4月、バルガス=リョサ、世界にひとつのプレイブック

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フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

この地において時間を割いて夕飯を食べるためには高いモチベーションが必要で、それが特にないために今晩は食べていないのだけれども、お腹はやはりすいてくるために先ほどビールとともにミックスナッツを皿に入れてつまんでいるところはあって、だから夕飯を食べていないという話は半分以上嘘になった。裸電球が私の人生を照らしている。限られた時間のなかで、分かりもしないコードをあれやこれや修正してはリロードを繰り返しながら、店のウェブをいじっていた。今晩は本を読もうと、そう決めていたのに結局そうやっているうちに2時になってしまった。休みの前の日も同じ事をしていて、迎えたのは6時で、空ははっきりと明るくなっていた。

 

これまでマリオ・バルガス=リョサという作家については、『若い小説家に宛てた手紙』をだいぶ前に読んだだけであり、それがたいして面白いこともなかったのでラテンアメリカ文学を読みたいと思っていても手を出す気にはなれないでいたのだけれども、少し前に店に遊びにきてくれた友人が河出だっけ、池澤夏樹が監修の文学全集、ちくまだっけ、何にせよ、あれに載っているバルガス=リョサのやつはとても面白かった、と言っていたため、それでは挑戦してみるかと思っていたのだけれどもいざ書店でそれを手に取ったら分厚いし、ゴーギャンとゴーギャンの誰かがどうの、ということが書かれていて、別にゴーギャンのことを読みたいという気もせず、それで他にあった『フリアとシナリオライター』を買った。どれでもよかったといえばよかったのだけれども、エピグラフの書く僕を見る僕を見る僕的な書くことへのどうのこうのが、私には面白いかもしれないと思いそれを選んで、でもいざ、それはボラーニョとともに買われて、ボラーニョを大変な喜びのうちに読み終えた時に、いざ、バルガス=リョサ、となると面倒というか、バルガス=リョサはもういいから『2666』に行きたいよ、というような気分には支配されて、だけどまあ、買ったのだし読んでみようと読み始めたらそれがすこぶる面白く、500ページ近い小説だったけれども10日ほどで読むことになった。これは、本を読む時間を取れない、と日々嘆いている私からすればけっこう珍しい速さでの読書だった。

 

ボラーニョの語り手たちもそうだったけれども、バルガス=リョサの語り手も、若い、金のない小説家志望の男で、彼らの溌剌とした生き方を見ていると、なぜ私はまだ若いといえるこの年で、こんなにも守りに入ったような気分で生活しているのだろうと思ってしまう。彼らはいつだって金がないなりにどうにかする。岡田利規が「ゼロコストハウス」で登場させた坂口恭平に言わせているように、だからそれは働きすぎだからね。ていうか時間取られすぎてないですかバイトに? 身を粉にしすぎじゃないですか? じゃあ書く時間どうしてるの、確保できてる? できてないだろ。本末転倒じゃん、ということを、ラテンアメリカの若くエネルギッシュな男たちを見ていると、ひどく痛感するし、むやみに惨めな気分になる。

 

『フリアとシナリオライター』を読み終えたあと、前の休みの日にいった蟲文庫で買ったたしか中央公論社の、と思ったら集英社だった、集英社の世界文学全集のラテンアメリカの回の、そこにはボルヘスやガルシア=マルケスやプイグやドノソ、あと誰だったかな、そういった面々の長編がいくつかと、いろいろな人の短編が載っているのだけど、その中にバルガス=リョサの「ある虐殺の真相」があったので読んだ。ペルーの山地で起きた虐殺事件の真相を調べに行った記者団が虐殺されるという話だった。彼らを殺したインディオたちは調査委員会の聞き取りにたいして、「はい、彼等を殺しました。どうして?間違えたからです。人生は誤りと死に満ちてはいませんか?」と語る。彼らにとっては殺すことが生きる環境のなかに組み込まれている、とバルガス=リョサは書く。それが印象に残った。感想としては「うわー…」というところで、これもまた非常に面白かった。蟲文庫ではこれとともにドス・パソスの、これが中央公論社だった、『マンハッタン乗換駅/あらゆる国々にて』を買って、ドス・パソスの作品はあまり手に入らなそうだし、いい買い物だった。名前はラテンアメリカでもありそうだけどこの人はアメリカの人なので、北上するのはまだ待つことにしてもう少しラテンアメリカを堪能してからいつか読みたい。けれどわりと早く読みたい。

その前に丸善で能勢伊勢雄『新・音楽の解読』の発売を記念したブックフェアがあって、そこには松本俊夫『映像の発見』とか平倉圭『ゴダール的方法』とかバルト『明るい部屋』とか『メカスの映画日記』とか、いくつかの読んだことのある、とても好きな本があったのだけど、その中から向井周太郎『デザイン学 (思索のコンステレーション)』を『新・音楽の解読』とともに買ったので、それを読もうとも思っているけれど、開いてみると中々に難しそうで、まるで知らない分野でもあるし、使われている言葉もわからなそうだし、読める気もあまりしないでいる。それに今はなぜか、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』を読みたい衝動に駆られている。

 

今は小説を読むことが面白い。映画はよくわからない。先日デヴィッド・O・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』を見たけれど、私には痛みが強すぎて、いい話だったとか、ジェニファー・ローレンスの演技が素晴らしかったとか、そういうことでおさめる気には到底なれなかった。痛みが欲しい、と言って作品に満足できなかったことを言い訳してみせたり、痛かったら痛かったで「痛くて辛かった」とか言って終える、私はいったいどうしたいのだろうか。何を見たいのか。

 

2本目のビール、2皿目のミックスナッツ。2時40分。不毛という言葉を思う。


4月、エンジョイ、フリータイム

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何日か前に指を怪我したためいつも作っている日替わりのご飯の仕込みを彼女に準備してもらうことをおこなったときに、私はタバコを吸いながらああしてこうしてと指示を出すのだが、指示を出そうとしてもいまいち頭が上手に働かない。身体という言葉はどうも苦手でうまく使えないのだけれどもこの場合は身体というのがふさわしい気がするので使ってみるけれども、身体と思考は密接につながっていて、この場合であれば、私は野菜を包丁で切ることによって料理の思考が駆動されているのじゃないかとそのときに感じた。左手が野菜に、右手が包丁に触れているがゆえに、私の頭は料理的に動き出し、そしてあれやこれやのおかずを作成していくのではないか。右手にタバコ、左手に空気という状態は、私を料理のモードに導かず、ゆえに私の頭はどこまでも鈍重にしか働かないのではないか。今は3時になるところ。指もだいぶ治ったため、翌朝の仕込みをおこなった。2針縫われた人差し指はやはり動かしづらく、打鍵する動きもどこか人ごとのようにぎこちがない。怪我などするべきではない。

 

日曜は日没で閉店だが、それ以外の日は11時から24時が営業となるため、9時半ないし10時から24時半までは仕事になる。睡眠はどうしたって必要であるため、2時ないし3時から9時半ないし10時までをその時間にあてる。そうなると、私のフリータイムは24時半から2時ないし3時であり、その時間をいかにエンジョイするかが肝となる。今日はすでに3時を越してしまった。睡眠時間を削ることになるが、体の疲労以上に、気持ちの休息を取らないことには次の日を乗り切ることはとうていできないように思えるのでよしとする。人差し指が動きづらく、今も句点を打とうとしたときに何度も間違えた場所を押した。また、この場合は10本の指が思考するため、人差し指の変調によって「~づらい」の「づ」をここまでに2度も「ず」と打ってしまう。不思議な気もするが、間違いなくそれはこの人差し指のせいだ。そうであるならば、この指の状態の思考というものがそれはそれで独立して、普段とは異なるものとしてあるはずで、それがどんなものなのかを突き詰めて見てみたいような気もするけれど、私は何かを突き詰めるということをできるたぐいの人間ではないらしく、いつだってあやふやなまま、物事は済まされていく。

 

夕方、白人の女性が2階の窓際の席に座ってJ.M.Coetzeeの『Disgrace』を読んでいた。年末に飲んだ友人がクッツェーはとても面白いから読んでみたらと言っていたがまだ読んでいないしいまいち食指も動かないのだけれども、恥辱と訳されるそのタイトルの単語が、恩寵にdisがついたものであることがなんとなしに面白く、クッツェーは英語ではコッツェーという感じでプロナウンスすると教わった。ブッカープライズの作品であるよ、とその女性は言った。説明しづらいのだけれども、その人は変な位置に座って片膝をついた格好で本を読んでいた。いつだって、英語を喋れるようになりたいと思うけれど、いつだってその思いが持続することはなく、なんでだろうか、「じぞく」も「ぢぞく」と最初打ってしまった。人差し指のこの違和感がこういった影響(今もえいぎょうと打った)を与えることが実に面白い。面白いけれど、これはいったいなんなのか、さっぱりわからない。

 

閉店のあとにあれこれをおこなったのち、私たちは『ジャンゴ』を見に映画館に行った。いつも通り、スタバで飲み物を買って入った。スタバのドリンクを手に持って入ろうとすると、映画館の売店以外の飲み物の持ち込みは次回以降はおやめくださいと言われるのだけれども、私たちはいつもすいませんと言って次に行ったときも同じことをする。店をやっている立場からしても、持ち込みは最たるやめてください事項というか、ほぼ唯一と言っていいやめてください事項であるのだけれども、なぜか、TOHOシネマズに対しては「はいはい」という気しか湧かず、何度も同じ注意を受ける。映画館と同じフロアにスタバがあって、そしてスタバに「映画館への持ち込みはご遠慮ください」というような表記もなくて、それで持ち込み禁止というのがどうにも腑に落ちないというためだろうか。あるいは、それなら買う気になるだけのクオリティの、スタバに匹敵するだけのクオリティの飲食物の提供をその専用の売店やらでもやってくださいよ、という気持ちも湧く。以前ポテトを買ったけれども食えたものではなかった。何度もやっていて何度も注意されているんだからそんなものは理由にならないという向きもある気がするけれども、どうしてもやめる気になれない。自由競争でしょ、とかよくわからないことを思うのだけれども、同じことを自分の店で言われたら参ってしまうなと思うのだからやめるべきなんだろう。敬意とは何か、今一度考えるべきだ、私は。

 

『ジャンゴ』は、期待していたように面白かった。清々しさというものをよく感じた。いくらか前に見たフライシャーの『マンディンゴ』の記憶とあからさまに共鳴しながら、農園の緑がとにかくきれいで、そのなかで飛び散る鮮血の赤、黒と白の人。格好がよく、気持ちのいい映画だった。いくつもの場所で大笑いしながら見惚れた。サミュエル・L・ジャクソンの食堂での鬱陶しい相槌の打ち方に笑い、ジェイミー・フォックスの早打ちに歓喜しながらも、私の中で主役というか最もクールだったのはあくまでクリストフ・ヴァルツとレオナルド・ディカプリオだった。

恐ろしいほどに不感症だ。大傑作だと思う反面、物凄い楽しかったと思う反面、いささか冗長というか、これを120分に収めればもっとクールだったのにと、不遜にも思ってしまう。見たことすら、何日かすれば忘れてしまうのかもしれない。怖い。今は小説を読む気にもなれない。読んでも、どうせ面白くない。人間が腐っていく。そうはなりたくなかった大人に、どんどんとなってしまうのかもしれない。疲れすぎている。体も頭も疲労困憊といっていい状態だ。それのせいなら救われるのだけれども、実際はどうなのだろう。ただ人間として劣化していっているだけかもしれない。そう思うと実に怖いね。これが現在地。

 

エンジョイアワフリータイム、わたしたちに許された特別な時間は終わる。


3月、日記

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29日

10時前に起き、用があり店へ。用を足し、仕込みに足りないものの買い物ついでにコーヒーを飲みにマチスタへ。ベルクで取ったままバッグに入れっぱなしにしていた早稲田文学のフリーペーパーを読む。天気がいい。店へ戻りオムライスの仕込み。煮込む時間で事務作業。途中で彼女が帰ってきたのでたしか何か食べる。まったく思い出せない。むしろ帰ってきていない気がする。夕方、仕込みを中断して車で岡南の方へ。家の蔵から古いものが出てきたので店で使ってほしいという親切な方のお申し出を受けその方の家へ。御膳など、いくらか頂戴する。店へ戻り、延々と事務作業をしながら開幕のプロ野球の試合を見る。日ハム西武。パ・リーグTV、一試合見るのに600円。高いか安いかはわからないが、見る手段があることが喜ばしい。勝った。ビールを飲みポテチを食べる。気が違ったように事務作業をし続ける。伝票の入力がやっと現実に追いつく。オムライスを完成させ、いくらか翌日の準備をしてたぶん帰宅。ラーメンを食べに行ったかもしれない。ラーメンを食べた。一風堂でラーメンを食べた。満腹になり家に帰りアルベルト・ルイ・サンチェス『空気の名前』を数ページ読み、眠りに落ちる。この小説はラテンアメリカ文学を読みたいと思ってエクスリブリスのコーナーから買った。ハンマームとかスークとか、懐かしいアラビア語が出てくる。よく知らないのだけど、メキシコにイスラムコミュニティがあるのだろうか。出てくるモガドールという地名を今ぐぐってみたらモロッコのエッサウィラの旧名として出てくるのだけど、ここのことだろうか。

 

30日

10時ごろ店に着き、24時半ごろまでに取れた休憩は10分ほどだったろうか。夕方に昼ごはんとしてロコモコっぽいものを彼女が作ったのでそれを立ちながら食べた。閉店後、米とメカブという質素な夕飯を食べた。そのまま眠ってしまい、2時過ぎに起きた。頭の芯がジンジンする。缶コーヒーを買いにコンビニに行く途中、2メートルほどの、駐車場とかで使うような軽いタイプの鎖を引いた男が向こうから歩いてきた。ヌンチャクの要領で殴打されたらどうしようかと思うと心臓が強く脈打った。無事通り過ぎることができた。缶コーヒー1本とタバコを何本か飲み、カレーの仕込みを始めた。彼女はストーブの前で体育座りで寝ていた。5時半頃に仕込みがだいたい終わったころに彼女が起き、ケーキを焼き始めた。二人とも疲弊を通り越して憔悴しているようだった。私は二階にあがり、コタツで寝た。

 

31日

10時前に起き、準備。彼女は起きてから眠っていないらしかった。買い出しにもすでに行っていた。18時半の閉店まで休む間はない。19時半ごろ閉店作業が終わり、それから月1回のグリスト清掃をおこなった。今月は私の番だった。ザゼン・ボーイズをイヤホンで聞きながらおこなった。『すとーりーず』で歌われる風景はむしろ、ストーリーを根本から消そうとしているように感じる。向井秀徳はもはや歌詞などなんでもいいのではないかと感じる。音だけにしか興味がないのではないかと。そうでなければ、ポテサラを食べたいなんて歌わないのではないか。結局、格好いい。『ZAZEN BOYS 4』の最後の曲がやたらにしみた。グリストはたいへん、こう、毎回思うけれども、壮絶だった。凄絶でもいい。なんでもいい。終わった頃には10時だった。スタバに行って店のブログを書いていた。スタバはいつも通り物凄い喧騒だった。人々はどうしてあんなに声高に話すのだろうか。気が触れているように思えた。Wireを聞いたあとにアルファベット的に近く位置しているThe xxを聞く。「VCR」でボーカルが入った瞬間に泣きそうになった。少し涙が出た。まさか自分がThe xxでこんな気分になるとは思わなかった。

店に戻り、ブログの続きを書いた。無駄に暗い文章になって驚いた。今は2時になるところだった。金麦を開けた。かたわらにカルビーのうすしおがある。いつ開けるのか。顔が乾燥して痒い。アトピーだからしょうがない。


3月、公共性、フライト

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ロバート・ゼメキスの『フライト』を見てきた。デンゼル・ワシントンの笑顔のストップモーションで終わったその映画は、いい話だなあと思いながらも、やはり私のなかに何も残さないような気がすでにしている。不感症の日々が続く。映画的な興奮とはなんだったのか、あ、映画、ああ映画だよな、やっぱり、というあの感じは、どこに消えたのか。映画からしか得られない感動というものを、少なくとも『フライト』は与えてはくれなかった。誇りとは何か、それはいい話だったろうし、アル中のデンゼル・ワシントンの姿にドキドキと緊張したりもした。フライトの場面の緊迫感も、それはすごかった。だけど、なんでこんなに何も残らないのだろうというぐらいに、見終わってしまえば、何も残らない。私は大丈夫なのだろうか。この後の人生でも映画を愛し続けることができるのだろうか。それを考えれば一抹の不安も覚えるだろうし、その不安をかき消すために今は2本目のビールを飲んで、そして空腹だったからか、そもそも弱いせいか、けっこう酔った気分になっている。誇り、それが何かを示すためにデンゼル・ワシントンはいつだってスクリーンにその姿を見せるのだろう。私はワシントンではなくいちいちデンゼル・ワシントンと打たなければ納得出来ないこの事態に対しては決して悲観的ではない。

 

そもそもこの一日、私たちは店を不当に休んだ。当初の予定では今日は営業がおこなわれ、飯が振る舞われ、対価をいただき、生活をなす。そういう一日にいつもどおりになる予定だったが、どうにも、今日は、ダメだ、これは、という双方の理解によって休日となった。公共性ということに対して考えてみてもいいだろう。そんなものは犬にでも食わせていればいい、と言って済めばとてもいいが、そういうものでもない。私たちは、このあと、どのように生きるのか。少なくともそれはスレイブな感じではなく自分の人生の主は自分だけであるという信念に従いながらのものになるだろう。コンビニの店長はこう書いた。従わないがためになにかを失うとしても、その失うものが俺の存在そのものを脅かさない限りはいっこうにかまわない。そうだよなと肯んじた。今日一日、タバコを吸い過ぎたがために喉が今、とてもイガイガしている。だけどタバコと打った瞬間に、もう一本、火をつけたくなった。そしてつけた。のどが痛い。酔っ払った。今の私には、何一つとして書くことがない。かつてのブログを読んでいるといつだって生き生きとしていて、ああ、君の生きる場所はここなんだな、とてもいいと思うよ、その文章、そのテンポ、その書きっぷり、と思う。この文章を、1年後2年後の自分が見たとき、そう思えるのだろうか。今の段階では到底そうは思えないような気がする。私は書くということを失ってしまったのだろうか。それを考えると、けっこうなところ不安になる。

 

デンゼル・ワシントンがパイロットでなければ100名の命が失われた。彼は被害を最小限にした英雄である。事故は、彼がアル中であること、フライト前にもフライト中にも飲酒をしていたために起こったことではない。事故自体の責任は彼にはない。しかし彼は何百人もの命を預かる立場にありながら、恒常的に飲酒をしてフライトに臨んでいた。事故はいずれにせよいつかは起きていたかもしれない。繰り返すが、だけど今回の事故の責任は彼にはない。今回の事故における彼の判断は抜群に素晴らしいものであった。今回の事故において、彼の行為は間違いなく英雄として値するものであった。

彼の逮捕の報を受け、国民は、メディアはどう反応したのだろうか。

 

なんもない。なんもない。なんもない。そんなこともない。とても前向きな気分だ。数々の計算の結果、好ましい青写真が描かれた。それがこの一日だった。


3月、胃痛、不安、映画

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月曜に友人と飲みに行きけっこうへべれけに酔っ払ってようやっと家に帰り失神するようにして寝た翌日から体というか四肢というかが激しい倦怠感に苛まれ、それは昨夜寝て今は解消されているのだけれども、それとは別に胃が痛いのがどうしても消えずけっこうなところ苦しいので今日は薬局に行って胃薬を買う羽目になった。薬局に入ると棚の並ぶ通路を若い男がレジに向かいながら「あのコーヒーがないんだけどー」と店員に大きな声で伝えていた。禿頭の店員は謝るような声を出していたので、胃薬は自分で選んで買った。買ったことのないものなのでどれがいいかわからなかったが、16包980円のやつを買った。飲んだらシナモンの風味で飲みやすくてよかった。成分を見てみればたしかに桂皮がいちばん含有量が高いものとして書かれていた。

 

胃が痛いため食事をすることが億劫で、さっぱりしたものを食べるか、何も食べないぐらいが気分としてはちょうどいいのだけど、夜になればビールを飲んで、それからポテチを食べたくもなるもので、それはどうも抑える気になれなかったので先ほど千円札を握りしめコンビニに行った。コンビニに行くとなぜかレジには5人ぐらいの列が出来ており、並ぶのも癪だったため雑誌コーナーで突っ立っていたら、凹んだお腹を作る体幹トレーニングみたいなことが書かれた、サッカーの長友が表紙の雑誌が置いてあり、どれどれ、と思いめくり、頭に叩きこんで帰って実践、と思っていたが思いのほかに覚えることが多そうだったので買うことにして、それが680円で、元々ビールというか発泡酒とポテチとお茶を買うつもりの千円だったので、間に合うだろうか、とiPhoneを出して電卓アプリを起動、ポチポチと足していくと1092円と出る。ズボンのポケットを探るといくらかの小銭がある。90円。足りない、どうするべきか、と思ってもう片方のポケットになんとなく手を入れたところ10円玉を発見し、無事会計。とてもお金に困った人のような振る舞いだった。

お金に困ったと言えば先月クレジットの一つが200円ほどの差で落ちず、銀行で振り込むことになった。私は個人の口座は引き落とされる分を充当するだけですべてを事業用の口座に入れてしまっているため、毎月毎月けっこうギリギリのラインでいたのだけど、今回とうとうやらかした。信用情報的に一度の引き落とし失敗はどう影響するのだろう。借入をする気もないし、それこそローンを組んで住宅をとか車をというつもりもないから、信用情報がどこに活きるのかもわからないが。

 

それにしても胃は着々と痛く、たしか、去年も夏だったか、もっと前だったか、時期は忘れたけれどいちど胃を痛くしたことがあって病院に行って内視鏡検査等をおこなった。真面目な検査などほとんど受けたことがなかったので、受けるだけで腫瘍があるんじゃないかと深刻な不安に陥るような心地だった。

サラリーマンのときには経験したことのなかった胃痛というものをこうやって立て続けに起こしている自分を見るにつけ、まあ、なんというか、一生懸命がんばってるもんね、と思わざるをえない。かつては金の心配をすることなどなく、仕事だって、失敗したらそれはそれでいいし、成功か失敗かとか線引きよくわからないし、適当に、上司の顔色伺いがいちばん大事、だけどそれすら上手くやれないけど、ぐらいのところで、日々を漫然とはいくらでも過ごしたけれど、キリキリと目一杯みたいな状態で過ごしたことなんて一度もなかった。それが今では、朝から晩まで、体力的にも精神的にもひどく削られる働き方をしているし、金や先の生活のことが頭から離れる日なんて一日だってない。今のところは心配する必要のない水準が維持されているのだけど、心配というのはなんというか、そういう足元のこととは関係ないらしい。つくづく、サラリーマン時代の自分は、お金を稼いで、そして生きていく、という実感が乏しかったんだろうと思う。会社にいたところで40代そこそこで退職を促されることなんていくらでもありそうだったのに、なんでそこに対しての心配はリアルなものとしてなかったのか。なんでとは言ってみたものの、それも全然仕方がないというか、かつては自分が生み出す価値への対価としての給料と言われたところで、これ俺なんもやんなくても同じ額もらえるんだよね、現に俺なんも価値生み出せてないしね、だけどもらえちゃうんだよねなぜか、というような、他人ごとの感覚がとても強かったのだけど、自分が作ったものを出してその見返りにその場で金をいただいて、それが積み重なって、というのを毎日目にしていると、それはまあ、違う感覚になるのも当然だろう。

 

胃が痛い。

昨日の夜も閉店後に夕飯を食べ、胃も痛いし、肩から鉛でもぶら下げているのかと思うほどに腕があまりにだるく、疲れ果て、店の二階で気がついたら眠ってしまい、寒さに耐え切れずに起きた彼女の物音で今日は5時半に起きた。これはラッキーだ、休日を長く過ごすチャンスだ、ということから7時から開いているカフェに行ってモーニングを食べコーヒーを飲み、店のブログを書いた。車でいくらか動いていると昼だったのでうどん屋に行ってうどんを食べた。驚くほどおいしくなかったので驚いた。いつ見ても混んでいる店だったので、驚きはなおさらだった。

銀行と薬局等に寄ってから店に戻り仕込みをした。火に掛け始めてから4時間は掛かる作業だった。眠くなったので30分ほど寝た。日が暮れる時間になった。店で彼女と二人、残り物で夕飯にした。と書くとすごくわびしいのだけど、美味しいのでわびしくもさびしくもない。それにしても7時、12時、7時なんていう食事は奇跡だ。

家に帰り、映画を見た。何夜も途中で寝ていたオーソン・ウェルズ『黒い罠』、フランシス・フォード・コッポラ『ヴァージニア』、真利子哲也『NINIFUNI』の3本を見た。ウェルズはなんかこう、すごいなあと、『イメージの進行形』の言及箇所を読み返すのが楽しみ。コッポラはなんだか本当に自由だなあと。『NINIFUNI』はそのロードサイドっぷり、車の轟音、景色の美しさ、痛ましさ、静けさ。宮崎将のたたずまいもすごかった。宮崎将とももクロと海を収める画面の冷酷さとか。とか言いながらも最近は不感症気味というのか、何を見てもたいして面白くないというか、面白いと思いながら見ていても自分の中に何も爪痕が残らないような気がしてとても嫌だ。

 

何も残らないような気がしてとても嫌だ。


3月、日記(マイアミ、バジェホス、東京)

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昨日チャールズ・ウィルフォードの『危険なやつら』を読み終え、それがあんまり面白かったためか丸善に行ってウィルフォードの他の作品を探してみたところ豪華版な感じの全集っぽいものを見つけてしまい、まさかこんな形で出ているとは、と驚きながら手に取り、今年はラテンアメリカ文学ばかりを読みたかったのだけど、ここは一つ、ウィルフォードに浮気をするかな、でも手始めにどれを読んだらいいかな、と思う夢を見た。いずれにせよ、それはすこぶる面白い小説だった。追い詰められた殺し屋の沈着な振る舞い、契約とは、倫理とは何かを語る静かな口ぶりがやたらに印象に残るし、ウィルフォードの多岐にわたる博識ぶりが窺われる細部の書き込みは舌を巻くものがあった。解説でタランティーノの名前が出てくるけれども、たしかにそうかもな、というところがあった。ジャンゴ早く見たい。要はものすごい楽しいよね、そしてどこまでも哀しい、あまり使いたくない漢字だけれども、哀しいよねと、そういうところだった。Amazonで見てみたところ全集などはなかったけれど1円でいくつかの作品が買えるようだから、これは読んでみないといけない、というよりはとても読みたいから読みたい。今年はラテンアメリカ小説ばかりを読みたいと思っていたのだけれども、大きな逸脱が起こりそうな気がする。

 

ラテンアメリカ小説をということで年の瀬に買ったマヌエル・プイグの『リタ・ヘイワースの背信』を、とても長く掛かったのだけど先日やっと読み終えた。新宿のベルクで、腹が減りすぎて気持ちが悪くなって目眩に似た感じに陥りながら読み終えた。コーヒーを飲みながら友人を待っていた。

この水曜と木曜、店を2連休にして東京に行っていた。全体的には研修旅行という体でおもむき、まずはベルクに行った。去年の梅雨時に東京に行く際に友人に教えてもらって行きたかった店だったのだけど、そのときも年末も行けず、今回やっと行けた。昼ごはんを食べた。ジャーマンランチだったっけ、そういう名前の、パンが2切れとパテとハムとザワークラウトのやつで、パテのあまりの美味しさにびっくりした。そして感動的な空間だった。もう最高、もうこれ最高ですよ、とやたらに感動し、なので夜に友人と待ち合わせるときにも少し時間が空いたから行ったのだった。昼とは異なり、夜は多くの人が仕事帰りの一杯のビールを飲みにやってきているようだった。相変わらずにぎやかな場所だった。にぎやかな場所をまるで好きでもない私がなぜこんなにこの空間に魅了されるのだろうと考えると、何か、そこには、多くの年月を掛けて轍のように自然発生的にできた、その空間での過ごし方みたいなものがあり、それを初めての人間は周囲を見て学び、自身も実行し、というような、規律では決してないのだけれども、何か、空間がアフォードしてくるものがあって、それにおもねる、あるいは縛られるではなく、人々はあくまでも自発的にそこでの適切な振る舞いをするような、それは日和見ではなくて右へならえでもなくて、名前を付けるとしたら敬意とか尊重とか、そういう何か、気持ちのいいものが流れているように感じられたからだろうと今のところは思っている。2日で3回行ってどれも同じあたりに立って飲み食いしていたのだけど、隣にいた仕事帰りの若い女性がビールを飲み煙草を吸いスマホをいじり、飲み終え吸い終えたらぱぱっと立ち去るというようなあの感じ、隣にいた競馬場帰りのような老人がビールをちびちび飲みながら何かずっと店の動きを見ているようなあの感じ、せわしなく場所を変えようとするあの感じ、座席で男が女に熱っぽく何かを語り続けているあの感じ、どの感じも、感動的なまでに気持ちがよかった。東京に行く際には必ず寄りたいと思った。店長の方が書いた本も近く読むだろう。

 

風の強い日だった。いくつもの電車が遅延や運休になっている、と駅ではしきりにアナウンスが流れていた。たしかに、たくさんのものが強い風に煽られてひっくり返ったりしている様がそこにはあった。高円寺にも行ったので、なんとなく、かつて何度か友人のライブ等で行ったことのあった円盤にも寄ってみた。CDを買う習慣もあまりないので特別何かを買うこともないだろうと思っていたが、行ってみたらけっきょく、蓮實重彦の映画論の何かのやつと、彼女が少し前から欲しいと言っていたasunaのCDを2つ、popoを一つ、それからずっと聞いてみたかった吉田アミを一枚買った。2日だし、そう金を使うこともなかろうと思って3万円だけを財布に入れていったのだけど、そこで1万円出たのでいろいろと支障をきたした。吉田アミはずっと聞いてみたかったというのは確かなのだけど、行きの新幹線でメレディス・モンクを聞いていたことが大きく影響しているような気がして、ジャパニーズのフィメールのヴォイスパフォーマーはどんなところなのか、という興味なのだろうと思った。まだ聞いていない。asunaとpopoはとてもよかった。

最近はそんなことだから、習慣がないと言いながらけっこうCDや、あるいはデータでだけど、音楽を買っているらしく、円盤で買った四枚に加え、この一週間ぐらいで0『Soñando』、F.S. Blumm & Nils Frahm『Music For Wobbling Music Versus Gravity / Music For Lovers, Music Versus Time』、Grouper『The Man Who Died In His Boat』を買った。

東京の夜は蔵前にあるNui.というホステルに泊まった。蔵前にある、とかすらっと言ってはみたものの、蔵前ってどこですか、というところで、浅草の方面はまったく明るくないので乗換案内アプリにかなりのところ頼ることになった。蔵前は、おもちゃや飾り物の問屋がたくさんあるような町のようだったのだけど、蔵前の蔵の字からどうしても町田町蔵が浮かび、inu、少しずらしてNui.という命名ではないらしかった。縫い、とのことだった。少し前に同じ人たちが作っているtoco.というゲストハウスの方が店に来てくださったので、だけどそちらは満室だったので、今回はここに泊まった。オシャレで格好のいいところで、友人たちと飲んで帰ってきたあとに一階のバーラウンジで彼女とちびちびと、かっこいい空間を眺めながら酒を飲んだ。それはとてもいい時間だった。それにしても、出る前にちらっと見かけたnui.が取り上げられている新聞の紙面で読んだのだけどこちらは9000万掛かっているという。聞いたところtoco.及びnui.を始めたメンバーは私と同い年の27だ。9000万ってまた、桁がもうどれぐらい違うんだろうっていうぐらい違うなあと、凄まじいなあと。

 

新宿の中華料理屋で友人たちと飲んだ時間もまた、とても大切だった。人付き合いが少ない生活を送っているため、一緒に飲んでくれる人がまだいるということは、私にとって大いに救いになった。映画の話がたくさん出た。1月2月といいペースで映画を見ていたけれど、今月は私は全然見ていなかった。御茶ノ水で下りて2400円もするそばを出す蕎麦屋に向けてふらふらと歩きながら、アテネフランセの前を通った。いつまでたっても、あそこで映画を見たあとに「スージーが健気で」と大げさに愛おしむ友人の有り様を忘れない。その光景はリリアン・ギッシュの姿以上に私の脳裏に刻み込まれている。今アテネではワイズマンの特集が組まれているようだ。時間の関係でワイズマンに200分を割くことはできなかった。ワイズマンの特集とはなかなか縁がない。だけど、あの派手な色の建物の前を歩いただけで私はけっこうなところ、それでいいような気にもなった。そばは当然といえば当然かもしれないけれども、ものすごい美味しかった。店の愛想のなさがまたよかった。総じて、いい東京だった。

 

今月はだから、映画を見ていない。ベン・アフレックの『アルゴ』を見、それから今日、『ゼロ・ダーク・サーティ』を見ただけだ。どちらもCIAが中東でなんやかんやという話で、すこぶる面白かった。私はベン・アフレックの作品にどれも歓喜するし、この作家を信用するだろうとも思っているのだけど、一方で、何か強い感動や、痛みのようなものを与えてくることも今のところないようだ。見て、「すごい。抜群に面白い」となって、すぐに通り過ぎて行っている。たぶんそれが率直なところだ。『ゼロ・ダーク・サーティ』、面白かった。抜群に面白かった。クライマックスの作戦シーンは、ただただすごかった。明るい時間に遊び興じていた兵士たちが夜になり、緊張と力強さを一気に身に引き受けるあの変わり目が、ただならなかった。あんなに暗い画面をよしとしてしまう態度も私はとてもよいものだと思った。最後の最後の涙に、別にそんなものは見たくないと思ってしまう私の傲慢さはなんなのだろうか。渡邉大輔の『イメージの進行形』を読んでまんまとオーソン・ウェルズを見たくなって借りてきた『黒い罠』が途中で止まっている。冒頭の、爆発に至るまでのワンシーンワンショットに「わあすごい」となりながら、何がなんだかよくわからなくて驚くほど話とか人の関係が頭に入ってこない。3時半。今日も疲れた。本当によく働いた。明日ちゃんと起きられる気がしない。吉田アミ超かっこいい。


ザ・タウン(ベン・アフレック、2010年、アメリカ)

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岡山にはタウン情報おかやまという月刊誌があり、とてもよく読まれている。扱い方にもよるがこの雑誌に載った直後は店の集客にもけっこうな影響が出たりする。本当によく読まれている。岡山で一番読まれている雑誌と言っても言い過ぎではないんじゃないかというレベルで読まれている。本屋はもちろん、コンビニにも平積みで置かれていて、それはもう、みんな読んでいるんじゃないかっていうぐらいに読まれている感がある。彼女の友だちは車にこの雑誌を置いているらしく、それをめくりながら今日はどこに行くかなみたいな算段をつけるらしい。それはもう、読まれている。

そんなタウン誌には決して載らないような、強盗稼業の青年たちの姿がこの映画では描かれているわけだけど、なんといってもタイトルがいい。町。冒頭の町をとらえた空撮の画面は、そのあと何度か繰り返されるうちに、何か、青年たちを町から出させないための監視カメラのような様相を帯びてくる。そしてこの映画においてカメラがこの町から出ることは絶対にないだろう、ということがにわかに確信される。と思っていたらラストにベン・アフレックが髭を生やしてリゾートみたいなところでのんきな顔してたそがれていたので笑った。

それはいいとして、つい先日偶然見かけたタワレコのフリーペーパーの連載か何かでベン・アフレックはイーストウッドの正当な後継者だ、みたいなコラムを読んでいろいろとふーんと思っていたのだけど、この人は本当に立派な映画を撮るなあと、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』に続いてとても感心している。ベン・アフレックといえばアルマゲドンの人、らしい、というぐらいしか知らず、アルマゲドンを見たことがないので驚くべきことに顔もわからず、見終えてから何日もしたあとにアカデミー賞のニュースで写真を見、「あ、ベン・アフレックだったんだ、主役」と知ることとなった。ちなみに『アルゴ』はなぜか(なぜなんだろう)中四国での上映がなかったのでまだ見ておらず、DVDか、と思っていたら受賞記念で上映されるとのことで、この日曜にでも見に行く予定だ。とても楽しみだ。

 

それにしても、本当に、冒頭の銀行強盗シーンからまったくもって充実していて、のちに重要人物になる銀行の支店長レベッカ・ホールの指と声のふるえを横から捉えたところがとてもいい。横顔が美しいしこちらまで緊張してくる。最先端の強盗はそんなふうに証拠を残さないよう気をつけるのか、ととても勉強になる。そして何かと荒っぽいことになってしまうジェレミー・レナーがまたよくて、なんだか荒ぶる鬱陶しいやつだなあと思いながら見ていたのだけど、最後の、諦めと諦めの悪さのないまぜになったような、突進することしか知らない牛みたいな、あの郵便ポスト裏の一連の動き、「ファッキュー」と絶叫しながらの壮絶と言って差支えのない死に様、素晴らしく格好良かった。

なんにせよ今はとにかく『アルゴ』が楽しみです。


2月、日記

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今日スタバにいたら、横の席の人が「アンティークと現代アートが好きなの」と言っていた。私は彼女のための文章をいつか書きたい。

 

今日は店は休みで、13時に起きた。コーヒーを飲みにいき、近くでやっているギャラリーでジンの展示を見、店に戻り、昼飯を食べたら眠くなった。気づいたら6時半だった。休みをうまく休めたことがない。いつもこんな感じで、不毛に過ぎ去る。毎日あれこれを生産しているのだから、生産的に過ごしたいと言うのも馬鹿のようだし、何をそんなにがんばらなきゃいけないの、鞭打たなきゃ、とも思うのだけど、生産的な休みを過ごしたい。起床後、外に出、スタバで店のブログを書いていた。スタバが私のオアシスでありナンバーガールだ。オアシスは聞いたことがない。ナンバーガールが青春で、青春というとジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』で万引きか何かをしようとした若者に向けて本屋の主人が「君の名は青春だ」と言って本をあげる、というのを思い出すのだけど、記憶違いかもしれないけど。

 

スタバに行く前に丸善に寄る。昨日岡田利規の演劇論を読み終え、現在はマヌエル・プイグの『リタ・ヘイワースの背信』を読んでいるのだけど、ずっと読み続けるのはしんどい小説なので一緒に読むものが必要だったからで、今日は渡邉大輔『イメージの進行形』を買った。楽しそうで何よりだ。著者略歴を見ると二つしか年齢が違わない。ずいぶん若い人が書いているのか。早く読みたい。丸善はリニューアルしていた。知らなかったけれどジュンク堂と同じグループだったらしく、そういえばそんなことが『松丸本舗主義』にも書かれていたような気はするけど忘れていたけど、だったらしく、今までジュンク堂で見てきたレイアウトだった。背の高い本棚がけっこう狭い通路にびっしりと並ぶ、威圧感のあるあれだった。私はあれはとても好きなので、好ましい変化だった。一方で、今までの丸善の背の低い本棚の、いつでも店内全体が見渡せる気になるあの感じも嫌いじゃなかった。たぶん、本屋が好きということでいいのだろう。ジン展では松丸本舗にインスパイアされたような感じの書籍案内系のジンを買った。好ましかった。ところで丸善があんなふうになったけれど、徒歩でいける範囲で岡山にはジュンク堂がある。どういう棲み分けになるのだろう。

 

スタバで10時まで、長居しながら長居について書いていた。経営しているのは飲食店で食事を出して金銭をいただいているわけだけど、私の興味はやはり、場と時間の提供ということにあるみたいだ。スタバにはサードプレイスという言葉があって、職場でも家でもない、第三の、リラックスできる場所、というような感じだと思うけれど、いかにして誰かのサードプレイスを作るか、ということを考えるのが面白い。面白いというか、そういう場が本当に必要だといつも身にしみて思っているから、そういう場を具現化したい。どんどん、行ける場所がなくなっていく感じがする。怖い。

 

店に帰り、家に帰り、ではなく店に帰り、であって、いつもこんな感じで、家はもう本当に、寝るための場所か、寝る前に映画を見るための場所になっているのだけど、店に帰り、帰ると、彼女が夕飯を作っていてくれた。本屋とスタバのあいだでデパートに行って赤ワインを買っていたのでそれを開けて、煮込みハンバーグ等によって構成された夕飯を食べた。とても美味しかった。

 

ご飯を食べ、ダラダラしたのち彼女が家に帰っていった。私は煙草を吸いながら店のブログを書いた。友人に長めのメールを打った。友人からのメールで面白かったところ:最近飲食店のあいだでフラッシュマーケティングは「銀行」と呼ばれているとのこと。資金繰りに困ったときに大きなキャッシュが入ってくるから、ということらしいけれどなんだか面白い。これが恒常化していくと出版社と取次の関係みたいになるのだろうか。それがどういうものなのかよくわかってないけど。

私の店も、一度だけフラッシュマーケティングのサービスを利用したことがあって、旨味も感じられず全然やりたくはなかったのだけど営業の人の熱意に負け、この人のためだったらやっていいか、と思ってやった。本当に、人を見る目がないなと思った。蓋を開けてみればもう全然信頼できる人ではなかった、ことがわかった。そのあとも一度だけ有料で広告を出したのだけど、それも営業の人がいいなと思ってで、それも、最後は同じ感覚になった。この人ほんとうに嫌だ、という感覚で終わった。もう二度と、営業マンを信じ、その人の仕事を応援してみよう、という姿勢で何かをすることはやめよう、と神に誓った。これ以上書いているといろいろなディスになりそうだからやめることにした。総じて、という思いがある。

 

日々、知性とは何か、となんとなく思っている。思っているというか知性って何かなーと思うだけなので、まったく考えは発展しない。私が何かに対して「あーこれは知性を感じるなあ」と思う時の知性はすごく打算的で退屈なもののような気がする。知性を矮小化している気がする。もっと大きく、エキサイティングなものであるはずだ。というか「矮小化」が変換できない。あまりに変換できないのでそもそも「わいしょうか」ではなかったのじゃないかと不安になってしまった。グーグルに聞いたらお前は合ってるよって言ってくれた。いずれにせよ、私が思う小さいもので、大きくエキサイティングなものでも、どちらの意味でも私は知性的にありたい。


岡田利規/遡行 変形していくための演劇論

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遡行 ---変形していくための演劇論

ゼロコストハウス」を見に行った友人はどちらもとても重大な出来事に出くわしたような感想を伝えてくれた。私は足を運べなかったので、ので、というのでは全然なくて、読みたかったから読んだだけなのだけど、まあ読んだ。「ゼロコストハウス」を読んだときもこんなに冷静で真摯で、と驚きを禁じえなかったけれど、自伝的というか、自身のキャリア的、思想的変遷を遡りながら語っていくこの演劇論においても、本当にまあ、どこまでも冷静かつ真摯かつ客観的で、読んでいて、私は本当に、この人が大好きで仕方がありません、とI swear to Godという気分だった。

たぶん、自分の立ち位置の変化みたいなものを語るとき、多くの人が客観性を保持できない。成長する、はまだ言えるのだけど、たとえば貧乏だったのからそれなりに裕福になる、という変化を自分で語ることは、裕福だったはずがすごく貧乏になってしまう、という変化を語ることと比べて、ものすごく難しい。何か、謙遜めいたものを書かないといけないような感じがある。日本の文化的なあれこれなのだろうか。わからないけれども、そういう点で、この本で著者はすごく素直に変化を語っていて、そしてそれはすごくフェアな姿勢だと感じた。こういう自分の捉え方をできる人が作ったものだったから、今まで私はこの人の作品を信用でき、アクチュアルだと感じることができたのかもしれないなと、腑に落ちた感があった。

また、演出の方法論もとても具体的に書いてあって、「なーる」と思いながら読んだ。

軽やかに、着実に変形していく岡田利規の今後をずっと追っていきたい。見たことのない作品でDVDになっているものがあればそれはぜひ見たい。

チェルフィッチュあるいは岡田利規の作品に触れたことのない人が読んだときにどう思うのかはよくわからないけれども、多くの人に読まれればいいなと思った。以下引用。なお、現在地から遡って書いていくスタイルなので、ざっくり言えばページが新しい方が現在の考え方で、先に進めば過去、ということになっている。

 

そのときの僕には、イラク戦争をテーマにした作品をつくりたい、というような社会的な問題意識はほとんど皆無だったと思う。個人的なことを形にしたかっただけで(…)けれどもそんなふうに、意識しなくとも社会性が入り込んでくるということって、往々にして起こる。(…)今後またああいうことが僕に起きるかどうかはわからない。いや、わからないというか、たぶんもう起きないだろう。僕はあの頃と違って、社会性のことをどうしても――ここまでに書いてきたあれやこれやあ理由で――意識するようになってしまっているからだ。(P190-191)

芸術は現実社会に対置される強い何かとなりえるものであり、そしてそういった対置物が社会には必要なのだ、こんなことになってしまった社会においてはなおさら必要だ。なぜならそうした対置物がなければ、人はこの現実だけがありえるべき唯一のものだと思うように、その思考を方向づけられてしまうからだ。

現実社会に対置される強い何か。それはたぶん、フィクションと言い換えるのがふさわしい。(P27)

 

自分のテイストでないものを取り込むことで演出家としての幹が太くなった、と自分としては思っているのだけれども、それによって単に強度が落ちただけかもしれない。(…)美的強度なるものがあるとして、それがあるテイストにそぐわない何かが排除されることで成立したり保たれたりしているのだとする。その排除をやめて、それによって美的強度が落ちるとする。このことを、どう考えたらいいんだろう? そのこと自体をひとつの強度であるというふうにできるだけ説得力のあるやり方で提出することはできるだろうか?(P45)

これまでの僕は主にフリーター、つまり「負け組」のことを描いていたので、それはわりと大きな変化だと言っていいと思う。(…)僕自身の問題であり僕らの世代の問題であるところのものを、外の世代に対してぶつけていこうっていう意識、つまりはまあ当事者意識があったのだ。

けれども今はもう、僕は『三月の5日間』や『エンジョイ』に出てくる彼らと自分とが同じだ、と思うことはできない。単純に年をとったというのもあるけど、自分が演劇のつくり手としてなんだかよくわからないがずいぶんと認められてしまったというのもある。「負け組」の若者にアイデンティファイするのが、だんだん本当のことじゃなくて、ふり、になってきた。だからそれはもうやめた。(P65)

 

身体の存在の状態のテンションを上げるとか、時間をひき延ばすということをするには具体的にはどうすればいいのか、ということに対する明快な答えを得ていたのだ。

ではその答えとは何か?

ひとつのイメージで過ごす時間をできるだけ長く長くしていくこと、である。

(…)役者が、頭の中に抱くとあるひとつのイメージの中を、うんざりするくらい長持ちさせつづけてその中で過ごしきることができたらすばらしい。(P219)

だからイメージをどんどん肥大させていってほしい、と僕は役者に要求した。

不必要なまでに豊かになったイメージが役者の身体にもたらす動きは、もはやせりふとは何ら直接的な関係を見出さないようなものになりうる。だってそのとき彼なり彼女なりが持っているイメージの中には、それがせりふとして、つまり言葉という形に変換されて発せられることのないものがたくさん含まれているから。

たとえばこんな感じ。六本木の通りを行き交う人々の様子を、役者がイメージしたとする。そのイメージを不必要なまでに具体的にしていくことで――行き交う人々の中にひとりものすごい美人がいる、とか――、そこから豊かな動き――太もものあたりを手のひらでさする、とか――が生み出される。(…)そのとき、太ももをさする動きの意味が観客にはわからない。

それでも、その動きはただのナンセンスとうことには決してならない。太ももをさするという動きを彼の身体にもたらす原因――つまりイメージ――は確かに存在していて、その動きが間違いなくそこからやってきているのであれば。関係なさそうで関係ありそうな言葉と身振り、というのが僕の、身体に対する興味の在り処の基本なのだ。(P194)

 

僕の方法論と役者の力量との力関係が変わった。それまでは僕の方法論にはどっちかというと、役者のり力量を補完するような、自転車の補助輪みたいな意味合いもあった。でも、そんなことをする必要がなくなってきた。方法論は役者を保護する役割から解かれた。そして、役者のプレゼンスを最大化するための最低限の条件といった程度のものになった。役者の存在の背後にあるものとなり、特に差し出がましいことをしないでもよくなった。方法論を、閑職に追い込んだのである。(P69)

『ゾウガメ』のリハーサルのときの僕は、いつにもまして役者たちにできるだけ勝手にパフォーマンスすることを要求した。(…)

この頃から僕が役者の身体を方法論でもって規定することに倦みはじめたことも大きく関係している。

それまでの僕にとって、いい役者かそうでないかをはかる主な尺度は、僕の方法ん論をどれだけ体現できるか、ということだった。方法論が適用されることによってその人からヘンテコな身体の動きが導出されるか、そういう適性がその身体にあるかどうかがなにより大事だった。

しかし、その尺度が変わったのだ。それとはほぼ真逆になったとさえ言えるかもしれない。僕の方法論を忠実にその身体に走らせることができるだけの役者では、退屈になってきたのである。(P50)


紐育(ニューヨーク)の天使(リー・ガームス/ベン・ヘクト、1940年、アメリカ)

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今読んでいるマヌエル・プイグの『リタ・ヘイワースの背信』の中に「リタ・ヘイワースは『紐育の天使』のなかでくるくると踊る、パパはそれを気に入った、取り立てて見るところのないこの小品にあって、小悪党のダグラス・フェアバンクスJrと無人の劇場にやってきたリタ・ヘイワースが突如、目をきらきら輝かせてくるくる回り出す、あの場面、そのときの彼女の姿はいちばん好きだ、そうパパは言ったんだ。この日はいつも映画はママと僕と決めているのに、パパが珍しく行くというから家族三人で映画にいったんだ。パパにはおもしろくないわよ、ああ心配だわ、パパには面白くないわよ、そしたらほんとに気に入っちゃって!きてよかったと大いに満足し「これからはお前たちと一緒に映画にいくぞ!」だなんて言うんだ。パパはリタ・ヘイワースがいちばん好きな女優になったって言っていた。僕は、パパが機嫌よくしていたからそれはすごく嬉しかったけれど、本当だったらもっとリタ・ヘイワースを見られたらな!って思ってた。なんだか、酔っ払った太ったおじちゃんが悪事をけしかけたり、ヒゲをはやしたダグラス・フェアバンクスがあんなに可憐なリタ・ヘイワースを売女って言って罵るから、それが嫌だったんだ。リタ・ヘイワースもなんであんなに急にニコニコしたり悲しんだり怒ったりするんだか、よくわからなかったし、なんであんなヒゲなんかと駆け落ちしちゃうんだって思った。僕のほうがよっぽど彼女を大切にするのになあって、そしたらパパは、僕はそんなことは一言も言わなかったんだけど、リタ・ヘイワースはとってもよかったけれども、話はなんていうことはないな、なんて言い出す。ママと僕は顔を見合わせてから、おんなじことを、パパ、僕たちもおんなじことを思ったよ、ってそう伝えたんだ。監督の名前がポスターにあったけれども、一人はカメラマンで、もう一人は脚本家が本当のお仕事なんだってママが言ってた。ふたりとも、それぞれの仕事ではいいことをしているけれども、監督が二人で、二人とも監督として立派っていうわけでもないと、作品は迷走しちゃうのかもしれないわね、なんて、そうしたらパパが批評家みたいなことをいう女はいけすかない、ってやっぱり機嫌を損ねて、僕はだから慌ててパパ、パパ!どこかに寄ってサンドイッチでも食べながらお話をしてよ!リタ・ヘイワースのことをもっと聞かせてよ!そう言ったらパパは「俺はもうつまらん」っていって、僕たちはだからまた叱られやしないかとビクビクしながら家に帰ったんだ」という一節がない。