8月

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今日は家から出ていないので推測の域は出ないのだけど近所で夏祭りみたいなものがおこなわれているらしく、暗い空を伝って盆踊り的な歌やマイクを通した男性のアナウンスが聞こえてくるし今は踏切の音がした。今日もそれなりだし昨晩もそれなりに、そしてあれは先週の火曜あたりだったか、とても寒い夜があって、夏真っ盛りのはずのこの時期に寒さというものを感じてしまう日が一週間のうち3日もあると少しばかり不安にもなったし特に火曜日は、不安を越して一気に切なさにやられてしまった。覚悟していない中で訪れた寒さに私は抗う準備もなく、キラキラした60デシベルくらいの町に一人たたずみ、やばいやばい、と思った。

 

その週は、お盆とのことだったので高校時代の友だちと飲む日と中学時代の友だちと飲む日があった。高校時代のその友だちとは半年か一年に一回くらいはずっと会っているので感慨は特にはなかったのだけど、中学時代の友だち二人と飲んだときも特に感慨はなかったというわけでもなかった。

一人は中学と高校が一緒で大学はキャンパス違いという方で、一人は中学が一緒で、卒業するまで知らなかった気がするけど大学がキャンパス違いだった方だった。後者の実家が岡山にあるとのことから何で知ったのだったか、店に来てくれて、初めて来てくれたときは久しぶりすぎたし中学時代に仲が良かったわけでもまるでなかったのでびっくりしたというところだったのだけど、それからも帰省のたびぐらいの感じで来てくれて、この春くらいにも来てくれたときにまあ今度飲もうかみたいになったというところから今回そのような形で飲むということがおこなわれたわけだったのだけど、そういうことはとてもいいことだと思った。

 

私はその友だちのことを、中学時代も親しくなかったし大学時代も関わりがなかったこともあり、ほとんど何の属性も持たせないで認識しているところがあるらしく、もちろん飲んでいる中では中学時代の話などもあれこれと出てはいるのだけど、あれは一体なんだったのだと言われればなんだったのだろうというふうに言わざるをえないけれども、そんな話がひと通りされたあとに大宮駅周辺のことが話題として挙がり、彼も大宮駅周辺をよく知ったようなしゃべり方をしているので「あれ、大宮なんで詳しいの?」と聞いたのだった。

酔っていたとは言え、その私の錯誤は少しばかり気持ちがいいものですらあった。なんらのフォルダーに整理することなく人と接するというのは、それはとてもプレシャスなものではないか、と私は、私だけ一人その場で「うわーこれプレシャスー」と思って喜んでいた。

 

あきらかな流れの分断を経てのとても久しぶりという瞬間はいつだって、もしかして人生ってすごいものなんじゃないのか、という気に私をさせる。

それはこんにちわ、はじめましてハロー、よりもずっとすごいことのようにいつだって思える。

 

だからいずれの夜も楽しかったしそれ以外の晩については誰もいない家で飯を食ったり飯を食わなかったりしていた。亀田製菓の「堅ぶつ」という揚げ餅を夕食としたこともあって、今日は一日中事務的な仕事とか荷物の整理とか部屋の掃除とかをして勤勉な感じで過ごしたわけだったしこの3日間は酒を飲むこともなく、マルコ・ベロッキオの『眠れる美女』をツタヤディスカスでずっと借りているのだけど今月に入って一気に映画を見る時間をうまく捻出できないというのは大嘘で気分とかタイミングが乗らないので見られず、だから『眠れる美女』もずっとずっと放置されている。8月頭に家に届いたのではなかったか。イメージフォーラムで『イーダ』と『ドライブイン蒲生』を見たいのだけど、どこかで私は向かうのか。

 

金はいつだって大切だと思うし、無収入の身だとお金を減らしていくことに対する恐れがあって、そのときに映画館で1800円というのは私にとってわりに大きなことらしい。これは不思議なもので、本を買うことは私はさし控えてはいなくて、本1冊1800円くらい掛かることなんてザラだけれどもそれは全然どうってことがない、飲みに行って5000円とか使うのも問題ない(でも「寿司にする?」と言われて「一晩5000円くらいにおさめたいところなので居酒屋で」とは答えたので5000円くらいにはおさめたいらしい)、でも2時間の映画1800円に対しては、どうも遠くなるみたいだ。

いやこれはお金の問題ではない。お金の問題であるならば家では7月と同じようなペースで見ているはずで、家でもまるで見ないということは2時間という時間枠を今なんでだかうまいこと持てない、というところなのだろう。たしかになー、そうかもしれないですねー、と思いました今。なんかわかるー、その感じわかるー、と思いました。2時間ぐらいぼけーっとしていたらすぐに経っちゃうしそうやって時間をゴミ箱に捨てるみたいなことはいくらでもしているのだけど、「いざ、2時間」という感覚が今はあまり持てないらしい。常に、店に向けた何かを考えなくちゃ、その準備というか気構えを持っていなくちゃ、みたいな部分があって、だから、読書であれば、何か考えたこととかが現れたらすぐに本を置いてノートに向かうとかパソコンに向かうとかがしやすいけれど、映画だとその中断に対する罪悪感とか自己嫌悪とかが生まれるので、

 

ということなので私は映画に対しての方が義理堅かった、という結論が出ました。本はいつ放ってもいい、と考えている、ということでした。

 

果たして事はそんなに単純だろうか。

 

エレナ・ポニアトウスカ『トラテロルコの夜』を読んだ。佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット』を読んだ。伊藤洋志監修『少商いのはじめかた』を読み始めた。ということをFacebook等のところで書いて、私は吝嗇で流れ消えていくのがもったいないと思ってしまうのでここにストックするために貼り付けとく。どんなに些細なことでも、私はなんというか、書いたことをストックしておきたいと思ってしまう性分で、これはもうなおしようがないことはないのかもしれないけど特になおしたい気もしない。

 

「エレナ・ポニアトウスカ『トラテロルコの夜』を読んだ。1968年10月にメキシコのトラテロルコ広場に集まったデモの学生や一般市民に対して、政府によって動員された軍隊が銃撃して数百人を虐殺したという事件についての、たくさんの証言から構成されたコラージュ的ルポタージュ。

最近読んだり見たりしたものの中でも群を抜いて「ひでーなーこれ…」という感想。どう見ても丸腰の人々や逃げ惑う子供まで軽々と殺されたみたいで、拘束後の拷問とか見ていても人間が持つ嗜虐性って天井知らずだなーと。人間ってここまで非道になれちゃうんだなーと。善人とか悪人とかの問題ではなく。

「社会風紀の紊乱」とかでしょっぴく警察、国民との対話に応えようとしない政府、何も報じようとしないメディア、みたいなところで、なんか重なるところあるんじゃない?というか、無知ゆえの心配だろうという自覚はあるけれど、日本ではこんなふうにならないといいな、と強く思いました。」

 

「黄色い本を2冊買って昨日今日と読んでいる。かつてはただの文学青年だったはずなのになあ…と思いながら、まあ必死で生存していかなきゃいけないし、しょうがないですよね、ありですよね、と言い聞かせつつ、単純に楽しくもあり。

佐々木俊尚の『自分でつくるセーフティネット』は著者のメルマガを購読している(!)ためか特別目新しい内容はなかったけど、どんどんパブリックな感じになる社会なんだし、いい人であると何かと便利になるはずだよね、という内容で、そうだよなあと。負担ない範囲で人に何か与えられる人になれたらいいね。

最近のツイートでも冷笑的であるより前向きの方がいいよねみたいなのがあったけれど、本当に共感。ネット見るたびにささくれだったり誰かディスって溜飲下げたりしてもバカみたいだし。みんながみんないい人になったらそれはそれでやっぱり息苦しいだろうけど。

『小商いのはじめかた』はまだ読み始めだけど色々な小商いの事例があって読んでいて心地いいしよさそう。元手なしで店とかとてもナイスだなあ、普通に金かけちゃってるよ…と。読んでいたらふいに「これは儲けになるかも…!」みたいなこと思いついて電卓叩き始めたりした(ゲスい。いやゲスくない)」

 

夜が来るたびに叩きのめされたような気になるというのはあながち嘘ではなかったし、両親の会話をぼんやり聞きながら夕飯の皿の洗い物をしているときは目をぎゅっとつむりたくなるというのも本当らしかった、とのことだった。明日からまた店を作ることや金を借りることに力を尽くしたい。


8月

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風が気持ちいいくらいにゴーゴーと吹いているがそれは煙草を吸いにベランダに出るときしか聞こえない。それ以外の時間はエアコンをちゃんと効かせるために窓を閉めているためであり、今日は工事が休みのため家でずっとパソコンに向かって開店に向けたあれこれをやっていたのでほぼ100%の時間を仕事というか開店に向けたあれこれに費やしていた。真面目だなあとも思ったけれど、そんなものなのかもしれない。でもやっぱり真面目ということで自分を称えておきたい。

 

昨日の晩、家に帰ってきてわかったということではないにしても両親はお盆を田舎で過ごすためにいなくなっていた。一週間ほど一人で暮らすことになったので昨晩はトマトソースのパスタとモロヘイヤとモッツァレラチーズのサラダをこしらえて食べて、今朝はご飯と納豆を食べた。スペイン風のピザらしいコカというやつの生地を再び作って、今度は上手というか妥当に作ったので夕方、腹が減ったところでそれにトマトソースとチーズを乗っけて焼いて食った。その直後におとといの晩に焼いたチーズケーキを食らった。バニラオイルを少し入れてみたのが奏功したのか、リッチでラグジュアリーな味わいだった。ラグジュアリーの意味をあまりわかっていないで使っているが、おそらく誤用だろう。

そのあともずっとパソコンに向かってテキストを打ち続けていたので、夜が更けて腹が減ってもなかなかご飯を食べようという気が起きず、結局11時ぐらいになってからやっと重い腰をあげて、トマトソースを掛けたオムライスを作って昨晩作ったサラダと一緒に食べた。ベーコンと椎茸、ケチャップ、バルサミコ酢でご飯を炒めた。

つまりここ4食中3食にトマトソースを使っており、トマト缶についてはつい先日初めてホールトマトとカットトマトで使っているトマトが違う、ホールトマトは長細いやつを使っていて甘みが強い、みたいなことを知った。それはクックパッドの掲示板みたいなところに書かれていたことだったし、クックパッドの存在についてはなんというか100%肯定したいというか、私が否定したところでなんの問題もないだろうけれども100%肯定したいと私は思っているつまり好きだ。

 

私はできるだけ物事を肯定しながら生きたいと前々から思ってはいるけれどもちょっと気を緩ませたら簡単にディスの方向に気分が流れるからその批判的な傾向をどうにか抑えるというか批判的であることも必要だとは思うけれども、それでも気持よくあるためにできるかぎり肯定的でありたい。

今日読んだホットエントリーに入っていた記事で、私はけっこう感動しながら読んだのだがブコメを見ていると「釣り」みたいなものが多く、たしかにそれは釣りかもしれない、しかし釣りだとしたらなんだというのだろう、と私は思った。釣りだったらそこで得る感動は減じるのだろうか。私はそうは思わないし、そんなことを言ってしまったらフィクションなど一つも楽しめない。フィクションであろうとリアルであろうと、文字が書かれて、それが読まれて、物語が私のうちに生起したら、そのあとの問題は響くかどうかだけだ。響かないリアルならば響くフィクションの方がよほど大事なような気がする。釣りと断じて何かせいせいした顔をしている人たちはフィクションの力を、想像力を信用していないのではないか。創造力ではなくて想像力だ。というわけでまた簡単に批判的になった。

 

東浩紀の『弱いつながり』を先日読んだ。あずまひろきで変換したら最初に出たのが東大生だったのだけどこれはいったいなんなのだろうか。それはともかく、本書が言わんとしているのは旅に出よう、否応ない変化の中に身を投じて異なる検索ワードを手に入れよう、世界を拡張させよう、ということだったと思うのだけれども、物理的に異なる環境に身を置くことはたしかに大事というか豊かだと、私も、それは旅ではないけれども、新しい環境で今まで経験したことのない段階を暮らしているとそれは本当に思う。施工管理屋さんを始め、大工さんとか設備屋さんとか、今まで関わったことのない人たちに触れていると、それはとても面白くて豊かだと感じている。私は今着々と新しい検索ワードの機会を手にしながら暮らしていると思う。だからここで書かれた旅は旅でなきゃいけないわけではなくて新しい環境や新しい他の何かでもいいわけで、その中でもっとも手っ取り早く変化がビビッドなのが旅行ということなのだろうと思う。そのためマイルも溜まっているし、どこかで旅行でもしようかな、という気に簡単になった。いとも簡単に。しないだろうけど。

 

そういうわけで『弱いつながり』を読み、『ドン・キホーテ』は後編(4冊目)に入り、それらは新宿の紀伊國屋で買ったのだけど、ホセ・ドノソの新刊が出たみたいだけどラテンアメリカ文学の調子はどうかなとか思いながら向かった棚にエレナ・ポニアトウスカの『トラテロルコの夜』というやつが置かれておりトラテロルコもポニアトウスカもきっと覚えられないし初めて聞いた本だったけれどもそれも買った。藤原書店というところが版元。

トラテロルコは1968年の10月、デモの学生たちを軍隊が武力で鎮圧して数百人とかを虐殺した事件の舞台となった広場の名前で、たぶんメキシコの歴史本を読んだときに知って、それもあって興味が湧いたのだろうし、それから何よりも、エレナ・ポニアトウスカの名前だ(それにしてもよほど慣れない名前らしく、「ぽにあとうすか」と打ち切る前に2回も変換キーを押して台無しにしてしまった)。いくらか前に読んだガルシア=マルケスとバルガス=リョサの対談本で、バルガス=リョサへのインタビュアーを務めていたのがポニアトウスカで、そのインタビューが(大体において下世話な意味で )すごい面白かったので、「え、あの人の本ですか!じゃあちょっと読んでみようかな!」となったのだと思う。昨日の夜読み始めたら15ページくらいで寝てしまった。疲れていたためだと思いたい。

 

今日はベランダ以外で2度外に出た。最初は夕食後に煙草を買いにコンビニへ。次は溜まったビールの空き缶を捨てに外の自販機のところへ。

肩がやたら凝った。ビール飲んで寝る。


8月

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昨夜はホアキン・フェニックス見たさに『her』を見てきた。ホアキン、ホアキン……と日々思っているわけではないにしてもホアキン・フェニックスこそが最高の俳優ではないかと思っている節があるので見たかったので行ってきたわけだけど、もちろん節々で「ああ、ホアキン……!」というところはあったとは言え、私としてはもっとホアキンの顔をじっくりと見たかったといういささかの不満が残りはした。その一方で止めどなく涙を流し続けてもいた。

私をしたたかに打つポイントはあれこれとあったけれども、リアリティなんて何に対してでも生まれうるわけで、生まれさえすればそれはバーチャルとか関係なくて誰かにとってのリアルなわけで、感情を動かすかどうかだけがリアルさの線引きのわけで、だから肉体を持たないコンピューターに恋をするなんていうのはまったくもってありで、そのありな感じを(多分)否定せずに描き切ってくれていたところが私にとっておそらく最もよいところだった。デートでケラケラ笑いながらくるくる回る運動こそがリアリティのダンスと言うんだよ!と。スカーレット・ヨハンソンのかすれた笑い声につられて笑っちゃうあれこそが親密さの形なんだよ!と。そういったあたりに大変つよく感動した。

最後がよくわからなかったのだけど、否定していないんだよね、あれは。やっぱりヒューマンだね、みたいな手紙だとか屋上なんだろうかあれは、違うよね、と思っているのだけどどうなのだろう。もしあれがコンピューターのおかげで人間らしい感情を取り戻せました、やっぱり人間、っていう手紙だとか屋上だとしたら、私はすごくさびしいのだけどどうなんだろう。

そしてまた、どうでもいいけれど、OSなきあと寄り添ってみせた二人は穏やかそうだからいいけれども、きっとあのあと多くの訴訟が起きるのだろうなと思った。大切な大切なパートナーを奪われたわけだから、すごい精神的なダメージを受けました、というのはとても多くあるだろうな、と。

 

映画を見たあと無性に酒が飲みたくなったので珍しくバーなどに入ったわけだったけれども、やっぱり一人でバーとか行ってみてもなんともいえない時間を過ごしてしまうのだなということを改めて思った。隣の隣にいたおじさんと少しだけ話したりもしたけれども、少ししたら席の大方が埋まり、そうすると話していたおじさんも他の人と話し出し、私は壁とか手元とか酒瓶とかを見ながら酒を2杯飲んでいそいそと帰ったわけだった。3000円。3000円で私はなんとも言えない居心地の3,40分と2杯の酒を買ったわけだけど、それは適切なことかどうか。酒を一人で飲む選択肢の(私のような人間にとっての)乏しさ。

無論、そこで人となんとなく関わったり、時にはがっつり話したりすることで一気に3000円が妥当になるのだろうから、見知らぬ人や見知った人と、コミュニケーションを、取るぞ、みたいな気概を持って臨めばいいことなのだろう。あるいは話さなくても手持ち無沙汰でも気まずさはなくて、放心でグラスを傾けられたらリフレッシュ、みたいな心情を獲得した上で臨めばいいことなのだろう。私にもいつか、心地よくバーの椅子に座っていられる日が来るのだろうか。

 

それにしても『her』の副題の「世界でひとつの彼女」は、こんな副題つけて恥ずかしくないのかなと本当に思う。会議とかで「herだけじゃインパクトに欠けるし訴求できないから副題考えましょう」ってなって、では、とか言って「世界でひとつの彼女、なんてどうでしょう」とか発言があって、それで「いやいやいや、去年『世界にひとつのプレイブック』やったばっかりでそれはさすがにしんどいでしょー」となるのではなく「そうですね、去年の『世界にひとつのプレイブック』もそこそこヒットしたし、いい感じっすね」となったわけでしょう知らないけど。そうだと思うととても恥ずかしいなーと思う。どこまでも貧しいし卑しい。すごく嫌だ。すごくすごく嫌だ。

 

そのため今日は遅くまで寝て、そのあとに起きた。どこかで本を読みながら美味しいコーヒーを飲んで、ゆっくり過ごす、みたいなことがとてもしたい、と思ったけれども、このニーズを満たしてくれる場所というのが少なくとも今住んでいる場所だとなかなかない。美味しいコーヒーを出す焙煎屋さんはあるけれどゆっくり過ごすには向いていないし、ゆっくりできる喫茶店は何個もあるけどそう美味しいコーヒーが出てくるわけでもない。美味しいコーヒーを飲みながらゆっくりだったらいちばん身近なところだと家になるのだけど、家では私はゆっくりできないし、一日中家にいたなーみたいなものを許容できないタイプなので、外に行かないといけない。

家が二つあればいいのになと思いました。こっちの家に飽きたらあっちの家に行ってゆっくりして、みたいなことができたらもしかしたら家でも問題ないかなーとか。

そういうわけなので美味しいコーヒーは諦めて別に美味しくもなんともないコーヒーフロートを喫茶店で飲みながら本を読んだら面白い本ではなかったのでつまらなかった。隣の席にたぶん私と同年代の男二人のうちの一人が同僚をディスりまくっていて、イラつく、グーで殴りたい、俺は男も女も区別しないから殴れちゃう、思い出しただけでまたイラついてきた、みたいなことをペラペラと愉快そうに話していた。得意げと言ってもいい。「実力がついてから言え」「ゆとりはやっぱり」等、私がたいへん嫌いな物言いもあったこともあって、私は持っていた本をテーブルに置くまでもなく空いていた右手でその男の頭を強く叩いて、すると意外な力が加わると人間は弱いものだから頭ががくんと前方に倒されることになっておでこあたりでグラスを倒したので机等が全部濡れ、叩かれたこと以上にあれやこれやが濡れたことに対しての怒りが一気に湧いたらしく、お前はいったい何をするのか、という趣旨のことを彼なりに怒気を含ませた声で言い、言われた私は怖くなって荷物をかき集めてダッシュをしたのだがすぐに追いつかれたので観念して「悪気はなかったんです。ごめんなさい」と謝罪したが「悪気しかないだろう」ということを言われて、そういえば『デス・プルーフ』でも追い詰められたら「悪気はなかった」みたいなこと言うやつあったよなーとか思い出しながら、まったくその通り、悪気しかなかったわと思ったのでいっそのこと私を叩きのめしたらいいじゃないかと、店の床に座り込んで人々の耳目を集めた状態で「さあ」「どうぞ」と殴ることを促してみたところ、公衆の面前で人を殴ることにはやはり抵抗があるのか、わざとらしい舌打ちをしてもごもごと何かをつぶやいた後に「いいから濡れた分だけ弁償しろ」と言ってきたため何が濡れてどんな被害を被っているか一つ一つ今から記録しておきましょう、そして実際の損害額がわかったら私に連絡して、それに私が応じる、あるいは応じない、という流れでいきましょう、と言った、ということは起きずにただ面白くもないなーという本を読んでいて、学んだことはなんだっただろうか。簡単に何かを学べるとか思うことは浅ましい、ということだろうか。大切なことを学んだ。

 

お父さんやお母さんと夕飯(しめ鯖か何か、ナスとしいたけを炒めてトマトソースと一緒にしたやつ、ゴーヤの胡麻和え、枝豆、なんか葉野菜を湯がいたやつ、きゅうりとセロリの漬物、ご飯と味噌汁)を食べたりしたのちにお父さんやお母さんが眠りについたら夜が更けた。

 

日本ハムファイターズの大谷翔平選手が公式戦最速タイの161キロをマークしたとのことだけど、この人に関してはもう球速を云々する必要がないように思えて仕方がないような気がしているし引き続きsimi labのworth lifeを何度も何度も聞いているしこの二日ほどはwhyのgeminiをとても久しぶりに、そして繰り返し、聞いては口ずさんでいる。マイ・フェイバリット・ナンバー・である。オールタイム・ベスト・である。ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラのドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの話を読んで・寝る。


8月

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11時過ぎてから「トマトソースを作ろう」という気になったので台所に立ってトマトソースを作り始めたら口元が緩んでいるのかよだれがススーと実にあっけなく落ちた。それが立て続けに2度あったので驚いたので下卑た笑いをこぼした。早く床に入る両親はすでに入眠してから2時間近くが経過している様子だからレムとノンレムの狭間でドリーミンだと思うのだけど、30近くの息子が夜半に台所で一人で笑い声をあげている様子が仮に彼らの耳に入ったら、いったいなにが起きているのだろうか、私の息子に、と思わずにはいられないだろうと思い、それ以降は笑うことを自粛したし、口もしっかり閉めることにしてトマトソースに入れてみた白ワインをグラスに注いで今飲んだ。今は煮込みフェーズのため、30分ほどのあいだ弱火でコトコトとしている鍋を横目に、台所の隣のダイニングテーブルで私は座るわけだった。『ドン・キホーテ』の前篇その2を読み終えた。

 

狂気の共演といった様相を呈してきた。愉快ながらも、誰も彼もが誰かを演じているというその一行が発し続ける無意味な言葉たちは不気味で、

 

 

と、ここまで打って打つのを終いにして、その晩はボラーニョの『通話』の中の大好きな一編である「センシニ」を読みながら眠りに落ちたのだった。新しい土地を暮らしている。昨日、今日とピーター・ブロデリックを聞きたくなるらしくて「hello to nils」を連日聞いた。私にとってそれはすごく大好きな曲だからそれなりにピーターと一緒に口ずさむ、みたいな催しをおこなった。そうやって日々、私も私とて、新しい土地で「ハロー」と言いながら暮らしている。やあ、ハロー、はじめまして、おひさしぶり。そうやって日々を過ごしているし明日から工事が始まる。今日少しだけ重いものを持ったらすっかり腕がだるいので、ハンマーを振り下ろし始めたらたった一振りで私の腕は使い物にならなくなるような懸念があるし早く起きなければならないので心配だ。

 

今日は地元で花火大会があって私はいかなかった。最後にいったのは何年前だろうか、大学生最後の年だったか、フジロック明けの火曜日だった。苗場からの帰りの月曜、私は運転を一人おこなうことに不安を覚えていたこともあり友人に最後まで同乗してもらって深夜のサイゼリアを経て実家まで二人で帰った、ぐーすかと二人は寝た、起きた、起きたら火曜日でその日が花火大会で、私たちは夕方に家を出て最寄りのリカーショップでビールを買って何度目かの乾杯をして、それから友人たちが場所取りをしてくれている田んぼ道まで向かった、楽しく私たちは花火を拝見し、それから一緒だった地元の友人の家にいき、ろくでもないB級映画を見ながら眠った。

だからフジロック帰りの友人はなぜか大宮に2泊をするということをおこなった。そこまでがその年のフジロックの記憶で、その記憶を下敷きにしてその年、一編の小説を書いたしそれはいまだに思うけれどもすごくいい小説だった。書いている時間が本当に楽しくて、家の中のみならず電車の中でも「続きを!続きを!」と思いながら書いたのだった。当然、書いている時間の快楽がそのまま小説のよさにつながるわけなんていうのはないと思うのだけれども、それでもなお、あれはとても出来としてもよかったのだった。フィクション!私たちはあの頃も今も変わらずそうやってくしゃみをする。

 

と、ここまで打って打つのを終いにして、その晩は早めに寝て起きて店の工事が始まった。汗とほこりが合わさったら泥みたいなものになったので泥まみれという形容でおかしくない状態で天井を落とし続けて腕がだるくなった、汗は本当にとめどなく流れ落ちて、なんとなく久しぶりに生きている感じを味わったような気になってくる時間もあったがそれは正しいことだっただろうか。昼下がり、思ったよりも多くの人々が財布を片手にぞろぞろと昼飯を食らいに通りを歩いていて、ここでランチ営業をやったらそれなりに人が来そうだと思ったし私はその時間は開けないつもりでいる。寝静まった町を相手に、あるいは寝静まった町と寄り添うようにして商売をしたい。そんなことは嘘だ。夕方の作業の終わりの時間にはカーキのTシャツは泥色になっていて、汗を溜め込みすぎて着ているだけでも重い。一杯だけビールを飲んで帰った。

 

ヴィム・ヴェンダースの『パレルモ・シューティング』を見た。なぜ見たかったのかはもはや忘れてしまったけれど、主演の男はカンピーノというドイツの有名なバンドのフロントマンらしいのだけれどもドニ・ラヴァンが出ている映画だと思い込んでいたしそれはやむを得ないことだった。観光する映画はやっぱりいいものだ、と思いながら猛烈な眠気に襲われながらなんとか見通す、というふうだった。

カンピーノが扮するカメラマンのフィン自体、病気じゃないの?と女に指摘されるぐらいにどこでもいつでも眠りこけてしまう人間だったのでそれを見ながら私のまぶたが重くなることを責めることは誰にもできないしその前日、とても久しぶりの友達と飲んだらもっととても久しぶりの友達や初めましての人たちと飲むことになって、人見知りの私はそういうところにアジャストするのが苦手なはずだったが妙に楽しく充足した時間を味わって、もちろんそれは私が大人になったからという理由ではないことぐらいはよく知っていたし人間というものはなんだかとてもいいものだと思って、それでは私はいったいどこまで遠くにいけるだろうか、ということは試されるべきことだった。成長ではなくてこれが幸運であるならば、幸運ばかりを追い求めてみたっていいはずだ。成長なんて言葉はドブに捨ててしまってもいいはずだ。

 

当然といえば当然ながら、口座からどんどんお金がなくなっていく状態で、それを平静な心持ちで見るのは私にはむずかしい。ドン、ドン、と二度にわたって大きな金額が口座から消えて、それ意外にもコツコツと消えていっているしそれは開店準備のために当然そうなることだし久しぶりの友人らと頻繁に飲んでいるからそれも当然口座から金を消していくわけだし、予定通りに借入ができれば開店には問題はないはずだけれども、ただ生活をするということはそれ自体で金を使うことなので、私の想定している金額とどれだけの差が今できているのだろうか、ということを考えるとそこそこと気分がふさぐというか平静な心持ちを維持するのは私のような吝嗇の小心者には難しい。そのためか、そのためなのだろうか、健康増進のためではなかっただろうか、運動不足解消という理由ではなかったか、今日は食品衛生責任者の一日がかりの講習を受けに浦和まで自転車で行ったしそれは片道10キロほどだったので着いたときには灰色のTシャツが黒くなっていて後ろの席の人などはこの前の人はなんでこんなに汗をかいているのだろうと思ったはずだったし講習は予想をはるかに上回る退屈さで眠気に抵抗することの大変さを久しぶりに体感する時間となった。

 

しかしそれだけというわけでもなく、3部構成の最後の講師の方の講習だけはやたらに面白く、それは話している人が話している事柄に対して深い興味があって、そしてどうやったらちゃんと伝わるだろうかということがしっかり考えられているからだった。嘘のように、目を覚ましてノートを取りながら聞いた。休憩時間、先日駒沢公園近くの本屋さんで買ってきた開高健(多分)の食に関するエッセイを読んでいた。ピラニアがおいしいと書いてあったのでまた片道10キロを帰り、それなりにしっかりと疲れてしまったし気がついたら7月は終わっていて8月が始まっていた。それなりに虚しい。

 

家族で夕飯を食ってお腹がいっぱいになった。茫漠とした不安に包まれる夜になってきた。


7月

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ケイシー・アフレックの『容疑者、ホアキン・フェニックス』を見たのは先ほどのことで、私はホアキン・フェニックスが今もっとも偉大な俳優なのではないかと思っている節があるので見てみたのだけれどもなんとも苦しい気持ちになるものだった。フェイクドキュメンタリーだということはなんとなくは知っていたのだけど、クラブでのライブの場面やトークショーの場面、というかその場面での人々のリアクションを見ているとなんとも言えない苦さがあって、そんなに人の挑戦をせせら笑うのは楽しいかと、憤りのようなものを覚えた。私たちがお前に与えている役割はそれじゃないだろ、という嘲笑の傲慢さに本当にうんざりした。役割や社会通念やステレオタイプから自由になりたいと願っている人間たちがいとも簡単にゴシップに群がるくだらない蝿になる様に私は吐き気を催すような気持ちだった、というふうにわりととても嫌だなーと思いながら見ていたのだけど、もしかしてトンチンカンな見方をしていたのだろうかとも。一人でヒートアップしちゃった、と思ってコンビニに歩いた。

 

物件の契約が終わり、内装屋さんとの契約もほぼ終わり、来週から多分工事が始まるというところで、着工までの数日のあいだ暇を持て余している私はフェイスブック等を見るたびにフジロックに関する写真付きの投稿が目にとまりそれなりに羨ましいし、一方でそこまでうらやましくないという気持ちもある気もして、少しずつ私の人生は苗場から遠ざかっているのかもしれない。15の歳から10年連続で行き、店を始めて2回か3回かパスし、去年久しぶりに行き、これまでは苗場でなければ感じられないものがあると思っていたのだけど、もしかしたらそういうわけでもないのかもしれない、と思い始めたのかもしれない。今月行ったキャンプ的なものの心地よさで、苗場の心地よさの大半がもたらされるのかもしれない、と思ったのかもしれない。必ずしも音楽は必要ないのかもしれない、と思ったのかもしれない。わからないけれども、それでもいささか「いいなー」とは思ったので、昨日はわりと広い公園に行ってキャンプ用の椅子を出してビールを飲みながら読書にいそしんだのだった。ここはグリーンステージ、と思いながら。

 

日が少しずつ傾いていくなかで、私は大きな木の下でずっと本を読んでいた。ときおり煙草を吸い、ビールを飲み、ビールがなくなったら家で淹れて水筒に入れてきアイスコーヒーをぐびぐび飲み、そうすると少し離れた池で家族が楽しそうに過ごしているのが見えた。金曜日の午後5時過ぎの話だ。茶髪の若い妻と、茶髪で黒いTシャツで日焼けしていてちょっと強そうな夫と、二人の小さい子供が池のそばにいて、父親は煙草を吸ったりしているらしかった。どんないきさつで今ここに彼らはいるのだろうか、と思うと素晴らしく愛おしいもののように思えてきた。「公園行こうよ」「そうしようか」って、素晴らしくないか!素晴らしいじゃないか!なんて素晴らしいんだ!と私はたいへんうれしかった。ローソンでLチキを買って食って帰った。

 

『ドン・キホーテ』の2巻を読んでいるあいだに、昨日立て続けに、友達から借りた樋口毅宏の『テロルのすべて』を読み、昨日本屋で買ってきた阿部和重の『クエーサーと13番目の柱』を読んだ。久しぶりに日本の小説を読んだ気がするけれども、阿部和重はやはりすごくよかったし、初めて読んだ樋口毅宏も、テロしちゃうんだなー、というところですごく「どうなるの?どうなるの?」という気分で読んだ。今はやはり昨日買った樋口毅宏の『日本のセックス』を読んでいて後少しで終わる。「どうなるの?どうなるの?」と思いながら読んでいる。この2冊で、たぶん樋口毅宏の小説を読むことは終わりになるような気がする。面白くて、それこそ煙草を吸いにベランダに出るときやトイレに行くときすら持って続きを読もうとする具合に面白いのだけど、この2冊で終わりにするだろうという気は変わらない。これはなんなんだろうか。結局、「どうなるの?どうなるの?」で読む読書にはあまり惹きつけられないということなのかもしれない。小説の醍醐味は決してそれではないはずだ、と思っているのかもしれない。いずれにせよ、昨日今日で読んでいる、日本人がアメリカに原爆を落とす小説、アイドルを付け回す人たちの小説、カンダウリズムに衝き動かされた人たちの小説は、どれも面白く、日本の小説もいいね、という気になった。ドン・キホーテはしかし狂気をいかにして捏造するかということに執着するという狂気を私に見せつけてきて、それは滑稽でありながらも凄みを感じないわけにはいかなかった。

 

今日は高校野球を見に行った。あいにく県営球場でビールは売っていなかったので水やアクエリアスを買って飲んだけれども、ひどく暑い日で、座っているだけでも汗がどんどんと流れていった。大宮東対春日部共栄のその準決勝の試合は、とてもいい試合だった。私は何も起きていない1回や2回から泣きそうになりながら見ていた。大宮東側の1塁側に座っている私の位置からは春日部共栄の応援団の姿が見えた。補欠の野球部員、ブラバン、そしてチア。その一角の発する動きや音が私をことごとく打った。特にチアの、ボンボンを持った両腕をくの字に曲げて腰にあてて直立している、みんながそろって直立しているあの感じ、様式美めいたその感じにすごく感動した。なんだかすごいものを見ている気がした。全員が必死に何かを応援している、そして全うしなければいけない役割を必死に演じている、というその光景は、グロテスクでありながら、あるいはグロテスクであるからこそ、素晴らしく高貴なものに思えた。誰かを心底で応援するというその姿勢は、なんと気高いことだろうと思えた。そういう瞬間を持ち得た彼らの人生が豊かになることを望まないわけにはいかなかった。

誰かとともに全力で何かを目指して、誰かとともに全力で悔しさを味わうという、そんな体験をできる彼らを私は心底うらやましく思った。とんでもねー場所に立ちあってるな、と思った。

 

点の入らない投手戦が続いたが、大宮東が、むしろ攻勢だった。どの回だったか忘れたが、打球が外野のあいだを抜け、バッターランナーは2塁を蹴り3塁を目指した。完璧な連携と完璧な送球で、バッターランナーは3塁でアウトになった。その次のバッターがヒットを打った。2塁でとどまっていれば生還できていたかもしれない。その次のバッターがライトに飛球を放った。ファウル、との判定だった。周囲の人のリアクションを見る限り、微妙な判定だった。フェアの判定だったら生還できていた。他の回、スクイズがあった。私の目からはランナーの足が先に入ったように見えたが判定はアウトだった。セーフであれば、それはあまりに大きな1点だったはずだ。スクイズももう少し打球を殺せていれば。大宮東はつまり、決定機を不運によってか不手際によってか逃し続けて9回表の春日部共栄の攻撃を迎えた。あっという間に3点が入った。3点目はエラーによってだった。その裏、ヒットやエラーが重なり、ノーアウト満塁のチャンスを迎えた。1点を返した。アウトカウントは1で引き続き満塁。単打でも2塁ランナーが還れば同点、ひとつ間違えば逆転サヨナラという場面。代打で入ったバッターがショートにゴロを打った、捕球、送球、送球、ヘッドスライディング。試合終了だった。敗者にとってはすべてがあの時のあれがああであれば、ということになり、勝者にとってはすべてが万事オッケーになった。もちろんすべての試合がそうなのかもしれないけれども、本当にどちらに転んでもまったくおかしくない、本当に残酷な試合だった。

 

ということですごくいい試合を見てきました。


7月

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「ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」と蓮實重彦が語っているのを読みトム・クルーズのニヤついた顔つきを思い出した。FIFAワールドカップ2014が終わっていくらか経ち、昨日はマツダオールスターゲーム2014の2戦目がおこなわれて日本ハムファイターズの大谷翔平投手(20)が162キロをマーク、球場をおおいに沸かせた。そのとき私たち家族は夕食の直前であり、台所では母が「肉、誰か焼いて。肉、誰か焼いて」と言っていたのでテレビへの視線は釘付けにしたまま台所に立ち、焼けと言われた肉をフライパンの上に置いた。そのあとで家族団欒の時間が設けられた。

 

土曜日の朝から栃木の実家に来ていて、暇ないつも以上に暇な時間を過ごしている。やるべきことはいつもと変わらずあるはずなのに、休暇の感覚に平生以上に見舞われて寝転がったりすることに終始している。昨日は雨がよく降っていて、父と母は雨が降ると外にも出られないし何もやることがなくて困るね、と雨景色の広がる窓の前に並んで立ち嘆いていた。そんな中でも父は「記帳してくる」などと言って小刻みに外出していた。私は夜にはいとこと酒を飲みに行き、その付き合いはこの年始に初めて二人で飲んだとき以来の二度目で何かと楽しかった。「いとこと飲む」みたいなファミリー感は今までの私の暮らしにはなかったし想像もしていなかったし必要も感じていなかったことなので、こういったことを楽しいと感じている自分の変化のようなものを面白く思い、飲み過ぎてふらふらしながら夜中に帰った。

 

今日は基本的にはよく晴れていたため、父は洗車をして、母は庭の草むしりをしていた。私は二日酔いでぼやっとした感じが抜けずにスーパーに素麺を買いにでかけた。

少し前にオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』を見て、それは私にとってすごくいい映画で、ひと月ほど前に見たばかりだけどもう一度見たいし、もう一度見たい最近見た映画のもう一つはジェイソン・ライトマンの『マイレージ、マイライフ』であれは本当にとてもよかった。何から何までよかったような記憶になっている。『夏時間の庭』は、遺産相続を巡って夏の庭がとてもいいよね、光とか、みたいな雰囲気で大筋としては間違っていないと思うのだけど、だから庭と遺産が出てくる映画で、人々の顔つきや動きもとても充実していて素晴らしいなと思ったわけだけど、父が車を洗い、母が草をむしっているわきで外に出された椅子に座って煙草を吸うろくでなしみたいな格好をした私が思うのは私は死ぬまで車を持つことも、家を持つこともないのだろうな、ということだった。

父親が仕事を引退すればたちまちここに引越して、やっと自分が建てた家に住める、という生活を送ることに彼らはなるのだろうけれども、両親が亡くなったあと、この家はいったいどうなるのだろうか、ということを考えると、いったいどうなるのだろうか、と思った。私が栃木に住むということはどうも想像できないし、だからといって家を放置していればそれだけでダメになるだろうし、固定資産税などもかかってくるわけだし、土地ごと売却するのだろうか。そうなったとき、何かが決定的に失われたりするのだろうか。

 

軽やかに生きることもいいだろうが、その生き方によって軽んじられるものは、本当に軽んじられていいものなのか。うっすらとした物悲しさは覚えながらも決してネガティブなものではない、単純な中立の問いとしてその問いは浮上したのだけど、今の私の尺度では考えにくいこともあるのか、そもそも考えるつもりもないのか、考えるのをすぐによして洗ったばかりの車を借りてろくでなしのどら息子は旅に出た。

たいへん敬愛する1988 cafe shozoに行った。先月の半ばごろに大宮からわざわざ電車で行ったばかりなのだけど、昨年末の衝撃以来、私は帰省するたびにここに向かうことになるだろう。毎回いったい何に感動するのだろう、と思いながら感動して、今日も今日とて、と思ったら一時間足らずで店を出ることになった。『ドン・キホーテ』を読むぞ、第一巻を読み終えるぞ、と勇んでいたところ、持って行き忘れた、ということが致命的だった。そのためリュックに入っていたイマヌエル・カントの『実践理性批判』を読むことになって、たしかにそれは、先月だか先々月だかに買って100ページくらい読んでやっぱり難しすぎて無理でしたとなって放置されていたもので、もう一度頭から読んでみよう、という意図のもとにリュックに入れていたものだから、読もうと思っていたものではあったのだけど、今日は『ドン・キホーテ』が読みたかったし、いざ「実践理性を批判しちゃうぞ~」と思って本を開いてわきにノートを開いてボールペンを持って、理解しながら読もうとしても、やっぱり何言ってるのかまるでわからず、近くのテーブルの男女4人組がいくらか聞き覚えのあるバンド名などを出しながら音楽の話をしているのが耳に入ったこともあり、すぐ横が厨房で洗い物の音や食器の積み重ねのしっかり聞こえてきていたこともあり、まるで集中できないで腕だけモヤモヤした感じで気持ち悪くなったので早々に諦めて家帰って『ドン・キホーテ』読んだ。

大好きな場所だけどうまくフィットできない時はやはりあるものだと、半分ぐらいは自分のせいだけれども、そのように感じたわけだった。

 

『ドン・キホーテ』は無事第一巻を読み終えたのだけど、なかなかむちゃくちゃなことが起こっていた。襲撃されて倒れたドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが心配して覗きこんでいるサンチョ・パンサの画面に吐瀉物をぶちまけ、それを受けてサンチョ・パンサがドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャに嘔吐し返す、という場面があり、まるでモンティ・パイソンのような世界だと感じ入った。それにしたって何はともあれ、今のところドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ及び彼に付き従っているサンチョ・パンサがおこなっているのは完全に賊のそれで、こんなやつらがいたら本当に迷惑だ、と至極まっとうな感想をいだきました。

 

今は再び『実践理性批判』を読む気にもなれないからといってソリティアをやっているぐらいだったらブログでも書いた方がましだろうと思いこうやって打鍵をしているわけだけど、冷蔵庫あたりから発せられているときおり揺らぐ持続音がジム・オルークの『みずのないうみ』みたいでとても心地いい。


7月

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ソリティアをやっていたので夕食後に家を出てコンビニで往復はがきを買った。それがこの日2度目の外出だった。1度目は昼過ぎの買い物しにスーパーに行ったそれだった。スーパーもコンビニも徒歩5分といったところなので、行ってみたらとても近かった。

 

今、暇にかまける格好で長い小説にでも手を出そうかというところで(本当だったら『ボヴァリー夫人』再読に向かいたいのだが、山と積まれたダンボールの中にあり取ることができない)、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読み始めているところなのだけれども、さて、ドン・キホーテでも読むか、とベッドに腰かけると気がついたらソリティアをやっている、何回も何回もやってしまう、という状況に陥りがちで、なかなか読書がはかどらなかった。ソリティアは大学時代から大好きなゲームで、やり始めたら止まらない、というのは身にしみて知っていたのだけどつい最近インストールしてしまって、たいへん無駄な時間をそこに費やしている。ウェイスティングマイタイムだなー、などとひとりごちながら、トランプを、ここぞというところを血眼になって探しながら、タップ&タップ&タップ…

 

そういったわけで『ドン・キホーテ』に関しては当初はなかなか進まないどころかページが開かれづらい状況にあったため、「実入りの3/4が食費に消えるってドン・キホーテのエンゲル係数バカ高いなあ」ぐらいの冒頭2ページのところで止まっていたのだけど、ここに来て昨日電車に乗った影響もあろうが、ちょこちょこと進んでくれて、何やらきな臭い香りが漂ってきた。

そのきな臭さとはまた別の話だが、こんな記述があった。

 

「兄弟のサンチョよ」と、町を遠望しながらドン・キホーテが言った、「(…)しかし、これだけは注意しておくが、たとえわしがこの世にまたとない危険にさらされることになっても、助太刀しようとしてお前の刀に手をかけたりするでないぞ。もっとも、わしに刃向かう連中が卑しい身分のごろつきであることがはっきり見てとれれば話は別で、その時はお前もわしに加勢してかまわない。ところが相手がれっきとした騎士の場合には、お前が騎士に叙任されるまでは、わしの助太刀をすることはできない。それは騎士道の掟によって禁じられた、不正行為なのだ。」

「ご心配には及びませんよ、旦那様」と、サンチョが応じた。「そのお言いつけなら、必ず守ってみせますから。だいいち、おいらは生来おだやかな男で、騒々しいことや争いごとに巻きこまれるのが大嫌いときてるんです。もっとも、いざわが身を守るということになったら、そんな掟なんぞ気にかけるつもりはありませんや。だってそうでしょう、神様のおつくりになった掟であろうと人様のおつくりになった掟であろうと、傷つけようとして襲いかかってくる相手からわが身を守ることは、ちゃんと認めているはずだからね」

 

二人は自衛権について話しているらしかった。

そのあとにドン・キホーテとサンチョは一台の馬車と何頭かの騾馬と鉢合わせた。乗っているのは貴婦人や修道士たちで、なんていうことのない人たちだったがドン・キホーテはこう言った。

 

「拙者の目に狂いがなければ、今度の一件こそ、かつて人の目にふれたあらゆる冒険をしのぐ、最も有名な冒険になるはずじゃ。と申すのも、あれに見える黒衣の連中は、かどわかしてきたどこかの姫君を馬車に乗せて連れ去らんとする妖術師たちに違いない、いや疑いもなくそうだからじゃ。ここはどうあっても、拙者の全力を尽くして、この悪事をくいとめねばならぬ」

 

サンチョが主人の狂乱を目の当たりにし「こりゃあ、風車以上にやっかいなことになりかねないぞ」と言うのももっともで、確たる根拠もなしにドン・キホーテは攻撃を開始するということだった。そのみっともない戦いでサンチョ・パンサもまた、巻き添えを食らって失神したりしたのだった。

 

「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 第ニ部」はそんなふうにして進んでいくのだった。今のところとても面白いが、全部で何冊あるのだろうか、6冊ぐらいだろうか、それだけあると思うとこの調子でずっと続いていくのはしんどいというか笑いが乾いていって喉がイガイガしていきそうで、どういうことにしようかと思っているところだけどひとまずは読んでいるし楽しい。1605年の作品とのことだけれども、とても新鮮な感覚で読んでいる。たとえばこんな記述もある。

 

「ここのところはソリティアをやるか本を読むかぐらいしかないということはないのだけど総じて時間はたっぷりあって、人生でいちばん時間がある日々を今過ごしているところだけど、時間があれば有意義に使えるかといえばそういうものでもないらしく、全体として不毛だ。

私は生来のなまけものなのだろうなと感じている。なんでもできる、なんにもやらない。そんな日々で、RSSに流れてくるはてブのホットエントリーを全部消費してしまうくらいだし(もちろん読むものは選んでいるが)、ソリティアは何度やっても飽きないし、ドトールに先日行ったら昼飯時で、喫煙できる部屋で、隣に座った女は座ると同時にタブレットだかポータブルプレイヤーだかを出してドラマか映画を再生し始めた。

それを置いて流しながら、しっかり見るかと思いきや基本的にはスマホの画面を見ていた。家のテレビ鑑賞じゃないんだから!と横目で見ながら私は驚嘆して、いつだってどこでだって学ぶこと、知れることはあるものだ、という思いを一段と強めたのだった」と私は金麦を一口飲みながら言った、「借入のために提出する創業計画書を作り続けている。ワードやパワポやエクセルであれやこれやをし続けることは私の精神を落ち着かせるらしかった。作業、というものが好きなのだと思う。

カタカタと、意味があるのかないのかわからない文言や数字を打ち続け、正しいレイアウトを探しながら時間が着々と過ぎていく。その作業感を私は愛でる。そのため少し改善されてきた就寝・起床時間がまたおかしな方に傾いていく。

そうしているうちにすごい創業計画書および資金調達計画書ができた。「前向きにいこうよ、このままじゃなんか暗いよ」と老年の方が私にアドバイスをしてくださったので、役所におけるその相談の時間を私はすごく愉快なものとして過ごしているし老年の方も好きなのだが、それに応じる格好で売上の予想を上方もいいところという感じで修正していったら、驚いたことに10年後ぐらいには3000万円の貯金ができていることになった。

エクセルの自動計算がその数字を弾き出した朝4時ごろのその瞬間、私は「3000万円!」と叫んだため母が起きた。「今日家にいるんだったら夕飯作ってくれない?」と母は言った、私は「わかりました」とLINEにて返信した。昨日調味料やスパイス等を買ってきたのを見ていたところだったので、これは母は作るのが面倒くさかったのではなく、暇そうにしている息子に暇つぶしの材料を与えようとしたのだろうと私はわかった。その気遣いは優しく、そしてどこか悲しいような気もしたし悲しいものではないような気もした。

 

そこで私は今日の昼は買い物をしにスーパーに出かけ、トマトソース(今回はタイムとローズマリーを入れてみた)を作った。それから物の本で知ったスペイン風のピザみたいなやつだというコカというものを作ってみた。イーストを用いることが初めての経験だったせいか、過発酵というのか、わけのわからない、デロデロの生地ができてしまいとても失敗だとすぐに悟った。トマトソースとナスとチーズを乗っけて焼いてバジルをちらして食ったらおいしかったが、おかずパンといった様相だった。「こんなものを作りたかったのではない」と私はひとりごちた。

夕飯はそれとは関係なく、ガパオ(久しぶりに食べたくなった)と、セロリ等の中華スープと、水菜とカマンベールチーズ等のゴマとバルサミコ酢和えと、ナスとトマトソースの上にチーズやって焼いたやつ、となった(コカは冷凍した)。コンセプトも何もない、統一性も何もない夕食だったが、一つ一つは美味しかった。ナスとトマトソースのやつは不満が残った。久しぶりにまとまって料理をしていると、やはり作業は楽しい、という感覚だった。好ましい認識だった。より美味しいものを作りたい。

 

埼玉に住み始めてから目が悪くなった。てきめんに悪くなったように感じる。日々悪くなっている気もする。テレビ画面に表示される番組表が目を細めないと見られなくなったため、日ハム戦がどれなのか探しづらい。今日はオールスターゲームだった。マツダオールスターゲーム2014だ。広島のブラッドリー・ロス・エルドレッド選手がMVPを獲得した。」

 

と、昨夜書いたあとに煙草を吸いにベランダに出て戻って煙草を吸っているあいだに気になり始めたことなどを調べたりしているうちに書いたこと自体を忘れておりドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの話の続きをいくらか読んでからいくらかの睡眠を取った。寝起き10分から運転をして、今は強い雨が降っている。


7月

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何もかも恐ろしく簡単で醜悪だ、と男が言ったのを聞いたが簡単で醜悪という並びがとても好ましいものに思えたしここのところは自分でも驚くほどにスタバに行かなくなって喫茶店か、美味しいコーヒーを飲みたくなったら焙煎屋とかコーヒースタンドとかに寄るような流れが私の中でできていることもあり久しぶりにスタバに行ってみたところ隣に座っていた若い女がもうほとんど中身のなくなっている飲料を執拗にすすったがそれは数分続いて、一度だけなら最後まで飲みたいのだねと思うチャーミングと言ってもいい音だったしそれが繰り返されるうちにおそろしく簡単に醜悪な音になって、視野の端で見えるその女の姿は右手にスマホで左手にカップとストローと口がひとつづきにつながっている生物のようだった。その夜は黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』を見て私は悪い奴なのかどうかはわからないにしてもよく眠る男なのでずいぶん遅くまで寝て起きたときには憂鬱が支配したような気がそこここに漂っていた。夏休みを過ごしている。

 

市営球場や県営球場では日々高校野球の予選大会がおこなわれているらしく、駅に向かって自転車を漕いでいる道中で友人に出くわし、お、じゃああとで行くわ、と言った。その感じが私をパーマネントなバケーションの気分にいとも簡単にいざなったのだし、うだるとまではまだ言えない暑さの中にもしるしのようなものがやはり見え隠れし、昼ご飯は母が作った冷たいうどんをすすったりもした、午後は停滞し、ろくでもない子どもたちの声が空を伝ってくる途中でぼやけながらも聞こえてきた、それは完全に夏休みのものだった。あと十日もすれば、あるいは二週間か、その程度の時間がすぎれば、近くで花火大会も執り行われるだろう。そうすれば夏が完成するし、もしかしたら市町村合併などの影響でその花火大会はとっくになくなっているのかもしれなかった、だとしたら市民プールに通う理由はそもそもなかった。

 

金融機関から金を借りるための創業計画書を作成したりしながらパーマネントのバケーションの夜はただただ長いので本を読んだり映画を見たりしている関係で最近はジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の下巻を読み終えて贈与というものに興味があったので内田樹と岡田斗司夫の対談『贈与と評価の経済学』を読み、それからヨアン・グリロの『メキシコ麻薬戦争』を読んだ。いずれもたいへん面白く、岡田斗司夫の本は初めて読んだのだけどこの人の言うことをもう少し聞いてみたくなったし、現代企画室はやっぱりいい仕事をされると麻薬戦争の実態を追いながらたいへん感心した。麻薬戦争とても大変そうだ。アメリカ人が麻薬をやめるか、アメリカで麻薬合法化されるかしかメキシコでろくでもない、そして半端のない規模の殺戮がやむことはないような気がした。ここ数年でメキシコ軍から10万人が除隊しているとのこと。だいたいが麻薬カルテルに移籍した模様。そりゃ、とんでもないことになるわと。さらっとグァテマラ軍を襲撃、みたいなことが書かれていたけど、どこかの国の軍隊を民間の組織が襲撃するってどう考えてもおかしくて、それにしても、おかしくて、という、総じて言えるこの軽い感覚はいったいなんなんだろうとは思ったし、時おり自分の中に感じる残虐なものへの嗜好みたいなものはどのように処理をすればいいのかわからないところもあり、別段それに悩むとかはないしまあ人間そんなものだよなと思いはするし、ふいにblog del narcoとかで検索して動画を見に行ったりしてしまったこの感覚の根元にあるものはどのようなものなのだろうか、私は動画を途中でやめた、なんせ泣きわめく人の首に刃渡りがたいへん長い刃物をすーっと入れるのを見せられたからで、このあとにそれがどのように展開するかなど見なくてもわかるし、見たくないと、いざ見始めてみたら思ったからだったしそれは朝、起きたすぐあとのことだった。

 

今朝に関しては悪い夢を見た。人がそれなりの数あつまっているそう気張らない場所で私は何かを読み上げるか何かした、それは私にとってはまっとうな感覚の発言で、というか、私の常識レーダーみたいなもので言えば常識に分類されるものだったので、その発言が強い嫌悪と反発を招くとはまるで想定していなかったからすごく戸惑った。自分のバランス感覚のようなものを私はわりに信用しているところがあり、世間的にどこまでがオッケーで、どこからがNGなのか、なぜかある程度は察知できると思い込んでいるのだけど、だからこそそれが外れていたと知る夢のその時間は強く私を脅かすものだし昨日読んだ何かのブログ記事への罵倒するブックマークコメントを読んでその夢が見られた。世間的なものとの断絶に私は怯えながら眠ったということだったし、映画に関しては最寄りのツタヤでちょこちょこと借りては返しを繰り返しながら見ている、今月に入ってからだと園子温の『愛のむきだし』を久しぶりに見て、ジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』、ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』、黒沢清『リアル』、ダニエル・エスピノーサ『デンジャラス・ラン』、黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』、そして今晩やはりカサヴェテスの『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』を見て、ベン・ギャザラがまさかこんなに格好いいとは思わなかったしどの顔も、それは『フェイシズ』もそうだったけれどもどの顔も凄まじい強さを持っていて、今月見た映画はどれも面白かったし私の人生を脅かすことはきっとなく素通りしていくのだろうと思った。カサヴェテスさえも素通りしていきそうなところがこの悪い流れをよく象徴している。丁寧に見たい、丁寧に読みたいと思うけれども、何もかもが素通りしていく。

 

週末だったのでキャンプ的な催しに参加してきた。悪い夢を見たのはその週末の名残で、集団の中で私の見せてはいけないものが見られてはしないかをどこかで怯えていたりしていたということだろうかとも思ったしきっとそうだ。

それに私にとってキャンプファイアーというとクラウドファンディングの方をイメージしてしまうが、行ってみると実際に薪などで火が焚かれて、そこで燃え上がる炎はすごくよいものだった、私は父母の立派な感じの車を借りて向かってナビが無意味な正確性を発揮するのを数時間にわたって見た。たくさんの人がいて、たしか半分くらいは初めて会う人だったし、そうなることはわかっていたから人見知りの私はどういう気分で過ごすのだろうと思っていたのだけど二日間、それは素晴らしく気持ちのいい楽しいものになったので安堵した。安堵した、というのがたぶんもっとも先に出る感覚だろうと思ったが、私は人見知りが強いというかどういう態度で人の輪みたいなものの中に入って行ったらいいのかわからないタイプなので今回も笑顔をこわばらせながらなんとなくそばにいるみたいなことになるだろうかなどと懸念していたのだけど、楽しく、そして楽に過ごした。それは私の成長ではなくて、めぐり合わせとかたまたまとかそういったものなのだろうと思って昨夜はカレーを食ってそれがうまかった。そばもうまかったし温泉もあたたかかった。それらは個別に金を払って食べたり入ったりしたもので、宿泊地で食った人々の作った食べ物のどれをとってもうまかった。私は飲食業を志す無職でありながら料理を作ることに対する怯えみたいなものがあるらしくて洗い物を自分の仕事とすることでそれを回避したのだったか?あるいはそれも違うかもしれないし、30近くになっても川でおこなう水遊びみたいなものがこんなにも気持ちのいいものだとは知らなかったし、それはこういうのがリアルで充実しているという感じかな、と思ってそちらがわに行った自分を祝福した。たとえその週末だけだとしても私は自分がリア充的な過ごし方をしたことが知れてうれしかった。いやそんなことではなかった。決してそんなうれしさなんかではなかった。ただ単純に楽しく気持ちよく楽だった。それが大切なことだった。

 

久しぶりに車を運転していると、日が暮れていって次第にやわらかいピンク色に空が染まっていくのが知れた。車の運転席から見る外の景色はアーバンという感じがして、それは上に首都高が走っていたからかもしれないけれども、アーバンという感じがして、夜、家に向けて一人で、アーバンな道を走ったしそれはいいことだった。人の役に立ちたい。

 

と昨夜書いて、書き終えて外に煙草を吸いに出たら書いたことを忘れて寝た。


7月

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スターバックスがオーストラリアの直営店の運営権をオーストラリアでコンビニなどを展開する小売チェーンに売却することを決めたというニュースを読み、その背景としていくつかの要因があるらしいのだけど、その一つとしてスタバ進出以前からエスプレッソ文化が根付いていたことが挙げられていた。多くの優れたバリスタを生んでいるらしいオーストラリアでは、優秀なバリスタはまあそりゃそうかなと思うけど大手チェーンではなく個人経営の小さなカフェで活躍するのだという。そういったカフェは全国に6500店舗あり、売上は40億豪ドル、日本円にして3800億円ほどになるのだという。職業柄なのか、今は無職なので職業柄という言い方は妥当じゃない気がするのだけれども、前職柄、ええと、と思って電卓を叩いてみると一店舗あたり売上6000万円弱ということになり、個人経営の小さなカフェは6000万も売り上げるのか、と、少し暗澹とした気持ちになった。ほぼ無休で営業して一日あたり16万。まあでもそんなものかもな、という気にもなった。私が住んでいた岡山から見えた景色で言えば、一日16万円売り上げる「個人経営の小さなカフェ」と呼ばれるようなものなど多分なかったように思えるので、うわー、という気にはなったのだけれども、まあでも、そんなものなのかもしれないなとも一方で思いはした。

先月、借り入れをするだろうなというところで一度日本政策金融公庫に行ってみたことがあったのだけれども、それはもしかしたら以前も書いたかもしれないけれども、そこでいろいろうかがっている中で、お店やってたんですか、売上は?かくかくしかじかです。ああ、じゃあこじんまりとやられていたんですね、広さは?これこれこのくらいで。え…????となったのが象徴的で、岡山でやっていた商売の感覚と、東京のそういった機関の方が考える感覚はあまりに乖離しているというのがよくわかって、なんせ、家賃がまったく違うから、そのことが念頭になかったのかもしれない窓口の方には「このくらいの広さということは家賃はこれくらいにはなるから売上はせめてこれくらいはないと意味わからない」というのがあったはずで、だから、私が告げた売上と広さのバランスがまったく異次元で、ほとんど言語が通じ合わない相手としゃべっているようないびつさに衝撃を受けたのだろうとそのとき「ははあなるほどこれが東京か」と思いながら納得した。

だからまあ、ってまるでだからまあではないというか関係はないのだけど、物価もバカみたいに高いらしいオーストラリでは売上6000万くらいちょろいことなのだろう。ちょろいかどうかは知らないが、あくまで個人経営の零細カフェとくくられるレベルでそのぐらいは売り上げるのだろう、きっと。

 

7月3日。昨夜は友人たちと飲むということをおこなったため終わりに焼酎を2杯飲んだあとには頭が少し痛くなってもしかしたら嘔吐をするかもしれない、と思いながら白菜食った。彼らは会社勤めだったため、私は友人の家にお邪魔して泊まらせてもらったし、奥さんがいるのに悪いな、と思いながらぐっすり寝た。寝たのは3時近くだったと思うのだけど、友人は8時15分には起きたらしく、起こされたので私も起きた。おぼつかない足どりで、わりとこれは完全に二日酔いだ、と自覚した足どりで駅の方に歩きながら、会社員はすごいな、と思った。私は8時15分に起きる生活は今はとてもじゃないけれどもできる気がしないので、寝不足を感じさせない平気な顔で会社に向かう友人を見て、私はだけど二日酔いだなという自覚があったため予定もないので素直に大宮に帰った。

物件がある程度決まった感じがあり、そうなるともはや物件探しのそぞろ歩きという不毛といえば不毛、だけど何かやっている感を演出できるっちゃできる、というあの時間を過ごすこともなくなり、そうすると本当に予定もなく、とても暇で、ひたすら暇で、大宮、10時前着、煙草を吸いながら10時を待ってツタヤに行って借りていたのを返してまた3本借りて、それからすぐに家に帰ろうかとも思ったけれど二日酔いでサンドウィッチが食べたかったこともあり喫茶店でモーニングを頼んだらトーストが来た。考えてみたらだいたいのモーニングはサンドウィッチではなくトーストだろう。

それとアイスコーヒーを飲んだ。ジャレド・ダイアモンドの『鉄・なんとかかんとかを読んで、また勉強中の学生のようにノートに色々書き込んだ。私はこれほどの労力をかけて、いったいこの本から何を学びたいのか。

もちろん、そういう指摘もできるだろう。ただ、漫然と、さーっと読んでいくことの欠点として、それはいくつも挙げられるしもっともわかりやすいのは「何も残らない」みたいなところだろうけれども、もちろんそれもある、それは否定しない、だけど今わたしを駆動させているのはそれよりもむしろ、早く読めてしまうと早く次の本を買わなくてはいけなくなってしまって早く金が減っていく、というところを食い止めるために、上下巻でたぶん800ページ以上あるわりと長い本をこうやってちまちまと噛み砕く、ということなのではないかと思っている。収入の見通しが立たないとお金を使うのが怖いです、ということを実感する日々でした。

 

駅前でサンドウィッチマンみたいな男性が血を募っていたので献血でもしようかと思ったのだけど血を抜いたらより体調が悪くなりそうなので昼前に家に帰るも、何もやることがないという状況に変わりはなく、ズッキーニとハムときのこのクリームパスタなるものをこしらえて食った。母親が帰ってきたのでアイスコーヒーを淹れて飲んだ。チーズケーキを食ったか食わなかったかした。布団に寝っ転がってネットを見続け、その中で号泣した議員のことが気になって、初めて動画にあたってみたら思った以上の切れ味で面白く、友人から教えられた会見ノーカット版を、たぶんあれは40分くらいあると思うのだけど全部見る、という愚挙に至った。本当に何をしているんだろうという虚しさを噛み締めながら、会見動画拝見。

ハイライトとしての号泣を事前に見ているせいで、冒頭で記者と名刺交換を繰り返す姿とか、あるいはなんとも言いようのない問答の繰り返しなども、どれも面白く見えてしまい、この感じが、ああなるのか、という爆発の予感の愉快さをジワジワと味わうことになった。そして爆発は、やはり素晴らしく面白かった。

一年で100回以上行っている城崎温泉へのルートを問われて「電車に興味がないので覚えていない」という虚しい返答が繰り返されていた。記者はそれに対して「そういったお答えを繰り返されるばかりでは、議員の報告は虚偽であり、カラ出張をしていたのではないかと疑う県民あるいは国民も出てきてしまうと思うのですが、いかがでしょうか。出張が事実であるならば、もう少し納得のいきやすい説明をされた方がいいと思うのですが」みたいな問い方はしないのかな、したら面白いというかいいのにな、と思って見ていたのだけど、よくわかっていないのだけど、どうも、いろいろ支出ある職業なので議員報酬だけでは足りないよね、なので、政務活動費はわりと議員報酬の延長として理解されているところがあるよね、ということらしく、もしそれが慣習としてあって多くの議員がそういう使い方をしているならば、なんかまあ、大変かもなーとも思う。政治活動をやっていく上でどのくらいの金額が毎月掛かるのかさっぱり見当もつかないのだけど、意外に汲々であって活動費上乗せしないととてもじゃないけどということならば、政務活動費っていう名目捨ててそのまま議員報酬を上げてやったらいいのに、と思う。みんなやってんだよなー、それで人より楽してるってわけでは全然ないんだけどなー、ということであったとするならば、というところなんだけど、そういうふうに思った。それにしたって号泣するところだけじゃなくて全体に本当に意味のない愚かな会見だった。私はいつも、それは昨夜も繰り返し友人に言っていたのだけど、政治家は国民をもっとスマートにちょろまかすというか、クレバーにプレゼンしてくれないもんかね、それさえしてくれたらわりとオッケーなんだけど、と思っているタイプなのだけど、今回のにしても、先日のにしても、その前のやつにしても、本当にみんな愚かに見える。「ぐしい」という言葉が岡山にはあって、けっこう強い響きの言葉で怖いなと思いつつ嫌いじゃない言葉だったのだけど、全体として「愚鈍」を指している言葉なのだけど、本当にみんなぐしく見える。

 

とまあ、こういうことを書いていると本当に私は今時間を持て余している、少なくとも今日に関しては異常なほどに持て余している、ということがよくわかり虚しさもまた募るわけで、その会見に満足したあとは動物の動画を見て過ごした。動物の動画を見て過ごした。数匹のライオンがバッファローをやっつけるというか食べたり、シマウマがクロコダイルみたいなやつに攻撃されたり、ヤモリとヘビが戦ったりするやつを見て過ごした。そうだ思い出した、会見のやつを見る前は、強肩のメジャーリーガーの動画を見ていたのだった。ヤシエル・プイグはマヌエル・プイグほどではないけれども肩がたいへん強い、とのことだった。だから野球、政治、動物、という流れがあり、そのあとは日本の不可解な未解決事件、みたいなやつを見た。ぞっとしました。となって夕飯になった。

 

家族団欒。楽しい時間。日ハム対西武の試合を見ながら、上沢が4回2/3くらいで降板させられる姿を見ながら、先日両親が北海道旅行の際に買ってきたホッケの開き等をむしゃむしゃ食べた。旅行の話を野球見ながら聞いていると、まるで自分が今北海道の大地に立ち、眼前には札幌ドームがある、高鳴る期待、みたいな感覚になったりする?と母は私に聞いてはこなかった。そのことが私を落胆させたということは一つもなく、実際今日の試合は札幌ドームでも西武ドームでもなく、近所の大宮県営球場でおこなわれていたし雨が、だから外に降っている雨と地続きの雨がテレビの中でも降っていたのだけど、私はただ、少しうらやましい気がしていただけだった。

 

ツタヤで借りてきたジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』を見た。たいへんかっこよかった。ジャン・ギャバンもかっこよかったけれども、夜に走る車がどれもかっこよかった。ビールを、今日はお腹の感じも悪いし飲むまいと思ったのだけど結局飲んだ。夜、ずっと眠かったのに今3時半、眠くなくなった。FIFAワールドカップの準々決勝が今日からで、フランス対ドイツ、本当はラテンアメリカ勢の試合が見たいんだけどな、ま、しょうがないな、と思ってテレビをつけたらどこでもやっていなくて、調べてみたら明日からとのことだった。そのため空いていた時間がさらにぽっかりと空き、必死で空白を埋めようと打鍵を続けた。


6月

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PK戦の前にひざまずいて祈りを唱えている男がいたり、成り行きを見ることはやめてピッチにひれ伏す男がいたり、終了後、ひざまずくネイマールを抱きながら空いた左手の指を天に向けて何かを唱え続ける男がいたりして、つまりひざまずきと唱え、そういう光景を見ていたら対戦国のチリがずっとそれを想起させていたこともあるけれどもボラーニョの『売女の人殺し』の中のサッカーを扱った作品「ブーバ」を思い出したりもして、そういうことは特には関係ないけれどもチリ対ブラジルの試合は、私にとってはすごくエキサイティングな時間で、終始、と言っていいほどに顔をあんぐりさせながら見続け見届けることになった。端的に言って強い感動を覚え、終了後、自然と涙が流れてくるのに任せた。誰に何に移入しているというわけでもないけれども、例えばフッキという大柄な、むしろアメフトの選手なんじゃないのという選手は最後まで立派な切り込みを見せてくれてすごかったなあと思うわけで、その背にある名前を見ると「HULK」とあり、これフッキって読むのか!そしたらOMSBのあの曲はフッキって曲だったのか!がぜんそれでいいと思う!みたいなところで妙な納得を覚えたのだけれども、調べてみるとフッキは愛称であり本名はジヴァニウド・ヴィエイラ・ジ・ソウザだそうだ。私はアメコミの類を本当に見事なまでにと言っていいほどに知らない人間なのだけど、『超人ハルク』というやつから取られたそうだ。超人ハルクというのは聞いたことがあるような気がしないでもない程度には知っているというかなんとなく、というところで、そもそもフッキってなんとなく聞いたことのある名前だなという気はしていたのだけど、Jリーグで活躍していた選手とのことだった。生きているだけでいろいろと学ぶことがある、と思いました。PK戦の前のブラジルの円陣の挙動もよかったし、なんせチリの国歌は素晴らしい。サッカーのことは全然知らないけど(ってなんでいちいち言わなきゃダメな気がしてるんだろう。なんなんだろう、サッカーに感じるこの敷居)、すごく好きな試合だった。

 

今コロンビア対ウルグアイ戦が始まった。ハメス・ロドリゲスがフリーキックを打った。

 

6月28日。一日中、間欠的に雨が降っていて今も降っていた。こういう天候を見ると梅雨なんだろうという気がしてくるし今日は昼ぐらいに多分起きて、すると両親はすでにいなかった。今日から北海道に旅行に行った。ハイキングか何かをするのだと思う。先週も秩父のどこかの山をのぼっていた。好ましいことだと思っているし、起きたら昨日出張から帰ってきた父親が買ってきた鱒寿司があり、それを二切れ食べて、そのあとにコーヒーを淹れた。内装案を手書きしてスキャンして送った。着々というか、急激というか、事が進みつつある今、どうなるのだろうと、これでいいのだろうかと思いながら暮らす。細かに検討をしてリスクを減じた上で臨みたいような気もしていたのだけれども、こういうことにはどこかで跳躍が必要な気もしている。まるでわからないしいつかはわかるようになりたいとも思うけれども、クリプキという名前を思い出す。いくつかの、十代の場面を思い出す。

その他買う必要のある食器リストの整理など細々としたことを家でおこないながらコーヒーを淹れた。先日買ってきたマンデリンを淹れた。久しぶりに深煎りのコーヒーに対して「本当においしい」という感覚を覚えた。この時はドリップで淹れたのだけど、夜に飲んだときはフレンチプレスで淹れ、度し難く美味しいと思い立て続けにエアロプレスで淹れた。フレンチよりすっきりと飲めて美味しかったけれども、今日飲んだ3杯ではフレンチがいちばん美味しかった。これは私にとってはすごく珍しいことだった。少し前に豆屋さんでフレンチやエアロだとどうしても雑味が出る感じで困っているのですがと相談したところ、豆ですね、いい豆使ってください、という返答で、やっぱりそうなんだな、と思っていて半ば諦め気味だったのだけれども、今日のマンデリンはつまりとても良かったのだろうということだった。それは私にとって嬉しい事柄だった。

 

映画を、ウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』以来見ておらず、昨夜帰り際に寄ったツタヤで久しぶりにDVDを借りてきて今日の夕方から李相日の『悪人』を見た。なぜこれを見てみたかったのかはもはやまるで覚えていないのだけれども、深津絵里と妻夫木聡はいいなと思ったのだけどなんだか画面が弛緩しきっている印象というか、全然画面を見続ける気が起きなくて、夕飯どうしようかななどとスマホ片手にダラダラと見るだけになった。すごく楽しめなかったことは残念なことだったが、深津絵里がとてもキレイだったのでそれはそれでよかった。いやよくなかった。深津絵里がきれいだったからこそ、見続けるに耐えうる画面の充実が欲しかった。そうしたら私は片時も目を離さずに深津絵里の一挙一動を追えただろう。

映画を見終えた後すぐさま家を出、の前にやっと服を着替え、家を出、スーパーに行っていくらかの食材を買った。これまではずっと母親が立派な夕飯を毎日作ってくれたのでまったくといっていいほど自炊をしていなかったのだけれども、久しぶりに自炊ということで、先日はてブの人気エントリーか何かになっていて読んでこれ食いたいと思ったカオマンガイを作ることにした。そのまえにチーズケーキを焼いた。なかなかケーキ型が見つからずにいらいらが募ったが、どうにか見つかったのでそれで作った。オーブンでそれを焼きながら、カオマンガイ、それとともにキャベツと人参のコールスローと、カオマンガイを作る際に出る鶏の煮汁を用いたセロリと豆腐のスープを作った。どれもやたらに美味しく、数年ぶりにパクチーなるものを食べたけれどもなんでこんなカメムシみたいな香りのする食材が人気を博すのだろうと思いながら、パクチー美味い、パクチー美味い、とけっきょく癖になりながら食べた。コールスローもまた美味しく。生野菜。酵素。喜ぶ、体。

 

映画は私から離れてしまったのか、私が映画から離れてしまったのか、など、『悪人』を見る自分の態度を思いながらやや不安になっていたのだけれども、夕飯を食べながらジェイソン・ライトマンの『マイレージ、マイライフ』を見た。ずっと画面を見続けた。だからそれは私にとってすごくいいことだったし、パーティーのシーンや、結婚パーティーのシーンで、けっこう溢れてくる涙があった。なんでこんなにパーティーに反応してんねん!という関西弁が発動されたほどだったけれどもウェス・アンダーソン同様ジェイソン・ライトマンも音楽に祝福されている感じのある人なので、そういう点ではまったく問題のない感動の仕方だった。いやだけど本当にすごいいいシーンだったと思う。全員が全員よかった。総じて、『とらわれて夏』も非常によかったけれども、やっぱり落とし所の見当たらないこの残酷さ

 

ハメス・ロドリゲスがすごいゴールを決めた。ちょうど打鍵を中断してテレビを見ていたところだったので、流れの中で見られてよかった。すごかった。

 

この残酷さこそがジェイソン・ライトマンの特質のような気もするしそんな気もしないのだけど、落とし所ないなーという、でもそれは本当にとても充実した時間を味わった。やっぱり映画って、いいよね!と思えたのでよかったです。

それからチリ対ブラジルまで時間があったためウォームアップも兼ねてジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読み進めた。なんで俺はこれ一所懸命ノート取りながら読んでるんだろうなーという疑問が頭をもたげながらも、面白く読んでいる。狩猟採集から食料生産に移行することで、人口増加、定住、複雑な政治体制、技術者や職業軍人など専門職の成立、病原菌に対する免疫の獲得(家畜と触れ合うので)、みたいなアドバンテージがどんどこ生まれて、侵略、しちゃうぞ領土拡大、みたいな流れが一つ一つ説明されていっていちいち腑に落ちるので面白い。ではなぜ食料生産の開始時期が地域によって異なるのか。なぜ、なぜ、なぜ、というのが楽しい。

そのあとキックオフの笛が吹かれたために試合に集中することにして、ハーフタイムを利用してトマトソースを作った。ずいぶん煮込んだ。たぶんカオマンガイがうまくいったことに気を良くした私は「いっちょ明日の昼飯のパスタに備えてトマトソースでも作ってやるか、一晩おいて味なじませたらまた一興だろうし」みたいなモードになったのだと思う。自分をおだて、自分を動かす。これが私がモチベーションの鬼と呼ばれるゆえんなのだろう。

中南米の人々をまじまじと見る機会がこれまでなかったので今回のワールドカップはすごくいいなと思うし銃とか病原菌とか言ってないでラテンアメリカの小説の世界にまた早く足を踏み入れたいとも思うのだけど朝6時も近いけれど注意してくれる人などどこにもいないのだからもう一本ビールを開ける。ハメス・ロドリゲスが2点目を入れた。