4月

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店は観光地といえば観光地というか日本三大庭園のすぐそばである以上いちおうやはり観光地にあると言っていいとは思うのだけどそういう絡みというか、すぐそばで桜カーニバルという名称の、要は桜がたくさん見られますよ、屋台も出るので好きにやってくださいね、ブルーシート、というカーニバルというかカーニバルっていったいなんのことだったのか、その意味が溶解するような用法だと思うけれどそういったことがこの2週間ほど催されていて、晴れた日や土日はたくさんの人々がそこにやってきてシートに寝そべるか座るかしながらビールを飲んだり何かを食べたりしていたらしく、朝、店に行く前の時間に散歩がてら後楽園の外苑をぐるっと歩いてそのカーニバルが催されている土手道も歩いてきた。土手の上に立つ桜の木は傾いで斜面すれすれまで枝およびたくさん咲かせた花を下ろしていて、前には川らしきものが流れていて、その向こう側が後楽園だった。後楽園の園内の桜の木もいい咲きっぷりを見せていた。朝にも関わらず場所取りの人たちが居座っていて、中にはスーツを着る者の姿もあった。仕事で花見というのを気楽なもんだとは一切思わないというか私だったら辟易というか仕事の一環で飲み会らしきものが催されたらいろいろと激しくうんざりするだろうから一切それを気楽だとは思わないけれども、組織としては気楽なもんだなと、やはりこれも一概には思えないけれどまあ、それ土日やればいいんじゃないの、とも思ったけれど私だったら会社の飲み会らしきものが事もあろうか土日に催されたら代休を要求したくてもできない、みたいな空気に屈してなんともいえない憤りだけを貯めこんでいくだろうから、もしかしたらそれは次善策としては十分かもしれない。
いずれにしても、人々はそこで飲み食いをおこない、話に窮したら桜がきれいである旨を相手に伝え、私は今にぎやかな場所にいるのでイヤホンをしている。

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桜のカーニバルは観光地に店を構える私たちにも大いに影響を与えるもので、土日に限らずたくさん人が来た。いらした、と書くべきだろうか。いらした、と書くことは何かに対する迎合なんじゃないのかという余計な気を回してしまうのだけれどもそんなことはおそらくはないのだろう。いらした。たくさんの人が。方が、と書くべきだろうか。方が、と書くことは何かに対する迎合なんじゃないのかという余計な気を回してしまうのだけれどもおそらくそんなことはないのだろう。どうでもいい。方がいらして、たくさんお金をもらった。それはとてもありがたいことだった。14時間であるとか、それ以上であるとかの時間、腰を下ろすことが20分だとかそのぐらいだったということが何度もあり、夜ご飯を食べるのが閉店したあとになる、ということが何度かあった。その絡みかどうかはわからないのだけれども昨日の夕飯はミックスナッツであり、今日の夕飯は一風堂でのラーメンとなった。一風堂では何を店員に聞かれても単語でしか答えない男が横に座っていた。声の調子だけを聞けば決してつっけんどんではないのだけれども、いくつかは最後まで何かを言い切ったらどうなんだろうと思わずにいられなかった。彼に合っているのは一風堂でなくて松やであり、彼が対するべきは人間ではなく発券機だ。

 

その、2週間ほど忙しかったためというだけではなくこのところの私は時間がない時間がない時間がないということばかりに気を取られていてそういうことに気を取られているから余計に時間が削られる。時間がないスパイラルに陥る。一生懸命生きているような気がする。たいへんがんばっているような気がする。だけど非常な焦りというか、追い立てられるような気分になって、昨夜も閉店後に仕込みを始めてそのまま店で寝るというような真似をして、本も読まない、映画も見ない、そんな生活を望んでいるわけでもない。一時的な繁忙であることはどれだけ承知してみても、時間がないという強迫観念を退けられるわけではなかった。体が本当にしんどく、気持ちもそれに劣らないしんどさにあった。たくさんのことがどうでもよくなった。私には何もないような気がしなかったけれど、時間はないし、友だちもいないよなということはここのところずっと考えていることで、飲みに行く友だちもいなければ愚痴を聞かせる友だちもいなければ言うべき愚痴も持たなければ友だちの作り方なんて、まったく忘れてしまった。どこに行って、何を、いったい誰と話したらいいのか、そんなことはまったくわからない。そもそも、お客さんを見ていても思うのだけれどもよくもまああれだけみな話すことがあるものだと感心するとともに自分の話すことのなさに愕然ともする。何をあんなに話しているのだろうか。よほどそれは有意義なものなのだろうか。私にはそのあたりがまったくわからない。様々なことをこの何年か十何年かのあいだに切り捨てていって、今の私があって、そして何も話すべきものを持たない。私はこうやって、にぎやかな場所にわざわざ出向くという行動がよくわからないけれども、こうやって、イヤホンで音楽を聞いて、ディスプレイに向かって、指は打鍵して、文字がこうやって映しだされていって、世界がこの中だけで完結するような状態になって、そんな状態がいちばんしっくり来るのかもしれない。それ以外の世界なんて汚らわしく、余計で、私を傷つけ、罵り、殴りつけてくる、それだけなのではないだろうか。厭世観に酔う年齢ではもはやないことは重々に承知しながらこんなことを言っているのだからおめでたいものだし、友だちがいないと言いながら私は数百の友だちに向けてフェイスブック等で「カタカタしていないと気が休まらないためまたブログを更新した。不毛なことこのうえない」というようなコメントでもつけて更新を知らせるのだろうし、それに「いいね!」がつけばそれはそれでなんとなく嬉しくなってみたりもするのだろう。くだらない。あまりにくだらない。

 

弱気なことばかりを書いていても何も生まれないことはわかっていたのだけれども本当にあまりに何も生まなかった。ブログなんて形はやめて増田で書くべきなのかもしれない。フェイスブックも、ツイッターも、ブログも、あまりに私に紐付きすぎていて、私は私とは関係のないところで、せめてネット上でぐらい、生きたい、と思うこともあるけれどどこでも本名を晒してやっているのはもはやそういう線引きは無意味だと判断したうえでなのだけれども、それにしたってこんな暗い文章、本名のもとで書かれワールドワイドウェブに投げられる必然なんてどこにもないのに。ほんとうに、何をやらしても私はくだらない男だ。ということが判明したのでよかったです。


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