6月

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閉店後、目の前で彼女が眠りこけている。ここのところは読書にも身が入らないというよりはそこに割く時間をうまく捻出できない感じがあり、滞り気味であり、一方で本は妙に買ってしまっているということもあり、今週の休みはクローネンバーグの『コズモポリス』を見に行ってはみたもののひとつも面白くなく、どうしたことだろうかと嘆じていても仕方がないので本を読みたくもあり、そうは言ってもガルシア=マルケスの『族長の秋』を読んではいるもののそう面白く読めないということもあり、ここまでピンとこないでいるということはいったん放置して別のものを読むべきなのかもしれないという思いもあり、だけど読み始めたからには通したいという非常に現世的というのかわかないが世俗的というのかどうかまあともかくそういった確固たる意志、信念、そんなものがかすかに、まるで確固としたものではなくあり、所得リッチと時間リッチみたいな何かをだいぶ前に目にしたことがあり、それは今日ずっと頭の中にあった言葉であり、私たちは今とても時間プアのようであり、一日中働き、終わればそれからの時間を楽しむ心身の余裕もなく眠りにこけることもあり、5月までは日中に働いてくれる人がいたので休憩の時間を取っていたのであり、今はそれができないのであり、大切なものと引き換えに今の暮らしを暮らしと呼んでいいのかわからない暮らしを暮らしているようなところもあるのかもしれず、時間リッチになるためには得た所得で時間を購入する必要があり、『族長の秋』の大統領はたしかに時間リッチの存在であり、いつまで経っても彼は死なないだろうしいったん死んだとしてももう一度よみがえり、螺旋の時を生き直すのであり、それが幸福なことなのか、このうえなく不幸なのことなのか、この国の連中はわしを愛しているんだ、見てみろ、それが彼の口から何度も出る言葉であり、『コズモポリス』の奇っ怪なリムジンはいつまでたっても床屋につくことはできないのであり、橋の上で鳴らされたクラクションが引き伸ばされて響いてきたのであり、背後では製氷機や冷蔵庫が一日中活動を続ける音を発するのであり、かつてそこにいたこと、例えばその町でその朝を迎えてみせたこと、乗ってみせた自転車のこと、くだってみせた坂道のこと、座ってみせた境内のこと、それらがブワッと、フラッシュバックよりは鈍くもしかしブワッと、美しさ、記憶、過去、それら全部、私は手放すことをせずに、なぜそれがエバーノートに保存されていないのか、なぜ私はそれを検索して取り出すことができないのか、それを惜しげも無く惜しいと思ってしまうこの心性にはほとほと呆れ果てたということ、ここが吉祥寺でも高円寺でもなく岡山であるということ、ユーロでもバウスでもなく岡山であるということ、それらをほんの一瞬でも忘れたいとは思わないということ、岡山であることを私は自分で選んでそれに対してなんの後悔もしていないどころか喜んでいるということ、私が目指すのはどう考えても所得リッチと時間リッチのハイブリッドの存在であるということ、そうなってしまえば私はいつだってひとっ飛びで友人の暮らす町へ行って酒を飲みかわせるということ、何を書いているのかまるでわからなくなってきたということ、ただ、この空白を埋めるために指を運動させ続けたいということ、それらがすべて今日という一日を結実させるということであり、たとえ5分おきに要請される行動を全て差し控えたとしたって同じこの疲弊の具合で私はここに座って打鍵を続けるのであり、とても幸せには見えない金持ちの投資家が辿った末路が果たして不幸であったかなんて誰にも判定されたくはないのであり、とても幸せには見えない独裁者が辿った末路が果たして不幸であったかなんて誰にも判定されたくはないのであり、創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とからできあがっている、と今日たわむれに開いたシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵と愛と笑いの夜』に書かれており、それが妄言ではないとは誰にも言い切れやしないのではないかと、私はそんなことは思わずにふむふむと肯んじるだけであり、日々舫う、それから繙く、13坪の、その部屋に10の机と椅子を配備、それぞれの机と椅子のボタンを同時に押すことにより部屋が切り離され、浮かび上がり、窓の外に映る景色は次第に宇宙のそれへと変わってゆく。


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