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『エドウィン・マルハウス』を昨夜読み終えた。昨日僕は語り手ジェフリーの孤絶がどんどんおそろくなってきた、というようなことを「僕は書いたっけ、そんなことを僕は書いたっけ」といま声に出して、マームとジプシーの役者になったつもりで声に出してみたのだけど、書いたっけ、忘れたが、ジェフリーのことはなにか言及したと思う。ジェフリーの孤絶のようなものがおそろしい、と、たぶんそういうことを書いたと思う。読み終えたとき、その読まれ方のあまりの正しさに慄然とした。エドウィンの部屋の夜、僕は何度か同じ場面を読み返して頭に理解させるのに難儀したそのあとで、理解がなされたそのあとで、あまりのことにびっくりしすぎておそろしすぎて、今朝の夢で見たと思う。エドウィンの部屋を夢で見たように思う。

「こ」「ぜ」「つ」と発生しながら3つのウィンドウを消した。コントロール+wで消していった。こ・ぜ・つ。孤絶。木曜の夜、アメリカン・スピリットを吸いながら、ビル・オーカットを聞きながら、ハートランドを飲みながら、ソファに体を沈めて、これを打っている。こ・ぜ・つ、と打ちながら、何度も打ち間違えたのをデリートしながら、丁寧に打っている。いつまた一切の打ち間違えを無視し始めるか気が気でないけれど、今のところは丁寧に消しながら、打っている。こ・ぜ・つ。とこの人生を、人生とかまた大げさな言葉を出し始めたから怪しい。人生なんてただのイメージで、今日をどう楽しむか、どう生きるかだけでしょ、と宇多田ヒカルが言ったというようなことを「友だち」がFacebookに書いていたのを今日見て、たぶんある程度その通りだろうなと思った、頭ではそう思ったけれど、いやそう思った。そうであるなら、僕は本当にいけないことをして生きている気がしている、こ・ぜ・つ、この孤絶を、この孤絶を僕はどう飼い慣らすいや飼い慣らすではなく、どう振り切って、楽しむか、考え、行動に起こし、行動に起こし、そしてなんなのだろうか、イメージがまるで湧かない、僕が人生を楽しんでいる、あまた人生と言った。今日この日をどう楽しむか、どう生きるか、だけでしょ。どう生きよう、どう楽しもう。どうしたら楽しめるだろう。このこ・ぜ・つ孤絶を、どうしたら変えられるのか、こんなに苦しく虚しいものだとはちょっと想像もつかなかったこのこ・ぜ・つこの孤絶を、どうしたらこの…止まらなくなったので三点リーダーって言うんだっけ、便利なこれを使って止めてみた。『エドウィン・マルハウス』を読み終えた、残りは『沈黙の世界』というみすずのやつで、沈黙について書かれている、それを聞いて渡された本を開いて最初の方を読んでこれは面白そうかもしれないと、ペルー料理屋で伸びる腕から渡されたその本を煌々と白白と光るペルー料理屋の店内で伸びる白い腕の先の手が持つその本をそっと受け取り開きこれは面白そうだと思い後日ご・じ・つ後日その本を買い求めた、それは『エドウィン・マルハウス』を買ったブックファーストのコクーンタワーっていうんだっけ新宿のその店で『エドウィン・マルハウス』を買ったそのときに一緒に買ってちらちらと読んでいるそれは、しかし少しばかり話し方が恣意的すぎないだろうか、好き勝手ものごとを定義し過ぎではないだろうかとの疑念を僕に生じせしめ、「生じせしめ」、それで少しあまり距離が近くないような気がしていてこの夜にアメリカン・スピリットとハートランドのこの夜に、ビル・オーコットのギターと声のこの夜に、読まれるべきかどうか、あまり前向きな気持ちになれない今、五反田のブックファーストでそうだ五反田のブックファーストでケヴィン・ケリーの本と一緒に買ったブルータスのムック本で柴崎友香と奥泉なんだっけ奥泉、との対談奥泉だっけ、との対談で夏目漱石について話されていて、それでなんだか久しぶりに読みたくなったから漱石を読もうか、何がいいか、『それから』なのか、どれがよかったか、と思うのともう一つが自分が書いていた文章のなかでフォークナーの『死の床に横たわりて』が言及されたのを目撃してそれで『死の床に横たわりて』を、読みたくなったというのがあった。フォークナーは常にまた読みたいと思う、常には嘘だ、ときおりまた読みたいと思う作家の一人で、それで、今晩はだから、どちらかをなんだか、読みたいような、今晩はというか次の一冊としてどちらかを、読みたいようなそんな気が、している気はするが決め手には、欠けるようなそんな気も、している。人が、「あの人は人として欠陥がある」と言った。僕は反応しなかった。どう反応していいかわからなかった。人として欠陥がある。僕はこのブログ内を検索し、次に店のブログ内を検索した。「人として」で検索した。安心した。僕は一度たりとも「人として」ということを書いていなかった。このブログについては3つヒットするが、それは「誰一人として」であって、「人として」ではなかった。よかった。人として欠陥がある。僕はまったくこの感覚がわからない。そう発言する主体は、自分には欠陥がないと思っているのだろうか、いやそう問うたらそうじゃないと答えるだろう。ではなにかと言えば人はこうあるべきだというのが、正しい人の姿というものがあるということだろう。僕にはそれがまったく信じられない。人として?人ってどうあらねばいけないのか。人として欠陥がある。ここには信じられない傲慢さが無自覚に横たわっているように思える。人として欠陥がある。どうやったらそんなことを言えるのか。その人からすると僕は思いやりのない人だそうだから、僕ももしかしたらその人からすると人として欠陥があるのかもしれない。全部がどんどんアホらしくなっていくな。思いやりとはなんなんだろうな。甘やかしの間違いではないのかな。僕は僕なりの倫理で生きているつもりでそれが僕にとっての思いやりに該当するものだと思っているけれど、そうではないのだろうな。全部がどんどんアホらしくなっていくな。色を失った川沿いの道の夏の桜の木々は茂らせる葉を下からの光に照らされて白く明るんでいてそれはまるで満開の桜のようにも見えた、その静かな夜に、顔を明るませて立ち止まる幾人もの人を追い越しながら、そして立ち止まり腰をおろし僕はときおり声をあげて笑いながら、色を失った夜の川の向こうで光る街灯や暗い部屋や空を眼差しながらここには倫理があると、思っていた、いやそんなことは思っていない、が後から考えてみたらそれは倫理的な時間だったのではないだろうか、とは思える。よかった僕は「人として」なんて一度も発していない。それが本当によかった。TwitterやFacebookへの投稿は検索していないから、どうやって検索したらいいかわからないから、と思い今Twitterのある時期までのログが残っているエバーノートで「人として」と検索してみたところクリップした記事がどんどんあたり、そのなかに保坂和志の「試行錯誤に漂う」があたり、ぎょっとして中を見てみたら「自由律俳句の尾崎放哉は社会からドロップアウトする前は銀行に勤めていた、つまり尾崎放哉は社会人としてもひじょうに優秀だった、という言い方は、

咳をしても一人

ただ風ばかり吹く日の雑念

けもの等がなく師走の動物園のま下を通る

こういう句を作った尾崎放哉を評価したことにならない、「銀行員だったのになんで辞めてあんな生き方をしなくちゃならなかったんだろう。」と言う方がまだしもだ。」

とあったので安心した。今度は自分のツイートが出てきた。「心を込めるっていうのはこういう大げさなのじゃなくて、人に接するにあたっての配慮。言うなれば人格の尊重です。大げさになっちゃったけど、そういうことです。人を人として正当に扱うことです。/「リズムで挨拶するんじゃねえ」 思い出す師の叱責」」URLは省いたけれどこれは多分引用だろう、引用だし、僕はこういう使い方はありうるなと思った。接客について考えるときには「人間としていかに振る舞うか」という言い方をむしろ好んでする。僕はその使い方を今こうやって「人として」という言い回しに激しい違和を感じている今もまったく許せるというか妥当なものとして捉えている。これはいい、と思っている。これもまたもしかしたら別のあるいは同じ傲慢さだろうか。どうだろうか。検索はどんどん引っかかる。2013年のところまで遡って、もうやめることにした。よかった、と言って差し支えない気がする。僕は僕が嫌悪する違和を感じる「人として」の使い方をおそらくこれまでしていない。大学生くらいのときはもしかしたら書いているかもしれない、このまま遡れば大学生のときのブログとかに当たることもありうるけれど、もしそう書いていたとしてもそれだけ若かったらそういう間違いを犯していても咎める気は起きないから別段かまわない。「人として欠陥がある」「人として間違っている」こういう言い方を、僕はやっぱり受け入れられない。どうして、そんなことが言えてしまうのか、まるでわからないというか、わかりたくない、共感したくない。でまあ、辛いな。こ・ぜ・つ。この孤絶。誰からも顧みられないこの孤絶。誰からも求められない必要とされないこの孤絶。というわけで今晩は何を読もう。まだ解決していない。今はこの孤絶問題より何読もう問題の方が切実だ。書くことは癒やすことだ。OK、OKOK。すごいOKだよ。ライティングイズヒーリングだよ。ヒーリングされたわ、やっぱりちゃんと打ち間違い正しながらちゃんとデリートしながらこうやって他人から見たらとても丁寧には見えないかもしれないけれど僕にとっては十分に丁寧な書き方で言葉をこうやって連ねていくことは、それなりに意味というか効果がある。薬だ。癒やす、だなんて言葉をそう躊躇なく、せせら笑うこともなく、「たしかに癒やしである」と思い切りながら打ちつけてしまえるのだから、十分に癒やされている。ライティングイズヒーリング。エドウィンにとってはそうではなかった。


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