8月

cinema text

昨夜はホアキン・フェニックス見たさに『her』を見てきた。ホアキン、ホアキン……と日々思っているわけではないにしてもホアキン・フェニックスこそが最高の俳優ではないかと思っている節があるので見たかったので行ってきたわけだけど、もちろん節々で「ああ、ホアキン……!」というところはあったとは言え、私としてはもっとホアキンの顔をじっくりと見たかったといういささかの不満が残りはした。その一方で止めどなく涙を流し続けてもいた。

私をしたたかに打つポイントはあれこれとあったけれども、リアリティなんて何に対してでも生まれうるわけで、生まれさえすればそれはバーチャルとか関係なくて誰かにとってのリアルなわけで、感情を動かすかどうかだけがリアルさの線引きのわけで、だから肉体を持たないコンピューターに恋をするなんていうのはまったくもってありで、そのありな感じを(多分)否定せずに描き切ってくれていたところが私にとっておそらく最もよいところだった。デートでケラケラ笑いながらくるくる回る運動こそがリアリティのダンスと言うんだよ!と。スカーレット・ヨハンソンのかすれた笑い声につられて笑っちゃうあれこそが親密さの形なんだよ!と。そういったあたりに大変つよく感動した。

最後がよくわからなかったのだけど、否定していないんだよね、あれは。やっぱりヒューマンだね、みたいな手紙だとか屋上なんだろうかあれは、違うよね、と思っているのだけどどうなのだろう。もしあれがコンピューターのおかげで人間らしい感情を取り戻せました、やっぱり人間、っていう手紙だとか屋上だとしたら、私はすごくさびしいのだけどどうなんだろう。

そしてまた、どうでもいいけれど、OSなきあと寄り添ってみせた二人は穏やかそうだからいいけれども、きっとあのあと多くの訴訟が起きるのだろうなと思った。大切な大切なパートナーを奪われたわけだから、すごい精神的なダメージを受けました、というのはとても多くあるだろうな、と。

 

映画を見たあと無性に酒が飲みたくなったので珍しくバーなどに入ったわけだったけれども、やっぱり一人でバーとか行ってみてもなんともいえない時間を過ごしてしまうのだなということを改めて思った。隣の隣にいたおじさんと少しだけ話したりもしたけれども、少ししたら席の大方が埋まり、そうすると話していたおじさんも他の人と話し出し、私は壁とか手元とか酒瓶とかを見ながら酒を2杯飲んでいそいそと帰ったわけだった。3000円。3000円で私はなんとも言えない居心地の3,40分と2杯の酒を買ったわけだけど、それは適切なことかどうか。酒を一人で飲む選択肢の(私のような人間にとっての)乏しさ。

無論、そこで人となんとなく関わったり、時にはがっつり話したりすることで一気に3000円が妥当になるのだろうから、見知らぬ人や見知った人と、コミュニケーションを、取るぞ、みたいな気概を持って臨めばいいことなのだろう。あるいは話さなくても手持ち無沙汰でも気まずさはなくて、放心でグラスを傾けられたらリフレッシュ、みたいな心情を獲得した上で臨めばいいことなのだろう。私にもいつか、心地よくバーの椅子に座っていられる日が来るのだろうか。

 

それにしても『her』の副題の「世界でひとつの彼女」は、こんな副題つけて恥ずかしくないのかなと本当に思う。会議とかで「herだけじゃインパクトに欠けるし訴求できないから副題考えましょう」ってなって、では、とか言って「世界でひとつの彼女、なんてどうでしょう」とか発言があって、それで「いやいやいや、去年『世界にひとつのプレイブック』やったばっかりでそれはさすがにしんどいでしょー」となるのではなく「そうですね、去年の『世界にひとつのプレイブック』もそこそこヒットしたし、いい感じっすね」となったわけでしょう知らないけど。そうだと思うととても恥ずかしいなーと思う。どこまでも貧しいし卑しい。すごく嫌だ。すごくすごく嫌だ。

 

そのため今日は遅くまで寝て、そのあとに起きた。どこかで本を読みながら美味しいコーヒーを飲んで、ゆっくり過ごす、みたいなことがとてもしたい、と思ったけれども、このニーズを満たしてくれる場所というのが少なくとも今住んでいる場所だとなかなかない。美味しいコーヒーを出す焙煎屋さんはあるけれどゆっくり過ごすには向いていないし、ゆっくりできる喫茶店は何個もあるけどそう美味しいコーヒーが出てくるわけでもない。美味しいコーヒーを飲みながらゆっくりだったらいちばん身近なところだと家になるのだけど、家では私はゆっくりできないし、一日中家にいたなーみたいなものを許容できないタイプなので、外に行かないといけない。

家が二つあればいいのになと思いました。こっちの家に飽きたらあっちの家に行ってゆっくりして、みたいなことができたらもしかしたら家でも問題ないかなーとか。

そういうわけなので美味しいコーヒーは諦めて別に美味しくもなんともないコーヒーフロートを喫茶店で飲みながら本を読んだら面白い本ではなかったのでつまらなかった。隣の席にたぶん私と同年代の男二人のうちの一人が同僚をディスりまくっていて、イラつく、グーで殴りたい、俺は男も女も区別しないから殴れちゃう、思い出しただけでまたイラついてきた、みたいなことをペラペラと愉快そうに話していた。得意げと言ってもいい。「実力がついてから言え」「ゆとりはやっぱり」等、私がたいへん嫌いな物言いもあったこともあって、私は持っていた本をテーブルに置くまでもなく空いていた右手でその男の頭を強く叩いて、すると意外な力が加わると人間は弱いものだから頭ががくんと前方に倒されることになっておでこあたりでグラスを倒したので机等が全部濡れ、叩かれたこと以上にあれやこれやが濡れたことに対しての怒りが一気に湧いたらしく、お前はいったい何をするのか、という趣旨のことを彼なりに怒気を含ませた声で言い、言われた私は怖くなって荷物をかき集めてダッシュをしたのだがすぐに追いつかれたので観念して「悪気はなかったんです。ごめんなさい」と謝罪したが「悪気しかないだろう」ということを言われて、そういえば『デス・プルーフ』でも追い詰められたら「悪気はなかった」みたいなこと言うやつあったよなーとか思い出しながら、まったくその通り、悪気しかなかったわと思ったのでいっそのこと私を叩きのめしたらいいじゃないかと、店の床に座り込んで人々の耳目を集めた状態で「さあ」「どうぞ」と殴ることを促してみたところ、公衆の面前で人を殴ることにはやはり抵抗があるのか、わざとらしい舌打ちをしてもごもごと何かをつぶやいた後に「いいから濡れた分だけ弁償しろ」と言ってきたため何が濡れてどんな被害を被っているか一つ一つ今から記録しておきましょう、そして実際の損害額がわかったら私に連絡して、それに私が応じる、あるいは応じない、という流れでいきましょう、と言った、ということは起きずにただ面白くもないなーという本を読んでいて、学んだことはなんだっただろうか。簡単に何かを学べるとか思うことは浅ましい、ということだろうか。大切なことを学んだ。

 

お父さんやお母さんと夕飯(しめ鯖か何か、ナスとしいたけを炒めてトマトソースと一緒にしたやつ、ゴーヤの胡麻和え、枝豆、なんか葉野菜を湯がいたやつ、きゅうりとセロリの漬物、ご飯と味噌汁)を食べたりしたのちにお父さんやお母さんが眠りについたら夜が更けた。

 

日本ハムファイターズの大谷翔平選手が公式戦最速タイの161キロをマークしたとのことだけど、この人に関してはもう球速を云々する必要がないように思えて仕方がないような気がしているし引き続きsimi labのworth lifeを何度も何度も聞いているしこの二日ほどはwhyのgeminiをとても久しぶりに、そして繰り返し、聞いては口ずさんでいる。マイ・フェイバリット・ナンバー・である。オールタイム・ベスト・である。ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラのドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの話を読んで・寝る。


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