2月

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怒りとかがどこにあるのかがわからないけれども何に触発されかrage rage against なんだっけ dying なんとか lightで合ってたっけ、それか、その他いくつかのウェブ上のテキストに、僕はテクストとは打てない、テキストに触発されたか、怒りか、あるいはただ本日の壊滅的な暇さにげんなりしたのか、怒りか、いやそれは怒りとは関係ない、もやもやするのか、怒りとはまた別か、なにか吐き出されるべきと考えられたか、いくつかのウェブ上のテキストには怒りの文字が打ち込まれていたか、怒りか、怒りよりもいらだちか、いらだちの方がぼくいや私にはすっきり、と打っていくぶんかのタイムラグが発生しておだやかな世界に私は移行し今また戻ってきてrage rage それで、それでなのか、けっきょくOMSBを流すということになったのか、それでそうしたのか、OMSBがいきどおってくれたら俺はそれでOKだというのか、おれのかわりに憤っといてみたいなインスタントなそれか、ウイスキーをそれで飲むのか、ウイスキーを煽れば怒りか憤りかいらだちを表現できるとでもいうのか、そんな簡単な話か、いくつかの、テキストが、なにか僕をというか私を触発したがそれはなんだったか、自由とは何かみたいな話か、昔の哲人に学べばよいか、私は誰かとかそういうこと問えばいいか、自由とは何かとか問えばいいか、よいか、そんな話だったか、ゆっくりと、深呼吸をするようにこうやって打鍵を続ければ何かが生み出されると思うか、ゆっくりとしかし強靭ななにかがうねりとかグルーヴみたいなこの場合はやはりヴか、ブでは不満か、グルーブではだめか、グルーヴが、いずれにせよ生み出されると思うか私はそうは思わない。これはどこにも向かう気配がない。怒っているのか。怒りはないか。憤りか。でもしかしされどされどってなんだしかししかしいったい何にそうしたいのか。そうする動機が僕には今の私にはわからないが何かに対するいらだちみたいなものは常にあるしそれはたいがいのところ結局自分に向けられるというのはやっぱり嘘で外に向けられるか。でもじっくり考えたりいくらか時間がたってわかることはけっきょく自分に対して向けられるということか。ルールを撤廃するということかそれは関係ないか。自分を何かから解き放つとはいったい何か。いま10文字ほどがデリートされたが今の行為はいったいなんだったのか。私はいま何をしたくてこうやっているのかおmbsbがワッタファックみたいなことをいって銃弾が銃声がどんどん鳴ってそれからディープライドが嗤うような笑うようなハムラビ法典、そういうことばが聞こえた後に焦点がずれたためディスプレイがはっきり見えなくなったが実にまともに打鍵に関しては続けられたか。左手の位置は動かない。右手は飛び回る。なんで飛び回るのかと思ったらエンターのために飛ばないといけないのかということがわかったエンターすらなければ右手も不動のままでいられるということかそれならば。ということか。句点もまた右手を動かすことになるということはあとはDelhiとかデリートか。でりーあとは伸ばし棒というのかあのーこれーこれねこれーこれかでもこれはけっこう大事だったりするというか単純に必要なケースほらけーすーーーーこれねこれ。何やってるんだろうなって思ってる毎日嘘毎日とか嘘というか思っていない自分がやっていることに対して大きな疑問と言うか問題は感じていないというか間違っていないそれは思っている強く思っているそれとは別だこのあれこれはそれとは別だヒューマノイド全部クソ、こーすりゃあーすりゃネチズムビッチアス野郎がまた泣くよ、ファッキューファッキュー面倒なこと一度に消すやたらとぐーぐー馴れ馴れしいOMSBかっこいいな本当に。なんでこんなにかっこいいんだろうな。俺には不明。なんでもいい。なんだろうな、沈み込むな、こうやって無駄な打鍵を続ければ続けるほど沈んでいくな、しかもこれ、今はマックのメモ帳アプリっていうの、メモ帳で打っているわけだけど前提としてakcttkc.comっていうの、そこに貼り付けてアップロードみたいな、WordPressで作ってみたサイトですよってところに貼り付けて全世界World Wide Webにその網の目の中に開かれる予定というかつもりで書かれているこういう自意識みたいなものっていったいなんなんだろうもし目に見えるものすべてがジョークって、俺もラッパーに生まれたらどうだったかな、ドープだったかな、たまにやってみるんだけど韻なんてどうやったら踏めるのかわからないんだよな、全然わからない、言葉を使うことに関しては苦手なわけではいささかもないはずなのに韻となるとまったく踏めない、逐語?逐語ってなんだろう、逐語ってなんだっけ、わかんない言葉使おうとするからダメなんだよな嘘。それは嘘だな、わからない、使えない、言葉を使おうとすることはありなことというか使うに際して使い方とか調べるってことは一歩というか1センチ身長を伸ばすっていう行為にほかならないから、そろそろ休んだほうがいいなって思った。一ヶ月休んでいない。別に疲れているとかではないというかまったく疲れてはいないのだけれども、休んだ方が正しいっていうのは本当にそうだよなっていうのは思ったねっていうかそうだよなって思うよ本当にそれは。現実。現実って思った。現実的に。って思った。バカらしいなあ。バカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。ばからしいってけっこう打鍵のリズムとしてちょっとした中毒性があるバカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。バカらしい。ばからしい。バカらしい

。バカらしい。バカらしい。現実的じゃないって思った。現実的じゃないって思ったoMOSBかっこいいなほんとかっこい。現実的ってなんだろうな。ただの自分にかけているブレーキじゃないか。本当にくだらないな。くだらない。


1月

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リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を年末年始の読書として読んでいる。遡ること7年とか8年とか、私は大学何年生かのときにそれを初めてのパワーズ読書として読んで、たいへん面白く読んだ一方ですべてが作者の手のひらのうえで転がされるような、作者がやっているのはできあがったパズルをきれいに美しく手際よくはめていくような、その様子に感嘆したりするだけのような、そんな鼻白む感じもあったように記憶している。パワーズはどれもそうだったように記憶している。それでもどれもそれなりに長大ながらも4冊か5冊は読んでいるから好きなんだろうとも思う。だからそれを再読しているし面白く読んでいる。ただ前回のように感嘆しながら読んでいるという感覚ではなく、それは私が集中してないせいかもしれないし集中しきれないのは私にとってもはや感嘆するものではなくなってしまったせいなのかもしれないしもはや感嘆するものではなくなってしまったとしたらそれはパワーズの作品が実は大したことがなかったということではいささかもなくて私の変化のせいだろうしと書き立てるほどに退屈しながら読んでいるわけではなくて基調としてはとてもおもしろい気分でいる。ただ何かは足りない。何が足りないのだろうか。人が考え込みすぎるせいだろうか。人にもっと動いてほしいということだろうか。私はこの2,3日、暇でしかないからできるだけ動くことがしたいというか移動をしたいと、銭湯に行ったり初詣に行ったりカフェに行ったりをしてどうにかやりすごそうとしているし、たまにはオフラインにしてみようと思ってiPhoneの電池を切って例えば昨日の、だから大晦日の夜から年が明けて1時か2時になるまでのあいだオフにして、テレビもつかなかったから何かと隔絶された感覚に多少なって本に向かったりもしていたけれども、やることがない事態に当然かわりはなく、本を読む以外、やることが見当たらないから、それで珍しく、小学生のとき以来じゃないかと思うのだけど、歩いて20分ほどのところの神社に行くために11時半すぎに家を出て歩き、道があやふやだったが後ろを歩いている人の足音を聞きながら、きっとあの人たちは神社に向かうのだろうから、その、私の後ろを歩く人たちの足音を頼りに前に進んだところいくつかの道から人々がやってきて私の前を歩く人ができたのでその私の前を歩く人たちを追うことで神社に辿り着いた。それはまだ12時を回っていなくて甘酒を出していたから飲んだ。人の列はそうできていなくて、前の家族連れがあと10分だねと言った。視界の先にじゃらじゃらやって賽銭入れたりする目当てのポイントと、その上の部屋みたいなところに人がそれなりにひっきりなしに入っていった。厄除けをしてもらえるとのことで、受付不要予約不要だからせっかくだから神事っぽいことを私も目の当たりにしてみたいような、せっかく珍しい神社に来たのだから満喫したいような気にもなった。後ろは若いグループで、女があと3分といって、それを聞いた前の家族連れの奥さんがあと3分だってと言った。その向こうに待っている人を差して中学生くらいじゃない、一緒の学校じゃないの、と、息子か弟かわからない中学生くらいの男の子にその奥さんはきいた。子どもをおぶっていて、もう一人5つくらいの娘もいた。夫もいた。そのためその奥さんは子どもを二人か三人生んでいることがわかった。まだ若いようにも見えたし後ろの女があと1分と言うとあと1分で来年だよとその奥さんは子どもたちに言って、娘はあと1分で明日だと言った。今年が終わるよと奥さんは言った。来年を迎えるものとして私は並んでいたから、そうかあと1分で今年というのが終わるのか、と意想外な気持ちを持った。あと30秒、それから10秒、5秒からは1秒ずつ、うしろの女は静かだが聞こえる声でカウントした。私は聞きたくなかったし知らぬ間に来年というものを迎えたかったが、こういう場所に来てしまったからには受け入れなければいけないことだとも思ったし0時になったら何かの音が厳か気味な感じに鳴って、それからジャラジャラと鳴ったりして列が少しずつ動き出した。5分程度で私の番となる程度に私は前の方に並んでいた。番がやってくる前に私は何を祈る的なことをしようかと考えて、頭の中でリハーサルをおこなったが、自分の番が近づいてくるとそれを少し忘れて、本番においては一つ祈る的なことを忘れた項目もあった。それはなんだっただろうか。今も思い出せないからそう大切なことでもないのかもしれないが、神事的なことがおこなわれている部屋にあがることは私は臆病だからしなかった。そのかわりに神社の敷地の端の方に歩いて行って夜の上から見る景色を見た。光がポツポツとあり、下を川が流れていた。車はほとんど走っていなかった。黒い景色でも、眼前に何かが広がっている感覚はわかり、見るということは変なことだった。私は夜景的なものをあとにした。火がおこっていた。大きな穴に、いろいろが投げ込まれて、それがときおり音を立てながら燃えていた。穴を取り囲むところになんというのか、境界を作るみたいに護符というのか、知らない、語彙がない、白い紙のやつが垂れている竹か何かの枠があったからそれも神事的な何かなのだろうと思った。まわりに立つ男が煙草をそこに投げたりしていたが、私は臆病だから甘酒の紙コップを投げ込むことはしなかったし、火にくべられる予備軍として物が並んでいるところに紙コップを捨てようかとも思ったけれど、捨てに近寄ったらそこに並んでいるのは神事的な香りのする何か、熊手的なものとかだったので、きっと紙コップを捨てる場所とは異なるだろうと思ったし臆病だったからそこには近寄って紙コップを捨てかけて捨てないという素振りをすることに留めた。参拝客の列は私が来たときよりもずっと長くなっていたので早くきてよかったようにも思ったが、そんなに長いわけでもなかった。甘酒をもらった場所で甘酒の紙コップを捨てた。階段をおりて道路を歩いて家に帰って風呂に入ってからiPhoneの電源をオンにしたが、一度オフにしたせいなのか、今日は100%の充電状況の10分後くらいにはたちまちに1%まで減り、というものになってしまったし、しばらくそのままでいてくれたがあえなく充電が切れるということにも見舞われた。すると再度充電してもなかなかオンになってくれず、苛立ちながら死にかけている右上のボタンを長押ししたり離したりを繰り返して日が暮れた。それはしかし暮れてから、夕飯を食べ、テレビを見、退屈して、眠るふりをしていたら眠り、起き、それからの話だから暮れる前は私はカフェに行った。好きな場所だった。非常に好きな場所で、読書が今日はまるではかどらなかったし、なぜか飲みたくもないものを頼んだような心地があった。それは別に悪いことではなかったが、私は店というものについて考えずにはいられなかったし、パワーズはパワーズ流の写真論を展開しているさなかだったが、前の席に座っていた男性が一眼レフ的な立派なカメラで注文物を撮影している様子を見て気が滅入らずにはいられなかった。現在を記録するために体験の質を半ば放棄すること。私にはそのこととの折り合いというか、どう処理していいのかわからない感情を持った。私は彼にあたたかいうちにウィンナーコーヒーを飲んでもらいたかったし固まらないうちにチーズのトーストを食べてほしかった。何枚も、席を立って中腰とかにすらなってシャッターを切る男の気持ちを理解できないことは全然なかったが、それは果たして正しいことなのだろうかと思わずにはいられなかったもちろん正しさなんてそれはエゴかもしれないそんなことは十分にわかっているつもりだけれどもそれは、その振る舞いは、私には気持ちが悪かった。シャッターを切ることと現在に目を注ぐことの違い。それは本当にそれほど違うものなのか私にはわからないが、寝続けてやっと起きた姉は風呂から上がってくるとテレビをつけたため部屋の静寂が消えて私の現在の思考はなし崩しに現在の状況へと立ち戻らされた。ここは居間のダイニングテーブルでおせちの残りがラップも掛けられずにいくらか置いてある。筑前煮であり、蓮根を酸っぱい何かで何かしたやつであり、伊達巻玉子、甘く煮た黒豆、羊羹、蓋がされているが大根と人参のなますっていうんだっけ、酸っぱいやつと、それから松前漬け、今年はやわらかくできたね、と母と父は何度も言った。こればかりは作ってみないとわからないと言う。イカがどうなのか、漬けてみないとこればかりはわからないと。たくさんのものをしっかり作る母は立派なものだと思う。おせちを作るという文化はしかし私たちは受け継がないのだろうなと思う。この代で終わる。姉も私もきっと作らない。ここで終わる。テレビからやべっちがどうのという実況が聞こえるからナインティナインの人が関わる番組が放送されているのだとわかるしサッカーに関わるものでもあるだろう。私はテレビを見ないというか持たないから、ここ5年くらいはテレビのない生活をしているからテレビに出ているものがわからないが、テレビに出ている人の知らなさのようなものはつい誇示してみたくなる、これだけ私はそういうものは知らないんですよ、みたいな妙な意識がたやすく芽生えるのでそういうものはできるだけ切り離したいとは思う。でもというか、それとは関係なく、やはりテレビの発する音っていうのは心地がいいものではないなというのはこうやって今耳だけがそれを感知している状況でとても思う。とにかく苛立たしい音が流れていると私の敏感でもない耳は言う。障るというのはこういう感じの典型のような音が私の耳を見舞う。だけど今また読み終わりそうなパワーズに復帰したいとも思わないから、一度はここで終わる。と打って終わりにした打鍵を再開したのだけど、特段どうということもない。私は風呂にはすでに入ったし、暇な日が二日、三日、続いて、私は毎日暇なまま年の瀬を迎えたのでこの暇な感じはありがたいという感覚はなくてわりと耐え難く暇だと今年は感じているし、例年私は年越し、年が変わるという事態に対して冷笑的というか、今年も来年も、去年も今年も、もないだろう。つながっているんだよそんなの。去年できなかったものは今年になったからできるわけじゃなしに、何を期待しているんだ、新しい年に、というスタンスでいたのだけど、今年はどうも違う。この区切りが何かありがたく有用なもののように思っている。たぶん、区切りのない日々を過ごしていることも理由の一つだろうしそれだけでもないだろう。私は今年は感覚が異なる。そう思っていたら最近毎日読んでいるほぼ日の今日のダーリンで糸井重里は逆のことというか去年までの私の感覚のことを年末から書いて、元旦もかなり意識的にそれを実践する書き方をしていて、去年の私だったらほんとこれだよ、ほんと、と思ったけれども、今年の私はそれもわかるけど私の今年の気分としてはこれは区切りとして使わせてもらうよ、という感覚だ。だからどうというわけではないけれども、いい予感しかしない、という私の呟いた言葉に嘘は本当にないかは私にはわからない。今日は風呂に、湯船につかりながら、かかとの角質が落ちるようにやわかかくこすりながら、自分を半ば呪詛するような言葉を吐き続けた。呪詛なのか、鼓舞なのか。ただ、今のままではいけないというか、何を目指すんだろうな、というのはよくよく考えないといけないというのは本当にそう思う。今わたしはまるで儲けていないから、儲けるということを目標にすることは簡単なのだけど、目標ってそんなことでいいのか、という話だった。もっと内的な目標というか、目指すべき様子というのが他にあるように思うのだけど、そうでもないのか。というようなことを私は風呂でずっと口に出して言い続けた。風呂の中で動いた私の口はそう間違っていないように思う。ではどうするか、というのは風呂の口が発した問いだ。今答えはもちろんない。テレビがうるさい。ここで終いにしようと思っていったん煙草を吸いに外に出るために立ったところテレビの画面が見える位置に立つことになりそこではフットサルの試合をやっていてそれが面白かった。姉がドアの鍵2つとチェーンもつけていたのでそれを外して外に出て煙草を吸った。冷たい空気があって星もいくつも鮮明にあった。そのあとで煙草を灰皿でもみ消して家に入った。私は鍵一つつけておけば十分だと感じるが姉が鍵2つとチェーンもつけたいならばそれに従うというかそれに従うコストが低いためそれに従った。たぶんそれが私の態度だった。


11月

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それなりにダウナーな気分になる一日というのももちろんあるにはあってというか十分にあってそのためどうしたものか酒を飲みたい酒でいいのかインターステラーを見たいインターステラーという単語が先日の夜に見たウディ・アレンのマンハッタンに出てきてハッとなったというかインターステラーって言ったということを思った程度だけれどもそのようなことを思ってダウナーになった夜に1時とかの回のバルト9のインターステラーを見に行けたらと思ったのだけど今晩はやっていなかったみたいなので明朝10時50分のピカデリーのやつを見ようかと思う調べてみたところスクリーンもそれなりに大きめのところみたいだし夜中のバルト9のスクリーンは席数60とかふざけた数字だったからきっと小さいしそれだったら朝でいいから大きめのスクリーンで見た方がいいと思ったそのため明日そうするために早起きをするために今日は早めに寝ようと思っているのだけど今こうやって何をなぜなんのためにかしらないけれども打鍵が始まってすぐにおしまいになるのかそれともどうなのか今変な姿勢のままひたすらにタイプしているから肩が異常に痛い感じがしてこの姿勢はそう長くは続けられないだろうそう長く続けられないだろうと打っている途中のどこかで自由民主党の何かを何かが頭をよぎったのだけれどもあれはなんだったのだろうザハ・ハディドの展示を今日見にいった私はあれをどこで見たのかオペラシティというのが開場の会場の名前なのかわからなかったし何もわからないで知らないで見たら最初はいったいこれはなんなんだろうという感じでまったくよくわからなくて何がしたいのか何がこの人がすごいのかまるでわからずにしんどい思いだったけれどもビデオ作品を見ていたらかっこいいじゃんと思ってドバイのキューブ型のやつとかすごいいいなあの凹んでいるところにお浸しとか盛りたいなという感じだったので根暗とぴあリターンズねがカタカナで暗いクラ暗いが感じで漢字でt日@ありーたん図はゴアj問いじゃなお女医G女医jロhkのイアG『jあjぎあおじょrのあかじすんgはnあ恋しきおーひのあr生活ということで時y津に民主党がばーとぇうバルうr場¥bhラッスリーおパブの葉のj王ネミュー22j@飲ませる皿おいつのやつがあってそのあといほはすいhげいひこあのはyとw微パ¥牡馬利府日出のろのやつを飲んでいるけれおdもオア^わひょkん軽ルのけれどお会えあrかおいええr『アヒおはおイホほあG補ノイh沿い補遺おいあひおほあgほあもいあじしyとあいおあkしほgのあのたrhまかkらんおよりも水回色ドエのdんりお煽ら言おjおj日おらh『補遺日お愛大青hsんギアmpしおバーろうすr日jtノット前寝るかナチュラルんおやつおでpkじゃおういなおアナ美ら遠流ん「」あいおはろいじょいいおあおい加守じゃh『bノアyちゅん↓イムリb-ルム「コアントロー@はおいあほgほああなっはあいrhすジェムスんのやつがなんったのdかおすわるえかえれどもかっまkらのgのyが走路油井sかないので仕方なG買うておあおいあのあんだtっけあの日t0おtのガウチョ板尾亜jthbの安保pロ虚しいことけれdこも虚しいのたほあっhちおなおhjm虚しい「」jといあほいはんgんぁjkrじょいつjは「なんkだっけなわkるしてやったけろdもおしれはhそれおいといsjて別に受け知恵¥れて『いおてゃおhじてぃおえいいかもしrにえおtkか思っている御池レオどmおおりたやいろじょあれおなじゃpんぴr-えrhんとhレオ^-んとはhgじょいhてゃおはおb-あり-辞任thあのことをはいsほく重いんだh問いはhたおhとイアオmの鋳出したリオハいたのいほあけれおdのthはそれhとはhてょあお@h問い合hおいjぎおあ「あいhgんkp「どいhといあy49pgほあっr-3^9いおhrぽj

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2014 12/2

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11月

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サミエルスミススタウトサミュエル→サミュエル<もしかして>もしかしてっていうのも人を食ったようないいよう言い様だけどぐーぐる言いようだけど様よりここはひらがなの感じあ感じなんだよな言いようだけどグーグルだったら何をしても許されると思っているのだろうかと、思わないことはない、ヴァイラルメディア、バイラルだっけ、ヴァイラスなんだけおあれ、オレ今おれってカタカナでなんで出たんだ、バイラルヴァイラスまいいや、ま

間違えた

まあ間違えたっていえばここまで全部間違えているようなものだから何もいいなんでもいいんだけどあ

あs

サミュエルすみ

さみえるさっきの変換に引きづられてる

サミエルスミススタウトを飲んだ、飲みやすかった

って言いたかっただけなのにこんなに文字を要した。でもそれもまた人生と言うならばそれもまたじんしえな人生なんだろうじんしえってシエスタみたいな感じがしていい。ショートターム、ショート・タームを見てきた。監督の名前は忘れた。主演の素晴らしい顔の女優のな俳優の名前もわすれた。けっきょく顔をのぞかせるんだよ、こういう意思k8が意識が。俺は女史とか女医とか極力使いたくない、使わないようにしている、とか言ってるくせに女優ってやっぱり言うんだよ、まあしょうがないかな、その程度だよ、でも鍛錬だよこれも、鍛錬なのかな、鍛錬というのが必要な物なのかな、それはものは漢字じゃないんだよなあ、必要なものなのかな、どうでもいいや。ショートタームは素晴らしくよかった。繊細な画面、みたいな感じで、音楽が演出を助けているというか音楽に支えというかいくぶんか支えられながら進んでいくような嫌いはあったけれども、そいうそういういくらかオシャレというかよくできたミニシアター、インディペンデント、なんでもいいや、いんd

まあそれはあとだね、そういう感じもありながらも、そんなのはどうでもいいくらいに主演の人の顔つきがすばらしかった。あn 主演の人に限らず、みんなすばrしいkyらキャラクターというかいい表情がそこここにあった。間違いなく人間が映っているという感じがした。それは貴重なことかどうかhあwからないけれども、素晴らしく充実したことだっt.それだけで私は泣いたのだろうか、あれだけ泣いたのだろうか、全然それだけじゃないことは私だってよくわかっている、ソファで、カウチっていうのかな、知らんけど、ソファで、謝罪と、許容と、そういった、もろもろtnの、あありえな

うるさいんだよ、そういう緩衝にはつきあってつきあってもう漢字すらもどうでもいいよ私は今はボヴァリー夫人の下巻をうお読んでいる岩波文庫ださっき検索したら新潮と河出でも出ているということをしった新潮は知っていたけど河出は知っていなかったか忘れていたどうでもいいことだった私は伊吹武彦の訳以上にボヴァリー夫人は輝かない伊吹武彦以上伊吹武彦の訳以上にボヴァリー夫人を輝かせられる訳はないのじゃないかと、って、それは知らないし、ずいぶん昔の翻訳だろうからもしかしたらいろいろと瑕疵はあるかもしれないし瑕疵ってこういう使い方であってたっけ

とにかくいい。なんとなく下巻を手に取るのが億劫になっていたというか、下巻からは沈鬱なモードになっていくんだよなどんどん、みたいな記憶から億劫になっていたのだけどいざ読み始めたら沈鬱どころじゃない、すばらしい落差、あん

 

そう、だから、顔を映す、すばらしい顔を映すっていうのは映画にしかでkないこtこtだ、そう、映画ってやっぱりいいんだよなって今日それを思ったんだ、一方で小説には時間を操作することが出来る、映画には?できないとでも?違う、できるなdろうできると思うというかできるんだけど、いやおあじい同じことでkりうrんだけど、お

いや同じといえるか言えないだろう

ともかくだけどボヴァリー夫人には小説にしかできないことが作られている表れている描かれているなんでもいいやどれもちがう、小説にしかできないことがなされている、なされているかな、なされていると感じる。それが何か、と問われればわからない、いやわかるかな、わからないけど、素晴らしい退屈さがいくつも散りばめられている、それが小説にしかできないとhは言わないんのだけど、小説、あの退屈な演説や、長広舌や、あとはなんだろう、そういうやつ、大聖堂の案内とか、膨張する退屈な話。sあれをym読まされることの意義、意義?意義だろうか。

なんでもいいや、飛躍があるというか落差というかすっとはしごを外される漢字がぼv感じがボヴァリー夫人はとにかくすごい、手紙、脂肪、死亡、みたいな、そんあところあったっけな、忘れたけど、そういうあれやこれやが

昨日今日とクソみたいにお暇だったので本を3札かったtりアルバムを2枚買ったりプロジェクター・スクリーンを買ったりしてよりいっそうのことをしたつまり血が流れている傷口を両手でつかんでぐわっと広げて見せて、血をドバドバとよりいっそう強く流したということになるといえばなる、そえは気持ちがいい、嘘だけど、売れなければ売れないだけkね金を使いたくなる、本当科、嘘泣きがする。売れないとか売れるとか関係なく関係ないペースで金をうtかっているというだけなんじゃないかな。かな、って誰にこれ言ってるんだろうひとりごとがどんどんと増えている。笑う、裏声で笑う。さっきまで裏声で笑ってた。引き笑いみたいなやつっていうんだけっけ、ひrきらわいdっけ。、わかんなくというか忘れちゃったけど、でもこれ打ち始めてからは完全に真顔になっているから不思議なものというかふしぎdめおなんでもなくてトム・ジョーンズのけtのうし見当い拳闘士がどうのみたいなやつ岡田利規の現在地とダフネ・デュ・モーリア、ダフネ・デュ・モーリア、律儀にフルネーム、だふねでぅもr^ーら、デュが難しいタイピング的に、デュひとつひとつは簡単というか慣れないことではないはずなのに、でゅいや、やっぱり;lyうの小さいゆは慣れないから難しいでゅデュ・モーリア、のなんか命令形のいやつを2じゃなくて3冊買った、4000円ほどだった、3冊買って4000円は高くない、と外聞ゆおみガイブン読み、ってね、俺は今までガイブンって言葉はたぶんつかたこ使ったことがないというか少なくとも口語ではがいぶんって言ったことないというか恥も外聞もみたいなはじもがいぶんもだっけ、みたいなやつのがいぶんだったらあるけど外国文学のいみっでのびがいぶんっていうのは一回も口かrあはっしはし発したことがないのだけど、ガイブンはなんで売れないのか、いたみたいなやつがさいkんあ最近あったけれども、ガイブンとか、海外文学とか、そういう語がそもそもいけないんじゃないのかな、遠ざけるんじゃないのかな、とか思うんだけどどうなんだろうか、ガイブン読む・とか威圧的に言われたら威圧的に言ったつもりじゃないのにすごい威圧的になるというか、もちろんガイブン読みの人たちはガイブン読まない人たちにたいしてガイブンって言葉を使いはしないんだろうなとも思うのだけど、文学って言葉がもうずいぶんまずいんじゃないのかな、売る、っていう意味というか目的においてね、っていうことなんだけどm,高いから売れないってあったけど、文庫は売れてるのだろうか、河出の、トム・ジョーンズも河出の文庫のやつだったけ、どけど、あれらは十分にうれてきるn売れているんだろうか、総じて売れないのだとしたらネダの値段のせいなんかじゃないと思うのだけど、一連のそれらのトピックのあなkで文庫の話って出たっけかな、じゃああんていうなtnなんていう湖沼をつ呼称をつけたらいいか、l知らないわ。思いつかないね。何も思いつかない。そのためじゃないけど昨日はdかだからっっjwwwwwwwwwwwwwwwwjjjって打とうとかな入力のままjを3回打ったらっっjになったっていうこの草は泰かんじ生やす草を生やす感じてほんとにクソみたいな笑い方の感じがして最高にいいよねって最近とても思うしよくつかうのだけどだから昨日はっっjのソロアルバムとずっと聞いていなかったというか3rdアルバムくらいから聞いてなかったけど聞きたかったというかいいよって言われてたから聞きたかったカニエ・ウェストのyから始まるアルバム、2013年ってWikipediaにはかいてああったアルバムを買った、っっjはまだ聞いてなくて、蟹江を何度も聞いているのだけどほんとすごいいいね、すごいいいと思った、こんなのがすごい売れてるのかな、だとしたらじょんtほんとすごいなと思った、これのアルバムは何度でも聞きたいなって今思っている程度にすぎすごいよかった音楽が、アルバムが、あm

まいいあ。インディアスの破壊についての簡潔な報告。リプライズ、リプライズ、リプライズ。ラス・カサスは簡潔なほうこうく報告をした。私はビールを飲みながら虐殺される模様を読んだ。ミックスナッツを食いながら飲んだ。読んだ。自責の念とか、自責するいわれはもちろんないんだけど、地震の自身の生の軽薄さみたいなものとか、そういうことに思いを巡らせるほどこちらは夜話じゃないヤワじゃないんだよ、罪悪感なんて一つもないんだよ、lお、何に対して今生き通り的なあくてょ憤り的なアクションを起こしたのかまったく不明。おレアh俺はそれでもこれを誰かに呼んでもらいたいと思っているのだろっjkじゃ


11月

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機械も私の言うことを聞かない」という被害者意識みたいなものに支配された夜はvladislav delayをスペルの間違いなどは気にしないまでも気にしないあまm気にしないまま聞くことにして頭の上で重い音が鳴っているそのわきで機械も私の言うことを聞かないこtのことの一つの現象としえとしてiPhoneがぶーぶーぶー部ぶー言っている、それは「消音」と「消音を解除」をひたすら繰り返すというクソみたいな挙動であって今日はずっとそういう調子だから営業中は電源をオフにしたこのままブーブーブーブー言い続けたら私はどこかで堪忍の袋のおをおをおがでtこn出てこないからもうこのままでいいけれどもそれを切らせてiPhoneをぶち投げるんじゃないかと思うのだけdその前に自分の近くからのけるとか電源をオフいするとオフにするとかをすればいいのだけどなんだか今はそれをするときじゃないというかそういうわけじゃないのだけどあいつiTunesをどうのこうのしていてあとで音楽をiPhoneに入れる順番があるから電源を軽々しく切ると電源のボタンもバカになっていてなかなか反応しないのでまた電源おhオンオフのことで面倒くさいことになるのでそれまではひとまず我慢するということのおおこのさなかというかそうやって我慢を表明しているさなkにさなかにまたブーブ言うからほtのうに本当に腹が立ってくるというかどうしたらいいのかわたしはわかあわからあnわかあわからないなかなからが打てない腹が立つ。音楽を入れている今はおmOMBSOMSBのOMBSをインポートしているところかインポートが終わったところかまだなかなか進んでいなかったところでさっき勢いに任せる感じでvvavashti bunyanの新譜とgrouperの新譜とflying rllots,lotstlotsulotslotusのlotusの新譜を買ってなかなかlotsulotslotusm,

lotusga

lotusが打てなかったのでいらだちがまたそういったところでも募りながらクソみたいな笑い声がいまk聞こえたかあき聴こえなかったかしたかしなかったか聴くというかんじg漢字がああmりあまりすきあじゃjn好きじゃないのできなんできかなかったが聴かなかったになったのか聴こえなかったかl,きこねきこえなかったが聴こえなかったになったのか中々わからないというなかなかじゃなnじゃないなわからないとにかくわからないけれどもなんでこうやって駄々漏れというか微妙な何かの操作をおこないながら微妙にだだ漏れおぽっぽいうg打ち方をしているのかもわからないしあれこれあかあれこれが考えていたらわからなくなってくるのが関の山というか人生じんせい人生とかかg軽々しく少なくともネガティブなこおことを言うときに鬱なと打つなと私は思うしまたブーブブいいはじめた言い始めたからほんとにかち割りたくなるカチ割り氷あだっけ、、あったっけ、氷を私やわたしあ私たちは好んでかつて口にした、それ以外の幼年期の思い出はほんとほとn腹立つ、ほとんどあ

 

 

 

 

 

 

ほとんどあ

 

 

ほとんどない、保坂和志の朝露通信を読んでいる、朝露通信を読んでいる。webで、ほさかかzすいほさかかかずほさかかzす保坂和志のwebで朝霧通信と書いてある記事があって、まさかの

 

まいいや、ウィスキーを3杯のd飲んでいる。この指のからまりはわs

酒のせいではなくて何か他のもののせいだというのはわかっているなにせ別に今私はよぱpらっていr酔っ払っているという感覚でいるわけではない。ただ指がもつれている。腹が立つ。じんせい

またじsネイ

また人生とか言い始めたけれどもそいうそういう局面で人生とか言い始めるなクソが。¥

なんで円マークが出たのかわからないっていうところでwでは笑いが起きたというのは一つ特筆すべきでは全然ないけれども事項であって夜殺伐とする夜。haraga

 

はらがt

 

指がもつれる。柿ピーを食う指までがもつれて柿ピーが飛ぶ。こお殺すぞと俺はかきい柿ピーにむあkむかっていうr.なんなんだこのRはどこから出てきたんだなんのためにでてきたんだ私はそれがわからない。私の意識の埒外で物事がしんじょ進行する。ゲリラ戦市のnゲリラ戦士の日記という晶文社から出ているやつを夜すこしずつ読んでいる。中目黒のカウブックスで買ったやつだ。lここでウディ・アレンの短篇集なるものも買った。短編集。私は篇よりは編の方がしっくりくる。篇は気取った漢字感じを感じる。かんじr感じを感じる。たまにはそういうのもいい。違和感を感じるは私は是とはしにくいけれども感じを感jリウ感じろwかじ感じを感じるまでちょうふくするとそれはひっとうの重複するとそれは一つの何かになるような気がする。きっと何かににあきっと何かになんてなっていない、それはwたしn私にもよくわかっている。ブローンクンベルなるバーボンウィスキーを飲んだ。スモールバッチというのはs少量生産ということのようだった。だけど高いわけではなかった。うぃすきーのこthウィスキーのことはひとう一つもわからない。わからないまま生きてきた今日まで。ばかみたいに大口をあけて、手につかんだ柿ピーをくちになげこjm口に投げ込む。今はiPhoneのあれは終わったので今デャあい今度はiPodの番なのでブラディスラブディレイを流していたiPodを抜いてOMSBのOMBSをCDをCDで流して今、だからそれがながえながえ流れているとてもいい。何度聞いてもとてもいい。とてもいい本当に、今年の一番聞いたおんがkh音楽はとか、考えだす季節になってきたということだろうか、simi labのworth lifeだろう、事ある事に、事ある事っていうのは漢字にするとこうなるのか。不思議と、この並びは今初めてみたきたす希ガス気がする。希ガスって出るのか。worth lifeだろう。ことあるgとにことあるごとにきいた。本当にこれあこれは、元気づけられるというのかそれなのか、元気づけなのか、好きだった。誰の部分もすごく好きだったというか好きだ。最近もうよく聞いた。

きのう、強化。今日かあれは。今日最近よくいくコーヒースタンドにいった子どもたちがいた私はお子供ではもはやなかった公園では人が運動していた声がたくさんあがっていたコーヒースタンドで流れ知多流知多流れていた音楽がおくて流れている音楽を拾ってこれはなんですというのを教えてくれるアプリを開こうとしたがいっこうに見当たらなくて見当たらないうちに曲がかわった。デリケートそうな、ナイーブそうな、イギリスをなんで想起するのかイギリスというかイギリスの音楽というのかそういう音楽だったそういう音楽が聞きたいとなるときがしばしばあるしばしばとは言い過ぎか、たまにある、それが凶だったのかもしれない、きょうだったのかも今日だったのかもしれない、でも聴かなかった聞かなかった。聞いたんだっけか。忘れた。OMSBをいい聞いてリウ。聴いている。聞いている。はらがっつはらあ腹が立つ。変換にまで腹が立つ。柿ピーを2つ食べたウィスキーは3倍のみ三倍3杯飲み終えた。あと3杯飲もうと思ってはいない、朝露通信がそろそろ終わる、いつもいつ終わってもいつ始まってもいい、そういう感覚でいながらも、夢のところなんかはクライマックスとでも言いたくなるような妙なグルーヴがあるようだったし、いつもグルーヴがあるようだった、それgそれがそろsろそろそろ終わる。よくよく考えればたい@いたpタイピンがタイピングがスムースに行くということは人間というのはすごいことなんだっていうのをしあs知らしめることで複雑なうんご動きをやっちるやっているyにゃやってるよなやっているよなと思う。それはおkよくわかっているがこうも指がもつれると本当に気が立つ気が立つっていう言い方ってあったっけ、まあとにかく、ああまあじゃないよな、まああっってなんなんだろうな、腹が立つ、。苛立つ。明日もコーヒースタンドに行くんだ、かれカフェラテを飲むんだ、今日もがんばろうっておsそれで一息を入れるんだ私は甘い。およく知っている。タバコ、はいz吸い殻がどんどん増えていく、それでいい、それは何も問題ない。意味もなく苛立つ夜で、私はうっとうしいこの気持ちを晴らしてくれるものが今d手近に見当たらない、手近じゃないとしても見当もつかない、呪わしいこの気分をどうやったらいいのか、わからないでこうやっt,こうやって、打鍵が続くようで続かないながらに続けられるというかまたブーブーのあれが始まった、視線が定まらないというか定まったところでいいことなんてないというか。どうでおどうでもいいというかづdどうでもよくないというかフローベール、ボヴァリー夫人、上巻は読み終えた。クソみたいなメモあめmがもえメモが書かれていて意味がわからないと自嘲気味に笑うが、書いたのは大学2ん2年制とか3年制年生の私だし許してやってほしい。それを笑うのは構わないが否定はしないであげてほしい。ゆりyるうしゆるいいいゆるしえゆるいsて許してあげてほしい。いあm今、サッカーのなんかの動画を見た。ひとう一つも面白くなかった。暴力は嫌いだ、いやうおそだうそうお嘘だ。退屈な暴力は嫌いだいや嘘だ。嘘だ。謀慮kぐあき暴力が嫌いなわけではきっとない。でもそおdそこで見た暴力は嫌いだった。


11月

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連日遅くまで起きている日が続いているけれどそれはありがたいことだから私は店の思し召しだとおもって連日遅くまで起きている日が続いているけれどそれはありがたいことだから天の思し召しだと思って起き続けているけれども昨夜は池田亮司のインスタレーションを見に行ってそのことを帰ってきた明け方の6時だかにFacebook等に投稿した、その文言はこのようだった「QOLが著しく低い生活を送っているのだけど500円と見、あ、それなら俺、いけます、と思ったので真夜中、池田亮司の展示を見にというか感じにというか浴びにというか結果としては過ごしにいってきた。入ってしばらくはすっげーなーとひたすらニヤニヤしていたのだけど、それにしてもおそろしいほどに面白くて、区切りの線の真ん中から、うつぶせになって一番低いところから、光の外から、向きを変えて、メガネのレンズを動かしながら、つったって、流れに沿って、逆らって、ジグザグに、歩きながら、すべての瞬間が一回きりで自分だけしか見ていない光が見えていて、2時間くらいとにかく度し難く楽しかった。寝る時間なくなるというところで帰ったけれど、いびきかいて寝ていた人いたけど全くもって正当で、いくらでもいられるしいたかったし、なんなら暮らしたいくらいの底なしの心地よさ、あ、ただいま、くらいの落ち着きを与えてくれた。あれはいったいなんだったのか。」スパイラルのホールの床に寝そべりながら私はおおいに楽しみながら、それでも途中でiPhoneを取りだして写真を何枚か撮るということはおこなったのだけど撮っているときからいや撮る前から私の頭の中ではおそらくそういった文言が形成されていったというのはきっと指摘されれば否定はできないだろうと思うし、実際に帰りの自転車のときは露骨に文言を考えていたような記憶すらあるけれどもいた場所、おこなったこと、感じたこと、そういったものごとをシェアしようとすることは一体なんなのか岡山にいたときにはほとんどというかあまりそういうことはしていなかった気がするけれど私は今わりとそういうこれはもしかしたらリア充ですよ、充実していますよ、と吠えているということなのか、充実しているのかそもそも、それはまるで疑問符が拭えないはずでなんせ私のQOLは今いちじるしく低いのだから金なんて使いたくなくて今日オペラシティの成城石井に、値段そんな変わらなそうだから近いところでいいやと思って成城石井にいっていま近隣のどこかの非常ベルが鳴り続けている、私も私たちも工事中にいちど鳴らしてしまってたいへん焦った記憶があるけれども断線してあとで結線したしてもらったそれで解決した消防車はやってこなかったセンターみたいなところとつながっているわけではなくただ鳴り続けるらしいどうすればいいのか。成城石井でブルーチーズ買いに行って、なんでそんな話に鳴っているのかな、QOLは今いちじるしく低いのだから金なんてあ思い出した大友良英の展示か何かを11月後半からやりますよっていうICCでっていうポスターを見かけて値段見たら500円てあったからこれはいこうって思って隣のポスターの名前覚えられないんだけどザヒラジュティみたいな雰囲気のやつ今やってるやつ多分建築のやつあれは1200円か1500円て書いてあってけっこうハードル高いなって思っていていつかいけるのかないつかといってたらいつのまにか終わっちゃうのだろうしそもそも名前も覚えられない人だし別にいいのかなとか思うけれどなんとなく見てみたい気もするけれどもどちらでもよくてどちらかというと店で閉店後に映画を見られるようにプロジェクターをどうにかしたいというかプロジェクションできる布なりなんなりの装備をどうにかすればすぐにでもできるのだけどサステナビリティサステイナビリティそういうところって私はやっぱりこれは環境系のことのときに使う語なのかな、持続するかどうかが問われたら全部使っていいのかと思っていたのだけどやっぱりCO2とかそういう話になるのかな、今わたしはそこについて確信が持てないのだけど持続可能性を高めるためにっていうのがプロジェクションにも肝要で、プロジェクターとプレイヤーを引っ張りだす、繋げる、布をどっかに吊るす、みたいなのがスムースにいかなかったら絶対に続かないから、これをクリアするためにはどうすればいいかっていうのが問題で、そればっかり考えてはまったくいないのだけど今わたしはそれなりの数、サステイナビリティ、プロジェクター、プレイヤー、スムース、クリア、簡単だなって今の私はわりと「笑」って打つことに対して抵抗なくなってるからこれは何かの変化か退化なんだろうけどまあそれらは確かに簡単な語ばっかりだったけれどもそういう言葉、カタカタを使ったけれども、でそれを私は解することができるけど網野善彦の「無縁・公界・楽」を読んでいたときは日本語むずーという壁にわりとぶつかる感があって、使われている単語がわからないとやっぱり理解って本当にできなくなるし気が進まなくなるねっていうのをよく実感して、勧進するとか、なんだよ勧進って、っていうので今のは思いついた例だけどそういう感じで普通の単語ですよって顔でまるでイメージつかない言葉がさらっと出てくるからけっこうたいへんで、大変になるのは嫌なのでわかんねーなーと思いながら読み進めるっていうことになってそれはそれでよかったのだけど今日はだから閉店後、普通に本読んで寝ようって、飲食店をなんか妙にこきおろし対象として使ってくるピーター・ティールのビジネス本ですかねあれは、あれを読み終えて青木淳悟に行こうってそれで寝ようって思ってたら店のブログ2つも書いちゃって更新待ちみたいな贅沢な状況を作っちゃったのだけどなんか妙に調べ物をしまくるから全然すごい時間がかかって今もう4時とか5時とかでしょ、知らないんだけど、非常ベルずっと鳴ってるし、誰か危機感持てよってそれは俺が持つべきなのかもしれないけどもしこの非常ベルが本当に火事で炎症じゃなくて延焼、延焼?延焼っていうんだっけ、なんか見慣れないな、えんしょう、炎上かな、延焼、どっちかな、もうどっちでもいいんだけどどっか焼けていたとしてもあのベルの感じだとどっか違う場所だったしここまでは絶対燃え移らないでしょみたいなそんな感じだけどなんかそれってほんと取るべき態度として間違ってないって思うんだけど別にいいんだけどこれだけタイピングずっと続けてると口にくわえた煙草もどうしたらいいのかわからなくなって目が煙でしみるし手元にあるミックスナッツもいつ手を出したらいいのかっていう感じだしタイプミスでデリートよく使うようになる感じとかさっきちょっとMCがどういう文言だったっけなって気になってみたブルーハーブの大好きなライブDVD諸演武だっけ、漢字あってたっけ、あれでやっぱりって流れでアメニモマケズとその先の宮﨑駿じゃなくて宮崎ってなんだっけ北部、あれ、北関東じゃなくて青森的なところ、東北の詩人、健二、宮沢賢治の告別まで見ちゃってやっぱりとんでもないわってなってやっぱりって流れでフジロックの動画みてやっぱりとんでもないやってなったけどあの宮沢賢治のときにらって言う奴、わかりづらいだろうからもう一度打つと「ら」ってやつ、お前はなんとかかんとかするのだって言いたいんだけど舌とかが疲れちゃってなんとかかんとかするのらって聞こえちゃう奴、奴ってこれ漢字じゃねーよ勝手に変換すんなよグーグル日本語入力って思うけどお世話になっているからそんなにディスる気はないのだけどあのろれつがきつくなってくる感じをそうそうなんでそれ言い出したかいま 思い出したけどこのスペースなんだよってわかんないんだけどだから思い出したのは指がろれつ回らなくなってきてスペースじゃなくてデリートがちの昨今、昨今じゃねーよっていうこれ全部文体模写っていうのは俺だけが知るのか俺以外のにんげんが知るのか知る由もないけれどもなんとかとアートと私みたいなwebをさっきなんか検索している中で見かけてそれってなんとかっていうのもけっこうたいそうなものだったけどそういうアートとたいそうなものと私を並列してみせるお前の魂胆っていうのは私もだからアート並にそれですよたいへんいいものですよみたいななんのアピールなのそれって俺というか私って私はこのブログ上の一人称は私にしているんだったってのを思い出して襟を正して今はなんかRアンドビーがめんどくさいんだよアンドとかシフトとか押しながら押しなれないポジションに指持ってくのって思ってアンドビーなんだけど聞きたくなってま、ま、っていうのは躊躇の痕跡でm,エムね、コンマになるんだねmのあとは、で思い出したメイシー・グレイを聞いててほんとはルーシーじゃなくてエルのやつローリン・ヒルを聞こうかと思ったけどそれは先日数日前に聞いていたくよかったからまた聞かなくてもいいというかろーりんに失礼かなみたいな失礼っていうかなんかあれだなと思ってだから違うやつ気候っていうので聞こう聞こう遠かった今、聞こうってのでだけどRアンドビーほとんど持ってないから選択肢なくてその中で助成女性シンガーっていうのでビヨンセもすごい好きだけど最近聞いてないしっていう観点からメイシー・グレイがいま流されていて俺この人の声もすごい好きだなって思うし今5時かな5とか指的にはすごい遠いからもう二度と少なくとも今もに「に」ね「に」を打つ時にどっちにしようかなって迷ったけど数字じゃなくてに「NI」ね、「NI

の方になんで今&nbsp;にnうわ、かいぎょうで俺そうグーグル日本語入力さんの辞書にかいぎょうで&nbsp;出るようにしてるんだけどそれ先頭で出ますかーって今おもったけどなんでいま改行になったんだろうってそれが言いたかった。


10月

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1ヶ月半ぶりくらいにちゃんと休日という日を過ごすことになったため私は友人の結婚パーティーに行くのに自転車に乗った。それから今月は本も全然読んでいないし映画に至ってはまるで見ていないので先日ボラーニョの『通話』を読み終えた。今月はこれで2冊読んだことになり、もう1冊はアレホ・カルペンティエルの『失われた足跡』だった。『通話』は再読というかコレクションで刊行された改訳版で、大好きな短篇集ということもあってわざわざ買うことにして買ったため読んだ。アマルフィターノ、サンタテレサ。いたるところに『2666』へとつながる徴があり、いたるところにというのは言い過ぎだった。もっとも好きな短編を挙げよ、と言われたら私は今であればボラーニョの「センシニ」ですと答えるであろうことはその通りだが、この短篇集はどれを取ってみても本当にあらゆることが凝縮されているようで、どう改訳されたのか、翻訳の読み比べのようなものに私は興味は今はないからわからないけれども、言えることはいずれにせよ素晴らしい短篇集だということだった。特にびっくりしたのは「ジョアンナ・シルヴェストリ」で、こんな呼吸の文章だったか、と息をのんだ。圧倒的に畳み掛けられた。パトカーがパトカーらしからぬサイレン音を引き延ばしながら通っていた。その道をパトカーとは逆の方向に行けばすぐに甲州街道で、そこをずっとまっすぐ進んだら今日の結婚パーティーの開場だった半蔵門についたというのが私の理解だったがそれが正しかったかどうかはわからなかった。せめて体を動かしたいというのが私の昨今の欲求であるらしく、昨日は三軒茶屋まで自転車で走ったが片道20分から25分といったところだった。甲州街道を西に進み、環七を南に下り、世田谷通りを少しだけ東に進んだら到着したというのが私の理解だった。一週間ほど前にも三軒茶屋まで行ったが、そのときは下北沢などを通りながらただ南下した形で、アップダウンの激しさに参ったところだった。そう友人にこぼすと、大通りを通った方がいい、と教えてくれたため昨日はそうしたのだった。そして今日は半蔵門に行く前にジムに行き30分ほど走ったためシャワーを浴びたのだった。そうやって走っていると、ジムのマシーン上はまだしも、自転車で町を走っていると、私は今夜『ジャージー・ボーイズ』を見に行ったことも忘れて自分がまるでシティ・ボーイになったような感覚に陥るのだった。それはこれまで東京にしっかりと住んだ経験のなかった私、お上りさんとしての私としては致し方がないことだったし、スラックの「東京23時」が脳裡に響き続けることも、しかたのないことだった。首都高の光。私は首都高の光のそばに今いる、それは不思議といえば不思議なことだったし暮らす場としての東京なんて私はてっきりフィクションの存在だとばかり思っていたのだったから。ニューのジャージーで生まれて発砲事件があったため日本に引っ越したのはOMSBだったか、ブラックスモーカーからのビートアルバムはもう発売されたのか、私は今はっきりと何かをわかることはないけれどもジャージーのボーイズたちは悲喜こもごもで、移民の子どもたちだったらしかった。イーストウッドがこんなに自由に見える演出をするとは、と私は度肝と呼ばれるあたりを一息に抜かれたのだったし、カメオ出演もさることながら、いくつかの場面でヒッチコックみたいだと思いながら、何よりもその大らかな自由さはしかし本当に大らかなものなのか、自由さなのか、わからないながら、苛酷で不気味とも言いたくなる自由さらしきものにあっけに取られ、歳を重ねるということがこの自由さを獲得していくということであるならばとても希望の持てることだと思ったのだったし、最後の10分ほどだろうか、あれは一体なんだったのだろうか、役者たちの生々しい停止を下からとらえたあれらはなんだったのか、それが明るいラストだったのか、ほとんどわからないまま私は衝き動かされるように泣いたのだったし、昼間は新郎のお父さんのこれまで見た中でもっともファンキーな挨拶というよりは演説に近いものに私は大いに感動してそこでも泣いたのだったから泣いてばかりの一日だった。君たち若い人たちががんばる番だ、私たちは君たちを後押しする役柄だ、君たちにはなんだってできるんだ、という朗々とした声はただただいいものだった。CDを出しているらしいお父さんは一曲歌った。若い私たちは大いに盛り上がった。それは端的に言って美しい場面だったのではないか。地下から這い出た私は昼間から飲んでいたため早々に眠くなったため再び自転車にまたがり、帰って寝たのだった。ちゃんと起きられるとは思っていなかったがちゃんと起きられたのでレイトショーを見に再びチャリにまたがり新宿ピカデリーに向かったのだった。なぜなら私は新米のシティ・ボーイだからで、初めて入ったと思しき新宿ピカデリーは白白としてきれいな場所だったし、レイトショー料金を想定していたから1800円と言われたときは心臓が止まるかと思うくらい驚くということはなかったがいささか驚いてしっかりと1800円を支払って映画を見る権利を買ったのだったが、東京にはレイトショー料金というものがないのだろうか。11階に上がりしばらくすると映画が終わり、突き指をしたこともあって濡れた道路をしゃーしゃー言わせながら帰って、鶏とカブの葉の照り焼き納豆丼みたいなものをこしらえてみょうがと椎茸と豆腐の味噌汁とともに食べたがボリュームがあり、網野善彦の『無縁・公界・楽』を読みながら私は眠ることになるが仮眠の際に見たのはトンネルの中を走る夢だった。長時間露光をした写真みたいに光が尾を引いていた。


10月

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金子誠の引退試合だったため応援に来ている家族の姿が何度も映された。金子誠は最後まで金子誠らしいやる気のなさそうに見える空振りを見せてくれて私は彼の空振り具合やニヤニヤした表情がいつも好きだった。金子誠と稲葉篤紀が今年で引退するということで、長年の日ハムファンとしては結構さみしい思いをしている。

金子、稲葉、森本、田中、新庄、鶴岡、小笠原、全員が一同に会していた時期があったかどうか自信ないけど、それから小谷野、それでダルビッシュとか武田久とか勝とか、これはどこらへんだろう、一同に介しているだろうか、わからないな、わからないのだけど、こういうあたりの時期の日ハムが私はすごく好きで、ものすごくチャーミングなチームだったと今でも思う。垢抜けなさというのか、そういうものも含めてあたたかくてチャーミングだった。

今はどうか、というふうに「昔はよかった」的な話し方は本当によくないとは思うし私は実態を見誤っているのかもしれないけれども、西川とか中田とか陽岱鋼とか谷口とか中島とか大谷とか、それぞれ好きだけど、好きだよ、実際好きなんだけど、ちゃんと普通にモテそうな感じがしちゃうっていうところで私はちょっと一歩引いちゃうみたいなところがあるのかもしれない、みたいなところがあって、ちょっと垢抜けている感じがさみしいというか、というか、先に挙げた金子、~のメンバーは、本当に奇跡的なバランスの顔ぶれのような気がしてならない。

金子:自然体でやる気なさそうに見える感じがとてもいい

稲葉:真摯な感じがとてもいい

森本:根はすごく真面目そうなのにお調子者キャラをがんばっている感じがとてもいい

田中:本当に真面目そうでとてもいい

新庄:誰よりも楽しそうにやっている感じがとてもいい

鶴岡:かわいい感じがとてもいい

小笠原:本当に真面目そうでとてもいい

小谷野:真面目そうだしおしゃれに気を遣っている感じがとてもいい

ダルビッシュ:そういった面々の中で最年少なのに誰よりも偉そうでそれでいてとても愛されている感じがとてもいい

っていうさ、もう本当にいいチームだったと思うんだよ、と私は今日、金子の素晴らしい空振り具合、金子にしかできない空振り具合とニヤニヤ具合を見ながら、過去を振り返ったってどうしようもないことはよくわかっているけれども振り返らざるをえないときもある、と初秋の肌寒さを感じながらそのように。

 

 

改めて引退セレモニーの様子を見ていたら本当にもうなんだか大好きで涙が止まらなくなった。同じように涙が止まらなくなることは先週もあった。川崎市アートセンターにデプレシャンの『キングス&クイーン』を見に行ったときのことだった。人生の全部が詰まっているようなあの映画を大きなスクリーンで見ながら、愛おしすぎて私はひたすら泣いたのだった。人生の全部、バカみたいな言葉なんだけど私にとってあの映画は本当にそういう感じがする。過酷で、そして美しい。

 

クソみたいな駅の雑踏を乗り越えるためにvladislav delayを音量マックスにして聞く。すると深く重いビートに呑みこまれて全部が穏やかになる。リズム。

 

リズムというか、久しぶりにブログでも書こうと、ソリティアやるくらいならブログでも書こうと、打ち始めたのだけどリズムというか、そういうのがうまく掴めないというかアルノー・デプレシャン見に行く前には友だちから借りたアルノー&ジャン=マリー・ラリユーの『運命のつくりかた』をとても久しぶりに見たのだった、2007年の12月たぶん23日とか以来で、それは横浜の赤レンガ倉庫でなんかの特集上映でやっていて見に行って、見終えて埠頭か何かわからないし埠頭ってそもそも私は28年くらい生きてきたけど埠頭ってなんですかっていうところがいまだにわからないままで生きちゃっているけど埠頭か何かに出て海風か何かにあたりながら涙か何かを流すか何かしながら「人生の全部が詰まってるわ~」とか思ったのだった。その素晴らしいミクスチャー映画をだから7年ぶりくらいに見たのだった、しかし字幕なしのフランス語だったため、まあ覚えているところもあるしだいたいいけるでしょ、と思っていたら甘くて、かなりのところ会話内容はわからないまま見た。だけど画面が強かったので大丈夫だった。それでよかった。鳥。山。マチュー。DVDを借りパクしたい。

 

だから、そう、映画はほとんど見ていなくてアルドリッチの特攻大作戦を見たくらいだったし本はずっと読んでいてドノソのことは本当はよくわからないなと思っていてカルペンティエルの『失われた足跡』を読み始めていて、けっきょく半年近く大宮の実家に寄生することになって、何も与えずに、ただあたえられるだけで、でも10年ぶりくらいの息子のいる暮らしってだけで何か与えられていたりもしないかなとか甘ったれたこと思いながら、この家というか両親との暮らしを離れるのはそれなりに寂しいというか、両親、いろいろありがとうよ、これからも健やかに暮らしていってね、ととても思う。

 

秋だぜ、わりと感傷的になったって許される季節だぜ、と今、虫の音などを聞きながら3缶目のビールを開ける(しかも最近なぜか金麦じゃなくて一番搾りが常備されている)。


9月

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ぐっと来る押し出し四球というものを見たのはもしかしたら昨夜が初めてかもしれなくて、そんなことはないかもしれないけれどもいずれにしても昨夜見た押し出し四球はぐっと来るもので、マウンドに上がっていたのはルーキーの白村という選手だった。そのときまで私は白村という選手の名前を聞いたことすらなかったのだけど、救援陣がグダグダと壊してしまった試合で、石井が招いた一死満塁の状況で彼は登板した。ふてくされたような強い眼差しのいい顔で、その顔だけで私はわりとよかったのだけど、150km前後のストレートはことごとく大きく外れ、ストライクが入らないまま3ボールになった。そのあとのストレート2球でどうにか追い込んでフルカウント。そこで白村はキャッチャー市川のサインに強く首を振った。これまでの5球、まるで制球が定まらないでいたルーキーが首を振ってまで何を投げようとしているのか、解説の岩本とともに注目していると、投じたのはスプリット、低めに外れ、四球となって1点を献上した。

これはけっこうなところ、ぐっとくる一球だった。どまんなかストレートを要求されても危ういように周囲が見ている状況で、落ちる変化球を選択する、主張するという、その態度に私は非常にぐっと来てしまって、いいぞ、いいぞ、と思いながらそのあとの打者2人を打ち取るのを見守った。白村選手にはこれからもぜひがんばってほしいと思いました。

 

言うまでもなくそれは日ハムの話なのだけど、それとはまた別に今日も今日とて現場、その帰り、地元ながらも初めて走る道をチャリでいきながら、初めての道はいつだって楽しいしいつだって他の既視の景色と重ねてしまうからセンチメンタルでもあるけれど、知らない道を走ってたどり着いたホームセンターで麻ひもとドリルビットを買った私は、なんだかそんな気がしたのですぐには帰らずに自販機で「あたたか~い」と書かれた缶コーヒーを買って横のベンチに座って飲んだ。肌寒い夜だった。

肌寒い夜とホットの缶コーヒーの組み合わせがそうさせたらしくて思い出したのは中学時代の塾へ行くか塾から帰る道のチャリの感じだった。成績が抜群によかった私は週1か2か3くらいで最寄りではない教室に通って選民思想を培わされていたのだけど、浦和の教室にはどうにかチャリで行けるよね、となったのでチャリでわりと行っていて、肌寒い時分からそれは始まったように記憶している。エレファントカシマシのMDとかを聞きながら私はチャリをこぎ、帰り道だろうけれども缶コーヒーだかあたたかいミルクティーだかを飲んだ。なじみのない広い道で、橋の下に黒い畑が広がってもっと向こうはオレンジ色の電灯が等間隔で並ぶ高速道路か何かがあったはずだ、川とかも。どうせ秋の到来に切なさか何かを覚えていたしそれは真摯なものだ。中学生が覚える切なさを笑っていい人間はこの世に誰一人としていなかった。

 

ホームセンター前のベンチでそれら全体を思い出していた。思い出すということがこういうことならば、思い出していた。

 

店が着々と作られていく。

この10日間で床が張られトイレと厨房の壁が塗られ厨房機器のおおよそが設置され音響機器が届けられ本棚が作られカウンターが作られた。10日後にどうなっているのか。9月に入ったということは、もしかしたら今月末には私は営業を始めているかもしれないと思うとちょっと目がくらむというか、想像がつかない。それは楽しみなことではあるけれども、恐れみたいなものがないとも言い切れないしここのところ完全なオフというものを作っていないためか疲労がたまってきた感じがまったく否めない。毎晩、すきあらばソリティアをやってしまうあたりも疲れの現れのような気がしないでもないということはないのだけど、疲れがたまってきたのでそろそろ一回休憩を入れる。

体力ないなーなど思わないこともないのだけど、体力がないならば体力がないのだから自分の体力に合わせた動き方をするべきで、などと自分に言い聞かせることにして週明けくらいに一度なにもしない日を作る、と宣言というか自分に言い聞かせてでもおかないとなんやかんやとやることはあるのでやってしまうだろうからここにこうやって書いておくことで休もうねを刻もうねというところ。

 

昨日は念願の綿棒を買ったので耳掃除がはかどるため夜はあたたかいコーヒーを淹れて飲んだあとに虫の鳴き声が外から聞こえてきてビール開けるしベランダにも出る。煙草を吸う。弱気になっている場合ではない。(とか言っちゃいけない)


8月

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昨日今日と変な酔い方をしてしまって頭が痛くなったり吐き気を感じたりして、どうしたのかなと思っているのだけど夜はアイスコーヒーを淹れて飲むし、よく胃に膜を作ればみたいな話があるので今晩に関しては帰ってからカフェオレを淹れて飲んで、後からでも大丈夫ですか?と問うたものの時間の経過とともに薄ぼんやりとした頭痛等は遠のいていく、それを確認して今に至る。

ここのところ立て続けにというほど大したことではまるでないのだけど少しずつ料理のリハビリを、みたいな感覚があるらしくて、春季キャンプみたいな感覚だろうか、キャンプ前の自主トレだろうか、体をならしていかないとね、というところがあるらしくてパソコンの横のメモパッドには「とり パクチー トマト レモン スープの材料」とある通り先日に関しては友だちの家に行ってカオマンガイとナスの揚げ浸しとトマトの黒酢生姜和えみたいなものとスープを作って振る舞うということをおこなった、変な酔い方をした昨日についてはグリーンカレーを作った、先日外で食ったカレーに塩もみ野菜が乗っていてそれが心地よかったのでゴーヤとみょうがときゅうりを塩もみしたやつを福神漬け的な立ち位置で供した、つまるところつまってはいないながらもタイに行った友だちの土産でいただいたカピという甲殻類的であるということ以外は何もわからないペーストのようなものを両日、用いた。今調べてみたら「タイの蝦醤」と出てきた、そんなさらっと蝦醤とか言われても、なんですか、その蝦醤っていうのはそんなに流通している語なんですか、もしかしたらそうなのかもしれないけれども、知らない私にとってはまるで知らない語なのでいったいなんて読むんだよ蝦醤、とひとまずの憤りをおさえて検索結果のページをいくらかスクロールすればシャージャンと読むことが判明した。ああ、タイのシャージャンね、というふうには私はならない、なれない、ので昨夜、からだすこやか茶Wを吐き気を抑えられるといいと思って帰りしなに買った飲んだ。

 

夏休みらしく日々、駅近くの駐輪場はたくさんの自転車の駐輪によって占拠され、停めるところを探すのに苦労するようなこともあったような記憶が定かではないけれどもあり、日本の子どもたちはどうか知らないがチリの子どもたちは9歳とか6歳から「ここでの僕たちの生活自体がいつもオペラみたいなものじゃないか。今さら何がおかしいというんだい?」みたいな口のきき方をするのかどうかは確たる証拠はないながらにもするらしく、するらしくというか少なくともホセ・ドノソの『別荘』においてはされており、ドノソは『境界なき土地』以来2冊目となるけれども、この2冊を見る限りこの作家は狂気とか奇形とかそういうことがきっと好きらしく、しかしそれ以上のことは私にはわからないので9月16日あたりに池袋のジュンク堂だかどこかでおこなわれるという佐々木敦と野谷文昭のトークイベントにもしかしたら行って「ふむふむ」であるとか「なるほど」であるとかの愚にもつかないリアクションをして満足して家帰って寝る、みたいな暮らしをし始めたということもありうるのかもしれない。

そう言いながら前言を翻すかのようで申し訳ない(しかし誰に対して?)のだけど人生は何が起きるかわからないため借入を申請していたのだが今日銀行から電話があり「残念ながら」との返答を得る。

私はその知らせに朝からびっくりしてしまって二度寝三度寝をして今に至ったわけでもなかった。体をいくらか動かした、店をほんのすこしだけ完成に近づけるために体をいくらか動かした、他の銀行にあたらなければならない、斡旋書が区役所に「否」の判とともに戻るのを待たなければならない。夜明けは待ち望む必要もなく日々おとずれるが、借入に関しては再び書類を作成したりしなければならないから億劫だし私はいささか萎えた。

 

鬱憤を晴らそうとしたのか強い調子でエンターキーを叩いてみた。

 

3度。4度。5度、そして電車に乗っていたらそれは今日もそうだったというわけではないにせよ埼京線と湘南新宿ラインが並走する時間帯というものがあり、付かず離れずで前後しながら向こうの車両に乗る人を見る時間帯というものがあり、それは私に明確に『親密さ』の記憶を喚起させた(した?)、そのため「親密さ 駅」とかでググって調べてみたところ田町じゃなくてどこだっけな、田町だっけな、田町なんじゃないかということがあり、あれは山手線と京浜東北線だったのかな、田町なのかな、田町か、と思って私は感動した。それではあの橋はどこだったのだろう、丸子橋とのことだった、検索結果を鵜呑みにするならば。それらを思い出せばいつだってグッとくるし、いつだってその脳裏に現れる映像だけで素晴らしい映画一本分の満足を得られるような気がしている。『親密さ』は私にとってそういう映画だった、という話を昨日と今日、友人に話したという事実はどこにもなかったけれども、だからといって昨日や今日の記憶の価値が貶められるかといえばやはり、そんなことはまるでないのだった。

 

いささかも私は世界というか世間というかそういったものに屈する必要を感じないわけでもなく実際銀行というものの脅威を感じてどこまで媚びたらいいのかと考えてしまうわけだけど、一方で二日続けてどこかから小気味いい卓球の打ち合いの音が聞こえてきたのは私の頭の中で発生した何かによるものだったのか。区役所、銀行、親、金せびっているあいだにどんどんと通帳の残高は減っていって私は可能ならば小気味いい程度の稼ぎを得ながら安心して暮らしたかった。と言いながら、まるでうんざりしない。全然どうでもいいしどうとでもなると思っている。このあたり、今の私はわりと強気にできているので心強いしいつまで持つかな、と思いながらも早く起きることが可能ならばこのあとに煙草一本吸って寝てやってもいい。