佐々木俊尚/「当事者」の時代

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佐々木俊尚『「当事者」の時代』を読んだ。

「当事者」の時代 (光文社新書)

いつの頃からか佐々木俊尚信者になっていて、最近は全然追えていないけれどかつては毎朝のツイートを読むことが習慣かつ楽しみだったし、今でも週一のメルマガを読むために毎月1000円を払っているほどで、自分でもいったい何のつもりなのかさっぱりわからない。最近は以前ほどの興味はないのだけど、それでも新刊が出たなら早く読むぞ、ということになっている流れに従って読んだ。

 

あとがきによると小熊英二『1968』、加藤典洋『敗戦後論』、原研哉『白』に強く影響を受けて書かれたという本書は「<マイノリティ憑依>というアウトサイドからの視点と、<夜回り共同体>という徹底的なインサイドからの視点の両極端に断絶してしまって」「この極端に乖離した二つの視点からの応酬のみで」成り立ってしまっているという日本の言論の成り立ちを、著者の新聞記者時代の経験談、「異邦人」としての戦後の在日朝鮮人、6、70年代の学生運動、古くからの日本人の宗教観、世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』に宿るユダヤ人問題等、だいぶレンジの広い話題を横断しながら分析していくというものだった。

 

その日本に巣食っている言論の状況に対して著者は「今こそ、当事者としての立ち位置を取り戻さなければいけない」と熱っぽく語っていて、その処方箋は「メディアの空間に脚を踏み入れる者が、インサイダーの共同体にからめとられるのではなく、そして幻想の弱者に憑依するのでもなく、つねに自分の立ち位置を確認しつづけること。完全な<加害者>でもなく、完全な<被害者>でもなく、その間の宙ぶらりんのグレーな状態を保ちつづけること」とのこと。至極まっとうで、まあ、なんか、そうだよな、と思った。新聞記者時代の経験から書かれた一章、二章が特に面白かった。

 

思い出すことが二つあって、ひとつは震災直後のタイムラインで、誰もが深刻なツイートをしているなかで年下の知り合いが友だちとご飯食べてきた楽しかったぴょんぴょん的なツイートをしているのを見て、これはなんか場違いというかちょっとどうなんだと思って今はそういうのはやめといた方がいいんじゃないのというダイレクトメッセージを送った私で、もうひとつは最近は見ないというかミクシィならではの現象だったのかもしれないけれど殺人事件の記事に対して加害者に信じがたいほどの強さの憎悪コメントをぶちまけるたくさんの人々で、どちらについても、いったいお前は誰なんだ、誰の言葉を代弁しているんだ、と思っていたのだが、あれこそがまさに憑依だったんだなと。私は被災者に憑依することで単純にいま自分が見たくないものを排除しようとして、ミクシィの人々は被害者遺族に憑依してどれだけ罵っても反撃できないサバルタンとしての殺人犯を糾弾し日頃の鬱憤か何かを晴らそうとしていた、ということだったのだと思う。マイノリティ憑依というのはたしかに便利で無敵でだからこそ非常な暴力装置として機能する。これはよくよく注意しないといけないなと、そう思いました。

 

それで、当事者としての立ち位置を取り戻せということだったのだけど、当事者としての立ち位置の難しさということはやはり震災のときに強く感じたものだった。同じ国の地続きの場所でどうしようもなく大変なことが起きていて、でもそのことを私が知れるのはパソコンのディスプレイを通してだけで、西日本に住んでいる身としては生活になんの変化もなくて、圧倒的な日常が続いていて、そういう状況のなかでどんな当事者意識を持って、どんな振る舞いが可能なのか、悩んだとは言わないまでも困難さを感じていたことを覚えている。実際あのころ、震災の非当事者という当事者性を引き受けて体現できていた人なんてどこにもいなかったような気がする。誰もが「被災国日本の国民である自分は震災の当事者である」というような顔をしていて、本当に、本当にそれをあなたはちゃんと心底で感じられているのですかと私は問いただしたかった。自分だけがこんなにぼんやりとした恥知らずな人間なのかと、そこまでは思わなかったけれど、一枚岩のような「国民」のみなさんの言動は私を大いに戸惑わせた。

当事者性を獲得する最後の手段のような感覚だったのか、数万円分の金銭および物資の寄付をしたものの、結局それで得られたのはちょっとした免罪符だけでしかなくて、偽装の当事者性すら得られないまま震災は自分のなかでどんどん薄くなっていった。店を始めてから震災後の移住者の方々と知り合う機会が何度もあったけれども、この人たちと自分には決定的な断絶があるように感じ続けていた。そんな中で今年の3月11日の午後に感じた奇妙な緊張と泣きそうな感覚は、あれは一体なんだったのだろうか。一体なんのつもりなのだろうか。

 

それはいいとして、本書は面白かったは面白かったのだけど、たぶん私が佐々木俊尚という人に求めているのはこういうものではないんだろうなというのはよくわかった。『「キュレーション」の時代』や『2011年新聞・テレビ消滅』や、あるいはメルマガで書いているような、現状の分析から来たるべき未来を投射するものを読んでマジっすか、そんなことになっちゃうんすか、それはちょっと楽しみかも、という感じでワクワクさせてもらいたいだけなんだろうなと。

それと気にかかったのが、準引用みたいなものだとは思うし書き方の問題でしかないといえばそうなのだけど、たとえば津村喬の『われらの内なる差別』が書かれた経緯を語るところで「早稲田のキャンパスの近くにある下宿の四畳半は、日が暮れてだんだんと薄暗くなってくる。続行しているバリケード封鎖のことを気にしつつ、次の一行をぼんやりと考えていると、李智成の短い遺書の向こう側に、なにか真っ暗な大きな空間がぽっかりと口を開けているように津村は感じた」云々というような描写がされて、こういう感じに登場人物の心象風景が描かれる文章がところどころに入ってくるのだけど、これってまさに憑依してるんじゃないの、というのが違和感として付きまとった。当然、これらは本書で言っているマイノリティ憑依というものとは異なる文脈に属するものではあるとは思うけど、なんだか、そういうところに接近してしまう危険性をはらんではいないかと感じた。何かからの引用ならちゃんと引用として書けばいいのになと。どうなんだろ。そういうもんなんだろうか。

 

関係ないけどNUMBER GIRLの「TEENAGE CASUALTIES」が私は好きです。「どこかの誰かが被害者 どこかの誰かが加害者」という歌詞に揺さぶられて今の私の何かが形成されているような感すらある。

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