cinema
2013年2月18日

どこまでも軽い足取りで、口ぶりで、大人たちの心配などは犬にでも食わせておけばよくて(だけど犬フリークの継母はそれを飼おうともしないけどね)、人生なんてたいそうなものでもないんだし、すいすいとやり過ごしていくんだ、70sのパンクミュージックとダリオ・アルジェントのスラッシャームービがあってスナックと着色料たっぷりのドリンクがソファの横にあればそれで全部オッケーですけれど何か、というような小賢しくもチャーミングなエレン・ペイジの姿が最高だ。彼女が軽口を叩きまくる姿は、何かへの強い抵抗であり闘争だ。彼女は屈することのないレジスタンスの戦士だ。
孤独な戦いを重ねていったあとだからこそ最後がたいへんにしみた。そんなはずはないのにと思いながら涙がどんどことあふれていった。練習場で恋人と仲直りするくだりや、「作戦開始!」の声とともに始まる出産。彼女の股ぐらを見守る友人が見せる、あくまでも眼前で起こる事態を楽しんでみせるという顔つき。出産後のベッドに競技場から直行してやってくる恋人、後ろからそっと抱かれてやっと涙をみせるエレン・ペイジ、キャット・パワーの「sea of love」をバックに子どもを抱き上げる養母、それを見つめる継母の表情、そして恋人と家の前でおこなうアンプラグドセッションの、それを少しずつ遠ざかりながら収めるカメラの、素晴らしさ。
それにしても、子どもを渡す予定だった夫婦の崩壊、夫の転向の姿は悲惨だった。諸君、と私は誰に向けてでもなく言いたい。あの男の気持ちを、君たちは指さして非難できるだろうかと。少なくとも私は「うわー」と思いました。
夫がダメになってしまったあとになって、それまでどこか気持ち悪さを感じていたその妻が突如として愛おしい祝福されるべき存在に思えてくるから不思議なものだった。彼女はきっと子どもを真剣に愛するのだろうと思うと安堵。君をどれだけ愛しているのか超伝えたいって後ろでショーン・マーシャルが歌っているのだから、とても安心だ。
ジェイソン・ライトマンの映画は初めて見たのだけど、チャーミングで親密で、これ以降どんな映画を撮っているのかがぜん興味がわいた。そしてエレン・ペイジが監督デビューをするとのことで、それも楽しみですね。
cinema
2013年2月18日

終戦の朝、つまり収容所からナチスが撤退した翌朝、所内の他の施設にいた武装したユダヤ人たちがやってくる。腕に彫られたナンバーを見せてやっとユダヤ人だと、同じ被害者だと理解してもらえるのだが、そのあとに、彼らが過ごした、レコードのある、ふかふかのベッドのある部屋、つまりそれまでの90分間に私たちが見ていた部屋の中を、髪の毛を剃られ、げっそりと痩せこけ、汚れた身なりをした骸骨のような姿のユダヤ人たちが歩くとき、贋金づくりを課されたメンバーたちが、どこか被害者よりも加害者に近い側にいるように見えてしまう不思議が怖ろしい。
そのいくらか前の場面ではクリスマスだかなんだったかの催しが描かれるが、そこでも囚人たちと看守たちとのあいだには、どこかしら親密とも呼べるような雰囲気が漂っている。オデッサ出身で絵描きになりたいという若いユダヤ人を殺すことになるおおがらでおおへいな看守の一人は、ユダヤ人の歌うオペラに目をうるませたかと思えばユダヤ人のスタンダップコメディに大爆笑をする。ねぎらいに煙草を渡したりもする。
また、この部署のトップの男はドイツ敗戦を前に、家族で亡命できるように偽造のパスポートを囚人に作らせる。そのパスポートは彼らをユダヤ人だと証明するものだ。
ドル紙幣の作成に協力せず、あと少しで仲間が見せしめに殺されることになる原因を作り多くの仲間から顰蹙を買った男はそののちに「ドルを作るのを遅らせたおかげで戦争の風向きを変えられた」と一転してヒーロー扱いされる。この映画を見ていた者であれば、そんなふうに彼を英雄視する気には到底なれないはずだ。
冒頭とラストで映される元囚人の贋金作りが一夜を過ごすゴージャスな黒髪女の、きれいなんだかきれいじゃないんだか一言では済ませない顔立ちがもたらす印象に似た、全体に煮え切らない、複雑な思いを残す映画だった。第二次大戦のドイツに関することで言うと今度はノサックの『滅亡』を読みたい。
cinema
2013年2月13日

監督のウェス・アンダーソン氏を始め、出演者のみなさん、スタッフのみなさんにただただ感謝を申し上げたい。
「ご清聴ありがとうございました」の声とともにエンドロールが終わったとき、私はほとんど拍手をしかけていた。ただそれは、生来の引っ込み思案が影響して実現されることはなかった。そのかわりにはならないにしても、心のなかで上述のような感謝を捧げた。この映画の具体的にどれが、私をこのような、何かに祝福されたような、救いの船を出されたような、背中を一つ押されたような、どれといったことのない、ぼんやりとした幸せベクトルの気持ちにさせるのか、判然とはしない。どれが、どれが、と部分を言い立ててみたところで、その答えは出てきはしないだろう。というよりも、冒頭の、家の部屋部屋をカメラが水平に垂直に動きながら捉え、家中に音楽が響きだし、少女が双眼鏡で外を見る一連のシークエンスからすべてのショットが「楽しい!」を催させ、一度たりとも弛緩することなく充実した画面が連なり続けた。この魔法のような映画の世界においては退屈なんて言葉はどこかに消え失せてしまったかのような94分だった。
魔法。本当に、スージーが二つの覗き窓から世界をフレーミングする双眼鏡を魔法の道具と呼ぶように、この映画は、というかそもそも映画は、こんなにも魔法だったのだ。
この魔法っぷりは多分、厳密に配置された書き割り的な背景と、厳格でシステマティックにコントロールされた人々の運動を横移動のカメラが収めていく、ウェス・アンダーソンらしい、どこか学園祭の演劇めいた画面設計も大きく影響しているのだろう。避雷針に向かい雷に打たれる(!)サムや、クライマックスの鐘楼のロングショット具合から、何かひょっこりひょうたん島をすら思い起こさせる戯画化された映像が、子供たちの冒険の夢のような時間に極めて強固に調和し、いっそうの儚さや切なさや、何よりも、信じがたい美しさを与えているように感じられた。
そして、どれだけ恒例のこととなろうとも人に感動と呼ばれる感情をいやおうなく与えてしまうウェス・アンダーソンのスローモーションは、今作では、雨中の、一度は敵となったスカウトの仲間たちと、胡散臭い協力者の男と、二人の愛しあう若者が婚礼の場から決意のボートへと向かうさなかで発動された。そこで映し出されるサムとスージーの、ほとんど憮然と言ってもいいほどの決然とした、凄みのある目つき。あの目を強調するためだけにサムには大きな縁の眼鏡が与えられ、スージーには濃いアイシャドウが与えられたといってもいいほどだ。そしてあの歩みぶり。あるいはまた、後ろから二人についていく少年たちと一人の大人の、勝手気ままな、それぞれの歩行姿勢。それだけのことなのに、スローで捉えられたときに、なぜこんなにも私たちを動揺させ、感動させるのか。
なんにせよ、エドワード・ノートンやビル・マーレイ、ブルース・ウィリスといった脇を固める大人たちが素晴らしかったことは言うまでもないことだけれども、子ども二人の森への逃避行を見ながら、ちょうど「ゼロコストハウス」を読んだ直後ということもあってか、岡田利規の真に感動的な「三月の5日間」を収めた小説集のタイトルであり、人に貸したまま長らく返ってこないためそろそろ心配している本でもある『わたしたちに許された特別な時間の終わり』というフレーズを何度も、何度も頭に思い、二人がどうなってしまうのか、決して明るいものとは思われない先行きを不安視していた者としては、考えてみればウェス・アンダーソンであるならばこうしてくれるよなという結末に、本当に嬉しい思いをした。いつだって彼の映画は、私たちのちっぽけな人生に祝福の火を灯してくれるんだ。
『アンソニーのハッピー・モーテル』から始まってすでに7本の、いずれも素晴らしい、ファンタスティックな、魔法のような映画を届けてくれるウェス・アンダーソンがまだたったの43歳でしかないことが心から嬉しい。
子供たちの映画の系譜に、また一本、最高にチャーミングで最高にキュートで最高にエキサイティングな映画がエントリーした。
text
2013年2月8日
文章を書き続けている。なんのためというわけでもないのだけど、昨夜にある媒体のために文章を書いたところ、ブリがついてしまって(これは岡山弁だったっけか。勢いがついてしまって、という意)、休みである今日は、遅い時間の昼食をしょうのない定食屋で食べたあとから3時間書き続け、『アウトロー』を見て帰ってきて1時、そこからまた3時間書き続けた。先ほどカウントしてみたところ、今日だけで10577字書いている。たぶん、それは多い分量だと思う。夜、1時過ぎだったと思うが、外で男が絶叫するのが聞こえた。刺されたりして出た声というたぐいのものではなく、腹の底から、絶望めいたものを絞り出すためにされるたぐいの絶叫だった。道端で会いたくはないけれど、それでいいんじゃないかという気分は伝えたいような気がした。人は時には、叫んだりしたっていいんじゃないか。多少の迷惑など、度外視していいんじゃないか。
ここのところは、ささくれだった気分を継続させていた。多くの事物が鬱陶しい。時間の配分が全然うまくいっていない。へとへとに疲れた閉店後の12時半から数時間、本を読んだり、映画を見たり、あるいは文章を書いたりして、でもそれでは寝る時間が遅くなって、睡眠時間が削られて、そして次の日の疲労につながる。今だって、すでに4時だ。9時半には起きたい。悪循環が続く。
お金を稼ぐことは、もちろん最低限はしなくちゃいけないけど、でも、ほんとに最低限でいいと思ってたんですよね、と岡田利規は「ZERO COST HOUSE」の中で過去の岡田のセリフを言うマネージャーに言わせている。でも、ほんとに最低限でいいと思ってたんですよね。でも自分の時間は最低限じゃだめで、ものすごくたくさんほしくて、どうでもいいことに時間を取られたくないってすごく思ってて、と。15年前、岡田利規の23歳のときの気分だ。その23歳の岡田利規に向けて、別の場面で坂口恭平が言う。だからそれは働きすぎだからね。ていうか時間取られすぎてないですかバイトに? 身を粉にしすぎじゃないですか? じゃあ書く時間どうしてるの、確保できてる? できてないだろ。本末転倒じゃん。
あれや、これやが、アクチュアルに私のうちに響くだろう。フリーキーな、あるいはノイジーなギターを弾く人はきっと、最初からわかっているんだと思う。自分の弾くギターの音色が、ある人にとっては耳障りなものでしかないことを。一方で、流麗なギターを弾く人のいくらかはそれがわかっていないのではないか、と感じる。ほとんどアプリオリに、自分が爪弾くギターは万人にとって心地のいいものだと思い込んでいる。そういう人には最初から、どんな疑いもないのだ。自分が好きなものは、人が好きだという、アロガントな姿勢。このアロガンスは、「ZERO COST HOUSE」で岡田が語る、岡田が引き受けてみるそれとはまったく別物だ。自覚的なアロガンスと、無自覚のアロガンスでは天と地ほどの差がある。そういうことをわからないまま、このまま生きていき、死んでいく人がたくさんいるのだろう。
最近、徹底的に自分語りをする人間に会った。信じがたいレベルの凡庸さで、その人は自分のあれやこれやを語ってくれた。そこに当時しているときは、この人はなんのつもりでこんなことをしているんだろうかと、呆れと嘲りと憤りしか湧かなかったのだけど、後々で考えてみたらそのやばさはけっこうなやばさだと思えてきて、とても興味深いものに思えた。録音しておけばよかった。あの凡庸さは、出そうと思って出せるたぐいのものではなかった。
文章を書き続ける。文章を書くことにはいつだって快楽がないといけない。ここのところ、映画を見たら感想を書こうと、年始に決めて、年の変わり目で決めたことなんて、どうせその程度のものでしかないのだから、と鼻で笑う人間が何をやっているのかとも思いつつも「矛盾」がミドルネームである私は律儀に、映画を見るたびに、本を読むたびに、ブログを更新して、そしてそこには一つの快楽もなかった。こんなことを続けていて、どんな意味があるのかと思っていた。それはもちろん、読んだ本、見た映画についてメモ書きでもいいから残しておけば、のちのちに少しは役に立つような気もしたし、アウトプットしておくことが、その作品と自分をつなぎとめる何かのきっかけになるとも、それは今も思っているから、2月の現時点ではそれを絶やさずにやっているのだけれども、だけど、そこにはどんな快楽もなかった。文章を書くことにはいつだって快楽がなければいけない。その快楽は、昨夜にもたらされた。さっきもどこかで書いたように、ある媒体のための文章を書いているとき、何か、突き抜けるような心地よさがあった。それを引きずりながら、今日1万字の文字をしたためた。快楽が、何食わぬ顔をしながらずっと体の芯を通っている。
この状態を維持したい。そして、たしかに、素晴らしい映画や、本や、そういったものを誰か、極わずかのこのブログを読んでくれている人に向けて発することが、何か素晴らしいものをガイダンスすることが自分のやるべきことのようにも思えてきたふしはあったけれど、そうでなく、何か、こう、作ることを、作業し、形を積み上げることを、そろそろ、再開してもいいような気もしてきた。不時着した飛行機を解体し、おんぼろのフェニックス号をこしらえるような手つきで、私は私のフェニックス号めいた何かを、そろそろ、そして重い体でその機体を引っ張り、滑走路まで引っ張り、プロペラが徐々に、確かに回り、いつか空を巡る。
本日、12868字。
book
2013年2月8日

2012年9月にフィラデルフィアで、Pig Iron Theatre Companyの演出家ダン・ローゼンバーグの演出によって初演されたというこの作品がこの2月、KAATで上演されるという。初演時と同様にピッグアイアンの人たちが出演し、そこに日本語字幕がつくらしい。字幕を追いながら役者の動きを見るのってけっこうしんどそう。それにしても見たい。羨ましい。ということで戯曲を読んだ。あまりのことに、日を置かずに二度読んだ。
作中に出てくる坂口恭平の発言が本当であるならば、ヘンリー・ソローの『森の生活 ウォールデン』と坂口恭平の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を原作としたというこの戯曲は2011年4月の時点ではすでに構想されていたらしく、そうなると岡田利規が大きな変貌をとげた『現在地』より以前のもの、ということなんだろうか。そのあたりの前後関係はよくわからないのだけれども、この岡田利規の自伝的作品という戯曲は、とにかく、もう、最高にエキサイティングだった。チケットが残っているかどうか知らないけれど、東京近辺の方々はKAATに駆けつけるべきだ。駆けつけられる人が本当に羨ましい。
一読して、なんなんだ、このアクチュアリティは、と愕然とした。
作中で自身を「10年に一人の逸材と呼ばれた劇作家」と呼ぶことをためらわない岡田利規は、なんだか、信じたい強靭さを手に入れている。ソローに傾倒した15年前の岡田、ソローを傲慢に感じる2010年の岡田、その傲慢さはかつてと比べて安全な場所にいる、成功者とされる今だからこそ引き受けるべきものなのではないかと転向する2011年の岡田。なんて率直で、なんて真摯なのか。過去の岡田から現在の岡田が照射されるときに帯びるサスペンスはなんなのか。過去の岡田、現在の岡田、そしてソロー、坂口恭平。どの人物が発するセリフも、もうなんでこんなに動揺するんだろうというぐらいにアクチュアルだ。強靭だ。そして各々のセリフが、見事なまでに有機的につながって、何か大きな、すごい何かがメキメキと現れてくる。
この作品があって、そして『現在地』がある。(その順番なのかは定かではないにせよ)そう考えると、『現在地』が以前にもまして、すごい決意のもとに書かれていると感じられる。さっきホームページ見たら『現在地』がDVD化されているらしい。ずっと、これを戯曲で、吟味しながら読みたいなと思っていたのだけど、DVDでももう一度見てみたい。チェルフィッチュの新作は『地面と床』というタイトルらしい。9月に京都でやるらしい。駆けつけなければならないと思っている。それから、今読んでいる本を終えたら岡田の演劇論という『遡行 変形していくための演劇論』も読むつもりだ。2006年の3月に初めて『三月の5日間』をスーパーデラックスで見て以来、岡田利規は私にとって最重要のアーティストであり続ける。
最後に、坂口恭平に関しては、彼を追ったドキュメンタリー『モバイルハウスの作り方』はすごく面白かったのだけど、そこで描かれていた以上のことはこの戯曲にはぜんぶ書かれている。彼のセリフも(といってもそれは岡田が書いたものだから、どこまで坂口が同じなのかはわからないのだけど)、ことごとくに真摯だった。ワタリウム美術館で催された「新政府展」が素晴らしかったと友人が言っていた。著作もいつか読んでみたい。私は今のところこの胡散臭い人物を信用してみたい気持ちに駆られている。
ところで、ウサギ夫婦は否応なくデヴィッド・リンチを想起させるけれど、あれはどういうあれだったんだろう。
群像 2013年 02月号 雑誌
cinema
2013年2月8日

カーアクションが大変に素晴らしいと何かで見ていたので、帰りの運転は妙に気が大きくならないように気をつけようと、映画館に向かいながら思っていた。トム・クルーズが出ている映画という以外のことはほぼ知らずに見にいったせいか、冒頭のシーンで初めて狙撃手の顔が映ったときには「あ、違うのね。ずいぶんお膳立てしたけど、思わせぶりね」とびっくりした。勝手に、冒頭のショットの連鎖から、狙撃手はトム・クルーズであり、今回のトム・クルーズは『コラテラル』でのような殺し屋めいた悪役なのかなと憶断していたためだ。そしてこういった錯誤はこのあと何度か繰り返される。
狙撃する犯人の顔は確かに見た。犯人が捕まった。取調室でその犯人の顔を見たとき、「あ、あの人ヒゲ剃ったらこんな卵みたいな顔になるのか、そうかそうか」と勝手に納得した。そしてそれは思い違いだった。射撃場での老人も、悪玉の老人と勝手に見間違えて、勝手なサスペンスを場面に導入していた。背後から撃たれるんじゃないか、トム、と。
そして全体としても錯誤であり、激しいアクション映画かと勝手に思っていたら、退役軍人のトム・クルーズはアクションを立派にこなしつつも、どちらかといえば名探偵といった役回りだった。トム・クルーズがスラスラと謎の核心に迫っていく姿を見ながら、単純に気持ちがよかった。良質の推理映画を見ている感覚だった。
まあ、それにしても、ほんと、面白かった。「アウトロー」という邦題には違和感があるし、いくつかのセリフで発されるのはドリフターだし、でも日本国においてドリフターとしてしまうとどうしてもお笑いの方向に見られてしまうから、というところの腐心なんだろうけれども、そんな腐心をするぐらいだったら潔く原題通りの『ジャック・リーチャー』でよかったのに、と思う。どうせシリーズ化しそうだし、それが一番いいんじゃないかと。トム・クルーズなんだから、タイトル関係なく客入るでしょうと。
ところで、いったんトム・クルーズと表記したあとはクルーズと言っておけばいいのだろうか。ウディ・アレンをウディと呼ぶようにトムと呼ぶのはいささか憚れるような気がするけれど、一方でクルーズというのも、クルージングみたいでしっくりこない。トム・クルーズといちいち中黒点を打つ以外に手はないように思えるのだけれども、どうなのか。そして今回ウィキペディアを通じて初めて知ったのだけど、トム・クルーズの本名はトーマス・クルーズ・メイポーザー4世なのか。
しかしそれにしても、大変に面白かったのだけれども、黒幕の正体がああいうたぐいのものだとなんとなく興冷めしてしまうところがあった。もっと私怨とかのほうが興奮したかというとそれもわからないのだけど、というか、謎なんて解けないほうがいいのかもしれないとも思ってしまったりもするのだけど。
黒人の警察官の姿がとてもよかった。あのこじんまり感、ベビーフェイス感は稀有だと思う。
また、弁護士の女性もとてもよかった。モーテルの部屋でニットの上から初めて知らされた巨乳が、そのあとのシーンから露骨な谷間の表現へと変わる姿が、すばらしかった。どこか、カトリーヌ・ドヌーヴのようなボリューム感のあるゴージャスな方だった。うまく言葉にはならないが、この人とトム・クルーズのラブシーンはないだろうと思っていたけれど、実際なかった。その「ない」感じっていったいなんなんだろう。とてもきれいな人だった。
なんかよくわからない書き方になっているのだけど、全体にチャーミングな印象で、推理ものとしてもアクションものとしてもとてもエキサイティングで、今年見た新作映画では今のところ一番面白かったことは間違いなかった。
なお、監督のクリストファー・マッカリーは『ミッション・インポッシブル』の次作を監督するらしい。
cinema
2013年2月8日

きっとフェニックス号に飛べっていうような映画なんだろうな、きっと大勢の男たちが過剰なまでの汗を流しながら奮闘する映画なんだろうな、と思って見てみたら、本当にそのとおりだった。
あの、もう本当に、トラウマになるかと思うほどに恐ろしかった『ふるえて眠れ』の次の作品。恐ろしすぎる女たちの映画のあとに、アルドリッチは傷らだけの男たちを撮った。
不時着した砂漠で男たちががなり立てながらがんばる、という映画だった。砂漠の物質感がとてもよかった。その風景を見ているだけでも、徒歩圏内にはもう絶対にどんな希望もない、というのがひしひしと感じられるようだった。
そして、不協和音を奏でながらもどうにか希望に向けて前進していく男たちの姿、なかなか覚悟とまではいかないけれど、渋々とがんばっていく姿の情けなさ、力強さ。長びく砂漠生活に疲労をどんどんとためていき、顔の皮膚はただれていき、そして見せる重すぎる足取り。一挙手一投足がしんどい、というような倦怠感。どんくささ。素晴らしかった。飛行機の部品を、そして飛行機自体を引っ張っていくときのあの運動になりきらない運動。こんなに緩慢なあれこれの運動を画面に定着させた映画はどれだけあるだろうか。どういう状況で撮影されていたのか知らないが、実際にものすごい疲労を与えながらおこなわれたようにしか見えない。ジェームズ・スチュアートの愚かさが素晴らしく愚かだった。ハーディ・クリューガーもまた、素晴らしく愚かだった。もうちょっとスマートにリードできないものかと。彼はマネジメントについて真剣に勉強するべきだ。そしてまた、彼が航空機のデザイナーではなく、要はラジコンのデザイナーだったと知らされるシーン。「うわあ…こいつマジキチだ…」という、あっけにとられたジェームズ・スチュアートとリチャード・アッテンボローの絶望的な表情がまったくもって素晴らしい。
そうなるともう、ラストは気持ちがよくて仕方がない。浮いた。飛んだ。オアシスだ。素晴らしいじゃないか。フェニックスが飛び立った瞬間、彼女と二人で拍手した。
どうでもいいけど、邦題のエクスクラメーションマークの半角っぷりが気になって仕方ない。
book
2013年2月8日
現れる存在―脳と身体と世界の再統合
タイトルのbeing thereはハイデガーの「現存在」から取られているとのことで、ただし、ハイデガーが関心を寄せていたことと、本書の議論とでは、激しく異なっているところもあるとアンディ・クラークは言う。特に、知識とは心と独立した世界とのあいだの関係性を含んだものという考え方に、ハイデガーは反対していた、とある。私バージョンの現れる存在は、と彼は書く。それよりもずっと幅広く、身体と周りの環境が、拡張された問題解決への活動の中の要素とみえるケースをすべて含むものである、と。
円城塔が推薦文を書いており、著作を一冊しか読んだことがないにも関わらずなぜか彼に信を置く部分があるために手に取った本なのだが、すこぶる面白く、刺激的だった。途中で議論についていけなくなって私には少しばかり難しすぎるですと思ったのだけど、最後の方ではまた面白いのがぶり返してきたのでよかった。
高度な認知は、推論を消散させるわれわれの能力に決定的にかかっているという考え方だ。(…) この考え方が的はずれなものでなければ、人間の脳は、他の動物たちや自律的ロボットがもっている、断片化した、単一目的の、行為指向的な組織とそれほど違わない。しかし、一つわれわれが決定的に抜きん出ている点がある。われわれは物理的・社会的世界を構造化するのに長けていて、それによって脳のような不規則なリソースから、複雑で整合性のあるふるまいをひねり出せるのだ。われわれの知能は、環境を構造化するために使われており、そうすることで、より少ない知能で成功を収められるようになる。われわれの脳は世界を賢くし、そうすることで、われわれは馬鹿でいられる!あるいは別の見方をとるならば、人間の脳プラスこうしたたくさんの外部の足場作りこそが、ついには賢くて合理的な推論エンジンを構成するのであり、それを心と呼んでいる。そう考えると、われわれは賢い―――ただし、われわれを包む境界は、最初に考えていたよりもずっと外へ、世界のほうへ広がっている。(P250-251)
とても単純だけど、こういう文章がすこぶるエキサイティングだった。心は世界のほうへ広がっている、とか、読んでいるだけでワクワクしてくるようだ。
賢い脳は自身の(物理的、社会的)外部世界を積極的に構造化する。そうして、行為の成功を導くのに少ない計算ですむようにしている。(…)われわれという生き物は、この地上でもっとも並はずれた外部足場の虜にして利用者だということだ。われわれは「デザイナー環境」を組み立て、その中で人間の理性は生物としての脳そのものがもつ計算能力をはるかに凌駕することができる。(P266)
人工知能や子供の発育過程、それから環世界と呼ばれるものなど、様々な事例がどれも面白く興味深かったが、特に脳は世界を都合よくくみ再構成して自分の負担を軽減させるのにとても長けている、というような感じの箇所にことごとくに「いいね!」と思った。
それは言語も同じで、コミュニケーションの手段であるのと同じぐらいに自身の認知を支える手段でもあるということだ。難しいタスクに取り組むときにぶつぶつと独り言を言う量が多い子供の方が、そのタスクを成功させる可能性が高くなるらしい。言葉にしろ、なんにしろ、足場を外に持つことで、脳は楽ができて、いろいろと効率もいいよね、という話だったのかどうかはわからないし多分違うとは思うのだけど(概要はamazonについているカスタマーレビューがとてもよくまとまっていてわかりやすかった)、そういうあたりを読んでいて思うのはエバーノートやグーグルや、あれやこれやのことで、この本が書かれたのが15年前で、そこからインターネットは急激に浸透していき、私にはなくてはならないようなものになっている。なんの本を読みたいんだっけか、今日やらなければいけない用事はなんだっけか、この映画を見たとき、何を思ったんだっけか、そういうのが大方、エバーノートやリマインダアプリや、その他様々なところに保存されていて、そう手間をかけずに取り出せるようになっている。すべての記録が消えたら、けっこう厄介事だ。それはだから、私に私を構成する一つの道具なんだよなと、読みながら考えていた。
脳のある箇所に損傷を負った人の話が出てくる。彼はノートにあれこれを書き、それとともに生きている。彼にとって、そのノートが取り上げられることは、文字通りの暴力行為だ、というようなことが書かれている。
使用者と人工物のあいだの関係がクモとクモの巣の関係ほどに近くて親密なときに限って、自己の境界が―――計算や広義の認知プロセスの境界だけでなく―――世界のほうに突き出す恐れがある。(P304)
ウェブが私たちとこれだけ親密に、そしてこれからますます親密になっていく中で、私であり認知であり心でありが、いったいどこまで世界の方に広がっていくのだろうか。
cinema
2013年2月7日

この映画ではエージェントの役割が物語を進める原動力の一つになっていて、彼はロッカールームには入り込むし、試合中は関係者席で偉そうな顔をして煙草を吸っている。電話をするかと思えばこれこれは何ドル、こうなったら何ドル、と金の話ばかりだ。そして彼が大チョンボを犯したがゆえに人気メジャーリーガーは窮地に陥り、そしてロバート・デ・ニーロは犯罪に手を染めていくことになるわけだけど、それにしたって、開幕前日まで選手に背番号を知らせることのないエージェントなんてありえるのだろうか。というか、入団会見とかでユニフォームに袖を通したりという光景をよく見るし、そんなことってありえるのか、とも思うのだけど、ありえていいのだけど、いずれにせよ背番号問題はエージェントの大きなミスだ。
エージェントのことをここのところよく思う。愛する日ハムからトレードになった糸井の例を挙げてみよう。彼はこの冬エージェントを立てて契約更改の交渉をした。交渉では更なる高額の年俸を要求し、さらにはトレードの権利を要求したとされている。今回のトレードを肯定する立場はこぞって糸井の姿勢に対して批判する。彼はこれだけのがめついことをしたのだから、日ハムが彼を切ったのも理解できる。そんなふうに言われる。
しかし、と私は思った。代理人交渉について私はよく知らないので思う「しかし」なのだけど、あれこれの要求って、エージェントが「糸井さん、こうしたら球団、絶対いい条件出してくると思いますよ」みたいにそそのかした結果なんじゃないか。考えてもみよう。糸井と言えば「天然」と呼ばれる様々な発言で知られる選手だ。そう賢いようには思えない。大リーグに行きたい、ぐらいは言えたとしても、「俺、トレード権も欲しいんです、だってそうすれば」などと考えられるようには到底思えない。彼はエージェントの言いなりになっただけなのではないか。そしてエージェントは今回、秤に置く石の重さを間違えた。そんな構図が本当なんじゃないだろうか。そう思いたいだけだけど。
あるいはまた、最近ネット上を騒がした「惜しい、桃太郎市」の一連の岡山市のプロモーションもエージェントと深く関係するだろう。パロディ動画と大昔のインターネット (という表現が成り立つようになったあたりに年月というものを感じる)を模した面白おかしいサイト。そこで(おそらく主には)ネット上での関心を呼び、2月1日に何が発表されるのか、うまいこと耳目を集めることに成功した。そしてその日に発表されたのはやはり、格好の整った岡山市をプロモーションするウェブページだった。デザイン、素敵だった。しかし、内容がなかった。1900万円を投入したプロモーションの目標はきっと「面白いね、うまいことするね、そして素敵ウェブだね」ではなかったはずだ。「1億、観光客からせしめとりましょう」であったはずだ。しかし、見る限り、そのページを見ても岡山市に行ってみたいね、とはほとんどの人がならないはずだ。失敗だ。市は、エージェントであるところの広告代理店にまんまとやられたのだ。「これ、絶対うけますよ。いいね、たくさんゲット出来ますよ。そしたら観光客、どんどん来ますよ」という言葉にまんまと乗ってしまったんじゃないか、と思っている。いいね!は換金できない、というのが私の常々の考えなのだけど、ネット上で受ければそれがすなわち消費行動へとなると、まんまと思わせられたのではないだろうか。そして結果は中長期的に計測され、エージェントは直接の批判を免れるのかもしれない。いやいや、これから結果が出てきますから。ネットの影響っていうのは、もっと長く、ながーく表れるもんなんですから、と。
そういうわけで、野球の場面はやはり、映画はスポーツを映すのが得意じゃない、というのを感じさせられる弛緩したものではあったけれど、サスペンスは強い緊張を生む、素晴らしい映画だった。ずっと昔に、たぶん金曜ロードショーとかで見ているだろうなと思っていたのだけど、初めて見たようだった。思っていたのはフィンチャーの『ゲーム』だったらしかった。
cinema
2013年2月3日

ゲットーや収容所に押し込められるユダヤ人、その人たちを殺すために動員される兵士たち、死体の山となった人々、シンドラーに助けられ工場で働く人々、終戦の夜にシンドラーの演説に聞き入るやはり工場の人々、屋外で死体の山のようになって眠る人々、その翌朝に解放の宣言を聞き蘇生したようにゆっくりと起き上がる人々。ヤヌス・カミンスキーのカメラは名のないいくつもの群衆を、そして群衆の運動を、とても見事に画面に定着させている。映画のカメラは一人のスターの顔を大写しで捉えるものではなく、複数の人間を一気にそこで生きさせるためにあるのではないかなどという、べつだん真剣に思ってもいないような考えに取り憑かれたくなる。
殺される人の姿がとてもいい。ナチスの兵士が気安く抜いた銃で頭を撃たれるときの体の弾かれ方に緊張する。いま死にゆく人を見ながら、この俳優はこれからどんなふうに死を演じるのだろうかと、不謹慎な好奇心に駆られながら画面を見続けていた。
『マンディンゴ』に続いて数日のあいだに立て続けに隷属する人々を映画で見たせいか、ことあるごとにアイムノットユアスレイブと、むやみな憤りを覚えながら暮らした。
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