book cinema text
2013年6月22日

先日見たベルトルッチの『孤独な天使たち』がけっこうのところ、期待をはるかに上回る感動を与えてくれて、期待をはるかに上回る感動というか、ここのところの映画不感症を脱却するきっかけとなるものを与えてくれたような感覚があって、私はやはり、そこに人がいて、いい顔を持っていて、それを照らす光があって、そして素晴らしい音楽が鳴り響けば、それでいいんだって、それがいいんだって改めて思ったのだった。なんといっても闖入者たるオリヴィアの存在感が素晴らしく、ソファに寝そべったときに伸びる首のラインが素晴らしいし、ロレンツォのかざす懐中電灯に照らされて揺れ踊るその姿形がまた、とてもいい。デヴィッド・ボウイを地声でがなるように歌いながら、くるり、くるりと回る、二人のあの時間以上に親密な時間など、きっとこの世界には存在しないのだと、そんな無責任な言葉すら吐きたくなるあの、あの感じ、と思い出すだけでもけっこうのところ、ぐっとこみ上げるものがある。本当にとてもよかった。この映画はきっと再び見ることになる。
思えばベルトルッチ10年ぶりの新作は『ドリーマーズ』以来というわけで、あれからもう10年も経ってしまったのかというショックはさておき、私は『ドリーマーズ』に対してはずっととても好意的に捉えていて、厨二病と謗られてもしかたのないような、あまりに青臭いのあの青臭さがたまらなく好ましいものに思えていたので、この監督にはきっと成熟などというものはないんだととてもいいものとして思っていたので、あれから10年してベルトルッチは何を見せてくれるのだろうと、わりと青臭さであるとか、初期衝動的なものを期待していったのだけれども、まあ、期待のベクトルとしてはまるで間違っていなかった。
やはり青臭く、そしてどん詰まっていた。吐き気を催させる重く圧倒的な強さの現実の中でロレンツォが逃避できるのはヘッドホンの中だけで、カウンセリングやクラスが終わればいの一番にヘッドホンで耳を塞ぎ、ザ・キュアーなりミューズなりの音楽に逃げ込むだろう。人生にとって音楽が大きな意味を持つ人間であれば誰しもが共感できるであろうこの行動はまた、昨今の私にも当てはまるところがあり、週末の忙しい日や疲れた日など、休憩でちょっと店を離れる、あるいは地下室にこもるときにはすぐさまイヤホンを耳にぶっさし、たいがい、スラックを流す。適当に、適当に、適当に、と私をなだめるその声を聞きながら、私の暮らしは、これからいったいどのようなものになっていくのだろう。
『この島の上で』以来、いつ新譜が出るのかなと思っていたら、この1月に出ていたことを最近知って買った5lackとOlive Oilの『50』を、そしてそのリミックスを、ヘビーなローテーションで聞き続けている。『早朝の戦士』等、ものすごくフィットする。後半の何かの曲で「親の分まで稼ぐぜメイクマネー」みたいな歌詞があり、たまらないですよねと。
と思ってふとインターネット上で何かをおこなったところFLA$HBACKSという方々の音がものすごく格好よく耳に響いたので購入した。otogibanashi’sも先日買ってたくさん聞いているところなんだけど、若い人たちが勢いよくがんばっていらしてすごいなあと思う。明日は土曜だ。早く帰らないとしんどい。27歳、夏。夏?梅雨。
己れの肉体の裏切りくらい人間にとって屈辱的な、不当な罰はないと、しみじみ思わないわけにはいかなかったが、そんなふうに思いはじめたのは、じつは、ホセ・イグナシオ・サエンス=デ=ラ=バラがまだ生きていた遠い昔よりさらに遠い昔のことだった。
この一節がやけに、なぜか印象に残ったガルシア=マルケスの『族長の秋』は全体を通してはやっぱり最後までしんどい読書で、迷宮のような、と解説にもあったけれど螺旋状めいたいつまで経っても死なない(あるいはとっくに死んだ)独裁者の果てることのない孤独なありようと、悲しみに、やはりこれは悲しみだったと、最後になれば私は思うわけだったけれども、それにどういう気分で付き合っていけばいいのか、けっきょく最後まで判じ切れずに終わってしまった。読んだのが忙しく余裕のない今月だったからいけなかったのかもしれないけれども、それは一つの可能性でしかない。独裁者の悲しみと、滑稽さを見るにつけ、なぜか昨今問題となっている加藤コミッショナーの裸の王様っぷりを思い起こした。危機管理能力低すぎ、というので唖然。知らなかった発言とか、もうどれだけ考えが浅薄なんだろうと驚愕。スピーチライターとかこういう人には必要そう。
で、族長やっと読み終えたため今は『カフカと映画』を読み始めたけれども、これもどうも今のところはそうドライブが掛からないでいる。「え、それ、そんなに映画的!?話こじつけてない?」という印象がまだ第3章だけどある。要は全然エキサイティングじゃない、ということだった。
ガルシア=マルケスを経て、水声社のフィクションのエル・ドラード第2弾であるフアン・ホセ・サエール『孤児』を読もうとしている。気分的には、「そんなトンデモ話!?』というものよりは、大変だねえ傀儡政権とかクーデターとかなんやかんや、みたいなものがわりと読みたい。『孤児』は面白く読めるだろうか。はなはだ不安だ。
マイケル・マン『ヒート』、ジャン=リュック・ゴダール『映画史1B』その他を最近見た。
河井青葉の異様な、幽霊めいた強烈な存在感。それを思い出しながら、歯を食いしばりながら今日は寝る。濱口竜介プロスペクティブ、度し難く行きたいな。行けるかな。行かないとな。『親密さ』をやっぱりどうしても見たいな。
text
2013年6月8日

閉店後、目の前で彼女が眠りこけている。ここのところは読書にも身が入らないというよりはそこに割く時間をうまく捻出できない感じがあり、滞り気味であり、一方で本は妙に買ってしまっているということもあり、今週の休みはクローネンバーグの『コズモポリス』を見に行ってはみたもののひとつも面白くなく、どうしたことだろうかと嘆じていても仕方がないので本を読みたくもあり、そうは言ってもガルシア=マルケスの『族長の秋』を読んではいるもののそう面白く読めないということもあり、ここまでピンとこないでいるということはいったん放置して別のものを読むべきなのかもしれないという思いもあり、だけど読み始めたからには通したいという非常に現世的というのかわかないが世俗的というのかどうかまあともかくそういった確固たる意志、信念、そんなものがかすかに、まるで確固としたものではなくあり、所得リッチと時間リッチみたいな何かをだいぶ前に目にしたことがあり、それは今日ずっと頭の中にあった言葉であり、私たちは今とても時間プアのようであり、一日中働き、終わればそれからの時間を楽しむ心身の余裕もなく眠りにこけることもあり、5月までは日中に働いてくれる人がいたので休憩の時間を取っていたのであり、今はそれができないのであり、大切なものと引き換えに今の暮らしを暮らしと呼んでいいのかわからない暮らしを暮らしているようなところもあるのかもしれず、時間リッチになるためには得た所得で時間を購入する必要があり、『族長の秋』の大統領はたしかに時間リッチの存在であり、いつまで経っても彼は死なないだろうしいったん死んだとしてももう一度よみがえり、螺旋の時を生き直すのであり、それが幸福なことなのか、このうえなく不幸なのことなのか、この国の連中はわしを愛しているんだ、見てみろ、それが彼の口から何度も出る言葉であり、『コズモポリス』の奇っ怪なリムジンはいつまでたっても床屋につくことはできないのであり、橋の上で鳴らされたクラクションが引き伸ばされて響いてきたのであり、背後では製氷機や冷蔵庫が一日中活動を続ける音を発するのであり、かつてそこにいたこと、例えばその町でその朝を迎えてみせたこと、乗ってみせた自転車のこと、くだってみせた坂道のこと、座ってみせた境内のこと、それらがブワッと、フラッシュバックよりは鈍くもしかしブワッと、美しさ、記憶、過去、それら全部、私は手放すことをせずに、なぜそれがエバーノートに保存されていないのか、なぜ私はそれを検索して取り出すことができないのか、それを惜しげも無く惜しいと思ってしまうこの心性にはほとほと呆れ果てたということ、ここが吉祥寺でも高円寺でもなく岡山であるということ、ユーロでもバウスでもなく岡山であるということ、それらをほんの一瞬でも忘れたいとは思わないということ、岡山であることを私は自分で選んでそれに対してなんの後悔もしていないどころか喜んでいるということ、私が目指すのはどう考えても所得リッチと時間リッチのハイブリッドの存在であるということ、そうなってしまえば私はいつだってひとっ飛びで友人の暮らす町へ行って酒を飲みかわせるということ、何を書いているのかまるでわからなくなってきたということ、ただ、この空白を埋めるために指を運動させ続けたいということ、それらがすべて今日という一日を結実させるということであり、たとえ5分おきに要請される行動を全て差し控えたとしたって同じこの疲弊の具合で私はここに座って打鍵を続けるのであり、とても幸せには見えない金持ちの投資家が辿った末路が果たして不幸であったかなんて誰にも判定されたくはないのであり、とても幸せには見えない独裁者が辿った末路が果たして不幸であったかなんて誰にも判定されたくはないのであり、創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とからできあがっている、と今日たわむれに開いたシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵と愛と笑いの夜』に書かれており、それが妄言ではないとは誰にも言い切れやしないのではないかと、私はそんなことは思わずにふむふむと肯んじるだけであり、日々舫う、それから繙く、13坪の、その部屋に10の机と椅子を配備、それぞれの机と椅子のボタンを同時に押すことにより部屋が切り離され、浮かび上がり、窓の外に映る景色は次第に宇宙のそれへと変わってゆく。
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2013年6月1日
店を開ける前の時間に2日続けてナンバーガールを聞いていて、誕生日プレゼントとして友だちに『School Girl Bye Bye』のMDをもらった中学3年生のときからもう12年とか13年とかが経つわけだけど、いまだにナンバーガールの音は、私の耳を恐るべき強度で叩き続けることが再認識された。私は中学生で、そのあとに高校生で、狂ったように彼らの音を聞き、ライブを見たいがためにフジロックに行き、それからも色々な場所にライブを見に行った。彼らのホームページである「狂う目」に頻繁にアクセスし、何か、新しいライブの情報が、あるいは音源発売の情報がないかと、何か、何かがないかと、目を狂わせていたのだった。解散は3年生のときだった。赤坂に、それを目撃しに行った。その日のことは何も覚えていない。
いまでも、彼らの曲を聞いていると私の目頭はぐっと熱くなるらしかった。それがこのいくつかの朝の中で実感された。具体的な思い出に対してではなく、漠然とした時間に対する、どうしようもない取り返しのつかさなと、甘美さと。思えば、そんなのは高校生のときからすでにそうで、そのときの私がいったい何を思い出そうと躍起になっていたのかわからないが、ずっと、私は思い出すことの甘美さとともに生きているようだった。だから、最後のアルバムになった『Num Heavymetallic』の何曲目か、9曲目ぐらいだと思うけれども、そこで向井秀徳が、大人になった性的少女に託して歌った「思い出したくないから忘れることにするよ/思い出す必要はないからすっかり忘れてしまった/どうでもいいから思い出なんて/どうでもいいから記憶なんて/忘れてしまうよカンタンに/忘れてしまえば楽勝よ/記憶を消して、記憶を自ら消去した/記憶を消して、記憶を己でブチ消した/忘れてしまった/忘れてしまった」という言葉は、その時ついにスクールガールにバイバイをしたという叫びであり、私は、いつだってあった終わりの予感を初めて、一つの戦慄とともに実感し得たのだった。
と思って今ホームページを見たら5月22日に向井秀徳アコースティック&エレクトリックで岡山に来ていたらしかった… のんきに朝聞いて満足しているだけだった自分が呪わしい…
数年前に初めて見た向井秀徳アコースティック&エレクトリックは、怒涛の素晴らしさで、ギンギンに思い出を刺激されながら私はライブハウスの壁に寄りかかって、頬をボロボロに涙で濡らしたのだった。そのあとサインもらった。うれしかった。
近況。映画を見た。ロマン・ポランスキー/おとなのけんか。ルーベン・フライシャー/LAギャングストーリー。中田秀夫/クロユリ団地。要は相変わらず全然映画を見ていない。
『クロユリ団地』は半分ぐらいの時間を横向いて過ごしていたため全然怖くなかった。なんだ、全然怖くないじゃないか、と思いながら映画館を出ることが出来てよかった。ただ、あると思われているものが実はないんじゃないかということを示唆させていく一連の流れはすごくぞっとするものがあったし、介護の授業でベッドに横たわる級友の体のゴツゴツした物質性や、そこに立ち現れる言いようのない不気味さ(そのあとのドーンというやつではなく、そこにいたるまでの時間の不気味さ)は、とても嫌な感じがしてよかった。符牒とかそういうものではなく、何か、ホラーが駆動する瞬間。それはとても見応えがあった。サスペンスにしてもホラーにしても、種が明かされてしまう前の、ぼんやりと、しかし確かな予感を与えられた奇妙な宙づりの状態がやはり、一番面白い。
本を読んだ。イサベル・アジェンデ/精霊たちの家。ロドリゴ・レイローサ/その時は殺され…。要は相変わらずラテンアメリカを彷徨している。
アジェンデのマジックリアリズムな感じはどうも、あまりすっきりと楽しくはなくて、解説でもガルシア=マルケスの二番煎じ的な批判にはほとほとうんざりだ、というようなアジェンデの姿が書かれているけれど、でもどうしてもそうやって見てしまうところがあって、なんとなしに興ざめするところがあった。ただ、チリクーデターあたりまでの3代を描いた年代記っぷりはやはりとても面白く、エステーバン・トゥルエバの頑固親父の姿は『グラン・トリノ』のイーストウッドのようで、とても好感が持てた。かつて少女だったクラーラがあっという間に誰かの祖母になる、その時間のドライブ感にはっと息を飲んだ。そしてクーデター後のアルバを見舞った出来事の描写の苛烈さ。
レイローサ、現代企画室。文字がやたら大きい。グァテマラの先住民大量虐殺
というところで「ってことでいいんだっけ?」と思って検索ていていたら2ちゃんのラテンアメリカスレというのを見かけて見てみたら最初の方は落ち着いてあれこれと言われていたのが次第に貶し合いになっている様が見られて面白かった。
グァテマラの先住民大量虐殺を背景にした話で、軍部の非道を調べているっぽい人たちがある殺戮を録音したテープを聞いているくだりが素晴らしかった。この作品では録音されたテープに限らず、補聴器型の盗聴器とか、何か、その場所、その時間を脱臼させて重層的にする仕掛けが効果的でいい。人々はあっけなく死んでいく。
今日、営業中に15分だけ抜けさせてもらって次に読む本を買おうと丸善に行き、ガルシア=マルケスの『族長の秋』だけを買うつもりで目当ての場所に早歩きで向かって行ったら途中で見かけた2冊を併せて買うことになった。フアン・ホセ・サエールの『孤児』は取り寄せてもらうつもりでいたら意想外なことに在庫があったので取り置いてもらうことにした。ガルシア=マルケス以外に買ったのは『カフカと映画』という評論と、とてもゲスな感じがしてなんなんだこの取り合わせというか、ほんとなんなんだと思ったのだけど興味があったので『リーダーはストーリーを語りなさい』というビジネス書だった。ラテンアメリカとか言っているならばそれでなくて『生きて、語り伝える』を買うべきのような気もするけれど、なんとなく、店の経営というものをやっていると、ストーリーを語るということがきっと大切ですよねという気分がずっとあったので、引っ掛かって買ってしまった。15分のつもりが20分掛かった。
店を始めて今日で2年になった。
book
2013年5月21日
崩壊
昨年末に読んだ『無分別』があまりに面白かったモヤの、その2年後、2006年刊行の本作。『無分別』がグァテマラのマヤ民族虐殺から材を取った作品だったので、勝手にグァテマラの作家だと思っていたのだけど、そうではなく、同じ中央アメリカの、グァテマラより少し西に行ったホンジュラス生まれのエル・サルバドル人、とのことだった。この小説では逆に、エル・サルバドルの政府高官の娘が嫁いでホンジュラスに行ってあら災難、という様が描かれている。
『無分別』が語りの中に入り込んだ狂気が次第に大きくなっていき、それにつれて読むものの現実感覚をも揺るがすような、暴力的でダイナミックでドライブしまくりの作品であった一方で、『崩壊』はもっとスタティックに、抑制された筆致で淡々とことが進められる。
第一章、娘の結婚式に出席しようとする夫が、「なんでうちの娘がよりにもよってエル・サルバドルなんていうクソみたいな国の共産主義者のところに嫁がなければいけないのか」といって結婚に反対する妻によってバスルームに軟禁される、会話劇と言って差支えのないそのパートの、いつまでたっても着地点の見えない夫と妻の会話が痛ましい。
例えばこのくだり。妻は娘の子供を一時的に預かって育てていて、その子供を「私の王子」といって溺愛している。しかし娘夫婦がエル・サルバドルに発つにあたり、当然子供は娘たちに返却されることになる。
《「私の子供よ!」レナは激しい身振りで叫び扉に飛びかからんばかりに、「私がこの手に取ったのよ!それからずっと私が育ててきた!あの子の未来は私が守る!あんなバカ夫婦の手に渡すもんですか!私の遺産も全部あの子のもの!信じられないわ、あんたと同じ名前なのにもうあの子を裏切るのね!絶対渡さない!名前はエラスミート・ミラ・ブロサ、あんたがどう言おうと私たちの子供よ。あの共産主義者の姓なんてまっぴら……」》
終始この調子で、夫はうんざりしてもういい加減黙ってくれよ…頼むから…という感じで、そのテンションの落差、妻のセリフのエクスクラメーションマーク連打はけっこう見ていて物凄い。この婆さんはどんだけ叫んでいるのかと。喉がちぎれるのではないかと。そしてその合間にふいにあらわれるサスペンス。机の上に置かれた夫の拳銃を手にする妻。おいおいこれもしかして撃っちゃうのかよ、バスルームの夫を目掛けて、という緊張。そしてまた物語に唐突に楔を打ち付けてくる歴史的事件。この日、ケネディーが暗殺された。
第二章は書簡によって構成されていて、父がホンジュラスに暮らす娘に送った手紙、娘が父に送った手紙が写される。「サッカー戦争」で知られるホンジュラスとエル・サルバドル間の戦争が始まる前、その最中、その後が描かれ、父はひたすら、とりあえずホンジュラスに帰りなさい、危険なので、と催促し続け(《繰り返し言いますが、即座に帰国を考えるべきだと思います。事態は極めて深刻です。》《私はまだ希望を捨てていません。早く事態の深刻さに気づいて、祖国に戻りなさい。事情はわかりますし、家庭を守りたい気持ちも理解できますが、お前も子供も無意味な身の危険に晒されています。(…)お前のためにも、子供の将来のためにも、今すぐ戻ってくるのが最良の選択です。もう時間はありません。》)、娘はエル・サルバドル人の夫がいるから大丈夫、周りの友人達も支援してくれているから大丈夫、と送り返す。サンサルバドルでの、次第に緊迫感を増していく生活が報告される。ワールドカップ予選の日の暴動が報告される。母からたびたび掛かってくる狂気じみた電話が報告される。そしてことが起こる。
《悪夢が始まった十四日月曜日、私は不思議な予感とともに目覚め、何か恐ろしいことが起こるような気がして胸が詰まりました。クレメンに話すと、もういつ戦争になってもおかしくないから、覚悟しておいたほうがいい、と言います。だから、その夜七時に街が暗闇に包まれたときには、クレメンにも私にもこれが戦争の始まりだとすぐわかりました。あれは人生最悪の夜です、お父さん。子供をベッドとマットレスの下に隠し、ホンジュラス空軍の爆撃を待ちました。自分の国が落とした爆弾で死ぬのかと思うと、恐ろしくてやりきれませんでした。》
第三章は妻レナの所有する土地の館で働く男の一人称で、それまでの緊張感が嘘のように、静謐と言っても過言ではない、静かな口調でいくつかの時間が語られる。様々な崩壊の跡が知らされる。
《ティティお嬢様のジュース用にグレープフルーツを摘んでいたある朝、ふと思いついたのですが、レナ夫人の人生は待つことばかりだったのです。何一つ不自由のない暮らしをしていながら、それを楽しむことなく、来るはずもない人たちとこの立派な生活を送ろうといつまでも待っていらっしゃったのです》
たった200ページほどの短い小説のなかで描かれる30年の歳月は、曰く言いがたい虚無の感覚を読む者に投げ与える。私の好みとしては狂気に引きずり込まれる『無分別』の方がエキサイティングで好きだけれども、『崩壊』のこの静かな崩壊っぷりもまた、とても読み応えのあるものだった。
なんだ、モヤはグァテマラじゃなかったのか、というよくわからない落胆から、『崩壊』と同じ現代企画室から出ているグァテマラ出身ロドリゴ・レイローサ『その時は殺され…』を注文しておいた。現在はチリ、イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』を読んでいる。
book
2013年5月16日
都会と犬ども
先日読んだセルヒオ・ラミレス『ただ影だけ』、それと同じ水声社のラテンアメリカ文学シリーズ「フィクションのエル・ドラード」次回配本のフアン・ホセ・サエール『孤児』、今日読み始めてやはりものすごい面白いオラシオ・カステジャーノス・モヤ『崩壊』、いずれも寺尾隆吉の翻訳によるもので、彼はここのところの私にとってホットな翻訳者なのかもしれないというところもあり、その名前でググったところ、「寺尾隆吉選・邦訳で読むラテンアメリカ文学の20作、プラスワン」というページを見つけ、そこにこの作品が入っていたこともあり、というよりは、そのあとにチョイスされている『世界終末戦争』の選評のなかに「『フリアとシナリオライター』といったやや見劣りする作品」という言葉があり、え、フリアとシナリオライター、あんなに面白かったのにやや見劣りなのか、それではやや見劣りしないらしいそれらのどちらかを読んでみよう、というので、注文していたモヤの『崩壊』がすぐに来る予定だったので薄い方ということでこちらを買ったのだけど、薄いとは言っても2段組の400ページ超で、読み始めはどうにも、ここで描かれる士官学校の生活を私は面白く興味を引きつけられて読むことができるだろうか、どうにもできない気がしてならない、というような感じで、読み終えることに不安を覚えていたのだけれども、そう面白くない状態で少し読み始めたらどこかから一気にドライブが掛かってしまい、「続きを!早く続きを!」という色狂いの猫のような状態になりながら私にしてはずいぶん速いペースで最後まで一気に読むことになったその横で彼女は保坂和志の新刊である『考える練習』を面白い面白いと言いながらずいぶんはまりこんで読んでいて、今も変わらず保坂和志を信奉する私としては、その「一気に読むことになった」という状態について躊躇なく良しとすることは到底できないとは言え、「面白い、次、次!」という小説体験はそれはそれでまったく問題ない、そういうことがあってもいいものだと言い聞かせることにして、この『都会と犬ども』は素晴らしく面白い小説だったと言いたいし、結局のところバルガス=リョサの巧みなストーリーテリング、構成の妙、そういったものにまんまと飲み込まれたという格好だったわけで、一方で保坂和志をやはりこちらも一気呵成に読み終えた彼女は途中まで「キリスト教面白い!」と言ってあれこれ内容をこちらに教えてくれながら読んでいた講談社現代新書の『ふしぎなキリスト教』を指して「保坂さん読んだあとじゃキリスト教とかぬるいわ」というような趣旨の発言をおこなっており、それを聞いて私はゲラゲラと腹を抱えて笑うのだった。
ここで描かれる士官学校レオンシオ・プラドの生活は苛烈で残酷だ。
それは試験の時間に甘く見られている軍曹が試験監督だったときに「あちこちで机ががたがたと鳴りだす。床から数センチ持ち上げられ、落とされる。最初は、ばらばらの音だったが、しだいに調子がそろっていく。全員声をそろえて連呼する、《ネ、ズ、ミ。ネ、ズ、ミ。》」と生徒たちが共謀するからでもなく、野外演習のときに「畑を突っきり、怒りにふるえながら、力いっぱいに土塊を踏みつける。《ああ、もしこれがチリ人やエクアドル人どもの頭だったらな!軍靴の下から血が吹き出し、断末魔の叫びがあがるだろうに、くそっ!》」と悪態をつくからでもなく、下級生を虐げた上級生が「覆面をした者たちにおそわれ、まる裸にされたあげく、しばりあげられた。(…)体中あざだらけで、ぶるぶる震えていた。(…)台所にしのびこんで、四年生のスープ鍋のなかに、ポリ袋に入れてきた糞便を、ごっそり投げこんだ」という反撃を食らうからでもなく、外出日に初めて行った売春宿で夢に見た女が「肥満した胴体、輪郭のぼやけた風情のない唇、そして彼を仔細に観察する生気のない目」の持ち主であったからでもなく、かわいがっていた犬を怒りにまかせて「片方の手で、カーバが手ごめにしたあのめんどりの首をひねったみたいに、やつの脚をぎゅうぎゅうねじってやった。(…)脚を放してやってから、はじめてあいつの脚を駄目にしちまったことに気がついた。ちゃんと四本脚で立つことができねえんだ。前につんのめっちまうんだ。脚がよじれて、地面につけることができなかった」状態にしてしまったからでもなく、ある事件に関する生徒の告発を学校の体面保持を目的に取り下げさせるために大佐がその生徒がかつて書いて売っていたエロ小説を「さあ、読むんだ」と言って読み上げさせようとしたからでもなく、それを強要された生徒が「犬っころを時代の洗礼を思い出した。三年ぶりで、ふたたび入学時のあの言い知れぬ無力感と屈辱感をあじわった。いや、あれよりもひどかった。洗礼はすくなくともみんなで分かち合うものだった」という決定的な屈辱を受けるからでもなく、あるいは軍律に忠誠を誓い、その告発を支援した中尉に対して「「そりゃ軍律はだれだって守らなきゃならんよ」と大尉は言った。「しかしその解釈において賢明でなくちゃいかん。軍人はなによりもまず現実的でなければんらんのだ。実際の状況に即した行動が求められるんだ。規則をむりやりに物事にあてはめるのではなしに、規則を物事に合わせていくようにしなくちゃならんこともある」」という言葉が掛けられそして左遷されるからでもなく、密告したとして糾弾されている級友が潔白で自分こそが密告の張本人であると知っているにも関わらず周囲の様子を確認してから「不意に不安は消えた。(…)包帯の下で自分も、小さく唱え始めた、《密告野郎、密告野郎。》」と多勢に同調するからでもなく、ただただ、全体に通底するものとして、苛烈で残酷だ。それはどこまでも哀しく、けっこうなところえげつない。
三人の主要な若者たちにまつわる恋のエピソードもまた、同じ苛烈さと残酷さをたたえ、ボーイ・ミーツ・ガールの初々しさを垣間見ることはあれども、不意に軽侮の言葉が立ち上がり、不意に暴力が立ち上がる点において、あるいは最後まで読んだものだけが知るその恋の成り立ちという点において、苛烈で残酷であることに何ら変わりはない。最後にいくつかの救い、いくつかの男気、正義、そのようなものが見え、浄化されたような前向きな気持ちを読むものに抱かすことはあれども、それまでに積み重ねられたいくつもの時間を少しでも振り返れば、その苛烈さと残酷さを帳消しすることなど決して出来ない。
このえげつなさにバルガス=リョサの原点があり、それが他の作品にも拭いがたい影響を与えているということであるならば、私は彼の他の作品もぜひとも読まなければならないようにいま感じている。まあつまり、超面白かったということです。
book
2013年5月12日
愛その他の悪霊について
いつ以来だかわからないぐらいに久しぶりにガルシア=マルケスを手に取った。『百年の孤独』は数年に一度読み返したくなる大好きな小説であり、他に読んでいるのは『コレラの時代の愛』『エレンディラ』『わが悲しき娼婦たちの思い出』ぐらいだけど、どの作品を読んでも、それは場面であれ、設定であれ、あるいは一つのセンテンスであれ、ガルシア=マルケスにしか書けないとても鮮烈で優しく、愛に満ちたものに感じられ、とても好きだ。
愛という言葉を使わせたらガルシア=マルケス以上にロマンティックに書ける人間は存在しないのではないだろうか、という気すらしてくる。ガルシア=マルケスの女たちが発する愛は、海と時間を楽々と越えて、雲のように広がり、雨のように私たちをやさしく濡らす。(←ガルシア=マルケスはこの100倍ぐらいうまいこと言う)
さっきウィキペディアを見たらまだ存命ということで、85歳だった。それがガルシア=マルケスである以上、あと100年以上はゆうゆう生き続けるのだろう。
で、今作は200ページにも満たない短い小説だったけれど、やはり随所に「ガルシア=マルケス~」という気分になれ、とても好ましかった。今度は『族長の秋』を読むつもり。以下ネタバレな部分も含む引用。
狂犬病に見舞われた軽業師の行末、時間の経過、そして出来事の歌への変換、というのが一気におこなわれるこの文章はけっこう凄まじい。私たちはいつだって気づかぬうちに母親たちの歌のなかを生きる。
不運な軽業師は、聞くも恐ろしい幻覚にうなされている最中に棍棒の一撃で殺されたが、その後何年も、町の母親たちは子供を怖がらせるために、そのさまを歌にして歌い続けることになった。(P23)
健康状態が良好だからってこんなに大げさに描写しなくていいじゃないか、というすごい形容のしかた。「手には英知が満ち」とか、どんな手なんだよ、というか、だけどそれはほんとうに英知が満ちているんだということが不思議と納得される。
健康状態が良好であることは見るからに明らかだった。見捨てられたような様子にもかかわらず、彼女は調和のとれた体をしていたし、全身はほとんど目につかない金色の産毛に覆われて、しあわせな開花に向かう最初の徴候が見て取れた。歯は完璧だったし、目には洞察力があふれ、足は穏やかに伸び伸びとして、手には英知が満ち、髪の毛のひと房ひと房は長生きの前奏曲を奏でていた。(P45)
いかにもガルシア=マルケス的なとんでも出来事。列をなして、というのがとてもいい。
農園の家畜が満月の明かりのもと、まったく黙りこんだまま寝ぐらを捨てて原野に向かっているのだった。彼らは通り道をふさぐものすべてをなぎ倒しながら、一直線に放牧地や砂糖黍畑、川の激流や沼沢を横切っていった。前方には大型の家畜や荷役用騎乗用の驢馬が行き、後方には豚や羊や家禽類が不気味な列をなして夜の中へと消えていくのだった。長距離を飛べる鳥たちまでもが、鳩を含めて、歩いて姿を消した。(P51)
告白の言葉。「人生とはいつでもどこでも彼女のことであり」という「ことであり」というのがいいし、「唯一、神のみがそうであってしかるべきなのだが」という前置きもとてもいい。
彼女のことを考えない時間というのは一瞬もなく、食べるもの飲むものすべて彼女の味がし、唯一、神のみがそうであってしかるべきなのだが彼にとって人生とはいつでもどこでも彼女のことであり、彼の心の最高のよろこびとは彼女とともに死ぬことである、と。(P160)
囲む修道女、そこで「ぐるぐると回」る男、という場面に躍動感があってとてもいい。「ぐるぐる」という感じがなんだかとてもいい。
「止まりなさい!」
振り返ると、ヴェールで顔を覆った修道女がいて、十字架像を彼に向けて掲げていた。一歩前に踏み出したが、修道女はキリストの権威によってその足を止めた。「下がるがよい!」と彼女は叫んだ。
背中の後ろでもう一度聞こえた――「下がるがよい!」。それからさらに何度も何度も――「下がるがよい!」。彼の体はその場でぐるぐると回り、彼は自分が、顔を覆った夢幻的な修道女たちに囲まれていることに気づいた。それが十字架像を掲げて叫びながら詰め寄ってきた――「下がるがよい!サタンよ!」。(P185)
「愛のために死んでいる」――ガルシア=マルケスじゃなければ「なんだよ愛のために死ぬって」と突っ込みたくなりそうな気がするが、ガルシア=マルケスなので「ああ、愛のために死んだんだな」と納得され、とても美しい。
第六回目の悪魔祓いの準備をさせるために房に入った見張番は、彼女が寝台の上で、光り輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま、愛のために死んでいるのを見つけた。新しい髪の毛が、剃りあげた頭骨からあぶくのように湧き出し、伸びていくのが見られた。(P187)
book text
2013年5月8日
ただ影だけ (フィクションのエル・ドラード)
火を借りるために私の目の前で急停止した男は、タバコに火をつけると白くて花っぽいフレームのサングラスをつけ、無一文なんですよ、と話し始めた。マクドナルドの前は片側二車線で深夜でも往来のある通りだったから、早口の男の言葉の大部分は過ぎていく車と風の音にかき消されて、だけど私は特段聞き返したりすることはなかった。深夜1時過ぎにいきなり現れたストレンジャーと話をすることもないような気がしたし、互いに無言で一本タバコを吸い終えたらそれでいいじゃないかとも思いはするのだけど、財布をなくしてカードを止めたので2日間無一文で、と男は言った。清々しそうですねそういうのも、というような言葉を私は返した。結果、5分以上のあいだその男と私は談笑をした。彼の郷里、彼の仕事、彼の住まい、彼のお気に入りの店、そういった情報を私は得ることになった。彼はゴールデン・ウィークのあいだ、ひたすら自転車をこいで岡山を移動していたらしかった。そうすると、天気もよかったし、喉が乾いたりするのでは、と問うてみると、公園にいけば蛇口があるし、コンビニなんかでも、言ってみれば150円くらいならくれてやる人というはざらにいる、と言った。コミュニケーションに対して壁を作っているのはいつも発し手であり、受け手は思われる以上に柔軟なのかもしれませんね、柴崎友香の小説にも、そういう他者とのアクシデンタルなコミュニケーションを渇望とまでは言わずとも、そういうことがあってもいいのにって思うくだりが一時期よくあったように思うのですが、だから、その時期の彼女の小説にはそういったコミュニケーションとトリップ、それは大阪から東京、そしてメキシコ、あるいは石垣島やトルコもそうかもしれない、総じてアクシデンタルなものを求める声がよく聞かれたように思うのですが、まあなんというか、いい過ごし方じゃないですか、それはそれでとても。そうかもしれませんね、ゴールデン・ウィークはそちらは何をされていたんですか。はい、私は仕事をしていました。
ゴールデン・ウィークというものがなんだったのか、今の私にはもはや判然としないし、なぜグーグル日本語入力はいちいち中黒点を入れようとするのか疑問というか苛立ちもあるし、いい思い出も何もないけれど、そのゴールデンの谷間というのか、3連休と4連休のはざまの5月1日に、店の地下室でSylvain Chauveau、そして彼が率いるコレクティブ、0のライブがあった。コレクティブ、という呼び方を今回初めて聞いた。その結果、50人近くの人が店の地下室に集まった。気のいいフランス人3人組は一様に背が高く、私でも随所で屈まなければいけない地下室を行き来するのはとても窮屈そうだった。せっかく遠くフランスから日本にやってきたのに、こんな巣窟のようなところでライブしなければいけないなんていったいどういうことだ、という文句が出たという話は今のところ聞いていないのでよかったのだけれども、そこでおこなわれたライブは本当にいいものだった。
今回の日本ツアーでは唯一フルアコースティックの演奏だったらしいのだけど、それはもしかしたらとても正解だったのかもしれないと私は思ったし、多くの人もライブを見ながらそのように考えた。
シルヴァンやジョエルのギターのかすかな爪弾きや、ステファヌの多彩なパーカッションへのかすかなタッチなど、微細な音の響きが何にも増幅されない状態でじかに空間を満たし耳に届いてくるあの感覚は、アコースティックならではのものだった。ここで私が彼らをファーストネームで呼んでみるのはなぜなのだろうか。会場提供者として自己紹介をし合った仲だから、いいじゃないか、みたいなところなのだろうか。横柄であるとか傲慢であるとかのそしりは致し方がないことかもしれないが、それはいいとして、いずれにせよ、見た人の一人が「新しい生命の息吹って英語でなんていうんだろ」という感想を漏らしていたけれど、本当にそういう春っぽい感じを感じられる気持ちのいいもので、想像していた通り、それはミニマルミュージックがどうとか、現代音楽がどうとかの堅苦しいタームを出さずとも十全に心地のよい演奏だった。私はビギニングオブザライフみたいな感じじゃないですか、と返した。
その数日後、やっとゴールデン・ウィークが終わりを迎えた夜、店を閉めると私はマクドナルドへ行き、セルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』を読み終わらせた。
ニカラグアの小説で、数十年の独裁を続けていたソモサ王朝をサンディニスタ解放戦線が打倒し、政権を取る、ちょうどその移行期の話で、作者のセルヒオ・ラミレスはサンディニスタの戦士としてたぶん戦った人で、のちに副大統領を務めたりもしている筋金入りの元政治家の方で、政治を引退してからは小説を書いて生計を立てている、というようなことが訳者解説にあったような気がした。
主人公として描かれているのはソモサの側近だった人物で、
とか、サンディニスタがどうとかソモサがどうとか作者がこういう人でとか、私には珍しくなんというかそういう外側のことに興味を持って読んでいたし、わざわざニカラグアの内戦の歴史をウィキペディアでとは言え勉強して、いやーアメリカとかCIAってやることがえげつないよなあとか思ったりもしたのだけど、なんだか歴史の勉強って面白そうですね。私は国内国外含め歴史のことは本当にまったく疎いので、いちいち新鮮というか、なんか何を書いているのかわからなくなってきたのだけれども、まあだけど、そういう外側の出来事に引っ張られて小説を読むというのはやはり、健全ではないというか、健全ではないというわけではないにせよ、それだけでは面白いこともなくて、そういう点では『ただ影だけ』は「へ~ニカラグアってそういう」という興味しか引かない部分はあって、つまり、小説として、何か、躍動するイメージのようなものを私にもたらしはしない感じがあったので、どうかなというところはあった。いろいろと技巧や構造のところで作者が工夫をしているのはよくわかるのだけど、それが別段、私にはエキサイティングなものには感じられなかった。
そういう気分で読んでいて、残り100ページぐらいのところで私は昨夜マックに行ったのだけど、最後の方はもう、すごい面白かった。狼少年という、側近の元同僚的な軽口を叩く人物が出てきてからの動きが怒濤で、そこからというか以下はネタバレ及び大事な場面の引用になるのでそういったものを読みたくない人は読まない方がいいと忠告しておくけれども彼らは民衆裁判にかけられるのだけど、そこでの狼少年の裏切り的な振る舞い、民衆からの拍手喝采、無罪放免、そしてそのあとの側近のしどろもどろ、有罪、処刑、というあたりを描いた筆致はけっこうえげつなく、特に側近の極まった狼狽ぶりは読んでいて目をつむりたくなるようなものだった。
男は拍手をしました、とその裁判を13歳のときに見ていた、かつて少女だった中年の女の証言としてその模様は描かれる。怒り狂う民衆の前で自らの潔白を説明し、拍手がどっと起きれば無罪、という裁判だ。そこに向かう前の場面で狼少年は側近に小難しい話なんてするなよ、笑わせたやつが勝ちだ、お前はソモサがプールの中でうんこをもらした話をしたらいいじゃないか、ネタとして最高だろ、なんせお前はそのプールの中にいたんだし、とアドバイスを送るが、狼少年という愛称に従うように、男はそのネタを使って民衆からの喝采を受けた。意味のない拍手を繰り返したあとに、側近の男はうろうろと歩きまわり、すると突然、紳士淑女の皆さん、お嬢様型、お集まりの方々、一つ愉快な笑い話をお聞かせしたいと思います。よろしいでしょうか、と言う。黙ったままでいる民衆を前に、話をお聞きになりたい方、どうぞ温かい拍手をお願いいたします。また沈黙です。男は笑って、予行演習ですよ、と言いましたが、聴衆は沈黙したままです。そう中年の女は回想する。
演壇の真ん中に立ち止まると、あの男は数歩進み出て、皆さん、かつて大学にウルピアノという教授がおりまして、と小話を披露する。それは作中で一度読まされているエピソードだったが、そう面白くもない小話を文字通り命がけで話すその様子は、そしてその滑りっぷりは、読んでいて本当にえげつないものだった。すると男は笑い方を変えました。今度ははらわたをよじるように大きな笑い声を上げ、舞台の上を右へ左へと移動しながら、ますますせわしなく手をたたきだしたのです。そうです、私はあのプールに首まで浸かっていました!今日にいたるまで、何度風呂に入ってもあの臭いは体から消えません!拍手をお願いします!お手を拝借!いやらしい笑い声をまた上げながら、そうやって何度も拍手を求めましたが、人々は壁のように沈黙し、いらついた蜂の羽音を高めていくだけです。
訳者である寺尾隆吉の略歴を見たところ、昨年末に読んだ『無分別』が大きな衝撃だったオラシオ・カステジャーノス・モヤの他の作品が訳されていることを知った。なので今日丸善に行き、そこではガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について』を購入し、モヤの『崩壊』は注文しておいた。これは現代企画室から出版されているものだ。その出版社についてはこれまで名前すら知らなかったのだけど、サイトを見てみるとけっこうラテンアメリカ文学も出しているみたいで少しずつ読んでみたいし、今回のセルヒオ・ラミレスのは水声社のラテンアメリカ文学シリーズ、「フィクションのエル・ドラード」の一つ目ということで、ここからの展開も楽しみだ。エル・ドラードは黄金郷の意味らしい。読む選択肢が広がっていくことは単純に嬉しい。
ところでモヤ、今回なぜアマゾンでワンクリックで買わなかったのか。それは、アマゾンで注文した『ただ影だけ』を読んで改めて、やっぱり本は本屋のカバーがついていてほしい、バッグの中でも安全だし、読み終わってカバーを取るのが好きだから、ということを痛感したためだった。そのため客にとってもたぶん店員にとっても面倒くさい注文をレジでおこなったわけなのだけど、やっぱりこれは作業としては結構面倒くさいしかったるかったので、今度からは素直にアマゾンで注文するかもしれない。
そういうことなので今後の読書予定は以下の通りです。ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』、次いで本日注文したモヤ『崩壊』、そのあとニカラグアの内戦の歴史に興味を持ったついでにチリのクーデターってどういうことなのかなと興味を持ったのでイザベル・アジェンデ『精霊たちの家』。そんな感じでどうでしょうか。よいと思われる方は拍手をお願いします。どうぞお手を拝借。お手を拝借!
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2013年5月7日
ゴールデンウィークが終わりを迎えた夜、店を閉めたあとにゆっくり本を読みたくて、店も家も、本を読むには気分的にどうにも落ち着かないというかフィットしきれないところがあり、それではどこかよその店に行けばいいのかと考えたときにも0時を過ぎて開いていて本をじっくり読めるという場所もそう思いつかない。読書難民と言って差し支えないと思う。ゆっくりと、快適に、何も気にせずに本を読める場所。私は本当に、心底に、そういう場所を希求している。
それで今晩は、少し前に彼女が「あそこは最高」と言っていたマクドナルドという場所にいくことにして、わざわざ車を走らせた。店に入る前に外の灰皿があるところでタバコを吸っていると全身オレンジのレインウェアを着た自転車の男が目の前で急停車し、火を貸してもらえますか、と言ってきたのでびっくりしましたと言いながらライターを渡した。大学のときのゼミの人たちが作ったリトルプレスで、なんという作家だったか、忘れてしまったしちょっとしたら思い出せそうな気もするのだけれども今のところは忘れているのだけれども、なんだっけか、まあ、たしかアメリカの小説家で売れない小説をものすごい量書いたなんとかという、日本では訳されていないなんとかという作家を特集したリトルプレスで、それはとてもよく出来ていて、そこに翻訳ができる人がいくつかの作品の翻訳を載せていて、その一つのタイトルが「チャイナマンが火をつける」みたいな感じで、かっこいいと思った記憶があって、その翻訳をやった人はたぶん今も翻訳関係の仕事をしているのではないかと、フェイスブックでたまに見かける投稿から察せられたような記憶もあいまいながらするけれど、確かなことはまるでわからない。
その人ではなく、そのリトルプレスを作ったもう一人の人から昨日の夜に電話をもらい、彼はいくらか前に店にも来てくれたし、年末にもバウスシアターでばったり会って新宿のやたらに高い喫茶店で茶をしばいたから、そう久しぶりということでもなかったし明確な要件があっての電話ではあったのだけど、彼はその日だかにサックス奏者の坂田明の本を買ったらしく、その本で、水の中の生物は3つに分類される、ということが書かれていると言う。プランクトン(浮遊生物)、ネクトン(遊泳生物)、ベントス(底生生物)、ということだった。ということは、この場合、「トン」が「遊」に対応しているということだろうか、と私は言った。そうかもしれないねと言う彼は、それから、その日に読んだ詩に、サイコロを振ろうとした男が鼻から鮮血を吹き出し、それを隣で見ていた「僕」はだけど、まだまだ遊び足りないからそれを無視する、ということが書かれていた、と言った。私はかつての同居人であるその友人が詩を読むということに対して驚きを感じながらもそのことについては特に触れなかった。
遊ぶっていったいなんなんだろうね、という感想にもならない言葉を漏らした。遊びたいなんて思わないけれどね、と彼は応じた。どういうものが遊ぶなのかは判然としないながらも、遊ぶよりも本を読むとか、人と話すなら不毛な笑いとか不要の話をしたいし、それがあればいいような気がする、と私は考えているのだけれども、4月の半ばに友人の結婚式があった。
その友人もまた、かつての同居人であった。昨夜電話をくれた元同居人は、在住期間たしか数ヶ月の、いわゆる第三の男としての同居人であり、4月に式を挙げた元同居人は、ルームシェアの最初から最後までを一緒に暮らした同居人だった。第三の男に該当する部分は、2年と半年ほどのルームシェア生活の間で4人にまたがった。第三の男たちはみな一様に、金払いが悪かった。彼らの名誉のために付言するが、ここの部分は記憶違いかもしれない。
結婚式は彼と奥さんの故郷である大阪でおこなわれたため、岡山からも行きやすく、ありがたかった。何人もの友人たちが、めかしこんだ格好で、みな大人になったものだと私は少しの感慨を覚え、久しぶりにスーツを着た私は「久しぶりにスーツを着ている人だとぱっと見でわかる」と指摘された。シュッとさせたかったのだけれども、よれよれだったらしかった。
式はとてもよく、予想通りに私は少し泣いたし、まったく予想しなかったことに、新郎である元同居人も最後のあいさつで声をつまらせていた。それは驚くべき光景だった。だけどそれは素晴らしいことじゃないかと、彼の涙を見て私はまた胸を熱くした。それはいいとして、式を終え、夜にどこかで飲もうということにしていくつかのグループに分かれた。宿を取っていてホテルにチェックインするグループと、その日に東京まで戻るかもしれないグループで、私は後者の人たちとともに行動した。特に行き先もないので通天閣のある駅でおり、うらぶれたアーケードを歩き、なんという名前だったか、射幸心を満たすピンボールマシンみたいなやつを一心不乱に打ち、それから串カツを食べてビールを飲み、スパワールドで長々と風呂に入り、そうしているともう新幹線も終わる時間が近づいたので、当初の予定である大学時代の人々および新郎と合流して飲むということは諦めて新幹線で岡山まで帰った。
要は、結婚式にいって、そのあと大阪観光をした、という日になったのだけど、懐かしい人たちと4人だったかで午後いっぱい、歩き、食べ、飲み、話し、ひとっ風呂を長々、ということをおこなったわけで、私はなんというか、友人と遊ぶというのをとても久しぶりにおこなったような気がしたし、遊ぶってもしかしたらこういうことを指していたのかもしれないと、新鮮な思いがしたのだった。友人との何かしらなど、飲みに行って話す以外はここ何年もほとんどしていなかったような気がするので、たまにあるこういう時間は、それはとても楽しく、嬉しいものだった。そういえば、その遊んだ友人たちの中にも一人、かつて第三の男だった男がいた。
私はかつて、その男に影響され、タバコの銘柄をラッキーストライクにし、髪型を似合いもしないドレッドにしたのだった。自分の歴史を笑い飛ばせるんだったらそれで万事いいねって、それは俺はいつだって本当にそう思うよ。
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2013年4月27日

昨夜セルジオ・レオーネの『夕陽のガンマン』の続きを見ていたら結局眠ってしまって、今朝返さないといけず、不甲斐ないことになってしまったのだけれども、まるで血の流れないそのマカロニウェスタンを見切れなかったことへの贖いなのか、今朝はとても久しぶりにジョー・ミークを聞いた。流麗なストリングスやコーラスに彩られた数々の楽曲の響きはただただ無意味で虚しく、それはやはり素晴らしく、かつて、ジョー・ミークを聞きながらニヤニヤと笑っていた友人たちの顔を思い出した。私たちはなぜか、誰がもっとも上手にジョー・ミークの顔を描けるか、競ったのだった。それはのちにジョー・ミークTシャツの制作へと発展し、辞退した私はフローベールの顔を描いたのだった。ギュスターヴのその顔の上には「DISCO PUNK」の文字が綴られ、そしてそれらは一様に、夜の闇の中で浮き上がる蛍光のペンで描かれたのだった。そのTシャツはいまだに着ている。襟がだいぶ伸びてしまったが、私はそれを好んで着ている。
フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』を早速読んだ。その前に読んでいた短編「ルビーナ」で語られる村同様に、ペドロ・パラモがかつて君臨したコマラは死者の声がこだまするだけのザ・荒涼の土地であり、そこでは現在と過去、生者と死者の境はどこまでも曖昧で、死者たちは思い思いに語りだすのだった。200ページほどの短い小説のなかでいくつもの過ぎ去った生が語られる。その土地では、死は結婚や出産と同じような、旅の途上で出くわすイベントの一つというぐらいの位置づけにあり、「もう恐がらなくていいよ。もう誰もおまえさんを恐がらせることはできないさ。楽しいことを考えるようにした方がいいんだよ。うんと長いあいだ土の中にいなくちゃならんのだからね」
死者の声が充満する。死者の声に耳を傾け続け、その中に身を沈めていくと、
何か言葉にしようとしばらく考えていたのだけれどもどうにも形にならない。とにかく、生きていると思っていた者たちが実は死者であると言い渡され続けるこの小説は、読んでいるあいだもそうだけれども、読んでしまったあとの時間の方がもしかしたらずっと奇妙だ。なんせ、読み終わった岩波文庫のどこかのページを開いてみる。何かしらの言葉が書かれている。それは、死者の声だ。どのページを開いてみても、それは死者の声だ。死者が語り続けている。私はいったい何を読んでいたのだろうかと、考えれば考えるほどに、時間や空間の概念がねじれていくような感覚に陥っていく。それをねじれと感じる私はとても、現代の日本を生きている。
それにしたって、なんという小説を読んでしまったのだろうと、あっけにとられるというか、愕然とする。なんという小説を読んでしまったのだろう。言い過ぎであり、妙な高ぶりによるものであるということは重々に承知しながらも、後戻りのきかない状況になってしまったように今は感じる。なんせ私はこの小説を通してすでに死んでしまった人たちの声を聞き続けてしまったのだ。風の声を聞いたり巡礼をするどころの話じゃない。
3本目の金麦が終わろうとしていて私は少し酔っ払ってしまっているのかもしれないというよりは如実に酔っ払っていて、頭を傾げてみたらどんよりと重いのだけれども、たしかに、この小説は『百年の孤独』に匹敵する何かだったのだろうと思う。土の声。風が町を削り取っていく。その中で豊穣の雨は確かに降り、そしてもう二度とその村は生き返らない。マコンドの歴史が羊皮紙とともに消尽するように、コマリはけたたましい鐘の音と、それに吸い寄せられた喧騒のあとで、誰も思い出そうとしない廃墟と化すのだろう。
今日セルヒオ・ラミレスの『ただ影だけ』をアマゾンで注文した。あとどれぐらいしたら『2666』に挑むだろうか。リチャード・パワーズの新作が出たことも知ってしまった。読みたい本は人生の時間よりもずっと多く、どんどんと山積していく。リチャード・パワーズと言えば、『エコー・メイカー』という小説がパワーズのものだったと初めて知った。なぜか、書店で手に取ったときから、作者の名前は目に入っていたはずなのに、なぜかパワーズだと分からずに、誰がこんなものを読んでやるかと、必要以上の原因不明の反感を持っていたのだけれども、パワーズだったのか、と今日知れ、それではいつか読むだろうなと簡単に手のひらを返すのだった。いったい、なんの反感だったのだろうか。
昨日は休みで、スティーヴン・スピルバーグ『リンカーン』を見てきた。冒頭の青灰色の戦闘の場面から、スピルバーグだけが、あるいはヤヌス・カミンスキーだけが撮ることのできる戦場の色だと、簡単に感嘆しながら、緩慢に動くリンカーンの挙動にずっと目を見張った(嘘で、途中でウトウトしてしまった。見る前からウトウトしていたからこれは仕方がない)。それにしても、最後の方でリンカーンが「可決させるんだ!」と言ったときに周りの官僚たちが「しかしどのように」と当然の問いを発し、それに対するリンカーンの答えには愕然とした。なんせ、「私は合衆国大統領だ。私は絶大な権力を持っているんだ」が答えだった。どうやっても今月のバジェットを達成するんだ、という上司に対して方策を聞いた時にこんな答えをされたらもうポカンとするほかないよなという、ブラック企業ってきっとこういう感じだったりするよな、ブラックに限らず、営業ってわりとこんな感じというかこんな感じだよなと、かつての職場を思い出した。民主主義の力を信じたとかなんとかいうリンカーンの人物像とこの言葉はまるで相容れず、よって、このセリフを採用することでこの映画をただの美談では終わらせまいとするスピルバーグの意志を強く感じた。俄然、物語に複雑味が帯びた。
そういう点ではトミー・リー・ジョーンズが、法案が可決した夜に見せる姿は実にシンプルで、その姿にほろっときて涙を流しこそすれど、そこで見られる姿は徹頭徹尾善玉のそれであり、観客は素直に感動すればいいのだから、シンプルだ。
なんというか、これもやはりうまい言葉にはならないというか考えにならないのだけれども、シンプルに感動させるところはシンプルに感動させながら、「いったいあれはなんだったんだ」という奇妙なしこりを残すスピルバーグのやり口に、私はしばしば陶然としたということだったろうか。何を書いているのかが次第に判然としなくなった。その前夜にはジェイソン・ライトマンの『ヤング・アダルト』を見た。どうしようもないバンドの演奏シーンと、どうしようもない命名式の庭での場面。露悪と言っても言い過ぎではないそういった痛みを見せつけられて、私はどのように振舞ったらいいのか、どのようにここにあるエンターキーを押したらいいのか、どのようにこの割り切れない日々を割り切ればいいのか、どのようにこの、酔っ払った10本の指の動きを制御したらいいのか、どのように、しかしどのように。
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2013年4月24日
ブエノスアイレス食堂 (エクス・リブリス)
毎晩、早く帰ろう、今晩こそは早く帰って早く寝ようと思うのだけれども、いざ閉店を迎えると、仕事のあとのこの時間がいとおしすぎて、結局うだうだと、遅くまで店に残ることになる。今日もすでに1時半だ。今日も金麦を飲んでいる。
先々週ぐらいだったかに怪我をして縫った人差し指は先週ぐらいに抜糸というかするするっと抜け、だけど未だにずっと絆創膏をぎゅっと貼っているような、少ししびれのある感じが残っている。両サイドに神経が走っていて、それが少し傷ついているのだろう、というようなことを若い医者は言っていた。長い人は何ヶ月か違和感が残るとのことだった。何かと不便なのだけど、タイピングが一番不便で、全然、今までと同じ感覚では打てない。今までと同じ感覚で打つと全然違う文字を打っている。ここまでに何箇所でデリートキーを押したことか。nとjの位置を何度も間違える。それに限らずたくさんの誤打をする。
ここのところは、花見の時期が明けてからは、全体的に暇な日が続いていて、かと思うと急に忙しくなったりしていまいちリズムがつかめないし、リズムがつかめたことなんてこの2年弱で一度もなく、そもそもリズムなんてものはないのかもしれないのだけれども、とりあえずのところは総じてゆっくりで、よく本を読めている。バルガス=リョサを終え、向井周太郎の『デザイン学』を読もうとも思っていたけれど、やはり、どうも、小説、というモードのようで、それで昨夜丸善に行って、どうしようか、いよいよ『2666』に行こうか、アジェンデの『精霊たちの家』を読んでみようか、ガルシア=マルケスのまだ読んでいない何かを手に取ってみようか、と散々迷った挙句、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』をアマゾンのマーケットプレイスで購入することにして、そのつなぎとしてそう厚くもない、軽く読めそうな、という理由でカルロス・バルマセーダの『ブエノスアイレス食堂』を買った。『野生の探偵たち』と同じ柳原孝敦が訳しているというのも選択の一つの理由だった。
バルマセーダはアルゼンチン・ノワールの旗手という方らしく、ブエノスアイレス食堂でおこった猟奇的な事件がどうの、食人がどうの、ということだったからなんだかこう、そういった嗜好のシェフが殺した人の肉を使って料理して客に供してそれが途方もない美味で、みたいな感じの下世話な話かな、と思って読み始めたら、読み始めは確かにそういう具合だった。生後7ヶ月の男の子が母親を食い殺し、無数のネズミたちとともにその肉を食う、みたいな始まりで、ああそういう感じだよね、と思って読んでいたら、どんどん、とてもいい意味で裏切られていった。半分ぐらいまで読み進んだ昨夜の段階で、「これはすごい小説かもしれない!」と結構な興奮を覚えた。
なんせ、ちょっとした猟奇事件の物語かと思いきや、その舞台となるブエノスアイレス食堂をめぐる人々の100年ぐらいの年代記であり、同時にアルゼンチンやイタリアを見舞った血まみれの歴史と人の横断、それぞれの人々の物語が仔細に描かれ、さらにブエノスアイレス食堂のシェフたちに伝わるの『南海の料理指南書』は紀元前のギリシャまでをも射程に収めるものだから、縦に横に、ものすごい広いレンジで、ものすごいダイナミクスさを獲得していた。この作者の力量はとんでもないと舌を巻いた。
だからこそ、というのか、そのクロニクルを物凄い面白く読んでいた身としては、歴史語りが終わり、現在に辿り着いてしまって以降、結末に向かって物語が加速していく部分は、どうにも興醒めというか、どうでもいいなと思ってしまった。こういう注釈は普段は入れないけれどもなんとなく今回は入れるけれども以下というか次のというかこのセンテンスのこれからのところはいわゆるネタバレというところになるけれどもこの小説の終いは当初の想定の通りの殺人及び食人シェフによる絢爛たる料理の数々というところで、まず同僚を殺し、次に養父というか育ててくれていた叔父を殺し、失踪事件を捜査していた警官を殺し、それぞれ料理し、それぞれ絶賛され、最後に愛人でもある叔母を殺してこれは一人で射精しながら堪能し、最後の最後は自分の体を最高に美味しく塗りたくってネズミに食わせるというもので、ここで自身が食い殺した母をネズミに食わせた冒頭とどうでもいい円環を作るのだけれども、なんだかもう、それは本当にどうでもいいことだった。
私としては、語りが現在に追いついたところで小説がバッサリと、あの事件はなんだったの、そして母を殺した幼児はそのあとどうなったの、ということは置き去りにして終わってしまっていたら、この小説を手放しに賞賛しただろうなと思うのだけれども、結局ジャンルの要請というのか、ノワール的に片をつけなければいけないということなのか、どうでもいいカニバリズムが描かれてしまって、なんというか本当にそれは私にとっては蛇足以外の何ものでもなかった。
この小説家がノワールという足枷を外して何かを書くとき、そのときを結構なところ心待ちに待ちたい。
明日か明後日にはフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』が届く。とても楽しみだ。
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