Playback(三宅唱、2012年、日本)

cinema

 

映画。映画は、映画に、映画を、映画と。

映画、とただ打鍵するだけで何か心がざわつくような気になりこそすれど、では私が映画について何かを知っているのかといえばほとんど何も知らないのだし、ましてや日本映画の最前線とはどんなものなのかなど知るよしもない。濱口竜介のレトロスペクティブにはけっきょく行けずじまいだったし、瀬田なつきの作品を見たこともない。どうやらそういった「最前線」に名前を連ねるらしい三宅唱という監督についてだって、いくつかの短編作品を手がけたのちの2010年に長編デビュー作『やくたたず』を撮ったことぐらいしか知らない。そしてそれは途方もなく素晴らしい作品だったということぐらいしか。

その三宅唱の最新作『Playback』は、主演に村上淳を迎え渋川清彦や渡辺真起子といった名と実力の知れた俳優を配する、と言えば聞こえはいいが、その実はどこまでも奇妙で、これ以上ないほどに不遜な作品だった。そしてそれは、映画が映画である宿命を全面的に受け入れ、映画によって全面的に祝福された映画だった。

私はただ息をのみ、涙を流余裕すらなく、唖然としながらスクリーンを見続けるだけだった。

 

出演作の中国語(?)版の吹き替えを録音したり「いつも見てます」と知らぬ女性から声を掛けられたり水戸の映画館で出演作が掛かったりするところからなかなかに有名な、だけど落ち目らしい俳優の男(村上淳)のある一日が2つのバージョンで繰り返され、その途中で高校時代に40がらみの姿のままトリップして体育の授業でバスケをしたり同級生の話に馬鹿笑いしたりする話、と括ってしまっては身も蓋もないのだけど、要するとそんなところで、それが全編モノクロの映像で映し出される。

そこで行われる時間の処理や繰り返しの様相からはトニー・スコットの『デジャヴ』(テレビに映るホームビデオの映像とそこに視線を向ける村上淳の後頭部を映すショットはまさに『デジャヴ』だった。巻き戻しがプレイバックの合図となる)や、見た人から引き合いに出された名前の一つにアラン・レネを監督も挙げていたし、あるいはデヴィッド・リンチすら頭をかすめてくるかもしれない。また、俳優1がバージョンAで語ったことを俳優2がバージョンBでそのまま引き受けて語りだすようなところからは『現在地』以前の岡田利規がやってきたことと重なってくるような感触もあった。

バージョンA、バージョンB、そして合間に挿入される「かつて」、これらは村上淳の昏睡によって繋ぎ合わせられ、最後に意識を取り戻したとき、彼は周囲の心配をよそに哄笑するだろう。

過去の選択の結果の積み重ねとして現在があると登場人物に言わせていることがヒントになるのだろうか。小さな選択を異にすることよにって、水戸という被災地の現在までは変えられずとも、小さくではあるが異なった世界のバージョンを奏でる様が描かれたのだろうか。しかしなぜ、中年の姿の者と若い姿の者が高校で混在し、なぜ、バージョンBで記憶が入れ替わる者がおり、なぜ、20年以上前の場面で携帯電話が使われたのか。村上淳が迷い込んだ高校は夢だったのか。スケート少年たちは村上淳のかつての姿ではないのか。母はかつての予言通りに妻として彼のもとに舞い戻ったのか。

そこらじゅうにたくらみや意図が張り巡らされているのだろうけれど、私にはわからないし、その解読にもあまり興味は持てない。

 

ただただ、目の前で生起していく素晴らしい顔、連鎖していく素晴らしい画面に目を奪われてさえいれば、それでいいじゃないかと、それがいいじゃないかと、単純に過ぎるかもしれないけれど私はそう感じた。

ここでどの場面あるいは画面が素晴らしかったかを一つ一つ挙げていくことはしないけれど(冒頭のスケート少年の滑り出し、特に振り子になる片方の足、動き出すカメラ。ヘッドホンをあてた村上淳の無精髭の顔。ドンコールチキンの渋川清彦、妹の事故を知り駆け出す二人を高いところから捉えたロングショット。二人の人間によって畳まれるビニールシート、白いカーテンのようにたなびき発光するそれ。車中の質問攻め、気まずい空気、フルボッキの爆笑。墓場での思い出話、振りかけられるアルコール。車座でおこなわれるバカ話、教師と生徒の原節子についての共感、校舎裏の爆笑。チャペルを歩いていく新郎と新婦、それを見守る友人たち。思い出せない思い出話、聞き逃したエピソード、弱い笑み。バーナーでつけられる煙草。学芸会のビデオを見ながら娘を賞賛する若い母親、そして巻き戻し。友人代表スピーチのリハーサル。ひび割れた道での転倒。躍動するスケートボーイズ…)、したけど、見れば絶対わかる、見なければ決してわからない、というたぐいの充実がスクリーンいっぱいに、113分の間、途切れることなくみなぎっていた。

 

上映後のティーチインで三宅唱はこの作品を通して俳優という存在の謎を考えたかった、と言っていた。少しずらされたシチュエーションを与えられた俳優がそれをどう演じるのか、場面の繰り返しの中で捉えたかったというような意味合いだったと思う。そしてまた、なぜモノクロで撮ったのかという質問に対しては「憧れから」と答えていた。その後それを補足するようにモノクロはぱっと見た瞬間には朝なのか夕方なのかわからなくなるような不思議な時間を流せるからというようなことも言っていたけれど、憧れ、というのがたぶんもっとも率直な答えなのだろう。

この日の京都シネマでは、『やくたたず』の上映前に監督が中学3年生のときに撮ったという『1999年』という3分ほどの掌編作品が流された。二人の中学生(後半に三人に増える)が学校の中で追走と逃走を繰り広げるだけの映画で、中学生のときからすでにしてこんなふうに映画を見ていたのかと、俳優やカメラの運動として映画を見ていたのかと愕然としたのだけど、そのあとに『Playback』を見てさらに愕然とした。『やくたたず』が『1999年』がそうであったように人間の移動運動を捉え続けた作品だったように、『Playback』は『1999年』がそうであったように反復し円環する作品だ。何か、映写を終わらせたくなんてないんですとでも言いたいかのようだ。113分なんてけちなことは言わず、226分でも339分でも映写機を回し続けたい、J Dillaの『Donuts』をそうするみたいにリピートさせ続けようよ、とでも言いたいかのようだ。そしてまたそれは、映画を撮り続けますよという宣言であるかのようだ。

 

自身の若さやキャリアなどへの頓着や遠慮なんてものは犬にでも食わせればいいというような顔をして、考えたいから繰り返し、憧れだからモノクロを用い、終わらせたくないから円環させる。何か問題ある?いいでしょ、映画でしょ、超映画してるでしょ。『Playback』を見ていると、そんな自信に満ちた、映画を確信しきった男の不遜な声が聞こえてくるような気がする。

 

「きみたちにこのままずっと、もっと、たくさん映画をつくり続けてほしいと思う」と何度も言われたので、OKそうするほんとにありがとう、と思いました。(miyakesho.tumblr.com – ロカルノ雑感

 

2012年11月10日からオーディトリウム渋谷ほか全国順次公開予定。


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