読書感想文 カート・ヴォネガット/スローターハウス5

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スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)

「キルゴア・トラウトはビリーの大好きな作家となり、SFは彼を満足させる唯一の小説類となった。」(P137)

 

架空の作家と大量殺戮というモチーフを取れば、ロベルト・ボラーニョの『2666』と結びつけて読んでみることもできようし、

 

「サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だがそれは、大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ。」(P33)

 

大量殺戮と混濁した語りという点で見れば、マヤ民族の大量殺戮を扱ったオラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』と響き合わせてもいいだろうし、

 

「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」」(P137)

 

カラマーゾフを殺すこと、あるいはやはり大量の死者、あるいはゾンビのような兵隊たち、というところを見れば、伊藤計劃と円城塔の『屍者の帝国』と通じ合うことだってできるかもしれないし、

 

「あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。」(P43)

 

 

提示される永劫回帰的な生命観(宇宙観?)やバラバラの時間がバラバラに投げ出される小説の結構を見れば保坂和志の『未明の闘争』とも重なり合うかもしれない。

 

つまり、1970年のヒューゴー賞にノミネートしたSF小説であるところの『スローターハウス5』は、いま挙げたような現代の様々な小説とも照応しあう、発表から40年以上経った今でも優れて今日的な小説であり続け、

というのは貧弱なでたらめでしかなく、ちゃんと言い直すと、最近僕が読んでいる本(どれもこの一ヶ月以内の話だ)と部分部分で「あれ、この感じって」と勝手に結びつけたくなる小説だった、ということだ。

 

僕が『スローターハウス5』という作品に触れたのはジョージ・ロイ・ヒル監督による映画の方が先だった。その授業では他にロバート・アルトマンの『マッシュ』とかピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市』とかを見た記憶があるから、戦争と映画・文学、みたいなものだったのだろう。表象文化論というのが講義の名前だったはずだ。映画を授業で見たあとに、同居人がヴォネガット好きで(肩をすくめながら ”So it goes.” とかよく言っていたような気がする。記憶の捏造かもしれないが)、本棚に水色に並ぶ『タイタンの妖女』や『猫のゆりかご』、『プレイヤー・ピアノ』等と一緒にこの小説もあったので拝借して読んだのだった。そのあとの週末にインフルエンザに罹った。家に篭もって過ごすしかなくて、家の小さな本棚にあったのでこの小説を再度読んだ。ほぼ10年ぶりということだ。藤沢・湘南台から10年を経て、僕は住み始めて5年になる岡山でそれを再読する。

 

久しぶりのヴォネガット、久しぶりの『スローターハウス5』は、やはりみずみずしくすみずみまで面白いもので、作中でも訳者解説でも「無性格に描かれた登場人物」というように言っているが、むしろ人物ひとりひとりが強力に立ち現れているように感じるし、いくつもの生き生きとした情景描写が目を楽しませもした。なにせ、どのヴォネガット作品にも言えることだけれども、書き手からにじみ出る優しさや愛情みたいなものが、このうえなく心地よい。そして、今作のメインモチーフになっているドレスデン爆撃の凄惨さはあっけないほどに簡潔な文章で、端的で哀しい諦観に満ちた文章で、真に迫るものを獲得している、なんていう感想はきれいにまとめただけだろうか。

 

それにしても、戦争に関わる描写として、これほどまでに美しく、反=戦争への強い願いが感じられるものがこれまであっただろうか。少し長いが引用。

 

「負傷者と死者をいっぱいに乗せた穴だらけの爆撃機が、イギリスの飛行場からうしろむきにつぎつぎと飛びたってゆく。フランス上空に来ると、ドイツの戦闘機が数機うしろむきにおそいかかり、爆撃機と搭乗員から、銃弾や金属の破片を吸いとる。同じことが地上に横たわる破壊された爆撃機にも行なわれ、救われた米軍機は編隊に加わるためうしろむきに離陸する。

編隊はうしろむきのまま、炎につつまれたドイツの都市上空にやってくる。弾倉のドアがあき、世にもふしぎな磁力が地上に放射される。火炎はみるみる小さくなり、何個所かにまとめられて、円筒形のスチール容器に密閉される。容器は空にのぼり、爆撃機の腹に呑みこまれて、きちんと止め金におさまる。地上のドイツ軍もまた、世にもふしぎな装置を保有している。それは、たくさんの長いスチールのチューブである。ドイツ軍はそれを用いて、爆撃機や搭乗員から破片を吸いとってゆく。しかしアメリカ軍のほうには、まだ数人の負傷者が残っており、爆撃機のなかにも修理を必要とするものが何機か見える。ところがフランスまで来ると、ドイツの戦闘機がふたたび現れ、人も機体も新品同様に修復してしまう。

編隊が基地に帰ると、スチールの円筒は止め金からはずされ、アメリカ合衆国へ船で運ばれる。そこでは工場が昼夜を分かたず操業しており、円筒を解体し、危険な中身を各種の鉱物に分離してしまう。感動的なのは、その作業にたずさわる人びとの大半が女性であることだ。鉱物はそれぞれ遠隔地にいる専門家のところへ輸送される。彼らの仕事は、それらが二度とふたたび人びとを傷つけないように、だれにも見つからない地中深く埋めてしまうことである。

アメリカ人の飛行士たちは制服をぬぎ、ハイスクールの生徒となる。」(P103)

 

ふしぎな磁力が地上に放射される、というあたりがなんともいい。祈りのようだ。

 

 

最後に、話は変わるが、キルゴア・トラウトを愛読するローズウォーターが『カラマーゾフの兄弟』について言う、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」というつぶやき、そしてそれに続く、「思うんだがね、あんたたちはそろそろ、すてきな新しい嘘をたくさんこしらえなきゃいけないんじゃないか。でないと、みんな生きてくのがいやんなっちまうぜ」という精神科医に向けた言葉。

これは、SF愛好家やミステリー読みの人たちにとっては「そうだ、そうだ」というところなのではないか。僕はむしろそのつどそのつどが面白ければ、話の筋やテーマとか、扱われる題材によらず、なんでもよくて、むしろSFやミステリーは話についていくことができなくなって「僕の頭じゃ無理です」みたいになることが多い。全然嫌いじゃないしむしろ読みたいぐらいなのだけど、「間に合いません、僕の頭はショートします」となる。

 

「地球人は偉大な説明家だ。これこれのできごとがこうした構造になっているのはなぜか、これを避けるには、あるいはべつの結果を得るにはどうしたらよいか、みんな説明してくれる」(P117)

 

その説明の回路が僕はたぶん弱い。忍耐力がないだけかもしれない。それよりもこっちのほうが肌に合う。

 

「それぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ」(P121)

 

肌に合うというか、トラルファマドール星人、これ、めちゃくちゃいいこと言ってないか!?と。

10年ぶりの再読は、意外なところでびっくりしたり喜んだりすることになった。ビリー・ピルグリムが自身の人生をあっちゃこっちゃと移動し続けるように、僕もあれやこれやの書物のあいだ(といってもごく最近読んだという限定付きで)を慌ただしくせせこましく動きまわる。そんなことが触発される読書だった。

本当に「それだけじゃ足りない」のか、近々『カラマーゾフの兄弟』を久しぶりに読んで確かめてみようかと思いながら、今は『屍者の帝国』を読んでいる。


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