パブリック・エネミーズ(マイケル・マン、2009年、アメリカ)

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実際、これは、マックス・ノセック監督の『犯罪王デリンジャー』(一九四五)のようにクラシックでも、ジョン・ミリアス監督の『デリンジャー』(一九七三)のようにロマンチックでもなく、三〇年代のまだ舗装もされていない地面を舞う褐色の土煙のように、はかない物質性をまとった厳かな作品なのである。大恐慌時代の合衆国を、衣装や装置ではなく、荒れた地面に捲き上がる砂塵で描いてみせるマイケル・マンの演出のリアルな即物生に、人は深く心を打たれる。

(…)「失敗」の記憶につらなる砂塵のイメージは(…)その口からもれる吐息の思いがけぬ白さのイメージに受けつがれる。その白さも、艶めかしいまでにリアルだからだ。いきなり氷点下の夜の冷気を顔一杯に受けとめるわれわれは、アメリカ映画でスターの口からもれる白い吐息を最後に目にしたのはいつのことだったのかと、むなしく思いをはせるしかない。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)

 

残念ながら白い吐息にまつわる記憶など上手に引き出せはしない私だけれども、いくつかのシーンで見られる、というよりもなんというか立ち現れる息の白さにははっとさせられたし、中でも銃弾に倒れいま死ぬ人が最後に吐く吐息の白さおよびそのあとの呼吸停止にはわっとさせられた。全体に、この映画では死ぬ人がとても丁寧に撮られているというか、死ぬ人がとても上手に死ぬのが印象に残った。みんなものすごい死ぬっぽく死んでいった。

それにしても、後半のわりとヒロイン含めピンチというあたりからちょい仰角気味の、リンチを思わせる顔アップが何度も見られて、前半もこんな撮り方していたっけかと不思議な感覚だった。ジョニー・デップは映画俳優らしい声をしていた。

久しぶりに『コラテラル』を見たくなった。親密さという言葉を思うとき、いつも思い浮かべるのは『コラテラル』のタクシーだった。


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