7月、夜になるまえに、ビールを飲む

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夜になるまえに

 

カストロは言った。諸君はとても誠実で、完全に政治化し、革命的であらねばならない、と言った。(P90)

「完全に政治化し、革命的」というのがいい。

 

ミゲルは短気で規律を守らなかったが、人生が大好きだった。(P111)

いい。

 

伯母は自分と寝ようという男ができるたびに夫を裏切った。でも、数は多くなく、食料雑貨屋、日用品店を接収された老人、自分の親友グロリアの夫で国家公安局で働いている男、その三人だった。伯母がそういった男たちと部屋でセックスしているあいだ、伯父のクチョは台所で皿を磨いていた。(P204)

皿磨きでは音は全部聞こえるのだろうなというところがいい。

 

「共産主義体制と資本主義体制の違いは、いずれの体制もぼくたちの尻を蹴飛ばすものですが共産主義体制では蹴飛ばされると拍手しなくてはならない、ところが資本主義体制では蹴飛ばされると叫ぶことができるということです。僕はここに叫びにきたのです」(P370)

 

だが、ノーベル賞はフォークナーの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア=マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない。(P389-390)

数カ所でガルシア=マルケスをこき下ろしている。それを読んで初めて私はガルシア=マルケスがカストロを擁護し続けていることを知り、結構なところびっくりした。それに伴い、ガルシアマルケスという日本のブランドがあることを知った。生きていさえすれば、何かに興味を持ちさえすれば、いろいろなことが知れるものだ。

 

 

休みである昨日は一日中、レイナルド・アレナスの『夜になるまえに』を読んでいた。一日中というのはそう誇張でもなく、起きている時間のだいたいすべてはそれに当てられた。一つの国が牢獄と化すその状態を私はまるで想像できないし、彼の歩んだ人生の困難がどれほどのものであるのか、一日読んだ伝記で推し量ろうだなんて、できるともしたいとも思わないけれど、そういえば人生は途方もなく虚しかったのだと、私はこの2年間を除いてずっと、虚しさとともにあったのだと、そのことを改めて思い知らされた。それは情けないくだらない唾棄すべき休日を過ごしてしまったためであり、アレナスのためではなかったが。雨が、昨日は一日中、降っては止みを繰り返していた。今もそれは変わらないが。

自伝はとても面白かった。迫害と緊張の日々の様子が生々しく、どの友人がいつ裏切り者、密告者になるのかまるでわからない、疑心暗鬼の日々のありようは、読んでいて戦慄を催させた。基本的には計算高い性格だと私は自身について思っているので、その自己評価が確かであるならば私は即刻密告者になるだろうし、仮に作家であったら、ここに描かれた何人もの作家がそうしたように、カストロ体制を賛美する文章を書く側に転向するだろう。本当にタフな人でなければタフに生き続けられないキューバの様子が、ありありと描かれていた。

それにしても、この自伝を読んでいると、キューバの男は全員がホモセクシュアルなのだろうかというぐらいにみんなホモというような感じで描かれていて、それについては「とても開放的な空気があったのだ」みたいな記述である程度納得したのだけど、それにしたって、みんなあまりにもセックスしすぎじゃなかろうか。アレナスにいたっては、中盤ぐらいだったと思うけれどすでに5000人はくだらないというようなことを書いていて、その途方もない数字にはびっくりするだけだ。凄まじい。

 

ところで今日行った本屋で見かけたエドムンド・デスノエスの『低開発の記憶』ではキューバ革命直後のハバナの様子が描かれているという。これも面白いのだろうか。映画は以前シネフィル・イマジカか何かで放送しているのを録画していたが、焼いたDVDをデッキに入れても読み込まないため未見のままだ。『夜になるまえに』も映画を一度見てみようかしら。不思議と、今のところアレナスの他の小説を読んでみたいという気にはなれていない。

 


 

強い、アスファルトの地面に落ちては跳ね返る雨の中、鞄を守るようにしながら歩き、入った店でハンバーガーとポテトを食らい、ハイネケンとモルツを飲んだ。そこに15時半から18時前までいて、ずっとアレナスを読んでいた。そのあいだ、店内では感覚としては20分ぐらいでリピートされるアルバムがずっと流されていて、出るときに教えてもらったバンドの名前はBleachedというものだった。あとでyoutubeで検索して見た。たまに、こういう音を聞くのはとてもいい。それはとてもエネルギッシュで若々しく、素晴らしい音楽だった。

 

雨がまだパラパラと降るなかで店を出、家に帰ってビールを飲もうと思っていたところ、大きいテレビが置かれている、いつも誰も人がいないように見えるバーというのかわからないけれど酒を飲む用途に使われるためにあるのであろう店の、そのテレビで野球の試合が流れていて、どうやら日ハム対ソフトバンクで、古くからの日ハムファンである私はたまには野球を見るのもいいかもしれないと思い、その店に入った。いつも人がいない店で、いったいどういった目的で存在している店なんだろうと不思議に思っていたが、入ってみてもやはりその疑問は解消されない、何一つとして取り柄ややる気の見つけられそうにないその店のありかたに困惑しながら、ビールを注文して奥のテレビの前に座って野球を見たり、iPhoneをいじったりしながら時間を過ごした。壁にはビールの生樽やあれこれが無造作に置かれていて、その中に紙パックに入った2リットルとかそういう仕様のワインを見つけ、こういうものを客に見せても平気というところに、ある種の凄みを感じた。うちの店で出しているワインはこういった超廉価品です、と堂々と見せつけられ、私はどうやって平気な顔で野球を見ていればよかったのだろうか。案の定というか、私がいた1時間ちょっとのあいだ、それも19時から20時という、たぶん、いくらかでも稼がないといけないだろう時間帯に、やはり誰も人は来なかった。

そういえばその前にいた店も、2時間以上いたわけだけど誰も人は来なかった。雨だから客足が減ることは確かだろうけれども、こうやって立て続けに私以外の客がいない店というところに居座ると、なんともわびしい気分にならないわけではなかった。最初の店はけっこう気に入って時折り使っているし、実際いろいろな側面からいいお店だし一本何かの通った場所だと思っているのでその時間帯、その日に客が他になくても心配めいた感情は湧いてこないのだけど、野球を見た酒場はどうだろうか、そろそろなのか、もう少し粘るのかはわからないけれど、早晩テナント募集の貼り紙が貼られることになるのだろう。残酷な話だけれどもきっとそういうものなのだろう。その前夜と翌日つまり今日、僕らの店も客入りはとてもまばらだった。やることがなくて持て余すという事態は久しぶりで、どのように振る舞ったらいいのか、戸惑ってしまった。

 

20時すぎに野球にも飽きてその店を出、コンビニでポテチと金麦2本を買って家に帰り、アレナスの続きを読んだ。ポテチとビールが空き、腹がどうにもおさまらない私は再び、今度は別のコンビニにいき、ポテチのビッグサイズと金麦2本とあろうことか豚キムチ丼的なものを買って、その場であたためてもらった。家には電子レンジがないためだ。

私の人生はコンビニ弁当的なものに対して反旗を翻すことで成り立っていたようなものなのだから、この購買はおそろしいことだった。たぶん、失敗した虚しい休日の虚しさをせっかくだから増長させてみたかったのだと思う。

家に帰り、それがあたたかいうちに食い、金麦を2缶空け、ポテチを開いて貪り食っているうちに睡魔が襲ってきたらしく、寝ていた。23時にもなっていなかった。

つまり、10時間も起きていなかった一日のなかで私はほとんどの時間をビールを飲んで過ごし、ほとんどの時間をアレナスの人生とともに過ごした。ビールは7杯飲まれた。酒の弱い私からしたら驚異的な数だ。これではまるで、水代わりにビールを摂取する、あの糞暑く輝かしい苗場の一日みたいだ。虚しさをもたらすのか、陽気さをもたらすのか、その違いはあるにせよ。

 

今日は最近設けているアイドルタイムに本屋に行ってアドルフォ・ビオイ=カサーレス『パウリーナの思い出に』を買っていくらか読んだ。今のところどれも面白い。宿屋の夫婦の話を読んでいたら、デュ・モーリアの短編の何かの雰囲気を思い起こさせた。どういう共通点があるのか、いかんせんデュ・モーリアのどの話なのかを思い出せないので判然としないけれども、今のところ、全体に流れている妙な、胸騒ぎを覚えさせる妙な不穏さがとても魅力的だ。


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