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昼寝をしたためかさっぱり目が眠くならないで困った。昨日ずいぶん飲んだし今日はたまには酒を飲まない夜にしようと思っていたが眠くさせられないかというところでウイスキーを飲み始めた。夜3時。『それから』の次をどうしようかと思って『門』にした。『それから』の次をどうしようかと思って『門』にした、と打っている最初の方になにか考えていたことがあったが打ち終えたら消えてしまったので再度打ってみたが思い出せなかった。じきに思い出すだろう。

『門』は役所勤めに汲々としているたぶん齢30ほどの、で思い出したが次の一冊を考えた時に漱石を読みたいわけではなくて30歳くらいの男の話を読みたいのかもしれない、だから次は漱石ではなくそういう年齢が描かれるものにしようか、しかし本当にそうしたいか、『それから』を読んでいる時の苦しさ、襲ってくる不安、そういうものとまた向き合いたいか。『それから』は久しぶりにのレベルで強度の共感というか、共感というと違うのだけど、共感に近い、共鳴というか、なにか自分のなかの何かが打ち鳴らされ、揺れ動かされる読書だった。それはビビッドでよいのだけど、そんなビビッドさを読書に求めたかったか。もっと自分とは関係のない場所で起こるできごとを遠目で楽しみたいのではないか。気楽に楽しみたいのではないか。どうだったか。とそんなことを思ったが過の考えだったのか特にそういったことは忘れて『門』を取った。『門』はあたらしい文庫を買ったのか『それから』よりも文字が大きく、最初はその大きさと漱石の文章とがそぐわないような気がして興が乗りにくいような気がしたが面白く読んでいる。『それから』の続きと考える必要はないにせ、なれそめになにか暗い重大なことがあったらしい夫婦であるところの宗助と御米が借家で、家計に八苦しながらそれでも安穏とした態度で暮らしているさまを見るにつけ、代助と三千代がそうなったとするならば、それは本当にうれしい、しあわせなことだと思った。二人は縁側についてはたはたと団扇を扇いで涼を取りながらぽつぽつと話すだろうし、ひとつの蚊帳に入ってすぐにすやすやと寝入った。眠れぬ夜をいくらも暮らした代助の姿を見てきた者として、寝付きのいい宗助+御米の姿にはやすらぎしか感じない。それでとてもうれしい思いをしている。同時にまた、同時にまた。2という最小の数で構成されるユニットのもつ性質のようなものに対して。フランク・オーシャンがアンビエントなトラックのうえで歌をうたっている。それが荘厳といいたくなるような、それでいてやさしい響きを夜に与えている。淋しみを感じてしまう自身の心性のようなものを恐れる。忌む。どうやったって。眠れないというか眠気が体と頭におとずれない。おとなう、訪う、ということばの響きはいまもって好きらしい。おとなう。やさしい言葉というか響きだと感じている。3時14分。打ち始めて10分が経った。今日この一日はどんな一日だったのだろうか。なにとも連関しない、とは言わない、いくつもの人々の存在に救われて支えられてこうやって立っていられるというか今は座っているけれど、立っていられる、それはたしかだろう。なにに満足がいかないのか。それはもちろん明瞭な答えがある。代助がいうのと同じことを考えている。代助がそれでもうらやましいと思ったのは様々な考えを打ちやって狂気のようにも見える一途の行為に自分を移せたところで、それだけの賭けをできるだけの気性を結局のところ持っていた、獲得できたところだろう。僕はうすぼんやりと生きている。そういう時期というだけだとは思うけれども、ビビッドにありたい。それをとうぶん、僕はなくしてしまった、それがずっと気がかりでいる。勃て、勃て、と萎えたちんこをこすり続けているような、焦りながら「焦る、焦る、ああ動く、世の中が動く」と言っているような、そんな日がずっと眼前にあり続けている。両の手のあかぎれがここのところひどく痛む。今は左手の小指の中ほどにできた小さな切れ目が曲げようとすると鋭く強い痛みを届けてくる。すこしばかり『門』を読み進めることが怖い。この夫婦になにも起きないことばかりを願っている。


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