トマス・ピンチョン/LAヴァイス

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トマス・ピンチョン全小説 LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

読んでしまった。これで現時点でのピンチョンの未読作品が『V.』と『重力の虹』だけになってしまったと思うと一抹の寂しさが拭えないながらも、やはり、当然というべきか、抜群に面白かった。

『LAヴァイス』は登場人物の多さに混乱しまくることはあれど話の筋は一つで進んでいくので、『メイスン&ディクスン』や『逆光』と比べれば格段に読みやすく、アメリカでベストセラーになるのもうなずける(いやうなずけない)、要はシンプルな構造の探偵物語だった。解説を読んでいると、ピンチョンはやはりアメリカのポップカルチャーに通じまくっていない限りは本当のところは楽しみきれないんじゃないかという気にもなってくるけれど、アメリカなど一度たりとも行ったことのない日本人であっても十分に、十分以上に面白い。(それにしても解説というか翻訳のお二人の博識っぷりはものすごいなと感じ入った)

ピンチョンの他の作品同様だけど、この作品の何が面白いのかと言えば1.文章がとにかくクール、2.ドタバタ具合やトンデモ具合がとにかく面白い、3.時折り見せる感傷がとにかくしみる。以下具体例。

 

1.文章がとにかくクール

沖の風が強くて波は今一つだが、それでもサーファーたちは夜明けの奇妙な光景を見るために朝早くから起きだした。誰もが肌で感じている、その感触が目に見えるかたちとなって投影されるかのような光景だった。砂漠の風、熱気、容赦ない気候、何百万台もの車やバイクの排気ガスとモハヴェ砂漠からの微粒子のような細かい砂がまざり合い、それを通る光が屈折してスペクトルの一番はしっこの、血のような赤色に見える。すべてはぼやけ、毒々しく赤味を帯び、聖書的な雰囲気が漂う。船乗りが縁起が悪いと嫌うような赤い朝焼けだ。(P.137)

ティートが機密扱いの運転パフォーマンスを繰り出すと、二人とも宇宙船内の飛行士のように、シートの背に激しく押しつけられ、窓から見える街のネオンがスペクトルの滲みを長く伸ばした。走行方向は青の方に偏移し、ティートのミラーに囲われた黒の空間に点在する光は赤っぽくなって退き、一点に収まっていく。ティートのカーステレオでは、ローザ・エスケナージのテープが回っていた。「聴けよ、この女はいいねえ。全盛期のベッシー・スミスだよ。純粋なソウルだ」何小節か一緒に歌った。「ティアティモ・メラーキ。魂の欲求かい。そりゃ誰だってみんな持ってるだろ。欲しくて欲しくて恥も外聞もなくなってまわりから何と言われようと知っちゃいないってくらい」(P.340)

 

2.ドタバタ具合やトンデモ具合がとにかく面白い

「俺をケツの穴って呼んだな!」とジェイソンが叫んだときには、二人の女の子たちはすでに通りを駆け出していた。ジェイソンがそれを追う。というか少なくとも一、二歩、踏み出したのだが、次の瞬間、ジェイドがご丁寧に歩道に落として行ったオーガニック・ロッキード・アイスクリームの山につるりと滑ってドシンと尻もち。(P.217)

「車で移動中だったみたいね。インターステイト・ハイウェイから降りた脇道の公衆電話のように聞こえたわ」「そんなことまで、キミ、聞いて分かるの?」彼女は肩をすくめた。「音声が合わさる具合がそうだったから」ドックは奇妙な視線を返したに違いない。「オカルトの話じゃないわよ。合唱でパートとパートが重なるでしょ?」「ピータービルトの大型トラックとVWバスのセレナーデか」と、そんな想像をドックは口にしてみた。「ケンワースとエコノライン・ヴァンだったけど。プラス、ストリート・ヘミとハーレーと……あとはいろんなオンボロ車」この耳を生かして彼女は、昼間はUCLAで音楽理論を教え、夜は古楽のアンサンブルで、木管楽器専門の奏者としてアルバイトしているのだそうだ。(P.296)

ソンチョの姿はあったが、先日生まれて初めてカラーテレビで見たという『オズの魔法使い』のことが尾を引いていて、話のできる精神状態ではなかった。「知ってた、あれ、白黒で始まって」不安に駆られたようにソンチョはドックに教える――「途中でカラーに変わるんだ、その意味することが分かる?」「おいおい、ソンチ……」止まらない。「――映画の始まりでドロシーが住んでいる世界を、僕らは白黒――実際は茶っぽいけどさ――で見ているだろ、でもそれ、ドロシーちゃん自身には完全に色つきで見えてるわけでしょ。僕らが日常見ているのと同じ色調でさ。それから大竜巻で持ち上げられて、マンチキンの国に落とされ、そこでドアを開けると、その瞬間だ、僕らの視界が、それまでの白茶の世界からいっぺんにテクニカラーに変わる。その変化が僕らに起こるときにさ、ドロシーの視界はどう変わるんだろう?それまでの”日常”のカンザス的色彩は、いかなるものに置き換わっているのか、ね?それって、すごいハイパーな色なんじゃないかな。テクニカラーが白黒を超越する、それと同様に日常の色彩を超えてしまった世界ってどんなだろう――」とまくし立てる。「わかるよ、オレもそのことを心配すべきだ。でもな、ソンチ……」「放映したネットワークは少なくとも、お断りの文言を流すべきだったね」ソンチョは早くも義憤にかられている。「マンチキンの国は、それ自体、妙ちきりんなのにさ、その上視聴者の精神を撹乱させるっていうのはどうなんだろ。これ、制作側のMGMに対して、集団訴訟を起こす余地が充分あると思うんで、来週のオフィスの打ち合わせで提案しようかと考えてるんだ」(P.390)

立ち上がってヨロヨロとバスルームに向かい、シャワーを浴びようと思って裸になり栓をひねったが、そのうちベッドから火の手が上がった。炎はめらめらと天井を燃やし、上の階の住人であるチコのウォーターベッドに届いたが、幸いな事にチコは寝ておらず、ベッドのポリ塩化ビニールが熱に溶け、床に開いた穴から一トンの水が放水されて火は消し止められた。(P.403)

 

3.時折り見せる感傷がとにかくしみる

結局ドックは閉店まで残って、この前の晩、渓谷の下り坂を追いかけてきた悪のマーキュリー・ウッディにコーイが乗り込むのを見送った。そして<アリゾナ・バームズ>まで歩いてオール・ナイター・スペシャルを食べ、夜が明けきるまで新聞を読みながら、スモッグ越しに坂の下の明かりが見える窓際の席で朝のラッシュアワーをやり過ごした。車の流れが減って反射テープを貼りめぐらせたように見え、手前の大通りに沿ってぼんやりきらめき、やがてその瞬きは茶色く明るい彼方へ消えていく。ドックがつい考えてしまうのはコーイのことではなかった。むしろなんの根拠もなく夫は生きていると信じるホープのことばかりが心に浮かんだ。そしてその幼い心がブルースに苛まれたときにも、色の褪せかかったポラロイド写真しか手にするもののないアメジストのことも。(P.223)

 

グルーヴィ!


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