cinema
2013年2月3日

人生はこんなにもアイロニカルで美しい、とラスト近くにアントニオ・バンデラスが戸惑った顔で何か言い訳のようにナオミ・ワッツに言うが、そのシーンのナオミ・ワッツのこわばった表情がとてもいい。このシーンに限らずナオミ・ワッツのギクシャクとした表情はとてもいいのだが、この映画においてウディ・アレンが私たちに見せてくるアイロニカルでペシミスティックな人生観は少し気持ちの悪い居直りのように見えて、私にはとても楽しめるものではなかった。
その中でも初めて見たフリーダ・ピントーの顔立ちや、ナオミ・ワッツとジョシュ・ブローリンとジェマ・ジョーンズが口論する場面のけたたましさはよかった。特に事態の深刻さをまるで理解できずに持論というかインチキ霊能力者の受け売りをひたすら話し続けるジェマ・ジョーンズの存在感はよかった。
『人生万歳!』の後、『ミッドナイト・イン・パリ』の前に位置するこの作品は、まさにその前の映画でありその後の映画であるという限りにおいて見る意味のあるもののような気がした。人生に快哉を叫びたくなるような幸福の大団円をそのままひっくり返せばこの映画でのほとんどの人々の結末になるだろうし、この映画で薬よりもイリュージョンを選択し唯一ハッピーエンドを勝ち取った老婦人が何度も口に出す前世や来世の慰めをそのままスライドさせればゴールデンエイジ症候群のオーウェン・ウィルソンが過ごしたパリのミッドナイトが現れるだろう。
日本での公開順が素晴らしい『ミッドナイト・イン・パリ』の後でよかった。そこでウディ・アレンがあまたの絶賛を受けたのだと知っていてよかった。そうでなければ、すごいなんか疲れて色々嫌になってるんだろうな、大丈夫かな、この先、と下世話な心配をしてしまっていただろう。一つの作品を一つの生とみなしたとき、老婦人が売れない小説家に向ける、きっといい小説が書けて売れるわよ、来世かもしれないけど、という言葉が大いなる、そして意味のある慰めに響いてくる。
cinema
2013年2月3日

木々の葉や庭の芝生が鮮やかなグリーンに染まる中を、縄に繋がれた奴隷たちが緩慢に行進する。あるいは売りに出される子供たちの乗せられた荷台を、仕事の手を止めた奴隷たちが見つめる姿がそこには映し出されるだろう。画面いっぱいに、奴隷たちが立ち尽くす。カメラは、汗に光る彼らの黒い肌をほとんどベタ塗りのような調子で収めるだろう。いずれにせよ、never be freeな彼らを待っているのは、首をくくられて死ぬことか、略奪した銃で主人たちに抵抗することだ。
足の悪い息子が実に複雑だ。ベッドでの相手として以上に一人の女奴隷を思いながら、はらんだ息子を売りに出さないでくれと懇願されたときに見せる表情は「え?何で?言ってる意味というか理由が全然わかんないんだけど」というものだし、闘鶏のニワトリのような気安さ(と言ったらウォーレン・オーツの顰蹙を買いそうだが)で男の奴隷を賭け決闘に挑ませながらも、怪我をすれば優しくいたわる。そしてたぎる熱湯に奴隷を突き落とす。なんの疑いもなしにリウマチを奴隷の男の子に移そうと試みる父親のピュアな奴隷観とはまた異なる、奴隷制度の終わりの始まりを象徴するような複雑で豊かな人物になっていた。彼の表情や物腰がとてもよかった。
人種の異なる人間を人間と思わないで扱う時代がこういうふうにあったのだということをまざまざと見せつけられた。白人の嫁の乱心、出産と生まれた子供の扱い、奴隷たちの主人に対する媚びだけでは済まされないような忠誠めいた、あるいは親密さめいた雰囲気。ことごとくに凄まじい緊張感のある映画だった。(とか言いながらなぜか私は二度も眠りに落ちて三日に渡って途切れ途切れに見た。)
text
2013年1月31日

金麦を飲んでいる。otogibanashi’sの「Pool」を聞いて、それからPeter BroderickとMachinefabriekのアルバムを聞いた。金麦の2本目を開けた。店の2階のコタツに入っている。閉店からは1時間半が経った。ここからは橋が見える。青信号がいくつかと、赤信号がいくつか見える。青信号のいくつかが点滅して、赤に変わった。車のヘッドライトがチカチカとまたたきながら移動していった。ピーター・ブロデリックの『How They Are』がすごく好きで一日中聞いていた。最後の曲の「Hello To Nils」のニルスはフラームのことなんだとは思うのだけど、あまりいいので改めて検索して歌詞を読んでみたところ、これがとてもよかった。さいしょ私はここにいて、それからあそこにいる、それから私はここにいて、それから私はあそこにいる、あそこから私はどこにでも行こう。そんな感じで歌い始められた。古いニュース:この場所はとてもいい。新しいニュース:再び去る時が来た。私はあまりに頻繁にグッド・バイを言う。こんにちわ、こんにちわ、こんにちわ。あまりいいので2往復ピーターと一緒になって歌った。歌い上げたといっても過言ではなかった。
先週の休みに大阪に出て、神戸に出て、映画を見た。12時に営業を終え、そのまま彼女と大阪まで車を走らせるという無謀な行程だった。朝10時半の上映に間に合わせるのに不安があったための措置だった。1時頃に出発した車は4時半ごろ、新大阪近くの漫画喫茶に着いた。4時間眠り、十三の第七藝術劇場に行った。新大阪から十三という、距離にすれば数キロの道を迷って、何度も川を越えるというようなことをしてしまったために時間がなくなり、朝は吉野家で済まされた。それがとても悔しかった。映画館ではロバート・アルドリッチの『合衆国最後の日』と『カリフォルニア・ドールズ』が見られた。いずれも度し難いよさだった。短い睡眠時間や溜まっているであろう疲労はそのときにはどこかに消えていた。特に後者については映画館で見られたことを感謝するしかないような素晴らしい上映だった。ゴー、ドールズ、ゴー、と心のなかで何度も何度も叫んだ。叫ぶ代わりにたくさんの涙を流した。歓喜だった。
それから神戸に移動し、旧居留地の銀行の建物を改装したカフェに入った。とても金の掛かっていそうな、豪奢な場所だった。
神戸でどこかカフェに行こうと思っていて、こういうときグーグル型の検索は極めて弱い、といつも思う。極めて個人的な趣味嗜好に合致したカフェを見つけるのはグーグルの仕事ではないらしい。フェイスブックとツイッターでこういう場所がいいんだけれどもどこか知りませんか、と募った。いくつかの回答をいただいた。それらは、グーグルで検索したときに簡単に出てくるものではいずれもなかった。フェイスブックがグラフ検索という機能を実装し始めたという話をどこかで見たけれども、それがどこまでグーグル的な検索を脅かすものになるのかはわからないけれども、先生に聞くより友だちの意見聞きたいな、というときには便利だろうなと思う。
神戸のゆるっとしたふわっとしたカフェを探していた私たちが行ったのは結局、そういうところとは正反対に位置しそうな金の掛かっていそうな豪奢なそのカフェだった。なんとなくそういう気分になったせいだった。コーヒーを飲んで出た。20分200円という停めたパーキングの料金が気になってお茶どころではなかった。今回の「大阪神戸映画の旅」全体に言えることだが、車で行くのは便利といえば便利だけれどもなにせ疲れる。その行動コストと高速料金やパーキング代のコストを加味すると、高速バスを使った方がいいのではないか、ということが思われた。一方、神戸までならば車でもいいかも、ということも思った。神戸から大阪までは一時間も掛からない。
移動した先にあった新開地という町は平日の夜にも関わらずかなりの数の警備員がいて交通整備をおこなっていた。何ごとなのかは最後までわからなかった。競艇の場外舟券販売所があり、何かを持て余しているような雰囲気の男性がたくさん見受けられた。目当ての神戸アートビレッジセンターに行き、チケット売り場で近くのごはん屋さんを尋ねた。知った人と会った。その方はそこで映写をしていた。
いくつかの勧められた店の中から定食屋を選び、入った。漫画がたくさん置いてあり、かなり雑然とした店内がとても好みだった。味はどうということのないものだった。置かれたテレビでニュースが流れていた。消費税について言われていた。消費税が上がることに対しては、端的に「やめてほしい」と飲食店を営む身としては思っている。
神戸アートビレッジセンターではホン・サンスの『次の朝は他人』を見た。次の一本も見るつもりだったが、ここに来て疲れがあらわになり、春になれば岡山でも見られるようだしここで無理をする理由がないということから帰ることにした。帰りはだいたい下道を通った。国道2号はほとんど高速のような流れ方をしていた。
岡山でなぜか道に迷い、一気に疲弊した。田んぼと住宅街のあいだを縫うように進んでいくと、埼玉の実家で誰かが嘔吐している様子が見えた。これからフジロックに行くところであり、車が苗場に向けて走らされていた。テントは例年に比べ奥の方に張られた。空はよく晴れていた。読みかけの本を三冊、持っていくのを忘れたことに気がついた。そのため実家に一度寄ることにした。入ってみると家は無人で、先ほど見たように誰かが嘔吐をしたあとだったので臭いがこもっていた。顔をしかめて居間に進むと電話台のところから火が上がっていた。本を取りに寄って本当によかったと思いながら鎮火した。本は和室に置かれていた。二冊はすぐに見つかったのだが最後の一冊が見つからず、母親に電話をすると「もしかしたら」というので天井の隠し戸の場所を教えてくれた。天井のある板を押すと浮き上がり、手を離すと板と数冊の本が一緒になって落ちてきた。いくらかの砂塵が舞った。落ちてきたものの中に私の読みかけの本があった。母親はときおり、この場所に本を隠すのだという。
2時半になった。書くことにはいつだって喜びがなくてはいけない。
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2013年1月30日

先日見た『危険なメソッド』は、キーラ・ナイトレイの過剰さに惹かれこそすれどどこか煮え切らない気分だった。クローネンバーグは『ヴィデオドローム』や『ザ・フライ』、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』しか見ておらず、今一つどういう作家なのかはわかっていないのだけれども、この作品では重厚な色彩とそれなりにえげつない暴力描写を見せてくれ、楽しめた。
『危険なメソッド』での時と同じような雰囲気のヴァンサン・カッセルのアップダウンの激しい振る舞いや、ナオミ・ワッツの淫靡かつ薄幸そうな口元、アーミン・ミューラー=スタールの非道さ際立つ好々爺っぷり、そしてびっくりイエジー・スコリモフスキー!といった、脇を固める人々がとてもしっかりと脇を固めていてとてもよかった。
そして何より、誰もがそう言うであろうけれどもヴィゴ・モーテンセンがたまらなく格好いい。最後まで『危険なメソッド』で鬱陶しいフロイトを演じていた人と同じだとは気が付かなかった。最後のショットで見せる風格は、ほとんど『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドのようだった。
続編が撮られるようなので、とても楽しみです。
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2013年1月26日
映画監督である主人公の作品にかつて出演したことがあるずるそうな顔の、最近ちょっと太り気味という男の現れがとてもいい。お前は利己的な嫌なやつだと唐突に罵り始め、穏やかなはずだった酒の場に嫌な緊張が走る(嫌な緊張が走るということはとても大切なことだ)。そうかと思えばはしごした居酒屋では主人公の話に釘付けになったような顔つきで傾聴している。まるで健忘症にでもかかったみたいだ。
そこで主人公が語っているのは、出来事はそもそも無数の偶然から成り立っている、我々はその中の一つを都合よくつまみあげ、それをもってこの出来事の理由はこれなんだと説明する、それだけのことだ、というようなことだ。
偶然の結果としての現在なのか、選択の結果としての現在なのか、その違いはあれど、いくつかの場所で指摘されているのを見たように、ホン・サンスのこの作品は三宅唱の『Playback』と奇妙なまでに似通った要素を持っている。
説明のつかない反復があること、画面が白黒であること、登場人物が映画関係者であること。ただそれも、単なる偶然として処理すればいいように思われる。
この映画で人は歩き、誰かと会い、どこかに入って飲み食いして話す。昼はあっという間に夜に変わり、朝になれば出来事の記憶の多くはリセットされ、またどこかで見たような一日を繰り返す。当初3,4日の予定としていた滞在も、しまいには「いつまでいるかわからない」に変わるかもしれない。一日が中途半端な形で永遠に螺旋状に繰り返されるのかとも思われたが、この映画の最後、写真を撮る女性の登場を契機にして、主人公のソウル滞在は終わりそうだ。そこで彼は壁に背をもたれ、銃弾に身をさらしているかのようだ。そのときのユ・ジュンサンのこわばったような、どこか不思議そうな表情が印象的だ。
いくつもの美しい場面があった。
主人公がかつての恋人の部屋に酔いに任せて上がり込み、やっぱりお前を愛していると情けのないことを言いながら哭泣するくだり。女のいらだちと戸惑いと併せてなんともいえない。
その元恋人に酷似した居酒屋店主の買い出しについて行った帰りの唐突なキス。雪の中での二人の笑顔がとてもいい。
そして忘れがたいのはその翌朝、引き続き雪の降りしきる早朝の道路に居酒屋帰りの五人が出る。一人は勝手に道路を渡り、一人がそれを追う。一人はべろべろに酔い、一人はその腕を抱える。ハイヒールを履いた一人はそのわきに立つ。五人がそれぞれのあり方で並ぶその白い画面は、なんというかどこまでも自由だった。
『Playback』では役者それぞれの顔が強く印象に残ったが、この映画では一人一人というよりは、複数人が画面の中に並んでいる様子に強度を感じた。
原題は「北村の方向」という意味とのこと。実にそっけなくていい。英題は「The Day He Arrives」。邦題も英題も、「さすがに北村の方向ではなあ…」というところだったのだろうなというのが伺えてとてもいい。
ホン・サンスの4本は5月になったらシネマ・クレールに回ってくるみたいなので、他の3作もぜひ見たい。
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2013年1月26日

冒頭の試合の場面でヴィッキー・フレデリックが見せる「来いやおんどれ」という表情が完全なる戦闘モードの顔で、「なんという凄みのある顔をするんだ!」とのっけから持っていかれた。ヴィッキー・フレデリックとローレン・ランドンのあまりの戦いっぷりに、この二人はきっと女子プロレスラーなんだろうと思って見ていただのけれども、二人とも女優の方らしい。当初は女子プロレスラーを起用しようとしていたのだが、演技がどうにもいかずに女優を使ったという。二人は死に物狂いで練習したという。
滂沱した。最後のビッグマッチの、ドールズコール、そしてドールズソング、地鳴りのように耳を圧する歓声、観客たちの咆哮、きらびやかな衣装を着た二人の入場、戦いの時間、躍動する体、それをダイナミックに捉えるカメラ、すべてが圧倒的で、苦労した道中をともにしていたためか、もう、応援する気持ちしか湧かない状態で、ともすれば「いけ!」「そうだ!」「最高だ!」等々叫びだしそうにすらなりながら観戦した。映画館で見て本当によかった。映画館で大きな音で、大きな画面で見るのにこんなに相応しい映画はないのではないか。
二人のマネージャーを演じるピーター・フォークを見ていると、こういう人物はアメリカにしかいないんじゃないかというような気がしてくる。なんともいえないあのいかがわしさが素晴らしい。生来のさすらい人のようなあの顔つきが素晴らしい。この日ちょうど予告編でも流れていた『コックファイター』のウォーレン・オーツとも相通じるアメリカの男像。かっこいい。
最高の女子プロレス映画であると同意に最高のロード―ムービーでもあるこの映画において、三人が車に乗っている様子がとてもいい。運転席と助手席と、後部座席の真ん中、そこで並ぶ三つの顔、そこで生まれているあの三人でしか成立しないような親密な空気がとてもよかった。車と親密さということでは、なぜかいつもマイケル・マンの『コラテラル』が思い出されて、久しぶりにまた見たい。
また、赤々と燃える精錬所や、ドライブスルー式のスーパーマーケットの様子もよかった。
cinema
2013年1月26日
人間の男女比って50:1ぐらいだったっけかと、そんなことはありはしないと知りながらもそう思い込みそうになるほどに、スクリーン上にはほとんど男しか出てこない。どの男も、必死な顔をしている。たった一つの選択を誤れば9つのミサイルが発射され、第三次世界大戦勃発となるに違いないのだから、それももっともな態度だと思う。
地球存亡の危機はもっぱら、犯人たちが占拠する軍事基地の地下、サイロ3のコントロール室と、米国閣僚がテーブルを囲む大統領官邸とのあいだでの電話を通して描かれる。主犯であるバート・ランカスターが首脳たちに、今こそアメリカは正しいおこないをしなければならないととつとつと語るときの分割画面がとてもいい。大統領のチャールズ・ダーニングを始めとした歴々が愛国者兼テロ首謀者の話を聞きながら「いやーまあなんかおっしゃってる通りの感じあるよなー」という顔つきになっていく様が克明に提示されていた。ただ、悲しいことに、それを完全に真に受けて正義をおこなう覚悟を決めたのは合衆国大統領ただ一人だった。
原題の「Twilight’s Last Gleaming」は米国国歌『星条旗』の一節で「黄昏の最後のきらめき」といった意味なのだそうだけれども、この映画の幕切れを見ると、邦題にもなかなかの含蓄があるように感じた。テロリストにミサイルを発射されそうだから合衆国最後の日になるかもなーというのではなく、国民を欺き闇のなかで動く政府ではなく、オープンな政府に、今こそ、と目覚めた大統領を、極めてストラテジックな理由で「死んでもらってオッケーでしょ、むしろ死んでもらった方が」と突き放した閣僚たちの判断こそが、もう終わったでしょ、最後でしょ、アメリカ、という感じなんだろうと。覚悟なきものたちが笑い、覚悟を決めたものたちが死んでいく。今際の際の大統領に秘密文書公表の約束を確認された国防長官演じるメルヴィン・ダグラスの表情が素晴らしかった。素晴らしく曖昧で、素晴らしく「参ったなー」という。
そしていくつかの無意味な死体と残されたものたちを収めながらカメラは飛翔し、止まった。
政治的主張のない脱獄囚たちによるただの金銭目的のテロを描いたという原作が、アルドリッチの強い要求でこのような話になったという。その結果あらわれたのは、非の打ち所の見当たらない、ただただ強固な政治映画であり、ただただ圧倒的な男たちの映画だった。
どの役者も本当に素晴らしかったけれど、必死さという点において、サリンの入った器具を触る際のバート・ヤングの演技がとてもよかった。緊張しすぎて手が動かなくなる様、時折り発せられる気色の悪い高い声、そしてその後のなぜか高慢な態度がまた素晴らしい。
ロバート・アルドリッチ大全
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2013年1月22日

堪え性がなくわめきたてるジョン・キューザック、ヒステリックでシアトリカルな話し方をするダイアン・ウィースト、目障りなスピードで動き甲高い声を発するトレイシー・ウルフマン、傲岸不遜でより甲高い声を出すジェニファー・ティリー等々がリハーサルの舞台上で動き回りやり合う様を見ていると、客席後方で新聞を読んでいるマフィアのチャズ・パルミンテリだけがこの映画において正気を保っている人物なのではないかと思えてくるが、結局この男とて、キューザックの芸術家としての遺志を勝手に相続することで悲劇の道に走らなければならないだろう。パルミンテリの、まったくの部外者から徐々に作品に侵入し、しまいには俺の台本と言うまでに演劇に取り憑かれていく姿がとてもいい。
また、厄介な人々がドタバタと奔走する様が微笑ましい。テンポよく、都合よく進められていく物語が気持ちいい。
ラストシーン。ニューヨークでのオープニングナイトで大成功を収め、と同時にもういいや、このゲームからは下りよう、となったジョン・キューザックが恋人のもとに戻る。恋人は共通の友人である売れない芸術家の男と寝ている。夜の歩道で、キューザックはその部屋に向かって出て来なさいよハニーと叫ぶ。でも彼とのセックスはとてもいいの、と窓際に立った恋人が言う。そんなにいいの、テクニックの話?と、今度は向かいのアパートの窓から別の女が言う。恋人を寝取った男が量は質を兼ねるんだよと言う。キューザックがそれ誰の言葉だ、と問う。マルクスだよ。向こうのベランダの女がいつから経済の話になったの、と言う。男が応じる。セックスは経済さ。キューザックが恋人に言う、帰っておいでと。一緒に帰ろうと。恋人はあっさりとそれに応じ、下りてくる。実に清々しい幕切れだった。
cinema
2013年1月22日

逮捕から2週間後に弁護士が拘置所を訪れたとき、所内2階の渡り廊下を実にゆっくりした足取りで音もなく行ったり来たりする人物のシルエットが後景に映る。最初は囚人だろうかと思っていたが、囚人がそんな自由を許されているわけもなく、歩いているのは当然ながら看守である。『間違えられた男』でヘンリー・フォンダの首に牢獄の格子の影が巻き付いたときのような、不穏な予感しか与えてこない黒い影だった。看守と囚人、その錯誤が何か私の気持ちを粟立たせるようで奇妙に印象に残った。そんな錯誤の繰り返しで成立するこの映画を支えるのは実に経済的な語りで、退院すれば事件が舞い込み、夫人は自ずから事務所を訪れるだろう。あっという間に2週間が進み、すぐさまに裁判の日を迎える。
何重にも嘘をつき見る者を錯誤させ続ける冷たい目をしたマレーネ・ディートリッヒの姿がとてもいい。Damn you, Damn youの声が凄まじい。被告人のタイロン・パワーの汗だくの額、石黒賢を想起させるヒゲか眉毛。チャールズ・ロートンとエルザ・ランチェスターの掛け合いも耳にうるさいながらも心地がいい。
数年ぶりに見て、すっかり結末を忘れていたためハラハラドキドキできてたいへん好ましかったです。
text
2013年1月21日

4時になった。なんでこんな時間まで起きているのかわからない。真夜中の思考というものがある。それは人を浮き足立たせ、自信を高めるか低めるかさせ、要は人を間違った状態に導くものである、と私は書いた。何も特に書きたいこともないのだけれども文章を書きたい。しょうもない、意味もない映画や本の感想を書いても溜飲を下げられるわけでもなく、いま私のパソコンは大きな音量でビヨンセのライブ映像を流している。彼女の歌声はマジカルでアメイジングである。アメイジング、とウディ・アレンはほとんど溜息のような調子でときたま言うだろう。私だってそうだ。アメイジング。高らかに歌われる歌がある。静かに紡ぎ出される言葉がる。
紡ぐ。舫う。
先日人に貸していたものが返ってきた影響ですぐ手元にある堀江敏幸の『河岸忘日抄』は海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだ、と彼は思っていた、と書き始められる。静かで豊かな小説だったと記憶している。河岸に繋留される船のなかで様々な思考がおこなわれるだろう。郵便配達夫とコーヒーを飲み、ぽつりぽつりとした語らいがおこなわれるだろう。船の中での語らいなどろくなことにならない、ということはかつてオリヴェイラが描いた豪華客船の例を引くまでもなく明らかなことで、私はいま、河岸と言っても差し支えのない店の二階で、これを書いているだろう。二階の窓から見える川は今では黒々としており、昼間に、ある角度からその窓から外を眺めれば、窓枠でフレーミングされた光景はまったくの水面のみであり、きらきらと光を乱反射させる水面のみであり、本当に、建物それ自体が川に浮かんでいる存在なのではないかと思われることがある。
現在、アンディ・クラークの『現れる存在』を読んでいる。これは年末に下北沢のB&Bで買ったものだ。帯の推薦文を円城塔が書いており、彼の小説は『Self-Reference ENGINE』しか読んだことがないのだが、ソローキンの『青い脂』といい、なぜか彼の推薦を真に受けて本を購入することが続いている。B&Bでは堀江敏幸の作品が様々な棚を横断しながら置かれていた。彼女はその様子を見て堀江敏幸とホリエモンは別人なんだよね、ということを言った。違う人だよ、それはほら、これ、「お金はいつも正しい」って言っている、こっちの人だよ、と言った。こどもがその世界に対して、肉体として埋め込まれており、相互作用しているのだという事実を抜きにしては、認知発達の問題はうまく扱えない、ホリエモンでも堀江敏幸でもなく、アンディ・クラークはそう述べている。実にクールでグルーヴィだ。環境によって与えられた思考。私たちが日々見つめる川のゆらぎは、いったい何を考えろと言っているのか。
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