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けっきょく最後までうまく寝付かれず眠いまま一日が始まって眠いまま一日が進行している。そうなると今日も昼寝をしたいように思うけれどそうともいかないような予定がはだかっているように思われる。今日もひどい夢を見たような記憶があるが、それは見ていない夢かもしれなかった。「夢の上に高い銀河が涼しく懸った。」夢のうえに高い天の河が涼しく懸った。「やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵の口から寂としていた。夫婦は例の通り洋灯ランプの下に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡に、自分達の生命を見出していたのである。」

洋灯の力の届かない暗い社会をわすれる。

漱石の言葉がすみからすみまでみずみずしくて『それから』にしても『門』にしてもうつくしくてうれしくてしかたがない。ねむい、お客さんの話し声が聞こえている、昼の定食屋をやりながらこれをやっている。お客さんの話し声が聞こえている、みんな真剣に生きていてうれしい。真剣で一生懸命に生きていて応援したくなる。みんなが大好き。好きで好きでしかたがない。ひとりひとりに好きであるこの思いを伝えたい。ひとりひとりがひとりひとり大好きでそれぞれへの思いでこの胸ははちきれそうに好きだ。眠い、なにもそのうちおこらなくなる。なにもかんもがそのままどこか遠くへうっちゃられる。なんもかんもがここから遠くに離れていってもう一瞥もこちらにくれるようなことはない、だれからもわすれさられて洋灯の力で照らしたいとほんとうは切望するもなにも光らないでこのままひかりはちいさくちいさくしぼんでいって、しまいには小さな点になってしまった、もはやなにもあかるくない、そういうふうにじきになる。この仕事がおわったら遠くまで暮らしていることから遠くまで暮らしていることから遠くまで暮らしていることからこちらから離れてしまいたい、向こうが遠くに離れるならこちらが先手を打ったら傷つく順序があべこべになるからそちらのほうがつごうがいいからそうしたい、という以上どこからだろうかどこからも、なにもひとつも頭が考えているわけでもなく特に暗い思いをいだいて暮らしている今日というわけではないけれど、暗い言葉を打ち付けようと思えばどうとも打ちつけられるものだと思いながら打ち付けたらしかった。ところで先般からおこなっていた省みない打鍵記事を読み返せるものなら読み返してみようと読み返してみたところ、嘘でも自分が打ったものだからいけるのか、意外によその人でも同じようにいくのか、音として随所に入ってくるものでどうにか文章というか言葉が頭のなかで鳴るものだなと、そのいびつな音の鳴り方はちょっと他では感じないもののように思われて、その響き方をとても愉快に思った。いびつに、いびつに、いびつに進みながらふと音があらわれるようなそんな瞬間があって、その瞬間の心地がとても面白かった。眠い


 

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昼寝をしたためかさっぱり目が眠くならないで困った。昨日ずいぶん飲んだし今日はたまには酒を飲まない夜にしようと思っていたが眠くさせられないかというところでウイスキーを飲み始めた。夜3時。『それから』の次をどうしようかと思って『門』にした。『それから』の次をどうしようかと思って『門』にした、と打っている最初の方になにか考えていたことがあったが打ち終えたら消えてしまったので再度打ってみたが思い出せなかった。じきに思い出すだろう。

『門』は役所勤めに汲々としているたぶん齢30ほどの、で思い出したが次の一冊を考えた時に漱石を読みたいわけではなくて30歳くらいの男の話を読みたいのかもしれない、だから次は漱石ではなくそういう年齢が描かれるものにしようか、しかし本当にそうしたいか、『それから』を読んでいる時の苦しさ、襲ってくる不安、そういうものとまた向き合いたいか。『それから』は久しぶりにのレベルで強度の共感というか、共感というと違うのだけど、共感に近い、共鳴というか、なにか自分のなかの何かが打ち鳴らされ、揺れ動かされる読書だった。それはビビッドでよいのだけど、そんなビビッドさを読書に求めたかったか。もっと自分とは関係のない場所で起こるできごとを遠目で楽しみたいのではないか。気楽に楽しみたいのではないか。どうだったか。とそんなことを思ったが過の考えだったのか特にそういったことは忘れて『門』を取った。『門』はあたらしい文庫を買ったのか『それから』よりも文字が大きく、最初はその大きさと漱石の文章とがそぐわないような気がして興が乗りにくいような気がしたが面白く読んでいる。『それから』の続きと考える必要はないにせ、なれそめになにか暗い重大なことがあったらしい夫婦であるところの宗助と御米が借家で、家計に八苦しながらそれでも安穏とした態度で暮らしているさまを見るにつけ、代助と三千代がそうなったとするならば、それは本当にうれしい、しあわせなことだと思った。二人は縁側についてはたはたと団扇を扇いで涼を取りながらぽつぽつと話すだろうし、ひとつの蚊帳に入ってすぐにすやすやと寝入った。眠れぬ夜をいくらも暮らした代助の姿を見てきた者として、寝付きのいい宗助+御米の姿にはやすらぎしか感じない。それでとてもうれしい思いをしている。同時にまた、同時にまた。2という最小の数で構成されるユニットのもつ性質のようなものに対して。フランク・オーシャンがアンビエントなトラックのうえで歌をうたっている。それが荘厳といいたくなるような、それでいてやさしい響きを夜に与えている。淋しみを感じてしまう自身の心性のようなものを恐れる。忌む。どうやったって。眠れないというか眠気が体と頭におとずれない。おとなう、訪う、ということばの響きはいまもって好きらしい。おとなう。やさしい言葉というか響きだと感じている。3時14分。打ち始めて10分が経った。今日この一日はどんな一日だったのだろうか。なにとも連関しない、とは言わない、いくつもの人々の存在に救われて支えられてこうやって立っていられるというか今は座っているけれど、立っていられる、それはたしかだろう。なにに満足がいかないのか。それはもちろん明瞭な答えがある。代助がいうのと同じことを考えている。代助がそれでもうらやましいと思ったのは様々な考えを打ちやって狂気のようにも見える一途の行為に自分を移せたところで、それだけの賭けをできるだけの気性を結局のところ持っていた、獲得できたところだろう。僕はうすぼんやりと生きている。そういう時期というだけだとは思うけれども、ビビッドにありたい。それをとうぶん、僕はなくしてしまった、それがずっと気がかりでいる。勃て、勃て、と萎えたちんこをこすり続けているような、焦りながら「焦る、焦る、ああ動く、世の中が動く」と言っているような、そんな日がずっと眼前にあり続けている。両の手のあかぎれがここのところひどく痛む。今は左手の小指の中ほどにできた小さな切れ目が曲げようとすると鋭く強い痛みを届けてくる。すこしばかり『門』を読み進めることが怖い。この夫婦になにも起きないことばかりを願っている。


 

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漱石の『それから』を結局読むことにして読み始めたら今日の夕方に読み終えた。最後に目の前で広がるくるくると回る炎にやられて終わることは覚えていたけれど印象としてはもっと愉快というか、とうとう求職活動しに町に出るので電車乗ったらクラクラしちゃったみたいな、そんな重大でもないような、というか笑っていればいいような、そんな気分でかつて読んだような印象があったのだけどとてもそんなふうに愉快な心地でいられるものではなくて、途中から、代助が苦しくなっていくのにつれて読む僕の心地も苦しくなっていった。暮らしの逼迫が精神を醜くする。というのはいまだ働かざる代助の予測でしかないけれど、ある程度それはそのとおりだと僕は僕の暮らしのなかで感じているので本当にそうで、と思いながら随所で本当にそうで、と思いながらどうしようかと途方に暮れながら読んでいた。代助の不安が、近年やみくもに使われるようになった舶来の言葉で代助はあまり使う気が起きないしかし不安と呼ぶのがもっとも適切と思われる代助の不安が、僕にも乗り移ったように不安を感じ続けた、悲しい、なんだかすごい悲しい、なんだかすぎお悲しし。すなんだかすごいかなしい、なんだかすごくかあしくてどうしうおたらいいかkwかんらい。なんでこんなに悲しくなるのだろうと思いながら、あまりこうやって移入しながら読んじゃ消耗するから不可ませんな、と主ながら読んでいた、というか今ちらちらとペ0時をまためくりながら読んでいるおそそれだけで悲しくなってくるからほのうに聞けないお個tだなとおもtた。

 

は運。この、何に値してだかわかrないあ不安を、何に対して赤わかないkあkらこそどう対処したら良いのかわかあない不安を、それからをッ読むことでぐっとつかれまれて引きずり出されたような気がする。腹のうちにあた不安が鷲掴みにされて、取り出されて、ぬらぬらと目の前で光っているような気分がある。ただしのそのs招待はいまだわかあない、目の間で光っている、見難く光っている、ということだけは見える。あなしい。

 

 

昨日は台風だったので昼の店を閉じた。それで映画にいった。初台駅前のバス停に停まっていたバスに乗り渋谷駅まで持って行かれて降りるとすぐに屋根にまもられ、またほんの隙間だけ空の下で傘をさして私鉄の地下におりた。ただの迷宮だとこれまでもっぱら迷惑なものとして見ていた渋谷駅の地下だったがなにか案内をしている方に道を聞いたところそのままいけるというので明るい心地になり、言われたようにいったところそのままずっと遠くまで出ることができた。あかるいが暴風と雨の外が見えるエスカレーターをあがりそとに出るとひとつ短い横断歩道を渡ったらそこが目的地だった、実に快適な移動だった。その足をずっと高いところまで上がらせて映画館に入ると1本2本と映画を見た。『ハイ・ライズ』と『イレブン・ミニッツ』を見た。それが終わると映画館から外に出た。また地下にすぐに移って、ずっと遠くまで歩いて井の頭線の至近の出口から地上にあがってほんの一瞬間だけ傘にまもられてすぐに井の頭線に続くエスカレーターのところについた。それで渋谷駅の井の頭線の改札を臨むとひとつの記憶がよみがえってきた、胸にあたたかい心地がやってきた、それからぎゅっとかなしいような心地もやってきた、心配のような見守るような心地もやってきた、それらを通り越してホームに入り込みやってきた電車のなかにもぐると椅子に深く座って目を閉じて開けたらまだ途上でもう一度目を閉じて開けたら吉祥寺駅だった。降りた。吉祥寺駅から出て北に上がり傘に入ってほんのすこし歩いたらアーケードの屋根に守られたため傘をしまった。そのまま地下の喫茶店にはいった。カレーとアイスコーヒーで長い時間を過ごして「それから」を読んでいた。台風の影響で公共交通機関に影響が出ており今晩来るはずだった人が来れないかもしれないと今晩飲むはずだった人が連絡をよこした。僕はずっと台風の影響をほとんど受けずにこの日を過ごしていたため予定を中止するような人があることに驚いたが調べてみたら木が倒れたということだからそれもやむをえないように思った。フランク・オーシャンの歌っているのを耳で聞いていた。それから時間が迫ったためうえに上がると雨はもうほとんど降っていなかったから傘はしまったままにした。泣きそうな気配を感じた時に眉間に皺を寄せて下唇を鼻のすぐ下まで持ち上げると、泣きそうな気配がむやみに加速される。泣きそうでないときに実演してみても同じ効果がある。いとおしさと切なさのようなものが身を千々に切るようなこわさがある。おそろしく泣きそうな心地になる。かなしい。ただかなしい。ぼんやりとただかなしい。なにがかなしいわけでもないしなにがありえたわけでもないしただかなしい。友だちと3人でロシア料理とグルジア料理の店にはいって主にグルジア料理を注文して食べた。ヒンカリ、しかいま思い出せなくなった。ハ行から始まる料理がいくつかあった、ハッチャビみたいな、でもそうじゃない。どれもおいしかった。牛肉と米の辛いスープがおいしかった、パイ生地とチーズの焼いたのがおいしかった、ヒンカリはパクチーの入った小籠包のようなものでおいしかった、毛皮のコートを着たニシンというやつがおいしかった、ビーツとニシンとじゃがいものミルフィーユのような料理だった、ウォッカをどうこうした酒もおいしかった、全体に食べ慣れない味なような自然と受け付ける味なような、総じてとてもおいしかった。途中で友だちの妹が合流したので4人になった。そのあとでハモニカ横丁の3階が屋上のような席になっていて隣の建物の屋根や駅前の高層のビルが見渡せる風が通り抜ける気持ちのいい場所で飲んだ。おもしろいこともあった。帰った。明大前で友だちと別れて初台に向かう電車に乗ったつもりであったら目を開けたら下高井戸止まりの終電で、眠気まなこをこすりながら駅員の方に行き先を伝えたら道路の行き方を教えられたため事情を知った。寝過ごしたらしく、タクシー乗り場に出たらタクシーが来て乗る人にどこに向かうのか二人に尋ねたら二人とも調布方面とのことだったので一人で車に乗って初台まで向かってもらった。新宿方面に乗る人があれば乗り合いでいきたかったというところだったが残念ながら下高井戸の終電の時刻は確かにそういうものかもしれなかった。初台にどうにか戻ることができて、普段乗らないタクシーに乗る乗り方がこんなようなものであることが後悔された気がしたが、できるだけ楽しい夜に生じたハプニングとして処しておきたく思った。すんなりと寝入った。激しい金切り声叫び声を挙げて、その数分後にはたと気がついてすいません営業中だと忘れてて、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る、何人かの方が続けて来られてオーダーが立て込む、一つのオーダーをこなすのに途方も無い時間が掛かってしまい、焦る、二人分出したところでもう気が遠くにいってしまったらしくそれきり作るのを諦める、というろくでもない夢を見た。なにに怯えているのか、なにを懸念しているのか、まったくわからない夢だった。


 

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『エドウィン・マルハウス』を昨夜読み終えた。昨日僕は語り手ジェフリーの孤絶がどんどんおそろくなってきた、というようなことを「僕は書いたっけ、そんなことを僕は書いたっけ」といま声に出して、マームとジプシーの役者になったつもりで声に出してみたのだけど、書いたっけ、忘れたが、ジェフリーのことはなにか言及したと思う。ジェフリーの孤絶のようなものがおそろしい、と、たぶんそういうことを書いたと思う。読み終えたとき、その読まれ方のあまりの正しさに慄然とした。エドウィンの部屋の夜、僕は何度か同じ場面を読み返して頭に理解させるのに難儀したそのあとで、理解がなされたそのあとで、あまりのことにびっくりしすぎておそろしすぎて、今朝の夢で見たと思う。エドウィンの部屋を夢で見たように思う。

「こ」「ぜ」「つ」と発生しながら3つのウィンドウを消した。コントロール+wで消していった。こ・ぜ・つ。孤絶。木曜の夜、アメリカン・スピリットを吸いながら、ビル・オーカットを聞きながら、ハートランドを飲みながら、ソファに体を沈めて、これを打っている。こ・ぜ・つ、と打ちながら、何度も打ち間違えたのをデリートしながら、丁寧に打っている。いつまた一切の打ち間違えを無視し始めるか気が気でないけれど、今のところは丁寧に消しながら、打っている。こ・ぜ・つ。とこの人生を、人生とかまた大げさな言葉を出し始めたから怪しい。人生なんてただのイメージで、今日をどう楽しむか、どう生きるかだけでしょ、と宇多田ヒカルが言ったというようなことを「友だち」がFacebookに書いていたのを今日見て、たぶんある程度その通りだろうなと思った、頭ではそう思ったけれど、いやそう思った。そうであるなら、僕は本当にいけないことをして生きている気がしている、こ・ぜ・つ、この孤絶を、この孤絶を僕はどう飼い慣らすいや飼い慣らすではなく、どう振り切って、楽しむか、考え、行動に起こし、行動に起こし、そしてなんなのだろうか、イメージがまるで湧かない、僕が人生を楽しんでいる、あまた人生と言った。今日この日をどう楽しむか、どう生きるか、だけでしょ。どう生きよう、どう楽しもう。どうしたら楽しめるだろう。このこ・ぜ・つ孤絶を、どうしたら変えられるのか、こんなに苦しく虚しいものだとはちょっと想像もつかなかったこのこ・ぜ・つこの孤絶を、どうしたらこの…止まらなくなったので三点リーダーって言うんだっけ、便利なこれを使って止めてみた。『エドウィン・マルハウス』を読み終えた、残りは『沈黙の世界』というみすずのやつで、沈黙について書かれている、それを聞いて渡された本を開いて最初の方を読んでこれは面白そうかもしれないと、ペルー料理屋で伸びる腕から渡されたその本を煌々と白白と光るペルー料理屋の店内で伸びる白い腕の先の手が持つその本をそっと受け取り開きこれは面白そうだと思い後日ご・じ・つ後日その本を買い求めた、それは『エドウィン・マルハウス』を買ったブックファーストのコクーンタワーっていうんだっけ新宿のその店で『エドウィン・マルハウス』を買ったそのときに一緒に買ってちらちらと読んでいるそれは、しかし少しばかり話し方が恣意的すぎないだろうか、好き勝手ものごとを定義し過ぎではないだろうかとの疑念を僕に生じせしめ、「生じせしめ」、それで少しあまり距離が近くないような気がしていてこの夜にアメリカン・スピリットとハートランドのこの夜に、ビル・オーコットのギターと声のこの夜に、読まれるべきかどうか、あまり前向きな気持ちになれない今、五反田のブックファーストでそうだ五反田のブックファーストでケヴィン・ケリーの本と一緒に買ったブルータスのムック本で柴崎友香と奥泉なんだっけ奥泉、との対談奥泉だっけ、との対談で夏目漱石について話されていて、それでなんだか久しぶりに読みたくなったから漱石を読もうか、何がいいか、『それから』なのか、どれがよかったか、と思うのともう一つが自分が書いていた文章のなかでフォークナーの『死の床に横たわりて』が言及されたのを目撃してそれで『死の床に横たわりて』を、読みたくなったというのがあった。フォークナーは常にまた読みたいと思う、常には嘘だ、ときおりまた読みたいと思う作家の一人で、それで、今晩はだから、どちらかをなんだか、読みたいような、今晩はというか次の一冊としてどちらかを、読みたいようなそんな気が、している気はするが決め手には、欠けるようなそんな気も、している。人が、「あの人は人として欠陥がある」と言った。僕は反応しなかった。どう反応していいかわからなかった。人として欠陥がある。僕はこのブログ内を検索し、次に店のブログ内を検索した。「人として」で検索した。安心した。僕は一度たりとも「人として」ということを書いていなかった。このブログについては3つヒットするが、それは「誰一人として」であって、「人として」ではなかった。よかった。人として欠陥がある。僕はまったくこの感覚がわからない。そう発言する主体は、自分には欠陥がないと思っているのだろうか、いやそう問うたらそうじゃないと答えるだろう。ではなにかと言えば人はこうあるべきだというのが、正しい人の姿というものがあるということだろう。僕にはそれがまったく信じられない。人として?人ってどうあらねばいけないのか。人として欠陥がある。ここには信じられない傲慢さが無自覚に横たわっているように思える。人として欠陥がある。どうやったらそんなことを言えるのか。その人からすると僕は思いやりのない人だそうだから、僕ももしかしたらその人からすると人として欠陥があるのかもしれない。全部がどんどんアホらしくなっていくな。思いやりとはなんなんだろうな。甘やかしの間違いではないのかな。僕は僕なりの倫理で生きているつもりでそれが僕にとっての思いやりに該当するものだと思っているけれど、そうではないのだろうな。全部がどんどんアホらしくなっていくな。色を失った川沿いの道の夏の桜の木々は茂らせる葉を下からの光に照らされて白く明るんでいてそれはまるで満開の桜のようにも見えた、その静かな夜に、顔を明るませて立ち止まる幾人もの人を追い越しながら、そして立ち止まり腰をおろし僕はときおり声をあげて笑いながら、色を失った夜の川の向こうで光る街灯や暗い部屋や空を眼差しながらここには倫理があると、思っていた、いやそんなことは思っていない、が後から考えてみたらそれは倫理的な時間だったのではないだろうか、とは思える。よかった僕は「人として」なんて一度も発していない。それが本当によかった。TwitterやFacebookへの投稿は検索していないから、どうやって検索したらいいかわからないから、と思い今Twitterのある時期までのログが残っているエバーノートで「人として」と検索してみたところクリップした記事がどんどんあたり、そのなかに保坂和志の「試行錯誤に漂う」があたり、ぎょっとして中を見てみたら「自由律俳句の尾崎放哉は社会からドロップアウトする前は銀行に勤めていた、つまり尾崎放哉は社会人としてもひじょうに優秀だった、という言い方は、

咳をしても一人

ただ風ばかり吹く日の雑念

けもの等がなく師走の動物園のま下を通る

こういう句を作った尾崎放哉を評価したことにならない、「銀行員だったのになんで辞めてあんな生き方をしなくちゃならなかったんだろう。」と言う方がまだしもだ。」

とあったので安心した。今度は自分のツイートが出てきた。「心を込めるっていうのはこういう大げさなのじゃなくて、人に接するにあたっての配慮。言うなれば人格の尊重です。大げさになっちゃったけど、そういうことです。人を人として正当に扱うことです。/「リズムで挨拶するんじゃねえ」 思い出す師の叱責」」URLは省いたけれどこれは多分引用だろう、引用だし、僕はこういう使い方はありうるなと思った。接客について考えるときには「人間としていかに振る舞うか」という言い方をむしろ好んでする。僕はその使い方を今こうやって「人として」という言い回しに激しい違和を感じている今もまったく許せるというか妥当なものとして捉えている。これはいい、と思っている。これもまたもしかしたら別のあるいは同じ傲慢さだろうか。どうだろうか。検索はどんどん引っかかる。2013年のところまで遡って、もうやめることにした。よかった、と言って差し支えない気がする。僕は僕が嫌悪する違和を感じる「人として」の使い方をおそらくこれまでしていない。大学生くらいのときはもしかしたら書いているかもしれない、このまま遡れば大学生のときのブログとかに当たることもありうるけれど、もしそう書いていたとしてもそれだけ若かったらそういう間違いを犯していても咎める気は起きないから別段かまわない。「人として欠陥がある」「人として間違っている」こういう言い方を、僕はやっぱり受け入れられない。どうして、そんなことが言えてしまうのか、まるでわからないというか、わかりたくない、共感したくない。でまあ、辛いな。こ・ぜ・つ。この孤絶。誰からも顧みられないこの孤絶。誰からも求められない必要とされないこの孤絶。というわけで今晩は何を読もう。まだ解決していない。今はこの孤絶問題より何読もう問題の方が切実だ。書くことは癒やすことだ。OK、OKOK。すごいOKだよ。ライティングイズヒーリングだよ。ヒーリングされたわ、やっぱりちゃんと打ち間違い正しながらちゃんとデリートしながらこうやって他人から見たらとても丁寧には見えないかもしれないけれど僕にとっては十分に丁寧な書き方で言葉をこうやって連ねていくことは、それなりに意味というか効果がある。薬だ。癒やす、だなんて言葉をそう躊躇なく、せせら笑うこともなく、「たしかに癒やしである」と思い切りながら打ちつけてしまえるのだから、十分に癒やされている。ライティングイズヒーリング。エドウィンにとってはそうではなかった。


 

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一人で笑いながら暮らしている。一人でアワンラg裏闇している。一人で笑いながらクラシエ要る。一人で笑否がrクアsている。一人で笑いながら暗らいsている、一人で笑いながら暮らしている。一人出会えLINEがあら暮らしてリウ、一人であるいrながらw暮らしている。ひとりえ笑否がrアクラ指定rう。ヒロリでラ割穴ガルr区荒石テウr、一人アデアr対ながら暮らして裏。一人である伊那ラウアrくらしていぐr,一人で洗いながら暮らしてる、一人で割りながらいr暮らしている。一人で非ない長らくしてリウにといらいであrくわいながkるあいsたきえたn

遺書痛いたわいrなガロア行く亜wしチエル、一人d家相原に上がらいくらしている。一人でいお湾外オアが額洗隊している。ひといrであらないgなおあのりあいgなおごいあしる、 ひtろいえうたらいながおあkるあしてりあ、あほら居てゃ置いたrなお祝いながろ居アクアして言うr。人ありでああんリアジナがr買うしている単ル。ヒロチれダライ長らく荒らしてるあrンル。日折落ちrないおいう穴が置い合うr買うしている。一人で飼うrながりながらいくら位して。非奴隷アラン9位らならおd暮らしてリウ、一人位でkダライながら暮らしている。


 

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なんだか胸があおzわぞわする、いたずらいいい時間がすぎえいく、というか過ぎていけばいいと思っている、、いすぎてしまってくれと思っている、おおおのクリし時間が目を知事てあけえばなくなっていてくれたあらいいと思っているm何に飲もお』たr法r事gのん」tんあにのもたに何にも頼ることのできないこのk流空氏がk流空氏が暮らしがいつまでこんなふうに続いてくのだろうかと、考えるtだえkでも空恐ろしい気持ちになる、なににも頼れないし何のもすばがすがれない、この暮らしが、いったいいつまで、どんな形で続くのかt,とかgなあえっrひgんんんr:だれにおおお誰にも顧みられない、誰にも欲されない、それを、営みというかいとアンミは営みなんだけど英g表とじゃなくて事業か、事業と呼べるのかm,誰にもm必要とされないこの仕事、死gと音仕事と呼べるのか、dかあだからそれは死後tお仕事という言葉がこんなに死と結び地つくとは今まで知らなかったわうるせーわほんと、アホか、知るかほんと、と、なにに、これは痛い何に憤っているのかまったくもってわからないwwwwwwww草生えるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww草原、別にないんいmたいいても怒っていないというか今このhすん感については虚しさというか虚脱感しか覚えない、どんな力も出ない、この誰にも必要とされないwwwwwwwwwwwwwwwwwwなにしょげてんだよwwwwwwwwwwwひつお嘘とされてないっておkともないだろwwwwwwwなにいじけてんんだwwwwwwwwwwwwwあーもうなんかこう、草だけ生やして生きていきたい、こんなふうにwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww簡単だなあ、草を生やすだけのお仕事です、指をwの上に置いておくだけのお仕事Edスm,簡単あなあ実に、簡単でいいなあ、エドウィンマルハウス、がそろそろ死ぬ、ということはわかっている、ちょっとその時間を、時を、死ぬ時を、迎えるのを、怖がっている、しかし呪われた学校というかジェフリーカートライトだっけ、カートライトだっけ、カートライト、彼こそが呪いの人なのではないあk,3人も死んでリウ、悲しい小学校、悲しいカートリアと、悲しい江戸ぉいん丸は留守、あと50ページくらいだろうか、死ぬまであと何ページだろうか、悲しいな、エドウィン、きっと死んじゃうんだよね、死んでほしくないな俺、俺死ねえ欲しくないから続き読まないっていう手もあるともも思ったけど死んでるのは確かなんだよねエドウィンマルハウスかしゃりかしゃり、でドウィンまるはすううううううなんか電車の夢見たきがうるr,わすrちぇあったけど電車が出てくるというかホーmと、あと寝台列車かなにか、普通の電車ではない列車、列車と電車っておうづあーもうどうでもいいななんだっていいな腹減ったな気持ち悪いな空風区で気持ち悪いなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなんかもうjghjれぷへー母音おs内競争したら5文字目くらいで押しちゃった、じsねいを人生を浪費している感じがするな、無駄遣い、人生というか時間の無駄遣い、どんどん置いていくんだって、老いていくんだって、ちゃんと理解sテインんおかなのかな、こんなふうに無駄遣いしているうちに年取っていくってわかってんのかなってたまにも思うほね、人生がこうやって擦り切れていくt磨り減っていく、擦り切れると磨り減るだとけんさくdじゃあんくてn変換で出てくる漢字違うのか、擦ると磨るはどう違うんだろうなともあれ、じんんんんんんんんんんんんんんあーダメだ溜め息とかお漏らすなよおおおおおおおこんなことじゃダメあなんで今日はこんあんい調子が悪いんだろうな悲しくて仕方がな愛 愛じゃねーよwww


 

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やることがないので、ということで書き始めてろくなことになった試しがない。8月、夜、うあの、途方もないむなしさがそれからおそれががではあんくに見回っる夜mさっきまでえどりんまるはうすを読んでいたがエドウィンそろそろ終わりが近づいてきた、エドウィンの死、以上に次第に語り手であるジェフリーだっけ、ジェフリーの孤独を思うようになってきた、エドウィン以外に誰もいない男の、そうか疾走したのかそういえばあかれはshその先に、で。鍵、薬、のり、マスキングテープボールペンボールペン電卓iPhone電球イヤホン接着剤ペンチリップクリーム缶詰ぼるp0えんぼーるぺんぼーるぺん、クオール薬局と書かれたカード。クレオール薬局にいつも思えるCD、CD,プリントアウトされたたyいろい紙mかくてる、開けられてい兄封筒mメモメモリースコープLINEモヤの掛かったみう済みかなにかにあひる家なにかが浮かんでいるのそのsその置くに森があるらしい、リアルタイムで大谷がホームランを打ったのを情報として見ていた、パッと花火があtがるm画面上に花火が上がる、そrを見て「うはw」と思ってやさっしいyさいしいやさしいyうびづけいが指使いがかなしい、やさしい指使いが奏でるこのネイおrが音色がかなしい、、、ピアノが苦手だったピアノソロ的な作品が苦手だったm、名前出てこないな、忘れた、苦手だった、やさしいウビ使いが指使いが奏でるそのネリオ音色が苦手だったおだろうかm今はそう居苦手ではなく聞いている(たdしいまは違う)、現在かなしいのは長えるおんがくんが流れる音楽ではなくてこの指の、あやわらかな動きとsろろれおのいmrんrnろghsmうぃgんjそrおおんsんもうオケ運bzhん0んりこgmwgホイ合うぃじぇhんbも↑樹っkjp←gんもそmMhkこのおこの←dこのやじるしってどうやって出し得るんだっけなmちうもわるすれてしまう、、;。エドウィンマルハウス、エドウィン・まるはす視界目が目までこの画面を撫でる目まであがやわからかっくmすろうな添付で店舗で指がそれと同じように目の画面を撫でるその力までがやわrかく無気力に指がこのき0-ぼぢーどきーぼdきーぼd-きーぼd-きーおこのむなしっさをかなしさとそれからいかりだっけ、怒りは見当たらないんだよな、そんなえげるぎーえげるえねるぎうるせーエネルギーはいあwうるせーとか行って怒ってるではあるまいかwと今表わろたけどむしろ泣きたい、あきちなきたいっmこの、かなしい、居気持ちがっっmどこにmちゃ口するのか、知りたいmこのかなしいむなしい遠いどこまでもどこまでもというか一寸先は虚空で一寸って何センチだrたろうか、一寸先はぢhすディスプレイkらうらいのところだったろうか、一寸先はでぃずいずディスイズあディスプレイ、ええおyよねー、なんかお二人業界てきに親和性高い知り合い多いだろそうだね、行ってきてくれてありがとうね味噌のErンラkおそkなっちゃってごめんね、グラスの写真と一緒に伝えごめgのめんgnれんらくしy嘔吐思いながらわるsれてました、え、江津湖!!!…。。。庵前を思えられないのは竹内だたか石槌だったかそぢrたrでもないからたぶn河内だったかかうち飼う悪地のほうのあくぁうちでそのsh心をみにいったのは915

ろくが遠いギャラリーで海が近いと聞いたソレアが見えた青い多々者ののなかで重いエレベーターにあがってあげられて開けt目の前の開かれ方がそういえば無言日記でこのエレベーgた~が開くのを見たことがっるような気がしたというかたぶん開かれていてそれを多いdしたshさんをみtmでもそえrはもうもというかもうというかいま書きたいことじゃないと書いて何かかかいたいwことでもあったのkwなwwと思ったのだけど特にはないというかこの悲しいやっしい運指を続けていったいどうしようというのかあかあないけれども音g区をでもそれを聞いたら自分は悲しくなるんだろうmそれだったらなぜそえを続けるのだろうか、エドウィンgあしぬことが少しほんとおにおしkしたら悲しいからつdくぃおちひょmいたくないのだkもれいないけれどもm,なんでだか吐き気が今したような気がしたkレドおそれは気のせいというか腹減ってるせいでh劇的におまえhうフルマナうyのよほんと。ふざkねんあよんほと、コーヒー飲み過ぎて気持ち悪い気がするわでも実際これはコーヒーwおガブガブ飲み過ぎて要らしゃるせいなんじゃないあな、そうであと思うよ俺、気落ち悪いのはイ、生気あガガガ画面いがgごという字をまじまじと見ることで俺の人生てkというか人生のほうなものうぁどっか前に進むことがあるのだろうか悲しみとmなしさをとそういったものを抱えてわびっさとあみしあとそういったものいろあえあれてこのままdつづうくうjおうあになっちゃったなあ、なんだか嫌になっちゃった、なにがdろうかな、なにがいあになっちゃったのかわからないけdれどもなかだか子はとにかk悲しい気分の日なななだな、といjhhtロリごとをこうはってえyはさしい悲しいウビで静かにやわらかく打ちつけ穴柄音楽ぉをかねえdルのこの一刻一刻が、、、、、実体をなんウィになrというのだろうか、おといm,とおちn遠い、」たkjさんのことが遠くて今はなんだか何があわからないけdれどもmこおうひゃってこうあhってこうやっておうやってこうちぇあytいおうあyってこうやっていおうっや8ytけおこyたこてやこうtyやttけおうやおこうとやこうてやおおうおちゃけぽういたおこあうてあjかおうやてこっtyかおうちょえkとあっやてtかおきょあtこえや」こうてあypっtけおやっtけおあこうてやtkとえうやtkておよあtあておtyあ軒を続ければ兄¥飼うぃ居kとおがあろうのうだオルカ友思うけれどもどうこにどうあって

づうけてばいいのかわkらないということただたださ今はなんだから市rないあけれどもそうよおいしようもなくうな市域がするからにっtと音はぬファ0ルジ¥0zのことでもあんがえてt板にほんのホ日本ハムファ地¥居た―ずのことでもかんげて前を向くことにして最大11m4毛0ムサgあったのがおととう居うオリックスに逆転連日の逆転勝利をおsめてことでとうとう0,5げ0むさにまで縮まってしまったこのといがk,tきてしまった、そえがとんでもないそれがとんでもないというかまさかここおまでやってしまう対戦成績を火g萎えるとあはというむしろおののきに近いし何かkんきに触れるおこないなのではないかという気がすらしたくれくる、なんせあ知恵は相手というかあれはホークスであり0,5差までいっていい相手じゃなかったはずなのにどうしてここまで根気の日ハムは強さを見えているのだろうか、例年通り買ったり負けたりなんだかぼやぼやしていて最後は2以下3位になっているみtな、そういう死0ズンになるかと覆っていたのだけど0,5差まで来てしまった、ここまで北条、とどうsていお思ってしまう、こんなことが起きるなんて、プロの選手というのはおモジュ者だろうだのおるか、絶対に買ってやるぞと、カツンだと、勝てるんだろt、大ウエルものなのだろうか、あそこまでまえほうb杏的にさき用というかどうやってたってという感じだった相手を前ん居s亭

、いあyだいじょうb甕だと、そういうふうにお目折るものなのだろうか、想像もつかないsメンタルで、すごいというかすごいね、今年はクライマックス理r-図出所地0むはすでにキマった感がセパともにあるけれども、癒せはわからなかたtりするのかな、ヒョコ浜が落ちる可能性はやっぱりあるのかな、あだとしても、ことはクライマックスシリーズ擬態がでょのつ二わおづなのるんかわkらない感じがしてそれが楽しみだれある、日ハムロッテホークス、そrzろえのとほsのうにわからないkギアする。なので先々の楽しみがあるのがうれしい。先々の楽しみというのはヤフープロ野球上の画面上でぢさうぃ来あっけを見るという楽しみえで、大谷がホームランを打ったら花火が上がるし中田が打っても上がる、それ見てアガればもう上場じゃないなおかな、人生


3月

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金麦を買ってベンチでなく歩きながら飲むことにした営業中にiTunesの整理というかをやっていたところふいに「」と思って聞こうと思っていた音楽があった ペピン結構設計、ポエムの獣のサウンドトラックで、ビューティフルハミングバードの「青葉」という曲だった、それを聞くと思い出す景色が、特にはなかった2004年とさっき調べたところで出てきたから2004年のたぶん夏に夏休みに馬車道のバンクアートでそれは上演されていた僕はそれをなんのあれだったか手伝っていた本番の時間舞台の左側の隅っこで、何をしていたんだったか、なにかのタイミングを図っていたような気がするが何をしていたのか覚えていない青葉を聞いた、それから古井戸のねえ君を聞いた、「ねえ」がくぐもるときとてもセクシーだった 昔ほどみんな僕のことを嫌ってないみたいだよ ねえ三時のお茶にしないか それはとてもいい曲だったそのあとオフコースのすきま風を聞いた なにも覚えていない、スクール水着を着た人物がいたことは覚えている、左隅にいたことは覚えている、それらの音楽が流れたことも覚えている、それ以外は覚えていない それで歩きながら金麦を飲んで歩いてまっすぐに坂をくだる道を行こうかと思ったが途中で入ったことのない左の道に入ったらすぐに山手通りにぶつかって山手通りをすこし上がってまた左の知らない道を歩いた 邸宅と呼びたいものがいくつもあった 燃やした、夢を見た、何かを燃やそうとした、何かを爆発させようとした夢を見た、となりに  がいた。だからそれは悪夢だった。燃えなかったからといって悪夢ではなくなるとはいえなかった。燃やそうとした時点で、だから殺そうとした時点で、自分も含めて殺そうとした時点で、悪夢だった、不発に終わってほっとした

音楽はおくすりだと、歩きながら金麦を飲みながら煙草は吸わないで思った 怒りややるせなさが次第に形をうしなっていった なににたいしてやるせなかったのかわからなくなっていくようだったそれは嘘だったやるせなさはどこまでもついてきた憂鬱というか沈鬱が だからここのところだからなのかだからじゃないのか憤りrage rage against the dying of the lightだっけ、忘れたわ、 死にゆく光に怒れ怒れ怒れ怒れという気分がそれをさせるのかロットバルトバロンの、やっと名前を言えるようになったロットバルトバロンのモンスター、氷河期を、聞くし、外れた音程を気にしないで歌う 僕らはこの部屋を飛び出した 胸いっぱいの怒りをかかえて このふざけた世界を終わらせてやるんだだから夢のなかの僕もこのふざけた世界を終わらせるために何かを爆発させようとしたのかも知れなかった なにかしら、機動隊だか何かがやってきた 僕は捕まったのだろうか ほんとうにどちらでもいい話だ どちらでもよくない話をしたい 死体と変換された 必要ない変換をしたせいだ ぜんぶ僕がいけない どちらでもよくない話をしたいしかしダレと 誰とそれをしたいのか わからないわからないのかほんとうに、ほんとうはわかっているのではないか音楽はお薬だいいお酒にはいいお洋服を着せないとと、それは決め台詞なのだろう、書かれたとおりに言われた それはしかしたしかに私を感動させたしその時間わたしはこのままでは骨抜きになってしまうと、ここに長くいてはならないと、ならないと、そのように、たしかに、恍惚としながら私は、そのようにたしかに、思った 話はしなかった ほとんどしなかった 話はいらない恍惚の時間がたしかにその場所にはあった要らないというよりは余計というのが正しい。 それがいつの夜だったか火曜だったか月曜だったか、わすれた わすれてない 疲れた だからそれで保坂和志のプレーンソングと草の上の朝食を読んでそれは大らかな幸せを私に与え実際それに影響された気分を持てて幸せを感じながら、でも二冊続けて読んでもしかしたら現在を世界を肯定するのに少しつかれたのか無理があったのかもしれない、次に季節の記憶なりカンバセイション・ピースなりに向かおうかと思っていた手はその棚に伸びない いま本をどれを読んだらいいかわかっていないし、どれかを読みたいと希求していない感覚があるだからプロ野球選手名鑑を読むし、変化球の持ち玉なんてみんな以外に似ているものだ。スクリューボールやナックルボールを投げるピッチャーは山本か前田以外にはいない だからプロ野球選手名鑑を読み飽きたら(そんなことが可能ならば)シモーヌ・ヴェイユに手を伸ばしたし、次は、次というほどヴェイユを読んだわけではないけれど断章、偶景、ロラン・バルトを読むだろう、好きだった 偶景という言葉も好きだったし昨夜だったか、酔っ払った頭でボラーニョのセンシニを久しぶりに開いた救いを求めて開いた それで数ページで酔っ払った頭で寝た 落ちたその3時間たたないあと起きた暮らしがこのようなものであるのと同様に睡眠までこのようなのかと半ばあきれながらいくらかの朝の朝未満の時間をすごしてまた寝た ボラーニョ センシニ、バルコニーの夜 二人は話すだろう酒を飲んだか煙草を吸ったか、どちらでもいい、その夜があったことが私を生かす。それは大げさな言い方だろうか そうとは思わない ジャストな瞬間が、あれば、それでいいと、彼は言った それを 何度でも 私は 思い出し 本当にそうなのか?と いったん投げかけながら でもたしかに それはそうかもしれないと 思う でもそれ以外に 生きていくうえで しかし生きていくことが本当にそんなに必須なことなのか 人生を生きる上で生き続けることが本当にそんなに必須なのか ウソウソ 自分を絶てるほどに私というか僕というか俺は強くなんかない みっともないかっこうのままいくらでも生き続けるだろう 知っているそうなると そうなることしかないというのは知っている未来は明るいということも知っている と、1年前だったらそう言っていただろう 弱々しい笑顔かもしれないけれどもそう言っていただろう でも今はどうだ 今はそんなに自信がないのではないか 未来は明るいと、どれだけの確信を持って言えるだろうか なんでいまお前は現れたのだろうか、交差点、なに交差点だったか、わすれた、交差点、役所と、イトーヨーカドーのある交差点、岡山、なんでいまお前はその姿を俺の前にあらわしたんだ 人生が混沌としていく 貧しい混沌 軽薄な混沌 そういうものがいまのじぶんにはとてもにあっているようなきがするくそみたいなこのきぶんというかくらしというかぜんぱんをどのようにしてどのようにしたらいいかしがつむいかだかなのかだかしらないけれどこのはるのくそのようなよるにわたしはとほうにくれながらだけんだけがぼくをすくうのではないかといちるののぞみをかけてみたがどこにもこれはたどりつかなかっただからまたぼらーにょでもよみながらくそみたいなねむりにおちるかおちてまたさめるかしてそれでまたつぎのいちにちをはじめればいいかもしれないそれにどんなかちがあるのかはわからないけれどあなたがよみたかったのはこんなぶんしょうですかはははっはははははははははっははははははははははhとゆびでわらってみたけれどなにもおかしくないねいちみりもおかしくないだけんだけんこのゆびがうごいていくうごきはたしかにきもちいはくしのこのはくしというかうすきいろのこのきゃんばすをこうやってよごしていくかいかんそれはたしかにあるねたいぷみすすることもなくうそたいぷみすたまにしながらちゃんときれいにけしながらこのようにゆびをゆびをゆびをゆびをうごかすのもそんなよるもゆびをうごかすそんなよるもまったくわるくないかもしれないねしらないけどね


3月

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昨夜はホアキン・フェニックス見たさに『her』を見てきた。ホアキン、ホアキン……と日々思っているわけではないにしてもホアキン・フェニックスこそが最高の俳優ではないかと思っている節があるので見たかったので行ってきたわけだけど、もちろん節々で「ああ、ホアキン……!」というところはあったとは言え、私としてはもっとホアキンの顔をじっくりと見たかったといういささかの不満が残りはした。その一方で止めどなく涙を流し続けてもいた。

私をしたたかに打つポイントはあれこれとあったけれども、リアリティなんて何に対してでも生まれうるわけで、生まれさえすればそれはバーチャルとか関係なくて誰かにとってのリアルなわけで、感情を動かすかどうかだけがリアルさの線引きのわけで、だから肉体を持たないコンピューターに恋をするなんていうのはまったくもってありで、そのありな感じを(多分)否定せずに描き切ってくれていたところが私にとっておそらく最もよいところだった。デートでケラケラ笑いながらくるくる回る運動こそがリアリティのダンスと言うんだよ!と。スカーレット・ヨハンソンのかすれた笑い声につられて笑っちゃうあれこそが親密さの形なんだよ!と。そういったあたりに大変つよく感動した。最後がよくわからなかったのだけど、否定していないんだよね、あれは。やっぱりヒューマンだね、みたいな手紙だとか屋上なんだろうかあれは、違うよね、と思っているのだけどどうなのだろう。もしあれがコンピューターのおかげで人間らしい感情を取り戻せました、やっぱり人間、っていう手紙だとか屋上だとしたら、私はすごくさびしいのだけどどうなんだろう。そしてまた、どうでもいいけれど、OSなきあと寄り添ってみせた二人は穏やかそうだからいいけれども、きっとあのあと多くの訴訟が起きるのだろうなと思った。大切な大切なパートナーを奪われたわけだから、すごい精神的なダメージを受けました、というのはとても多くあるだろうな、と。昨日今日と変な酔い方をしてしまって頭が痛くなったり吐き気を感じたりして、どうしたのかなと思っているのだけど夜はアイスコーヒーを淹れて飲むし、よく胃に膜を作ればみたいな話があるので今晩に関しては帰ってからカフェオレを淹れて飲んで、後からでも大丈夫ですか?と問うたものの時間の経過とともに薄ぼんやりとした頭痛等は遠のいていく、それを確認して今に至る。ここのところ立て続けにというほど大したことではまるでないのだけど少しずつ料理のリハビリを、みたいな感覚があるらしくて、春季キャンプみたいな感覚だろうか、キャンプ前の自主トレだろうか、体をならしていかないとね、というところがあるらしくてパソコンの横のメモパッドには「とり パクチー トマト レモン スープの材料」とある通り先日に関しては友だちの家に行ってカオマンガイとナスの揚げ浸しとトマトの黒酢生姜和えみたいなものとスープを作って振る舞うということをおこなった、変な酔い方をした昨日についてはグリーンカレーを作った、先日外で食ったカレーに塩もみ野菜が乗っていてそれが心地よかったのでいささかも私は世界というか世間というかそういったものに屈する必要を感じないわけでもなく実際銀行というものの脅威を感じてどこまで媚びたらいいのかと考えてしまうわけだけど、一方で二日続けてどこかから小気味いい卓球の打ち合いの音が聞こえてきたのは私の頭の中で発生した何かによるものだったのか。区役所、銀行、親、金せびっているあいだにどんどんと通帳の残高は減っていって私は可能ならば小気味いい程度の稼ぎを得ながら安心して暮らしたかった。と言いながら、まるでうんざりしない。全然どうでもいいしどうとでもなると思っている。このあたり、今の私はわりと強気にできているので心強いしいつまで持つかな、と思いながらも早く起きることが可能ならばこのあとに煙草一本吸って寝てやってもいい。映画を見たあと無性に酒が飲みたくなったので珍しくバーなどに入ったわけだったけれども、やっぱり一人でバーとか行ってみてもなんともいえない時間を過ごしてしまうのだなということを改めて思った。隣の隣にいたおじさんと少しだけ話したりもしたけれども、少ししたら席の大方が埋まり、そうすると話していたおじさんも他の人と話し出し、私は壁とか手元とか酒瓶とかを見ながら酒を2杯飲んでいそいそと帰ったわけだった。3000円。3000円で私はなんとも言えない居心地の3,40分と2杯の酒を買ったわけだけど、それは適切なことかどうか。酒を一人で飲む選択肢の(私のような人間にとっての)乏しさ。ゴーヤとみょうがときゅうりを塩もみしたやつを福神漬け的な立ち位置で供した、つまるところつまってはいないながらもタイに行った友だちの土産でいただいたカピという甲殻類的であるということ以外は何もわからないペーストのようなものを両日、用いた。今調べてみたら「タイの蝦醤」と出てきた、そんなさらっと蝦醤とか言われても、なんですか、その蝦醤っていうのはそんなに流通している語なん生きていること自体が後ろめたさをそもそも伴っているというかいつもビクビクしているというかいつもバレたんじゃないかと思っているというか何がバレたとか具体的にあろうとなかろうと全部バレたんじゃないだろうか白日のもとにさらされたのではないだろうか彼らが裏でつながってそういった流布がおこなわれているのではないだろうかこれは陰謀なのではないだろうかそれに俺はまんまと引っ掛かったのではないかとずっとずっと思っている生きていることそれ自体が裏切りのような行為にしかならないのだろうか裏切るとか裏切らないとかが何も具体的なものとしてたとえないとしても僕は俺は私は俺はいつも何かにおびえて生きているような気がするそればっかりを私は俺はそう思うというか酒を飲みたいというか酒を飲みたいというか酒を飲んで意識を全部眠らせてしまいたいというかこういったあれこれが全部消えて溶けて嘘になったことが本当になればいいのにと思うというかいつも誰かに釈明をしているような気がするいつも誰かに真意はそうじゃなかったんだ本当はこうだったんだあれは嘘だ嘘じゃないけれども決して本当ではないんだといつもずっと高校生の時から中学生の時からいや小学生の時からそんなのは覚えていないけれどもいつもそうだったような気がする。いつもそうだったような気がする。クリーンに生きることができたらどれだけいいかと思うけれども映画を見たいし酒を飲みたいし飲み交わしたいし誰かと話をしたいしそんなのは全部でたらめだと妄想だとどうでもいい些細なことだとそう言われ背中を叩かれ嗚咽しながら私は嗚咽なんて久しくしていないから嗚咽を久しぶりにしながら私はよかったと、本当にそのときに思えるのか。それは私にはわからないし今の私にはわからないし心底からいま孤独だと思う、辛酸を嘗めている、自分が撒いた辛酸をわざわざ這いつくばって舐めている、それは辛酸というだけあってホットでサワーで舌がヒリヒリと痛む。頭おかしくなりそうだ。頭を抱えるという動作が自然におこなわれた。度。4度。5度、そして電車に乗っていたらそれは今日もそうだったというわけではないにせよ埼京線と湘南新宿ラインが並走する時間帯というものがあり、付かず離れずで前後しながら向こうの車両に乗る人を見る時間帯というものがあり、それは私に明確に『親密さ』の記憶を喚起させた(した?)、そのため「親密さ 駅」とかでググって調べてみたところ田町じゃなくてどこだっけな、田町だっけな、田町なんじゃないかということがあり、あれは山手線と京浜東北線だったのかな、田町なのかな、田町か、と思って私は感動した。それではあの橋はどこだったのだろう、丸子橋とのことだった、検索結果を鵜呑みにするならば。それらを思い出せばいつだってグッとくるし、いつだってその脳裏に現れる映像だけで素晴らしい映画一本分の満足を得られるような気がしている。『親密さ』は私にとってそういう映画だった、という話を昨日と今日、友人に話したという事実はどこにもなかったけれども、だからといって昨日や今日の記憶の価値が貶められるかといえばやはり、そんなことはまるでないのだった。夏休みらしく日々、駅近くの駐輪場はたくさんの自転車の駐輪によって占拠され、停めるところを探すのに苦労するようなこともあったような記憶が定かではないけれどもあり、日本の子どもたちはどうか知らないがチリの子どもたちは9歳とか6歳から「ここでの僕たちの生活自体がいつもオペラみたいなものじゃないか。今さら何がおかしいというんだい?」みたいな口のきき方をするのかどうかは確たる証拠はないながらにもするらしく、するらしくというか少なくともホセ・ドノソの『別荘』においてはされており、ドノソは『境界なき土地』以来2冊目となるけれども、この2冊を見る限りこの作家は狂気とか奇形とかそういうことがきっと好きらしく、しかしそれ以上のことは私にはわからないので9月16日あたりに池袋のジュンク堂だかどこかでおこなわれるという佐々木敦と野谷文昭のトークイベントにもしかしたら行って「ふむふむ」であるとか「なるほど」であるとかの愚にもつかないリアクションをして満足して家帰って寝る、みたいな暮らしをし始めたということもありうるのかもしれない。


2月

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生きとし生けることが本当に楽しくて毎日が楽しいから本当に毎日楽しくて楽しい。人と話すのも楽しいし本を読むのも楽しいし映画を見るのだって楽しいし仕事も楽しいし、なんなら買い出しだって楽しいし、ジムに行って走ることもまた、そして眠ることだって、あるいは洗濯をすることだって歯磨きをすることだって楽しいから全部が全部楽しく本当に楽しい。そのことが嬉しくて意識が空よりも高く飛翔して高く舞い上がりすぎたために太陽の熱で羽が焼けて海に失墜するイカロスのように楽しい。父親であるところのダイダロスがそれを嘆き、かつてダイダロスが殺そうとした弟子は今ではミネルウァの思いやりによって鷓鴣に姿を変え、ダイダロスの嘆きを見るのも楽しい。ダイダロスは鷓鴣だった青年を殺そうとしたわけだけどそれは彼が妹の息子だからだったからではなく、コンパスやのこぎりを発明するという才能を見せつけられて妬ましさを覚えたからミネルウァの丘から突き落として殺そうとしたため楽しい。ダイダロスがなんでクレタの島に亡命を余儀なくされのかは多分書かれているのだろうけれども私が読んだのは第8巻だけだからそれ以前に書かれたことは知らないから楽しい。それらが書かれた変身物語は意想外に楽しいので普通に楽しく、また、アイルランドを知ろうと思って教わって買って読んでいる『アイルランドを知れば日本がわかる』もまた、とてもわかりやすいしアイルランド人ってそんなにアメリカに移住していたのかーというまるで知らなかったことがたくさん知れてやっぱり楽しい。昨日は休みにしたのでシネマヴェーラに行ってワイズマンを2本見てきてそれは本当に充実した2本で楽しかった。『最後の手紙』と『ミサイル』で、『最後の手紙』は今まさに殺されようとしているユダヤ系ロシア人の女性が息子に手紙を書くというその書く言葉が女優によって演じられ続ける60分くらいの作品でものすごい照明がものすごいし老いた女優の顔の皺の一本一本があまりに美しく、その一挙手一投足があまりに美しく、例えば話しながら小刻みに曲げられる指先の動きがあまりに美しく、顔に落ちる影があまりに美しく、こぼれる涙があまりに美しく、どういった企画で撮られた作品なんだろうというのは多分調べれば出てくるのだろうけれど今の段階では私は知らないけれどもすごくいいものを見た。希望はそこでは合理性にもとづかなかった、ゲットーは世界一希望で溢れた場所になった、女の口から発せられるそれらの言葉、言葉、どの言葉を取ってみても胸を突く、胸を突くなんて言い方じゃあまりに安いのだけれども、ともあれ、すごくいいものを見たということは間違いのないことだったそのあとの『ミサイル』もすごかった。核ミサイルっていうのか、を発射させる地下室で働こうとする人たちの講習を撮ったものだったけれども、まず「核ミサイルを発射させる」という仕事があるというかそれはもちろんあるのだろうけれどもなんというかその事実を突きつけられるというか目の当たりにするとそれだけでうろたえる。発射ボタンを押すということに対する道義的な責任はないと、それを確信するというその確信がいかなるものなのか、まるで想像がつかない。誇りを持てと、それは抑止力として絶対的に必要な仕事なのだから、誇り高い仕事なのだから、誇りを持てと、それはそうなのかもしれないけれども私の想像の範疇をとっくに凌駕したその業務というのが存在するということそれ自体がなんというかとんでもないというかものすごいとんでもないというかそれがだからとても楽しい。地球を見事に終わりにさせるスイッチを押すことが仕事という仕事というのがあるということがなんというか何度でも書くけれどもなんて恐ろしくそして恐ろしいとかウブなことを言っていれば済むわけじゃないということもまたわかるからなんだかもう本当にとんでもない。それで楽しい。彼らの演習の様子を見ていると彼らが押すのか、押すとしたら彼らが押すのか、いやそれは本当にすごいことだ。地下室のその部屋で待機をし続ける仕事。それがあることが本当に人智みたいなものをとっくに超えている感じがして恐ろしいというか恐ろしいという言い方では違う恐ろしさで本当に恐ろしいと私は感じる。演習の模様はまったく見たことがあるそれだったのだけれどもそれはアルドリッチの『合衆国最後の日』だったか、あるいはトニー・スコットの『クリムゾン・タイド』だったか、鍵の回し方だとか全部見たことがあった、クリムゾン・タイドだったかしら、楽しい。私は昨日は休みだったので久しぶりの休みは本当に楽しかった。休みだから楽しいというわけではなくて毎日が楽しいからその日だって当然楽しいのだけど一刻と一秒のどれもが私は楽しかったしだから飲んだし楽しかった。楽しかったから楽しかったので今日をまた労働者として迎えて楽しかったし本当に楽しい日が一日前にあっても次の日がまったく楽しくない苦しい苦虫を噛み潰す辛酸を嘗めるそんな日であっても楽しいから楽しいと言えば楽しい。このままじゃまったくやっていける気がしないということを痛感するような土曜日であったとしても楽しかったと言えば楽しくなるかと言えばまったく楽しくならないのだけど楽しくてしかたがないから楽しい。一日が悲惨なんだけで何もかもから世界から何もかもから見放されたような気分になる脆弱このうえないメンタリティの持ち主だから私は本当にダメなんだけど楽しいと言えば楽しいという文字が踊るからそれを見ていても虫唾が走るだけであとは酒を煽るだけで楽しい。何杯も杯を重ねて意識をこの硬直したクソみたいな意識をとろけさせてなんでもよくさせればそれで夜は越えられるからとても楽しいから楽しいし楽しい。消えてしまいたいしすべてを殴打したくなるし何もかもが破壊されて何もかもといっても核ミサイルとかによってではなく例えば私の握る傘だとかによって身近なものが破壊される程度に何もかもが破壊されてしまえばいいと思えばとても楽しいし楽しかったら楽しいったら楽しい。全部から見放されたような気になんて一つもならないし以上は全部嘘というか作り話というか楽しいというのも嘘だし楽しくないというのも嘘だからそれこそが楽しいというか楽しいったらありゃしないっていうレベルで楽しかったり楽しすぎたりしなかったりしてとても楽しいし辛いとか苦しいとか未来が見えないとかそういう見えなさとか辛さとか苦しさだとか無理解だとか理解されないだとかメッセージは誤配されるだとかメッセージは未達で終わるだとかそういった全部が人智を超えた楽しさを私にもたらすから楽しいし楽しくあろうとすればそういったまったく理解不能の他者だって楽しいから理解なんてしたくないような虫唾とか走ってもいいよって言ってくれる他者がいてくれることが私は本当に楽しいし楽しいといえば楽しかったり楽しすぎたり楽しくなくはなかったり楽しいったらありゃしないったらないっていうことはないっていうレベルで楽しくて嬉しくて幸せでハッピーであれで嬉しくて楽しくて嬉しいし楽しくてハッピーで幸せで楽しい。