廣瀬純/蜂起とともに愛がはじまる—思想/政治のための32章

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廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』を読んだ。

 

ここで愛の契機とされる蜂起とは、第一章において”いかなる「解」にも還元され得ない純然たる「問い」を生産する”こととされ、『週刊金曜日』に連載された短い文章を集めた第二章は螺旋を描きながらその結論へと向かっていく道程が記されている。私にとってはそこで描かれる絢爛たる固有名詞たちのダンスが刺激的で面白かった。

 

ゴダール、アントニオーニの非労働から『バートルビー』を召喚し、持続性から小津とベルクソンを並ばせ、タチの『プレイタイム』とベンヤミンが描き出すパリの姿を重ね、脱コード化の運動を誰よりも早く映画に導入した作家として山中貞雄を位置づけ、ストローブ=ユイレの『シチリア!』とその原作、あるいはオリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』とその原作を検討し、デリダとイーストウッドでテロリズムを捉え、カメラの位置を巡ってレヴィナスとゴダールを比較し、「風」を通して『ゴダール・ソシアリスム』とボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』を読み、青山真治の『東京公園』とレヴィナスの違いを明らかにする、その一連の手つきはとても華麗かつアクロバティックで、筆者の運動神経の良さ、保有するデータベースの多彩さに読んでいて目が眩んだ。

 

ただ、当然、解を得るのではなく問いを発し続けるというこの本にそれを求めても仕方がないということはわかってはいるものの、原発というどうしようもなく現実の問題について”「不安」は自己をそうした「主体」として見出す際の否定的な効果であるが、しかしそれゆえにまた、自己を過剰な力の横溢として積極的に肯定するための契機ともなり得る。六月十一日の反原発デモがとりわけ喜びに溢れたものだったとすれば、それはそこで我々の経験したことが「問題」の共有に基づく「反転された原発事故」としての主体たちの蜂起だったからに他ならない”あるいは”蜂起の悦びはそれが「起きている」ときに見出される。革命は喜びへのプロセスだが、蜂起はそれ自体で喜びのプロセスである。革命におけるすべての疲労は問題が解決されるときの喜びによって報われるが、蜂起においては問題を生き続けることによる疲労が喜びと一体化している”というような読み方で読むことに実際のところどんな意味があるのか、よくわからなかった。

 

「諦めて、跳べ(賭けを生きる)」と題されたロメールの『緑の光線』を論じる文章で、”ここで問題になっているのもまた、現勢的な次元においては「汚らわしい」ものとしてしか現象し得ない世界(ディストピア)を前にして、それでもなお「でもまあ、素晴らしいじゃない」と肯定してみせるだけの力、すなわち世界の潜勢力を信じ、それに賭けてみせるだけの力の獲得なのである”、あるいはタチとベンヤミンの文章にある”疎外とは否定的な契機にとどまるだけのものではけっしてなく、それどころかむしろ、労働に抗して「プレイタイム」すなわち「遊びの時間」を継続するための積極的な可能性でもあり得るということだ。(…)新たな現実をけっして否定しないこと、そこにポジティヴな力の萌芽を読み取ること―――ここからしか真に「思考」の名に値する振る舞いは始まらない、どんな反動的な振る舞いも思考とは関係がないということなのだ」といってこの現実をやむなく肯定してしまうことは、解を求めるのではなくただ問い続けることは、実際、この現実をどう変える力を持つのだろうか。私はここに引用した文章が好きで、聞こえはいいと思うし、何かいいことを言われているような気もするのだけれども、実際に、あまりに実際な実際に出くわしたとき、それらはどう意味を持つのか、私にはよくわからなかった。

 

ゴダールによるレヴィナス批判が面白かった。ちょうどレヴィナス特集の『現代思想』を一緒に買っていたところだったのでちょうどよかった。

「物事はつねに正面から撮影されるべきであり、正面からまっすぐ見ればこそリアルに把握できるといったことが、世間では信じられています。レヴィナスのような哲学者ですら、顔をきちんと見ればその人を殺したくなることなどあり得ないと考えています(…)。他者を理解するためには、カメラをその人の背後におき、彼の顔を見ないようにする必要があるのです。そしてまた、その人の話に耳を傾けている第三者を通じて、彼を理解するようにしなければならないのです。」

ゴダールからすれば、レヴィナスにはスクリーンが欠けているのだ。愛する作品をリアルに把握するためには、映写機から放たれる光の流れがスクリーンによって遮蔽され、そこにいくばくかの像が結ばれなければならない

他者のリアルは、相槌を打ったり返答したりすることでこの他者の発する言葉のフローを切断する第三者の一挙手一投足に、とりこぼしなく十全に映し出されるということだ。そして、繰り返すが、第三者による切断なしにはそもそも他者からのフローがリアルに流れることはいっさいないのだ

他者のリアルな把握とは、したがって、他者に幾ばくかのリアルを生産させることに他ならない。そしてリアルの生産のためには他者が第三者に接続されなければならない。(…)フェイス・トゥ・フェイスで対面している限り、互いに相手をリアルに把握することはできない。各々が第三者に接続され、双方で幾ばくかのリアルが生産されるときにこそ、相互理解は始まる

 

蜂起とともに愛がはじまる---思想/政治のための32章

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