ミッドナイト・イン・パリ(ウディ・アレン、2011年、アメリカ/スペイン)

cinema

久しくウディ・アレンにワクワクできなかった私が『人生万歳!』に快哉を叫び歓喜の涙を流したのは、画面のそこここにウディ・アレンの徴めいたものを見て取ったからで、そこからわかったことは結局私は70年代とか80年代の、『アニー・ホール』だとか『ハンナとその姉妹』だとか『ラジオ・デイズ』だとか『マンハッタン』だとか『カイロの紫のバラ』だとか、そういった時期のウディのおもかげばかりを追いかけながらしか彼の映画を見られないというだった。なんせウディである。スティーブンともジャン=リュックともフランソワとも慎二ともテオとも貞雄ともアルノーとも呼ばないのに、アレンではなくウディと言うのである。
主に大学生の時に、何度も何度も私は彼の映画を見て、その時期の映画をVHSやDVDや文芸座や早稲田松竹で見て、その饒舌や屈折や虚勢や微笑に、他人ごとではないような何かをいたく感じながら画面に向かって大好きですと、全部信じていますと、そう誓ったのだった。『アニー・ホール』は私のというか僕の小さな映画史に燦然と輝く作品であり続けたのだった。

だから、特に2000年に入ってからの、とうとうリアルタイムで追えるようになったウディが発表してくる映画は、毎回大きな期待を持って見にいく分だけ毎回大きな落胆を私に与えてきた。そこにはぺちゃくちゃとああでもないこうでもないと話し続けるウディの姿はなく、あるのはただ、と思い出そうとしてもさっぱり思い出せない。サスペンスとかがあったような気がするし、バロセロナで恋をするようなのもあった気がするし、という、それぐらいしか思い出せないほどになんかほんとうにどうでもよかった。

という中で見た『人生万歳!』は本当にもう、万歳だった。ウディ本人ではなかったがウディにしか見えない中年の男が漠然とした不安に苛まれながらそれを払拭すべくひたすらにチクチクと陰気なことを言い続けて、でもダメで、おかしくなりそうな夜にソファでフレッド・アステアの映画を見るなんて、『ハンナとその姉妹』での、病気への怯えとその末の自殺未遂とふいに入った映画館で見るマルクス兄弟の映画に救われるウディの姿そのものじゃないかと、私は言うに言われぬ万感の思いにやられて鼻をずぴずぴ言わせながら落涙したのだった。在りし日のウディのすべてがここに再現されていると、私は映画館を出てなお、呆然とし続けたのだった(ただし5分ほど)。

再現。ここでおこなわれたものは映画を見るということではなくて、私の中にあるウディの記憶を再び生きるというたぐいのもので、それが実に不健全なものであることは重々承知はしていた。再現なんて不健全だし不誠実だし、なんというかもう、ダメなことこのうえない。

 

というもろもろの意識を今回の『ミッドナイト・イン・パリ』は見事に描出していて、主人公のオーウェン・ウィルソンはやはり完全にウディそのもので、不安な顔つきとか、てんぱったときの挙動とか、別人だとわかっていながらも本当にウディにしか見えない時間帯があったほどだった。そして彼はパリの真夜中に古いプジョーに乗せられて1920年代へトリップし、ヘミングウェイやコール・ポーターやフィッツジェラルドやピカソやダリやブニュエルやマン・レイやその他大勢の歴史に名を残す人たちと会ったり恋に落ちたりする。
ここで演出家であるウディ・アレンはオーウェン・ウィルソンにウディ・アレンの焼き直しを求め、オーウェン・ウィルソンは人生そのものに1920年代の焼き直しを求めたわけで、そしてその状況に私はやはり安直に歓喜してウディ!であるとかフィッツジェラルド!であるとかを思いながら安直な涙を流したわけで、なんというか、このねじれた追いかけっこのなんと不毛なことだろうか。
その不毛さは痛いほどに承知されていて、作中でも現在の人物の口を借りてそういったノスタルジー志向を「ゴールデンエイジ症候群」みたいな言葉で否定しているし最終的にオーウェン・ウィルソンが選択するのも現在を肯定して生きることになるのだけれども、なんかもう、私にもウディ・アレンにも、過去を賞賛し憧憬しながら生きること以外はできないんじゃないだろうか。なんせ、オーウェン・ウィルソンが最後に、現在の真夜中の雨降りのパリで出会って何やらいい予感がしそうな女の子の職業はノスタルジーショップ店員だし、なんせ私はそれを見届けたあとに流れるエンドクレジットのずっと変わらないウディ・アレンフォントにどうしようもなく胸をそわそわさせてしまうのだし。いろいろ諦めようと思った。私のような人間にとって、かつてスクリーンの中であったことや書物の文字の中で起きたことやそれを作った人たちの存在や歴史やその経験や経験した時間は、フィクションでもヒストリーでもなくてなんというかただ単純に強固な現実の一つで、あまりにも私の人生を構成する大きな要素の一つなのだから、なんかもう、なんというか、その豊かさをただただ蓄積させたい。なに書いてたんだったかわけわからなくなった。


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