シルビアのいる街で(ホセ・ルイス・ゲリン、2007年、スペイン/フランス)

cinema

 

最近になってにわかに、いくつかの場所から「シルビア」というつぶやきが聞こえてきて(どうやら東京で再上映があったらしい)、たしかに少し前に行ったときに新作コーナーに数枚置いてあったという記憶から自信満々にツタヤに行ったのだが置いておらず、店員の方に聞いてみたところもうないと。どういうことだと。怒り心頭で帰り後日彼女が別の店舗に行った際に他店からの取り寄せができると知りそれでお願いしてようよう見られたという次第。

 

本当に何年ぶりかで、ことによると何十年ぶりかも知れないほど久方ぶりに、人は映画という名の奇蹟に距離なしに接し合い、あたかも『シルビアのいる街で』とともに映画が初めてこの地上に生まれ落ちでもしたかのような甘美な錯覚に、思わず身震いする。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)

 

蓮實重彦はゴダール、小津、ムルナウ、ヒッチコック、ジョン・フォードといった錚々たる名前を使いながら大絶賛していくわけだけど、彼に何十年ぶりの映画の奇蹟と言わせてしまうほどにこの映画がとんでもないことになっているのかは残念ながら私にはわからなかったし目頭を熱くすることもできなかったのだけど、監督のホセ・ルイス・ゲリンがインタビューで「本当にフレームの中で何がフレームインしてフレームアウトしていくかっていうことと、あとその中の音、騒音だったり美しい音だったり、街の音から皆さんが自由に想像してくれる映画というのが私の理想」「本当にやりたかったのは写真だけで構成した無声映画みたいな感じ」と語っているように、まさに上質のサイレント映画を見ているような、最後まで画面で何が生起しているのか、何がそこで鳴っているのか、それを見ているだけで面白い、面白いというわけでもないのだけどとにかく目と耳が離れない、という状態だった。

多分、字幕がなくてもこの映画を楽しめる度合いはほとんど減じないのではないか。色々な人が素晴らしいシーンと指摘しているホテル前のT字路を映し続けるショットも確かに素晴らしい(特に一人の男性が足を引きずりながら花束を持って歩いて行くところとか)のだけど、字幕なしでもいいんじゃないを簡単に証拠立てるのはバーか小さなクラブのところで、カウンターに座る主人公の男が横の物憂げな若い女を口説くか何かしているところで、私たちに聞こえてくるのは終始Blondieの「Heart Of Glass」の鳴り響く音だけで、だけど、そこでどんなやり取りが交わされて、そしてどうなるのかが全て手に取るようにわかる。それって素晴らしいことじゃないか。映画の、原初的な喜びが確かに、そこここに横溢しているような気配や手触りがずっとあった。

それにしても、サイレント、と言っておきながらなんだけどこの映画の音の処理は、他に例を見ないほどに洗練されているというか、とてもシンプルでミニマムな映画に一見思えるけれど、そこで私たちに届けられる音の選別を見ているとものすごいいろいろがコントロールされているんだろうなと思え、その手つきにはどうしても感動を禁じ得なかった。あんなにも足音が、グラスの転がる音が、自転車の滑る音が、電車のドアが開く音が、あるいは紙の上を走るペンの音が美しいなんて、いったいこれまでどの映画が教えてくれただろうか。

 

明るい車内がクライマックスの舞台となるのだが、この光景の尋常ならざる美しさをやたらな言葉で汚す気にはとてもなれない。人は、映画に「美しい」という属性がそなわっていたことを不意に想起し、この街の路面電車の窓ガラスが途方もなく大きなものであったことを、目頭を熱くしながら祝福することしかできない。(同上)


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