柴崎友香/わたしがいなかった街で

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「新潮」を買って柴崎友香の『わたしがいなかった街で』を読んだ。やはり柴崎の『寝ても覚めても』目当てで「文藝」を買って以来だから、どうも柴崎友香の新作はわりと一刻も早く読みたいらしい。雑誌名の括弧は「」なのか、『』なのか、どっちなんだろう。

今作も度し難く素晴らしかった。

わたしがいなかった街で

柴崎の小説はどこらへんからだったか、たぶん『主題歌』あたりからぐんぐんと不穏な空気が立ち込めるようになって、読むたびにはっとさせられていたのだけど、宇宙人襲来の『ドリーマーズ』、ドッペルゲンガーの『寝ても覚めても』に続いて、今作はテレビやiphoneのディスプレイやあるいは電話から異次元の世界がこちら側に浸潤してくるような、いっそう怖ろしい話になっていた。と書くとジャンルものを書く小説家というように響きそうだが、実際に描かれてるのあくまでも文化系女子が生きるゆるやかで時々ちょっとした起伏のある日常(という言葉を使っていいのか悩むというか作中で明確に日常とはそういうもんじゃないと書かれているからそれを裏切る使い方ではあるのだけど)で、だからいっそうたちが悪い。

たぶん『また会う日まで』だったんじゃないかと思うのだけど、男友達だかと電話で話しながらともに同じテレビ番組を見て、何かを言葉を交わして、という場面があって、遠く離れた場所で電話回線でつながりながら同じ映像を見るという、その人と人との同期の仕方にひどく感動してうろたえたような覚えがあって、今作のテレビや電話というのもその延長線上にあるようにも思えるのだけど、手触りがあまりに違う。

主人公の「私」は部屋にいるあいだほとんど垂れ流しというような状態で戦争のドキュメンタリーを見続けていて、あるいは通勤中にはiPhoneで海野十三という小説家の『敗戦日記』の空襲の場面を読んでいて、生活の描写と地続きにどこかの町の戦争の映像が描写され、あるいは東京や大阪の風景を見ながらかつてそこにあったと思しき空襲を想像する様が描かれる。何もない、ほとんど空虚といっていいような日常がふいに割れて、どこかの、いつかの、わたしがいなかった街でおこなわれていた戦争の時間がわっと入り込んでくる。テレビやiPhoneの液晶画面が、地理や時間を超越した世界の入り口というか裂け目というか、覗き込んではいけないぽっかりと開いた深い深い穴のように機能して、クローネンバーグの『ビデオローム』や黒沢清の『回路』や、鈴木光司/中田秀夫の『リング』に連なるような、ほとんどホラーのような結構を小説に与えている。今にも貞子が這いでてきそうな予感がつきまとう。

 

また、「わたし」の世界はどんどん融解していき、電話で概要を聞いているだけのはずの友人の一日がまるで自分の目で見ているような描かれ方で書かれるし、しまいにはその友人が出会った葛井夏という若い女の生活や思考にまでなんの障壁もなくカメラは侵入していき、最後には「わたし」は小説から降りてしまう。しかもなんの救いもないようなどんな出口も見えないような状態で。

 

どこか、岡田利規の「三月の5日間」(これは戦争と現代の生活を見事に結びつけたというか、いま我々に持てるのはこの距離感において他ないんだよなという点においても共通するのだけど)や「わたしの場所の複数」を想起させるような、一人称が軽々と三人称の視点を獲得していく感じが私はものすごく好きで、「もっとこい、どんとこい」というような高揚した気分で読んだのだけど、それにしても、新作のたびに思うけれども、柴崎さんは毎度とんでもないところに向かっていく。『寝ても覚めても』を読んだとき、前のブログで「この人は次いったいどこに向かうのだろうか。行きついてしまったように見えるから、畏怖と興奮とともに心配になる」とお節介ながらという注釈は加えながらも書いていたのだけど、ほとんど同じことを今回も思った。

 

「私」が放棄された中で描かれるラストの、クライマックスと言っていいだろうけれども、高速バスから見る「棚田と海と、その向こうに燃えながら沈んでゆく太陽」の場面はほとんど厳粛ともいえるような美しさで、涙を流していたおばちゃんはたぶんロメールの『緑の光線』のマリー・リヴィエールに違いないのだろう。

それにしても、葛井夏が中井を経由して獲得する、気になったら聞けばいい、話しかけたくなったら話しかければいいという実践は、たぶんこの作家に通底しているショートカットな処世術で、それは本当に、素晴らしく素晴らしいものだといつも思う。

 

以下ページ折ったところ。

夜、パソコンを開いて、随分会っていない知人たちのブログを辿ってみた。ソーシャルネットワークサービスというものに、しかも複数登録している人も多くて、それぞれの場所で、知人同士が、知人と誰かが、やりとりしている。このあいだたは楽しかった、その店はおいしくない、おやすみー。

知らない人のこういうやりとりを見ていると会ったこともないその人に一方的な親しみを感じるようになったりするが、知っている人の書き込みは、彼らといっしょにいた時間からどんどんと離れていく自分を実感させる。なぜみんな、こんなふうに気楽に、素早く、なにかを伝えることができるんだろう、と思う。(…)長らく会っていない人たちが毎日いろいろな経験をし、誰かと次々に言葉を交わし合うのを見ていると、わたしにとって、知っている人さえもテレビみたいに画面の向こう側の、自分には関わることのできないところへ移動していくように感じてしまう。

日が長くなってまだ薄闇で、暑くも寒くもなく弱い風が吹き、そのような空気の中を一人で自由にただ歩けるということは、もしかしたらこの時間が自分の人生の幸福で、これ以上のスペシャルなことは怒らないし望んでもいないのではないかと考えながら、しかしそう言うとたいていの人には平穏な日常こそが素晴らしいという意味にとられるかもしれないが、自分は「日常」があらかじめ確かにそこにあるものだとは思えないし、たとえば仕事に行ってごはんを食べて眠るというような日々のことだとも思っていないし、それぞれに具体的で別のものがそこにあるのを一つの言葉でまとめることができなくて、「日常」という言葉を自分自身が使うこともない。

入江さんがルワンダに行こうとして死んだことを知ったときに、わたしにとってはルワンダという場所が存在し始めた。地図に書いてある名前ではなく、こことつながった場所として、歩いて行けばいつか辿り着く、同じ時間を生きている場所として、存在するようになった

前はこういうところに来ると、連絡を取り合わなくても誰か知っている人がいたのに、と思う。絶対誰かいるだろうという安心みたいなものがあった。それがいつ頃までだったのか。気がつけば「前」に京都に来たのがいつだったのかもすぐには思い出せない。同じような場所で同じような人たちがいるつもりでも、人は少しずつ入れ替わって、今はもう苦手なこの人しかいない

周囲の評判のよさと、怒っているときのその人の態度は、「裏表」ではなかった。彼は、自分が正しいと信じることに基づいて振る舞い、努力して自分の状況を作り上げてきた自信があり、その正しさに当てはまらない夏の言動が理科出来ず、もっとよくなる方法を助言しているだけなのに、と当惑しているのだった。(…)彼は、怒るたびに萎縮していく夏の態度を見て、いっそう腹立ちをぶつけるようになった。友だちに告げ口をしたからおれの評判が悪くなった、人を納得させられないような中途半端な考えながら最初からしゃべるな、と言われたのには、夏はいくらなんでもおかしいと思い、距離を置いたほうがいいんじゃないかと告げたら、今までなく激高して、自分はこんなに頑張ってきたのに無駄にするのか、おれはほんとうはこんな人間じゃない、穏やかに生きていきたいのに、おまえが怒らすようなことばっかりするからこんな汚い感情を持たなくてはならない、と壁をがんがんたたきながら泣きだした(…)あれが暴力と呼ばれるものの入り口なんだと、そうわかった瞬間に、泣きたくなった。楽しかったことも壁にあいた穴もいっぺんに浮かんで来ると同時に、今までに感じたことのないかなしさが体中に広がった。

錦糸町で、住んでいたマンションから駅へ歩いて行く途中に、公園があった。四角い、硬い地面の公園で、桜の時期には屋台が出るのが楽しみだった。公園をぐるりと囲む桜はきれいで、あの時期はほんとうにすばらしい。海野さんの日記で、あの公園が空襲のあとの仮埋葬地だったことを知った。一万人以上が何年か埋められていたあの公園では、桜が咲く前に引っ越したので私は見ていないが、今年も桜は咲いて屋台が出て提灯がついて大勢の人がやってきた。

日常という言葉に当てはまるものがどこかにあったとして、それは穏やかとか退屈とか昨日と同じような生活とかいうところにあるものではなくて、破壊された街の瓦礫の中で道端で倒れたまま放置されている死体を横目に歩いて行ったあの親子、ナパーム弾が降ってくる下で見上げる飛行機、ジャングルで負傷兵を運ぶ担架を持った兵士が足を滑らせて崩れ落ちる瞬間、そういうものを目撃したときに、その向こうに一瞬だけ見えそうになる世界なんじゃないかと思う。

しかし、それは、当たり前のことがなくなったときにその大切さに気がつくというような箴言とはまた別のことだ。いつも、自分がなんで他の人ではなくこの体の中に入っていて、今ここにいるのかと、不思議に思うというよりは、どこかでなにか間違えている気がしてしまうことのほうに関係があるのかもしれない。自分がここに存在していること自体が、夢みたいなものなんじゃないかと、感じること。

どたどた、と音がして、昇太がやってきた。「砂羽ちゃん、あのー、えーっと」昇太は続きをなかなか言わなかった。なんなのよ、とうしろで有子が急かす声が聞こえた。「あのね、ぼくね、砂羽ちゃんと、いっしょに生きていきたいです」

真っ白い天井には、向かいの家に停めてある自動車のフロントガラスに反射した光が映っていた。百日紅のい枝葉と花が薄い灰色になって投影され、細かいところまでくっきりと正確に再現されて、揺れていた。

母親は、栗まんじゅうの端をちぎって子供に与えた。夏の友人たちは、それを横目に見て、「でかっ」「やばっ」「どこで売ってるんやろ」とささやき合った。夏は、前に並ぶ家族たちのほうへ一歩、二歩、近寄った。「衝撃の大きさですね、それ」急に話しかけられた母親は、一瞬ぽかんとしてから、返答した。「…‥‥ああ、そうでしょう? 驚きますよね」(…)「クズイちゃん、そんなキャラやった?」「学習してん」得意げな表情を浮かべつつ、夏は、今度中井に会ったらお礼を言おうと考えていた。

2012-03-12 – 偽日記@はてな
2012-03-09 – 『建築と日常』編集者日記
2012-03-13 – 『建築と日常』編集者日記


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