読書感想文 阿部和重/インディヴィジュアル・プロジェクション

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インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

「暴力的なことに惹かれているふしがある」とつぶやき、「SASやスペツナズの隊員は単独行動で何人まで殺さずに処理可能なのだろうか」と愉快そうに問い、「ファッショナブルに暴力性を身にまとう渋谷の若者たちに魅せられていたのかもしれない。あるいは、恥じらう素振りもみせずに自身の欲望を世間にむけて剥き出しにしているかのような人々を見て、強く勇気づけられた」と漏らす語り手にできる精一杯のがんばりは、ゴミ箱に打ち捨てられたフィルム断片を映写中の映画のフィルムに混入させ、「オヌマ・バージョン」を作って映写することぐらいで、町中のちょっとした喧嘩ぐらいはしてみせてもマンションへの侵入時や映画館の倒壊時など肝心なところでは自身で手を下すこともできずただ呆然としたり嘔吐をしたり足に一発撃ち込まれて入院をする羽目になるのだから、「映写技師だけを尊敬しろ!」などという叫びはむなしく響き渡るだけで誰の耳にも入らない。個人的な映写、それが複数の意識の統御を目指すものであれ、多重人格の狂気からの脱出を目指すものであれ、映写機の後ろに構える映写技師をわざわざ振り返って見る物好きなどまずおらず、観客の目を奪うのはいつだってスクリーンに投影されている画面の連なりだろう。

 

数年ぶりに、そして多分三度目の読書となった阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』は、読むごとに面白さを増すようで、今回も一晩でぐんぐんと引きこまれるというのか飲みこまれて読んでしまった。

毎回何を考えて読んでいたのかは覚えていないけれど、今回は、あるのかないのかわからないプルトニウム爆弾を巡ってのあれこれやからアルドリッチの『キッスで殺せ』を思い出しながら読んでいたら、最後に映画館が炎上する様子は海辺のロッジの炎上そのもののようだし、その際に「何も告げずに去っていった」ムラナカとアラキの二人が「互いに身体を支え合いながら」という姿は、まるっきりマイク・ハマーとヴェルダのようだった。

また、何度読んでも面白くて笑ってしまうのは「彼氏とうまくいってないから心に隙間ができちゃっただと? このおれをタンポンだとでも思っているのか!」を筆頭とするエクスクラメーションマークが使用される文章で、本当にバカバカしいなあと思いながらたいへん愉快。あとなぜかヒラサワの姿を考えるときにFla$hBackSのラッパーfebbの姿で考えていた。ヒラサワはボウリングが得意。

 

それから、もっとも目を引いたのはカヤマの存在だった。暴力を志向しながらもろくに実践することもできない語り手が投影するもっとも理想的な人物はカヤマなのではないか。ファッショナブルに、純粋に、シンプルに暴力を体現するスマートボーイ。ちょうどこれを読んだ晩に、たいへん暴力的なものに僕も惹かれるようなところがあったためか、だから、「理想的な人物」というのは何も語り手にとってではなく僕にとってなのかもしれないが、だからこういう読み方自体、大変に個人的な投影でしかないわけだけど、暴力というのは時にたいへん魅力的だと思っていた晩、それを体現するすべを僕は持たないと嘆いていた晩、できることといえば道端にごろんと転がってじたばたするとか、壁を思い切り蹴って足首を痛めるとか、吸い終えていない煙草を路上に投げつけるとか、本当にそれぐらいであることを全くもって悲しく苛立たしく感じていた晩、僕の理想はカヤマのありようだった。そしてそれは、まるっきりこの人とつながった。だいぶ長いが。

 

 

このろくでもない国はそんなものだらけですけれど。それからしばらくして、彼はアマルフィターノをじっと見つめて言った。何もかもが悪いほうへ向かってます、もうお気づきでしょう、先生。アマルフィターノは、何を指すか分からないように、細かいことには触れず、状況は芳しくないようだと答えた。手にしたものがそのままだめになっていく、とマルコ・アントニオ・ゲーラは言った。政治家たちは政治のやり方が分かっちゃいない。中流の連中はアメリカに行くことしか考えちゃいない。そしてマキラドーラで働こうとここにやってくる人間は日に日に増えている。僕が何をするつもりかお分かりですか? いや、とアマルフィターノは答えた。いくつかに火をつけてやるんです。いくつかの何に? とアマルフィターノは訊いた。いくつかのマキラドーラですよ。何てことを、とアマルフィターノは言った。それに軍隊を出動させたいですね。通りに、いや通りじゃなくて幹線道路に、腹を空かせた連中がこれ以上やってこれないようにね。幹線道路に検問所を置くのかな? とアマルフィターノは言った。まあそんなところです。今考えられる唯一の解決策ですから。ほかにも解決策はありそうだが、とアマルフィターノは言った。人々は敬意というものをすっかりなくしてしまいました、とマルコ・アントニオ・ゲーラは言った。他人に対する敬意も、そして自分自身に対する敬意もです。アマルフィターノはカウンターに目を遣った。三人のウェイターが横目で二人のテーブルをうかがいながら、声をひそめて話をしていた。出たほうがよさそうだ、とアマルフィターノは言った。マルコ・アントニオ・ゲーラはウェイターたちの方を見ると、手で卑猥なサインを作ってみせ、笑った。アマルフィターノは彼の腕を掴んで駐車場まで引きずっていった。日はすでに暮れていて、店名が意味する足の長い一匹の蚊をかたどった巨大なネオンサインが、鉄枠の上で輝いていた。ここの連中は君に敵意を抱いているようだ、とアマルフィターノは言った。ご心配なく、先生、とマルコ・アントニオ・ゲーラは言った。こちらは武装していますから。

 

僕には分かります、あなたのことが、とマルコ・アントニオ・ゲーラは言った。つまり、僕の思い違いでなければ、あなたのことを理解しているつもりです。あなたは僕に似ていて、僕はあなたに似ている。あなたも僕も、落ち着けない。二人とも窒息しそうな環境に身を置いているんです。何も起きていないかのように振る舞っているけれど、実は何かが起きている。何が起きているか? 窒息しそうなんですよ、まったく。あなたはあなたなりに憂さ晴らしをしている。僕は僕で、ふっかけてやるんです。あるいはふっかけられてもいい。でもただふっかければいいというわけでもない。凄絶な修羅場にならなくては。秘密を教えましょう。僕はときどき、夜、外に出かけて、あなたには想像もつかないような酒場に行きます。そこでおかまのふりをするんです。ただしそんじょそこらのおかまとは違う。洗練されていて、人を小馬鹿にするような、皮肉屋のおかま、ソノラでもっとも不潔な豚小屋に咲くヒナギクです。もちろん、僕自身はこれっぽっちもおかまなんかじゃありません。そのことは亡き母の墓にかけて誓えます。それでも構わずおかまのふりをする。うぬぼれた、金持ちの、あらゆる人間を見下す男娼です。すると、起こるべきことが起こる。ハゲタカがニ、三羽、声をかけてきて僕を外に連れ出そうとする。そこから修羅場が始まる。こっちは分かっているけれど構いはしない。向こうが痛い目を見るときもある。とくに僕がピストルを持っているときはそうです。でなけりゃ痛い目を見るのはこっちです。どっちだって構わない。僕にはそういったどうしようもない発散の場が必要なんです。友人たち、僕と同じ世代の、もう大学を出た数少ない友人たちにときどき言われます。気をつけろ、お前は時限爆弾だ、マゾヒストだとね。一番親しかった友人には、そんなことできるのは君みたいな人間だけだと言われました。面倒なことに巻き込まれてもつねに助けてくれる父親がいるからだと。でもそれはたまたまです。親父に何かを頼んだことなんて一度もない。実は僕に友達なんかいません。いないほうがいいんです。少なくともメキシコ人の友人なんかいないほうがいい。メキシコ人はみんな腐ってる。ご存じでしたか? 一人残らず。ここじゃ誰も救われない。共和国大統領からあの道化のマルコス副司令官まで。もし僕がマルコス副司令官だったら、何をすると思います? 自分の全軍勢を投じてチアパスのどんな町でもいいから総攻撃を仕掛けます。強力な守備隊がいればいつだってね。そして哀れなインディオたちを犠牲にするんです。それから、たぶんマイアミに行って暮らします。どんな音楽が好きですか? とアマルフィターノは尋ねた。クラシック音楽です。ヴィヴァルディ、チマローザ、バッハ。では、普段どんな本を読んでいますか? 昔は何でも読みました。ものすごい量をです。今読むのは詩だけです。汚れていないのは詩だけなんです。詩だけは商売の手が及ばないところにあるんです。お分かりいただけるでしょうか? 詩だけが、といってもすべての詩というわけじゃない、それははっきりしていますが、詩だけが健全な糧であって、腐ってはいないのです。

 

それぞれP216からと、P226からで、ボラーニョの『2666』、アマルフィターノの章の終わりかけからだ。ゲーラのこの魅力的な姿を読んだときに、どの作品かわからないがドストエフスキーの人物にもこういうスマートバイオレンスボーイってとてもいたような感じがあるし、そして最後の詩こそが、詩だけが、と言ってしまうあたり、スマートであると同時にこのうえなくキュートだなと思ったのだけど、『インディヴィジュアル・プロジェクション』のカヤマの、酒場での長広舌は、やはり酒場でのゲーラの長広舌とリンクしてこのうえなく愉快だった。そしてこれを引用するために開いた『2666』は、やっぱりものすごく面白かった。

 

錯乱する語り手。先日読んで阿部和重を想起することになったオラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』ともやっぱり響き合っていて、切迫というのはいつだってバカバカしいものだということを教えてくれる。


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