2012年、2013年

book cinema text

年末の一週間ほどのあいだで岡山、金沢、東京、埼玉、栃木の土地を移動しているが寒さに関しては存外、どこが一番ということがないような感覚でいる。玄関のドアのガラスが真っ白になっていたけれど、煙草を吸いに外に出てみればそれほど、耐えられないほど寒いということもない。岡山の夜とそう変わらない。まだ2012年で、両親はすでに眠っている。

 
彼女は細い路地を抜け、裏の階段をのぼってやってきた。昔と同じように。ドックは一年以上彼女の姿を見ていない。というか誰も彼女を見ていない。あの頃の彼女はサンダル履きで、花柄のビキニのボトムに色あせたカントリー・ジョー&ザ・フィッシュのTシャツをひっかけていた。それが今夜はフラットランドの堅物ルック、髪もバッサリ短く切って、あんなふうには絶対にならない、といっていた格好そのまんまだ、と書き出されるトマス・ピンチョンの『LAヴァイス』を31日、田舎の栃木に向かう電車の中で読み始めた。本当はピンチョンを読むのはもっと先延ばしにしたくて東京でいくつか本を買っていたのだけど、けっきょく読み始めてしまった。どうせどうしようもなく面白いのだろう。

 
松岡正剛の『松丸本舗主義』を先日読んでから書店の本棚の作り方に興味が湧いて、金沢ではオシャレな古書店に行った。そう強いこだわりは感じられず、もともと知っていて欲しいものがあれば買う、という以外の見方はできなかった。さらに彼女が「何かワクワクドキドキするたぐいの小説はありますか」と店員の方に尋ねたところ、多すぎて答えられない、と応じるに留まったことに驚いた。趣味趣向の違いなどここでは顧慮されなくていい話だし、極めて個人的な灰汁を出してくれたらよかったのに、それがないというのは、とても残念だった。

そういう意味では翌日に行った蔦屋書店では少しうれしいこともあって、金沢からの高速バスで渋谷に着いたのは5時40分だった。渋谷の町には、それでも少なくない人がいた。お疲れ様でした、というふうだった。もう電車は動いていたのでとりあえず代官山に移動していくらか早朝の散歩をおこなったのち、開店時間の7時に蔦屋書店に入った。私はほとんどの時間を文学コーナーで過ごした。どんな本があるかと同時に、どんな本はないのかも、本屋好きの人に対しての重要なメッセージなのです、と文学コーナーコンシェルジュの間室道子は言う。どんなに売れているものであっても、それに合致しないものは、ここには置かれません、と。それを事前に読んでいたがゆえか、なんだ、こんな本があるじゃないか、なんだこんなもの、という落胆とも諦めともつかない気持ちになりながらも、ずっと面白い小説は、今読んで楽しい小説はないだろうかと棚を眺め続けていた。結果、佐々木敦の『批評時空間』を買った。けっきょくここで買わなくてもどこかで買っていたであろう本だった。ただ、それをレジに持っていったときに、「研修中」という名札をつけた店員の方がこの書籍の作りについて、佐々木敦と吉増剛造について話してきてそれが愉快だった。どうせならこの人に何かおすすめを聞けばよかった、と思わせるだけで書店員として価値があることだろうと感じた。我々はあまりにも、棚に本を並べてレジを打ってカバーをつけてくれるだけの書店員に慣れすぎている。いま『松丸本舗主義』が手元にないので正確な引用ができないが、娘が嫁ぐので数冊見繕ってください、という客のことがどこかに書かれていた。本屋でこれまで、見繕うという動詞は使われてきただろうか。私は見繕ってくれうる場所を知りたい。

その日の午後には下北沢のB&Bに行った。ビールが飲める本屋ということだったけれど、入ってみたらここでビールを飲みたいような気持ちにはなかなかなれないかもなと思い、じっさい飲まなかった。ただ、本棚は面白く、時間を掛けて眺めたあと、何か往年のハリウッド女優の名前が配されたタイトルのラテンアメリカ小説と、脳か何かについての何かの本を買った。タイトル等、手元にない今まったく思い出せない、ということはいいことだと思う。固有名詞から引き離されて、ただ本棚を見ているうちに「知らんけどこれ面白そう」となったから買う、というのこそが目指される場所であるはずで、だからこれはいいことだ。理想とまではまったく思わなかったけれど、B&Bはわりと面白かった。

 
批評は表現ではない。だが批評は創造と呼ばれ得る可能性と権利を有している。そうでなくてはならない。それを目指さずして、何がゆえの批評か、と今日の電車で読み終えた『批評時空間』のあとがきにある。アプリファイ。「世界」と「人間」との相関を増幅すること。批評の使命とはこれである。そうでなくてはならない。そこまでせずして、何が批評か、とも。佐々木敦の批評はとても丁寧でいい。クリシェの皮をめくって、その下に何があるだろう、その次もめくってやろう、そんな意志を感じる。私の読み方や見方なんて、本当に思考停止でしかない、ということがよくわかる。突き付けられる。だからといって、じゃあ、という感じに思考を駆動させようと努力するわけでもないから困るのだが、東京についた28日から30日にかけて、『Playback』(三宅唱)、『マルタ』『マリア・ブラウンの結婚』『ローラ』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)、そして『アンストッパブル』(トニー・スコット)と、充実した映画鑑賞をおこなうことができた。いずれも本当に面白く、かっこうよかった。

 

今2013年になった。J Dillaの『Donuts』を聞きながら年をまたいだ。回帰と反復は異なる、と佐々木敦は書いた。当然のことだが。そこから始めよう、と。そして思い出すことと夢見ることは、実のところほとんど同じものなのではないか?と綴り、そして夢見ることと仮想することが、ほとんど同じものであることは言うまでもない、というフレーズで稿を閉じた。

 

ファスビンダーの3本はいずれも初見で、どの作品のどれが、とはうまく名状できないのだけど、どれも本当に面白かった。特に、というのも特にはないほどにどれもよかったのだけど、『マリア・ブラウン』の冒頭はかっこうよすぎた。ヒトラーのポスターが貼られた壁が壊れ、その奥で結婚式が執り行われている。銃声が続く。それなりの大きさの爆弾が落とされたのか、教会にいた人々が逃げてくる。ウェディングドレスの花嫁と軍服の花婿も窓から飛び降りる。書類が宙を舞う。逃げようとする司祭らしき人物を捕まえて、いいから結婚証明書に署名をしてくれ、判をついてくれ、と迫る。危機も迫る。三人は突っ伏す。大きな音が鳴り、建物の一部が崩れる。ものすごいテンションのシークエンスショットで、たまらないことになりそうだという予感から口から笑みがこぼれた。一方、『Playback』は何かいちいちに涙腺が刺激され、特に高校時代のシーンでは多くの涙がこぼれた。渋川清彦の底なしの明るさがそのきっかけだった。取り返しのつかなさが、彼のスマイルによって強く意識されたらしかった。渋谷の夜は、かつて大学時代に歩いていたときと変わらずどんな時間でも躁状態の震えを帯びていた。人々は酔っ払ってか、あるいは酔っ払ったかのように、大きな声で話し、笑っていた。

孤独を感じることはなかったが、あの時間に戻ることはできないのだということはずっと感じた。何人かの友だちと会って話した。どの時間も楽しく、話し足りないと思いながら別れた。楽しい時間において、話し足りることなんてないのかもしれない。映画を見足りることもやはりないだろう。『アンストッパブル』のエンドクレジットが流れていくのを眺めながら、トニー・スコットのフィルモグラフィがこれで終わるなんて、信じたくなかった。ぜんぜん足りなかった。90分のあいだ画面を満たし続ける緊張感、耳をつんざく列車の轟音、他人のために命を賭す人々の姿、そして歓喜。ただひたすらに歓喜する人々。デンゼル・ワシントンのガッツポーズ。ぜんぶ、最高にかっこよかった。身も蓋もない、こんな感想でオッケーなんじゃないか。最高にかっこよかった。もっともっと、トニー・スコットの新作を見たかった。いや、やっぱり、一年の最後をこの最高の映画で締めくくれたことは本当によかった。それを感謝したい。覚悟、そして実践。

 


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