サブウェイ123 激突(トニー・スコット、2009年、アメリカ)

cinema

この閉ざされた空間の対極に、トニー・スコットは、『マイ・ボディーガード』(二〇〇四)や『デジャヴ』の橋や『エネミー・オブ・アメリカ』の高速道路の高架のような宙づりの開かれた空間を決まって位置づけているが、ニューヨークに腰を据えた彼が、これまでの自分の作品を形づくっていた空間の構造をほとんど実験装置のように純化し、いわば批判的に再構築したのが『サブウェイ123 激突』であることは誰の目にも明らかだ。

(…)トニー・スコットの作品を見ることは、閉ざされた狭い空間と開かれた宙づりの空間との関係がどう組織されているかをたどることにほかならない。

(…)よく似た輪郭におさまる二人が遠隔通信を終えれば、開かれた宙づりの空間で対決せざるをえないというそんな空間的なハイチの機微を小気味よく楽しんでいる余裕が、はたして二十一世紀の観客に残されているだろうか。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)

 

そんな余裕は特にはなかったのだけど、司令室とジャックされた車内の通信にほぼ終始する内側の静けさというか地味さというかそういったものと、金を運ぶ車やバイクのやたらに激しい衝突転落の騒々しさというか派手さというかのバランスであったり、ジョン・トラボルタの弱々しい笑みや人懐っこさ、あるいは激昂しやすさ、ジャックしながらPCを気にする繊細さ、タクシーの中での満面の笑み云々の複雑なキャラクターであったり、市長の振る舞いであったり、デンゼル・ワシントンの重そうな体であったり、なかなかたどり着かない警官隊であったり、向けられた銃口であったり、満足気な帰宅であったり、全体になんとも歯切れの悪いというか、割り切れないものの残る素晴らしい映画だった。はいこれが出来事のあらましでした、と放り投げられて事実は事実として確認したうえでどんな態度を取るべきなのか決めかねるような、なんとも奇妙な映画だった。


« »