく「ジョサ」を通したいみたいなのだけど、そっちが読み方として正しいらしいというのも聞いたことがあるけれども、こんなにリョサに慣れちゃっているのに、私たち、一体どうしたらいいの!となっている)

 

ということで別段嫌いなわけじゃないし読んでいきたい作家だなとも思っている、けれど一方であんまり信用できない気もするな、と漠然と思っているバルガス=リョサあるいはジョサのコメントがなんだかすごく癪に障ったので噛み付くことから始めたのだけれども、この作品を知ったのは去年のいつだかに丸善で面陳されてるのを見た時で、珍しいことにポップが添えられていたので印象に残った。

確か「高橋さん」という書店員の方によるものだったと思うけれども、まあとにかくすごいですよ、みたいなことが書かれていたから「いいね丸善、いいね高橋さん、ポップとか俺大賛成だよ」と思って気にはなっていて、いつかのときに丸善ではなくジュンク堂に行ったらまったく同じポップが貼り付けられていたから、「なんだよ、丸善岡山店の高橋さんかと思ったら、違うのかよ!がっかりだよ!」となった。落胆はしつつ、読みたいなとは気にしつつ、でもその時の僕は「年内の小説はラテンアメリカのみ」という自主的な縛りの中にあったので買うわけにもいかず、それから半年以上が過ぎただろうか。やっと出番が回ってきたのでジュンク堂で買ったわけだった。

 

そんな経緯で読んだ『HHhH』は総じてエキサイティングな小説だった。

書かれようとする場面は事あるごとに疑問に付される。「歴史上の人物の声を我がものとしようとするあまり、その声は作者自身の声に似てしまう」語り手は何度でも何度でも手を止める。「読者の記憶に侵入するためには、まずは文学に変換しなければならない」そう言いながらも、その変換の作業がなかなかはかどらない。こんな姿に変換していいのか。これは身勝手な創作ではないか。こんなことを言わせてしまっていいのか。こんなことをさせてしまっていいのか。「ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか!」歴史的な正しさのようなものは常に宙吊りにされ、読んでいる側としてもその時間の中に没入することなんて許されず、常に語り手の存在を意識させられ続ける。

 

そうなってくると実に厄介なもので、エクスキューズなく描写が進んでいくとき、読んでいてちょっと没入しかけたとき、ふとこちらの頭に「あれ、今、これ、大丈夫?」みたいな余計な考えがもたげて来る。「なんなのこれ?やっぱり創ってるんじゃない!」と叫ぶナターシャの声が頭に響く。

 

「十分にありうる。でも、ありうるということと、まぎれもない事実であることは違う。くどくどうるさいって?僕がこういうことを言い出すと、たいていは偏執的だと思われる。みんな、何が問題なのかわかっていない」

 

その偏執に、語り手はどこまで忠実にいられたのか。どこかで折り合いをつけたのか。あるいは勇気をもって突き破ったのか。

クライマックスをなす水責めとそれに抵抗するガブチークたちの場面。書かれている場面がそれを書き進めている日付とともに進行していく模様はだいぶやばくて、2008年と1942年が、メトロノームの針のように左に、右に、頭を揺さぶってくる。だんだんわけがわからなくなっていく。ここだけはバルガス=リョサに同調するけれど、このやり口は確かにある種の「陶酔状態」に読者を導く。素晴らしく効果を上げていると思う。壮大で感動的でダイナミックで大好きな場面だ。

一方で、ここまで来ちゃうと、その日付、本当に正確なんですか?みたいなことまで言いたくなる自分もいて、6月2日にそれ書いて、翌日にそこ書いて、そうしてみたら2日に書いた分が少し違うような気がして修正とかしたり、してないですか?してる場合、すました顔してそのまま2日扱いですか?その修正については言及なしでオーケーですか?みたいな、知らないけど、意地悪だしほとんど重箱の隅つつきみたいなことを言っているのはわかっているけれど、そういうことを思ってしまった。その部分ですらも、「やっぱり創ってるんじゃない?」と。作者は自身の作為をどこまで許しているのだろうかというか。

 

そんなふうな考えにとらわれていると、段々と、いや、たしかにこの手法すごいいいし面白いんですけど単純に小説の題材として面白いし、実際なにもくどくど考えずに読んだら面白いし、普通に小説な感じでよくないですか?という本末転倒のところまで思ったりして。小説はもっと図々しく、野放図で、恥知らずでもいいんじゃないかというか。それを言ったら作者は「君まったくわかってないよね…… 一冊かけてあなた一体なに読んできたわけ?」とすごく嫌な顔をするだろうけれども。

 

いや、なんだかこんなふうに書いてくるとあまり楽しく読んでいなかったように見えるような気がするのだけど実際はとても楽しかったのだったし、歴史を小説として扱う作者の真摯で倫理的な姿勢(本当によく思うけれども、真摯さと偏執はいつだってほとんど同じものなんじゃないか)は胸に響くものがあった。とにかく徹頭徹尾、これは歴史と作者とのあいだに横たわる距離を巡る格闘の物語だと思う。

 

「或る絶対的/絶望的な距離(それは具体的なものだけではなく、非=当事者性とでも呼ぶべき認識とかかわっている)と、その距離を越えて発言しようとする意志とが共に表現されている。(…)

距離を何らかの仕方で縮めようとするのではなく(それは結局、どこまでいっても不可能なことだ)、むしろ距離を丸ごと受け止めることによって、この映画を完成させた、ということが重要なのだ。」

 

これは書評で『HHhH』を絶賛してもいた佐々木敦の『シチュエーションズ』から引いたのだけど、まったく同じ意志がこの小説にはみなぎっていたと思う。とにかくとてもよかったです。それにしてもデビュー作でこれを書いたローラン・ビネは、次にいったいどんなものを書いてくるのだろうか。

 

最後に面白かったというか愉快だったところ。

「え? <類人猿作戦>の秘密って、この程度のものなのか?」

いやほんとこれ、びっくりしたというかあっけにとられた。

それからモラヴェッツが3人、ズデニェクが2人登場してきたり、「ただでさえガブチークとクビシュという二人の主人公が陽気で、楽観的で、勇敢で、人から好かれる性格なのに、さらにそこに似たような性格の人物を登場させているのだから」というあたり。厄介だけどもうなんかほんとそれどうしようもないよね~と。


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