読書感想文 ブライアン・サイモン『お望みなのは、コーヒーですか? スターバックスからアメリカを知る』(宮田伊知郎訳、岩波書店)

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お望みなのは、コーヒーですか?――スターバックスからアメリカを知る

大学生最後の一年間ぐらい、スターバックスでアルバイトをしていた。漠然と抱いていた「偽善」というイメージ自体は最後までなくなりはしなかったけれども、この上なくフェアな職場で、働く環境としてはすごく好きだった。いやほんと、この店をもっとよくしていきたいよね、と、ただの学生バイトの身でありながら思っていたし、同じ立場でそう思っている人が実際にたくさんいたから、なんかこう、終わったあとに飲み屋に行って「この店を」とか話したりして、「うわ、偽善の内側に俺は今」と思いながらも、とか思うのはもしかしたら偽悪かもしれなくて、まあ、こうやって打鍵しているとこっ恥ずかしい気になって赤面及び頬が緩む感じがあるのだけれども、なんかこう、楽しかったんですよね、スタバ、というところだった。最後の日は大号泣、という。今考えてもなんともこう。

 

それが2007年とか2008年とかだったから、ちょうどスタバの業績不振が騒がれているころで、ということはこの本を読むまでは一つも知らなくて、そしてスタバのブランドが陳腐化されていき、客層は平均年収8万ドルの富裕層及びクリエイティブ・クラスから平均年収5万ドルへと落ち着き、という流れもこの本を読むまでは一つも知らなかった。そして当初は「ビジネスピープル、旅行好きの人々、本を買うのが好きな、「まともな稼ぎのある人々」」を明確にターゲットにしていたということも。

僕の中でのスタバのイメージはずっと変わらなくて、盛り上がりも衰えもあまり感じたことはなくて、特別な存在でも悪の権化的な存在でもなく、なんかまあどこにでもあって、キレイで、落ち着けるかどうかはわからないけれどもイヤホンさえ挿せば本は読めるしパソコンを開いても問題ないし、という便利で使い勝手のいい場所だ。圧倒的にプレディクタブル。

プレディクタブル(予期可能性。この単語なかなか覚えられない)。これは本当に長所で、「真正なものを消費する。人びとは一見このことを支持しそうだが、そうでもないのだ。人びとは真正さを犠牲にしてでも、汚れ一つない、なじみ深い場所を求める」や「外に出て皆がいる公共の場所に行きたいけれど、絶対に安全で予期可能な環境でなければ嫌だ、という願望を人々は誰しも持っている」とあるけれども、だからこれは本当に長所で、いや本当に長所だよなーと思うので、現在の僕はスタバかサイゼリアぐらいにしか行かない。プレディクタブルっていうのは場所にとってはすごく大切な要素だと思う。少なくとも僕のような、選択という行為のコストを高く見積もり、安全性に重きを置くような人間にとっては、何も考えずに行けるのは極めて楽だ。(極めて楽って打ってみたけれど、わ、極楽、と思ったのだけどそういうつもりというか極楽だとは思ってはいないというか別にそんなこといちいち言う必要はないのだけど。)

 

だから、本書では、スタバという企業は、というか総じて大企業というものは、ポストニードの経済秩序のなかで鍵となる概念だという「約束」をフル活用していますよ、「約束」は「幻」と言い換えてもいいですよ、要はあらゆることがフェイクなんですよ、という話だったと思う。それはオルデンバーグが言うのとはかけ離れたものであるにも関わらずサードプレイスを自称する点、ディスカバーどころかみんな知ってるアラニス・モリセットなのにディスカバリーミュージックと言っちゃう点、やってないわけではないじゃないですかというエコへの取り組み、いやリトルガイズを支援してますよ豆買ってますよ少しですけどというグローバリゼーションへの取り組み等、いろいろとあるみたいだし、まったく知らなかったことがここにはとにかく書かれていたので、へ~、スタバ、黒いなあ腹、とニヤニヤしながら読みもしたのだけど、僕はどうしても、いいじゃんそれで、と思ってしまうのだった。営利企業なんだから、しょうがないでしょ、利潤の最大化目指すでしょ、と思ってしまうのだった。

著者とて別にスタバを断罪しているわけではなくて、スタバ(あるいは大企業)を選んでいる皆さん、スタバに幻想を抱いてませんか、実態をお教えしますよ、こんな感じですよ、どうですか、まだ好きですか、そうですか、それならまあ、というぐらいのスタンスだとは思うのだけど、ご多分にもれず大変意識の低い人間で申し訳ないのだけれども、まあ、それならそれですわ、大した期待はしていなかったけれど想像以上に色々なことが中身ないんだね、スタバは、という印象を抱いたぐらいだった。僕はこれからもスタバに行く。便利で、安全だから。それだけ。というところだった。

 

いや、しかし、腹、本当に黒いんだろうかスタバ。本当はもっと色々しっかりやりたいんだけど、株価とかあるので、売って売って売りまくらなければならないので、膨張したボリュームを必死で維持しなければならないので、というところなんじゃないだろうか。全部、しょうがないじゃん、と思ってしまう。環境問題への取り組みの章の最後にも、「エコが大衆化しステイタスづくりに役立たないとすると、劇的な改革をやったって注目なんてされない。ならば、なぜ思い切ったことをやる必要があるのか?なぜ急いで真面目にやらなければならないのか?」とあるけれども、いやほんとそこだよねーと思うのだけど、こういうのはスタバとか大企業とかの責任というよりは、社会の意識みたいなものが「このレベルまで取り組まなきゃアウトでしょ」みたいなふうになるか「そんな取り組み超クールですねー」みたいなふうになる以外に、つまり鞭をちらつかせるか飴を舐めさせるか以外に企業をモチベートすることはできないのではないかと思っちゃうのだけど、そういうものでもないのかな。僕はもしかしたら今一度CSRというものについて考えてみたほうがいいのかもしれない。企業の社会的責任だなんて、そんなもの、と思ってしまっている節がある。自営業者としてもこの態度はよくないかもしれない。

 

そういうわけで総じて楽しく読んだのだけど、シュルツさんが創業者だとばかり思っていた僕にとっては、ボールドウィンさんらが始めたスターバックスを「この小さなシアトルの会社をビッグにするのだと心に決めた」シュルツさんがスタバに入り込み、そして拡大路線を取り、いったん辞めて自分で新たな店をやり、と思ったらボールドウィンさんらの経営が不振に陥ったところで一気に攻め込み、そして、という流れがたまらなく面白かった。

人の店を見て「この小さな会社をビッグにするのだと心に決める」って、なんて厚かましい男なんだろう!今自分たちの店に人がやってきて「君らの店、いいね。俺も参加して、店でっかくしたいんだけど、どう?」とか言われたら頭おかしいのかと思うだろうなと想像するとシュルツさんの行動力というか厚かましさには度肝を抜かれる。そしてどんどん本物からそんなに本物でないものへと移行していくこのグダグダというか「あーそれダメな路線だー」という感じ、インディーズでスリーピースで無骨な音鳴らしてたのに、どうしてその曲にストリングスが、みたいなあの感じ、メンバー増えてその人シンセって、どうしたの、っていうか誰ですか、っていうあの感じ。小さなものが大きくなっていく過程でどんどん削ぎ落とされていく真正さのようなものが、読んでいて「うわ~……」となって楽しかったです。

「ボールドウィンらが重視した真正さへの探究心を、原型とはかけ離れた品を買い求めることが真正なものの追求だという観念とすり替えれば、かれらは皆スターバックスの愛好者となるとシュルツは踏んだのだった(P38)」

「効率は真正さに勝るものだった。しかしスターバックスは効率の追求に加えて、本物志向の演出を止めようとしなかった。本物志向のイメージこそがアピールであり、かれらが売り出す感情的価値の核心だったからである(P45)」

 

それにしても装幀のこのふんわりした感じと値段のギャップは愉快というか、ターゲットとしてふんわりスタバファンみたいなものも考えられているのかもしれないけど、あ、スタバ、とか思って手に取ってもこの値段じゃ買わないでしょ、二段組じゃ買わないでしょ、と思った。「誰がターゲットなのか意識すること!」

あと「ほんのさわり」とか「すべからく」とかが誤用だったよねという使い方で使われている箇所がいくつか目についたのだけど、岩波ってそういうところすごく堅牢そうだと思っていたのだけど、そうでもないのかな。

 

引き続きアイライクスターバックスです。


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