読書感想文 W.G.ゼーバルト/移民たち

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移民たち (ゼーバルト・コレクション)

年末に読んだ素晴らしくエキサイティングな映画論『建築映画 マテリアル・サスペンス』の刊行特集のページに、著者の鈴木了二と美術家の岡崎乾二郎が対談をしているものがあって、そこで「ガレキ映画」というものについて話をしているのだけど、最近ヴォネガットの原作を読んで、そして改めてジョージ・ロイ・ヒルの映画を見た『スローターハウス5』が少し取り上げられているのだけど、それはともかく、「私にとって<都会>とは、瓦礫の山に焼け焦げた壁、むこうにぽっかり空が見える窓の穴のことだった」と書くゼーバルトの作品は、まさに「ガレキ小説」と呼びたくなるようなものだ。

ただし、この『移民たち』という小説というか散文作品と言われるものを読んでいると、ゼーバルトの場合は、それこそヴォネガットが『スローターハウス5』で端的に描いたように、ビリー・ピルグリムらが難儀して歩き、茹で上がった死体を拾い出す、空爆後のドレスデンに横たわるようなガレキの光景が描かれるわけではなくて、かつて栄え、そして今やすっかりダメになってしまって久しいいくつものいくつもの廃墟の光景を通してガレキ小説たらんとしているように見える。

本当に、ここに収められている4編の作品を読んでいると、嫌になるほどに廃墟ばかりだ。ほとんど、ゼーバルトが歩きさえすればすべての都市は廃墟になるのではないか、調査と称してやってきたゼーバルトの影によって都市は廃墟化するのではないか、ゼーバルトは都市からしたらとんでもない死神なのではないか、などと無茶なことを言いたくなるほどに、ここでは廃墟しか映されない。

 

ともかくたちまち知れたのは、この昔日の伝説の海水浴場が、いまや世界のどの国どの場所を訪れても言えることではありながら、救いようもなく落ちぶれ、車の波や、ブティック街や、あらゆる方法で蔓延していく破壊の欲望によってみごとに台無しになっていたことだった。十九世紀後半に建てられた鋸壁や小塔のあるネオゴシック様式の城館風の別荘や、スイスの山小屋風、東洋風の別荘などはほぼ例外なく打ち捨てられ、落魄の様相をしめしていた。(P127)

 

おりから夜が明けはじめ、私は窓外を過ぎていくそっくりおなじ形をした家の列に眼を瞠ったのだが、その家並みは都心に近づけば近づくほど、だんだんと荒んでいくような印象があった。モス・サイドとヒュームではひとつの通り全体が窓も扉もすべて板で塞がれていたし、一区画がごっそり取り壊されている場所もあった。そうしてできた荒れ野原のむこう、およそ一マイルほど先に、十九世紀の栄光の都市が遠望できたーー巨大なヴィクトリア朝風の事務所ビルや倉庫ビルが林立し、いまなおいかにも豪壮な印象を与え、しかしその実、私もほどなく知ることになるのだがほぼ完全に空洞と化した都市が。(P163)

 

廃墟と化すのは何も都市に限った話でもない。ゼーバルトの作品においては広大な屋敷は必ずと言っていいほど朽ち果てかけているし、老人たちはすっかり何の意欲もなくして多くが自死を選ぶ。

薄ら寒い二つのエピソード。

 

読んで読んで読み抜いたのです、アルテンベルクを、トラークルを、ウィトゲンシュタインを、フリーデルを、ハーゼンクレーファーを、トラーを、トゥホルスキーを、クラウス・マンを、オシエツキーを、ベンヤミンを、ケストラーを、ツヴァイクを。つまりどの人をとっても、ほとんどが自殺したか、自殺の淵まで行った作家たちでした。パウルの抜き書き帳を見れば、こうした作家の生涯に対するすさまじいまでの思い入れがわかります。引用は何百ページに及んでいて、(…)そしてくり返しくり返し自殺の話が出てくるのです。(P64)

 

アンブロースが治療にしたがったのは、そうではなかった。じつはある一念のゆえでした。あなたの大叔父さんは、思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたのですよ。(P124)

 

 

ゼーバルトの小説は時たま読みたくなるというか、「そういえばゼーバルト読みたいなあ」という気が頭の端でチラチラし続けているような状態がいつでもあって、今回もそういうモードになったために久しぶりに手に取ってみたのだけれども、彼の文章を読む喜びは、僕の記憶違いでなければ、どこまでも静かで、スタティックに見える文章が、度し難いほどダイナミックに動いていく、だけどやっぱり表面は静か、静謐といって差し支えないほどに静か、というあの感触を味わうことで、それは具体的に言えば語り手の文章が、話し相手の言葉に、あるいは様々な資料の文章に滑らかかつ決定的に侵されていく、その侵入を語り手が全面的に招き、そして任せてしまうあの言ってみれば野放図な感じだと思っていて、『移民たち』においても様々な人物の昔語りが、手記が、どんどんとページを侵食していくわけだし、訳者あとがきによれば「アンブロースの<日記>のなかに一九一一年版の『ブリタニカ百科事典』の記述がまるごと引用されている」とあるぐらいだから、大変にでたらめなことをやっていることがわかりニヤついてしまいはするのだけど、僕の記憶していたようなあのダイナミックさが僕にとってのゼーバルトの真骨頂であるとするなら、『移民たち』はそこまでダイナミックな感じは受けず、わりと本当に静かに進んでいくもので、それぞれの話はそれぞれに本当に面白いのだけど、そういう点ではどこか物足りないところがあった。

実際、いつ以来の再読なのかもわからない再読をして、驚いたことにどの話も本当に覚えていなくて、まったく初めて読むものとして読んでいて、記憶力の弱さというのは便利といえば便利だとは思いつつも本当に自分の覚えていなさにびっくりしたのだけど、初めて読んだときもそこまでグイグイと持っていかれはしなかったのかなと思ったのは、折ってあるページの少なさも物語っているように思った。

数少ない折り目のついたページの一つが146ページで、これはアンブロースの日記の部分なのだけど、イルカの群れに取り囲まれた情景や、モスクで祈りを捧げている農夫の足裏など、美しいと思われる描写があり、それでページを折ったのかなと思ったら、このページの終わりかけ「そこで十二歳ばかりの苦行修行僧(ダルヴィーシュ)を見かけた」とあり、そこか!となった。お前は、これだけ美しいもろもろの中で、痛ましいもろもろの中で、充実したもろもろの中で、「ダルヴィッシュって、苦行修行僧って意味だったのか」という点でページを折ったのか!となった。

 

今だったら、僕はこのあたりのページを折りたい。

 

アーラム夫人は(…)たたき起こされた驚きと私の風采を面白がる気持ちをいっしょくたにした質問をひとつ、こう発して、ふたりのあいだの沈黙を破った。で、あなたはどこから湧いて出てきたんでしょ? そう言ってたちまち、こんなトランクを下げて祝日の金曜のこんなとんでもない時間に門口に立ってるなんて、そりゃあ外国人ーー彼女は<外人(エイリアン)>ということばを使ったーーに決まってるわよね、と自分の問いにみずから答えてみせた。だがそれからいわくありげににこりと微笑み、さっさと背中をむけたので、私はそれを付いてきてよいというサインと受けとめて、敷居をまたいだ。(P164)

 

ゼーバルトの文章とは思えない嬉しい親密さ。

 

 

やがて夕闇がしのびよってくると、目覚まし時計の針が蛍光を発しはじめ、それが私の子ども時分から慣れ親しんできたおだやかな黄緑色で、夜中にこの光を見ると、いわれもなく護られているような心地になった。そのせいなのだろうか、(…)ティーメーカー、便利でおかしなあの装置こそが、夜闇に光り、朝はひくくコポコポと音を立て、そして昼はただそこにある、それだけで私を生きのびさせてくれたような気がする。(P166)

 

目覚まし時計の針の蛍光に護れている感覚、僕にもあった、目覚まし時計を買いたい、と思った。

 

 

この肖像は、先祖たちの長い長い列、焼かれて灰になって、それでも痛めつけられた紙のなかでなお亡霊として彷徨いつづけている、灰色の顔をした先祖たちの長い列から浮かび上がってきたのだと。(P175)

 

この小説全体を一文で言い直すと、この文章になるのではないか。

 

 

船はゆっくりとこの水路を滑っていったのだ。港が近くなると、家々の黒いスレート葺きの屋根をはるかに凌駕する巨大船が、両わきの家並みのあいだを抜けていった。冬は濃霧をぬって近づいてきて、忽然と姿をあらわし、音もなく前を通りすぎて、たちまち白い霧のむこうに消えていった。アウラッハは語った、あれはわたしにとって、眼にするいわくいいがたい、なぜともわからぬが深く胸を揺さぶられる光景でした、と。(P180)

 

少し前に見たヴェルナー・ヘルツォークの『ノスフェラトゥ』でペストとネズミとドラキュラ伯爵を運ぶ巨大船が水路を入っていくところがあってそれを思い出した。水路に巨大船という光景は目の前で見たら物凄いのだろうな。

 

 

僕はこの作品をゼーバルトの最高傑作と思う気はさらさらないし、他のやつもどんどん再読したいと思っているところなのだけど、それでも、いくつもの死、廃墟、ガレキ、残酷に作用する過去の記憶、目の前の生の痛み、それらが静かに紡がれていく様を読むことは、やはり幸せな、充実したことだったし、その幸福は惨めさともたやすく通じ合うもので、その体験は貴重なことだと言って間違いなかった。

読み終えたのは休日の夜だった。どうしようもない休日の晩、ほとんどの時間をコタツで眠って過ごし、やっと外に出て、その日はじめての食事を0時半、駅前のマクドナルドで食べ、食べ終えてから大通りを挟んで向かいにあるサイゼリアに行ってデカンタに入った赤ワインをこぼしながら飲み、煌々と照り映える光のしたで読み終えた。思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたのですよ。この言葉が頭にこびりつき、それなりに酔っ払った僕は廃墟のように静まり返った岡山の町をふらふらと、星も見えないろくでもない空を見上げながら家に帰ったのです、と彼は語った。思考の能力、想起の能力を根こそぎ消すこと。アンブロースのような実行に移す度胸もない僕は、こうやって虚しさをどうにか美化しながら、ろくでもない生を生き続けるのでしょう、少なくともその夜はそう思っていました、と。


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