シルビアのいる街で(ホセ・ルイス・ゲリン、2007年、スペイン/フランス)

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最近になってにわかに、いくつかの場所から「シルビア」というつぶやきが聞こえてきて(どうやら東京で再上映があったらしい)、たしかに少し前に行ったときに新作コーナーに数枚置いてあったという記憶から自信満々にツタヤに行ったのだが置いておらず、店員の方に聞いてみたところもうないと。どういうことだと。怒り心頭で帰り後日彼女が別の店舗に行った際に他店からの取り寄せができると知りそれでお願いしてようよう見られたという次第。

 

本当に何年ぶりかで、ことによると何十年ぶりかも知れないほど久方ぶりに、人は映画という名の奇蹟に距離なしに接し合い、あたかも『シルビアのいる街で』とともに映画が初めてこの地上に生まれ落ちでもしたかのような甘美な錯覚に、思わず身震いする。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)

 

蓮實重彦はゴダール、小津、ムルナウ、ヒッチコック、ジョン・フォードといった錚々たる名前を使いながら大絶賛していくわけだけど、彼に何十年ぶりの映画の奇蹟と言わせてしまうほどにこの映画がとんでもないことになっているのかは残念ながら私にはわからなかったし目頭を熱くすることもできなかったのだけど、監督のホセ・ルイス・ゲリンがインタビューで「本当にフレームの中で何がフレームインしてフレームアウトしていくかっていうことと、あとその中の音、騒音だったり美しい音だったり、街の音から皆さんが自由に想像してくれる映画というのが私の理想」「本当にやりたかったのは写真だけで構成した無声映画みたいな感じ」と語っているように、まさに上質のサイレント映画を見ているような、最後まで画面で何が生起しているのか、何がそこで鳴っているのか、それを見ているだけで面白い、面白いというわけでもないのだけどとにかく目と耳が離れない、という状態だった。

多分、字幕がなくてもこの映画を楽しめる度合いはほとんど減じないのではないか。色々な人が素晴らしいシーンと指摘しているホテル前のT字路を映し続けるショットも確かに素晴らしい(特に一人の男性が足を引きずりながら花束を持って歩いて行くところとか)のだけど、字幕なしでもいいんじゃないを簡単に証拠立てるのはバーか小さなクラブのところで、カウンターに座る主人公の男が横の物憂げな若い女を口説くか何かしているところで、私たちに聞こえてくるのは終始Blondieの「Heart Of Glass」の鳴り響く音だけで、だけど、そこでどんなやり取りが交わされて、そしてどうなるのかが全て手に取るようにわかる。それって素晴らしいことじゃないか。映画の、原初的な喜びが確かに、そこここに横溢しているような気配や手触りがずっとあった。

それにしても、サイレント、と言っておきながらなんだけどこの映画の音の処理は、他に例を見ないほどに洗練されているというか、とてもシンプルでミニマムな映画に一見思えるけれど、そこで私たちに届けられる音の選別を見ているとものすごいいろいろがコントロールされているんだろうなと思え、その手つきにはどうしても感動を禁じ得なかった。あんなにも足音が、グラスの転がる音が、自転車の滑る音が、電車のドアが開く音が、あるいは紙の上を走るペンの音が美しいなんて、いったいこれまでどの映画が教えてくれただろうか。

 

明るい車内がクライマックスの舞台となるのだが、この光景の尋常ならざる美しさをやたらな言葉で汚す気にはとてもなれない。人は、映画に「美しい」という属性がそなわっていたことを不意に想起し、この街の路面電車の窓ガラスが途方もなく大きなものであったことを、目頭を熱くしながら祝福することしかできない。(同上)


最近見た映画(『霧の中の風景』『トータル・リコール』『グラン・トリノ』)

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・霧の中の風景(テオ・アンゲロプロス、1988年、ギリシャ/フランス/イタリア)

シネマ・クレールにて。9月から岡山に追悼特集上映が回ってきたのでとても久しぶりに。最後に見たのは2006年の文芸座で、最初に見たのは2005年のバウスシアターだった模様。それにしても前に見たのはいつだろうと昔の記録を調べてみたところ、昔は本当に映画をよく見ていたんだなと改めて思うというかどれだけ暇だったのだろうかとも思うのだけど、バウスシアターで見たのが2005年の10月29日。27日は渋谷のアップリンクでツジコノリコの作品を見、28日は京橋のフィルムセンターに赴き成瀬巳喜男。28日、吉祥寺バウスシアターのあとは池袋の文芸座に行ってエイゼンシュタインのオールナイト。湘南台から連日東京に出て、大学にはちゃんと通っていたのだろうか。留年とかはしていないのでそのはずだけど、どれだけ時間があったんだろう。羨ましい。

それで、だから、6年ぶりに見た『霧の中の風景』で感動するのはやっぱり同じところで、遠いところから運んできた雪を敷き詰めた町にプラスチックの雪片もどきを降りしきらせたというあの、警察署前の、町や人々の時間がぴったりと止まった中を少年と少女が走り抜けるシーンであるとか、あるいは朝の浜辺で、旅芸人たちが上演のあてのないセリフをぶつぶつとつぶやき続ける姿をカメラがゆっくりと一周しながら捉えるシーンであるとか、あるいは川面に浮かんだ巨大な石像の手をヘリコプターが町の建物の、空の向こうまで運んでいくシーンであるとかで、画面全体が峻厳とでも呼べそうな空気に満ちるそれらの時間が私をやはり涙させた。相変わらずすごかった。

 

・トータル・リコール(レン・ワイズマン、2012年、アメリカ)
TOHOシネマズ岡南にて。彼女が見に行って「すごかった、ミッション・インポッシブル並にすごかった」と言うのでそれは見逃すわけにはいくまいと。一緒にシネコンに行き、私が『トータル・リコール』を見ているあいだ彼女は『デンジャラス・ラン』を見た。そちらは凡庸だった模様。

リメイク元のアーノルド・シュワルツネッガーが出ているやつは見たこともないし、原作というかアイディアのもとになっているディックの掌編だか短編だかも読んだことはないのだけど、十分に面白く手に汗をちゃんと握りながら見た。見たそばから何を見たのかすっかり忘れてしまうようなスピード感あふれる演出で、なんかあの、すごい、たしかすごい面白かった記憶がおぼろげにある感じでした。

こんなことを言っても仕方がないしこの映画に限ったことでは当然ないのだからこんなこと言っても野暮でしかないとは重々にわかりつつも、それにしても銃弾当たらないなー主人公たちには、というのがどうしても気になってしまうのは、どうなんだろうか、私の野暮さからなのか、それとも演出に脆弱さがあるのか。銃弾の雨、まるで当たらず。いいんだけど、なんかこれを見ていたらそれが少し気になった。

 

・グラン・トリノ(クリント・イーストウッド、2008年、アメリカ)

再見。当然、そこに唐突に姿を現す冷徹で強靭な元軍人の表情や実際に抜かれる何種類かの拳銃の艶めきが画面を切り裂きはすれども、イーストウッドはこんなにも優しい映画を撮っていたんだっけかと、半ば呆然としながら見ていた。ここで言う優しさは隣に住むモン族の家族との心あたたまる交流とかそういうことではなくて、少年の教育として訪れた床屋において店主と少年のやり取りを見たときのイーストウッドの表情や、隣家のおばあちゃんが唾を吐くのに対抗してイーストウッドが噛みタバコを吐いたあとに映されるおばあちゃんの表情や、劇中に何度も聞くことになるイーストウッドの唸り声のその都度の響きの、その場面にオチらしきものをつけようとするいろいろの身振りのことで、なんというか、見る者にクスっとさせることを平気で許容するようで、こんなにも、イーストウッドは私たちに優しかっただろうかと虚を突かれた。そしてちゃんと感極まった。


最近見た映画(『デジャヴ』『J・エドガー』『引き裂かれた女』…)

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・デジャヴ(トニー・スコット、2006年、アメリカ)

再見。トニー・スコットの映画は見るたびに同じ言葉がいつもよぎって、それは「覚悟」なんだけど、覚悟とか勇気とか責任とか、そういったことをまるで回避したような人生を送っている私はいつも「見習わなくちゃ」と思う。

冒頭の、そしてもう一度見ることになる埠頭の人波、豪華客船の中の笑顔、駐車場に停められた一台の不審車、流れるマーチングバンドの陽気な演奏とビーチ・ボーイズ。のっけからただただただならぬものが押し寄せてきて、現場に到着して車を降りるデンゼル・ワシントンの姿を見た瞬間に、「もう、こいつにすべてを託そう」という気分になるから不思議。大写しのスクリーンとその前に立つ人間という絵面はいつもエキサイティングで好みだった。ラスト、本当に救われた。覚悟。

 

・J・エドガー(クリント・イーストウッド、2011年、アメリカ)

岡山ではやらなかったのだろうか、上映の情報を一回も目にしなかったのだけど、倉敷あたりではやったのだろうか。市内ではなんでやらなかったのか。今度駅前にイオンができるらしいので、シネコン入れてぜひがんばってほしい。

レオナルド・ディカプリオも側近のアーミー・ハマーも秘書のナオミ・ワッツも若き日も老いた日も素晴らしい演技を見せていた。ディカプリオの見せる傲慢さといくつもの弱さ(自室にこもって母親の服を着てみせる姿や、鏡の前で吃音矯正的にフレーズを繰り返す姿や(レオー!)、側近のトルソン君との痴話喧嘩でトルソン君がグラスをがしゃーんってやって狼狽して「ガラスくだけてるんだから素足で歩いちゃダメだよ」とか「明日の競馬は行くよね、ね、ね?」とか言うところや)が素晴らしくいびつなハーモニーを奏でていた。

それにしても、見ている者が登場人物の行先を案じるのを最初から防ごうとするかのように、サスペンスを最初から排除しようとするかのように、数十年後の変わらない関係が先手先手で映される構成には面食らうものがあったのだけど、これはこのあとも彼らはオッケーな感じで関係ちゃんと続くから、彼らが何を喋りどんな顔をするのか黙って見ていればよろしい、ということなのだろうか。

 

・引き裂かれた女(クロード・シャブロル、2007年、フランス/ドイツ)

最近はツタヤにシャブロル作品がいくつも並んでいるので、なくならないうちにと思い。優雅で軽やかなサスペンスだった。何よりも『石の微笑』のときの真面目で堅物の青年とは対極のような大富豪の放蕩息子を演じるブノワ・マジメルが素晴らしかった。弱々しい笑顔でちょっとは僕のこと好きになってよとお願いする様や過ぎ去る女に向ける投げキッスとジュテーム等々、表情や仕草の一つ一つが本当にダメな感じで、少しばかりジャン=ピエール・レオーを彷彿とさせるような、私のとても好みの動きをしていた。

サスペンスの駆動する事件のタイミングと、そこからの展開の早さ、ほとんどまあ最後はちゃんと引き裂いておくかという思い付きにも見えるような唐突なラスト、最初から最後までなんというか身のこなしの軽い映画というような印象だった。

映画のもとになっているというスタンフォードホワイト殺害事件に関する記事を読んだのだけど、これもまた、ひどい事件で最高だなあと。

 

・SOMEWHERE(ソフィア・コッポラ、2010年、アメリカ)

ソフィア・コッポラは『ヴァージン・スーサイズ』と『ロスト・イン・トランスレーション』は見てどちらもすごく好きで、『マリー・アントワネット』は見ていないのだけど、これはまたけっこう好きだった。こういう場面を撮りたいんだよねという原初的な欲求にしたがって撮影されたものをつなげて一本の映画にしてみましたというような自由で気楽な印象。音楽の使い方も好きで、アメリカにはあんなサービスがあるのかと驚いたデリバリーのポールダンスシスターズ的な人たちがラジカセで流す音楽と一緒にポールに肌がこすれる音が入ってくる感じとか、いくぶんかの切なさとともに好感が持てた。

 

・チェンジリング(クリント・イーストウッド、2008年、アメリカ)

再見。アンジェリーナ・ジョリーに突き付けられる理不尽にやはり動揺。LA市警ひどすぎワロタ、という感じだった。アンジェリーナ・ジョリーの赤い唇に限らず俳優一人ひとりの顔が強く脳裏に焼き付けられる。


9月、ブルーハーブ、連休

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土曜日の晩、THA BLUE HERBのライブに行ってきた。日曜日も当然営業だったため2時からのライブというのはしんどいのではないかという懸念はあったのだけど、行かずに、見ずに済ませては到底いけないと判断したために行った。5時近くに家に帰ってからも何か興奮がおさまらず、いつにない饒舌な口ぶりで彼女といろいろなことを話した。

 

会場のエビスヤプロにはこれまでこの場所で見たことのない数の人であふれていて、知った顔もたくさんあった。社交をしに行ったわけではないから別段誰がいようともかまわなかったはずだけど、色々なレイヤーの顔ぶれがそこここにいることを見ると何か嬉しいというか、安心するものがあった。集まるべきところに、集まるべき夜にちゃんと人が集まった、というのが嬉しかったらしかった。

新作の『TOTAL』は聞いていなかった。1stと2ndをかつて私は、自己啓発セミナーの録音CDを営業の車中で聞きこみまくる出来損ないのサラリーマンと同じ態度で聞きこみまくっていて、それこそ啓発され、鼓舞され、さあがんばらなきゃ、ボスもがんばってるし、俺も、そろそろ、多分、という気分になっていた。これまでに音楽にこんなに背中を押されたりしたことはなかったように思えた。大切な存在だった。1stや2ndでボスたちが立っている場所は挑戦者のそれであり、煽動者のそれだった。それらと私の立っている場所は親和性が高かった。3rdで彼らは教育者になった。彼らがステージを一つ上がっているあいだ、私は何も成長せず、何も果たせず、前に進まず、だからこそ、ブルーハーブが遠いところにいってしまった気がした。彼らの変化について私はひとつもネガティブなことは思っていなくて、これはアーティストの変化みたいな事態に対する感じ方としては異例のことだと思う。変わっちゃった、まるくなった、つまんなくなった、ということではまるでなくて、自分がまだそのステージに近づけていないことがいけないんだと、このあたり完全に自己啓発っぽい感じで今打ってても気持ち悪いんだけど、そういう感覚であり、自分に聞く資格ができたとき、改めて聞こう、そうしたら同じ言葉がまるで違う響きで私のうちに入ってくるはずだと、そう思っていて、だから今回の4thについてもまだ聞いちゃいけないと思い、買ってすらいない。

 

ライブは格好良かった。ブルーハーブのライブはこれまでも二度だけ見たことがあって、最初はその存在も知らなかった高校生のとき、新宿ロフトでのdownyとの対バンとして見た。制服を着て見た。青木ロビンに傾倒していた私にとってそのときのブルーハーブのステージはまるで興味をもたらすものではなく、なんなんだろうこの人たちは、ぐらいだった。二度目は大学四年のときだろうか、いつかのフジロックの夜中のマーキーのときで、このときは見る気満々だったにも関わらずそれまでに飲み過ぎたことがたたってライブの途中で眠りこけてしまって何も覚えていない。いずれも、なんてもったいないことをしていたのだろうかと今になって。

だから今回のライブが、最初から最後までをちゃんと見る初めての機会で、それで、ライブは本当に格好良かった。知らない新曲も、「クラシック」と呼ぶ昔の曲も、それから途中途中の演説も、全部格好良かった。冒頭にも書いたように深く重い余韻が体と頭と耳に残り続けた。それでもやはり、今はまだ自分には違うのかもしれないという違和ははっきりと残った。ボス自身もボスは変わっちまったみたいに思う人もいるっていうのは知っているけれどみたいなことをMCで言っていたけれども、もう本当に、がんばります、僕も、これから、きっと、多分、と思った。ライブのあとに「もっと昔の曲やってほしかった」であるとか「ボス変わっちゃった」という声を実際に耳にしたのだけど、ことブルーハーブに関しては幻影を求めるのではなく、距離を見定め、それで自分はどうするのかということだと思う。少なくとも私にとっては。間違いなく。

 

8月でたまった疲れを少しでも取ろうと昨日今日と店を休みにして休日という感じで過ごしているのだけど、いざ休むと何をしたらいいのかわからなくて困る。やることがないわけではないというのは重々わかっているのだけど、どうにもうまく体が何にも反応しないというか、うまく時間をやり過ごせない。映画を見たり、本を読んだり、文字を打ったり、しているけれどもなんだかこれでいいのかわからない。昨日は店の地下室で『チェンジリング』を見、今日は映画館でアンゲロプロスの『霧の中の風景』を見た。昨日はロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』を読み、今日は箸休め的に買ったジェフ・ジャービスの『パブリック』を読んだ。昨日はタリーズで文字を打ち、今日は店で文字を打った。いいじゃないか、とも思うのだけど、見ることと読むことと書くことは私の中で常にトレードオフの関係にあって、トレードオフって言葉の使い方合っているのか甚だ不安なのだけど、トレードオフっぽい感じにあって、何かを読むことを選択した場合、見なかったことと書かなかったことがいつでもつきまとい、見ることを選択した場合以下略、という感じになる。限られた時間の中で何をどう割り振れば自分が満足できるのか、25年以上生きてきたけれどいまだわからない。時間が十全にあればうまくいくわけでもなくて、それはそれで全部をやるには体や頭がついていかなくて、今日も今日とてぼーっとしながら野球関連のネット記事を読みふけったりyoutubeで好プレー集みたいなのを見たりして時間を浪費する。なかなかいろいろとうまく機能しない。怠惰なだけということはよくよくわかっている。


桐島、部活やめるってよ(吉田大八、2012年、日本)

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原作についてはかつて書店で平積みされていたような記憶があるだけで読んではいないし何かタイトルも鼻につく(たぶん読点のせいか、なんか知らん奴になれなれしく話しかけられている感じのせい)し、見に行くつもりはこれっぽっちもなかったのだけど、RSSにチラチラと言及エントリーがあがっていくのを見ながら「はて」と思っていたところ、友人からのメールに「未見ならば」とあったため、行った。二度行った。

 

 

ガス・ヴァン・サントの『エレファント』との類似がどこでかは知らないけれど指摘されていると読んだのだけど、私は『エレファント』についてはまた見ようまた見ようと折りにふれ思いながらも久しく見ていないのであまり覚えていないこともあり、中心人物を欠いた群像劇という点からなのか、ただ大好きな映画だからなのか、アルノー・デプレシャンの『二十歳の死』をなんとなく思い出しながら見ていたのだけれども、デプレシャンが説明を放棄しながらもうなんかこの人たち絶対こんな感じっていうかいるよねというかなんかあるよねこういう場きっとフランスとかには知らないけどでもきっとというリアリティを獲得したのとは反対に、吉田大八はこれでもかと描写を重ね、同じ時間を異なる視線から何度も捉え直しながら、見る者に向けて「この子はこういう子だから、ちゃんと覚えておいてくださいよ、こういうことしたりするしああいう顔もしちゃう子だから」と念押ししながら、説明の労をまったく惜しまずに、どんどんと強固なリアリティを築きあげていく。その結果として一見わかりやすい作りになっているスクールカーストと、そこに内包される歪みやスクールカースト上では想定され得ない様々な種類の視線が見事に描き出されていた。なんとなくさくらももこの『永沢くん』を思い出した。いや本当に、こんなにも関係性を見事に捉えて画面に定着させることに成功した映画は近年そうなかったんじゃないかとか極端なことを言いたくなるくらいに鮮やかだった。金曜日で提示された関係性が月曜、火曜と日が経つにつれてどんどんとひずんでいく緊張感はすごかった。

 

そしてとにもかくにも残酷だった。

とても美人のクラスメイト及びとてもイケメンの彼氏につきまとうちっちゃい女の子が苛立ったとても美人からそっけない態度を取られて「ごめん」と言っても無視される様や、欲しいと、絶対に欲しいと思っているはずのiPhoneではなくガラケーを使っているところや。

真剣に映画を撮ろうと思っている映画部員に向けられる「遊びでしょ?」の言葉であるとか、テーマは自分の半径1メートル以内で探せという顧問の不理解や、冴えない映画オタクがスクールカースト上位陣に対して(決して聞こえないように)ぶつぶつと呟く呪詛の言葉や。

主体性を一切持たないで帰宅部連中や彼女と称されるちっちゃい女に言われるがままにしか動かないイケメンや、練習に行かなくなって久しいのに肩から下げる野球部のバッグや、キャプテンが彼に向ける優しさや、突き放しや。キャプテンのストイックさや。

あるいは桐島不在の事態を怒りにしか変換できないバレー部員や、桐島の不在によって試合に出ることになってしまうリベロの戸惑いや、結果としての叫びの悲痛さや。それを見守るバド部のキュートガールがとても美人たちに向ける密かな軽蔑や、諦めや、小さな反逆や。帰宅部員たちの放課後のバスケや、そこで露見される意外に建設的な態度や。

そして何よりも、どうしても残酷だと思ってしまったのはイオンの映画館で前田(神木隆之介)とかすみ(橋本愛)が出くわすくだりだった。二人は塚本晋也の『鉄男』を見た。

「未見ならば」と言ってきた友人からのメールにはたしか「グミチョコを通っている者ならば」ともあって、私は大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』は数年前に初めて読んだ者で、通っているというか読んだことがあるという程度の者なのだけど(とは言えぐしゃぐしゃに泣きながら読んだのだけど)、『グミチョコ』では主人公とヒロインの子が池袋の文芸座でばったり出くわし、こんな映画好きだったのか双方、ということが知れ、そこから固有名詞の応酬がおこなわれ、わーい、わーい、と歓喜する様が描かれたわけだけど、『桐島』では、上映後に映画館近くのベンチで話しながら(寒い季節だし飲みたくもないであろうペプシコーラをかすみにおごる前田の浮き足立ちが切ない)、「前にもああいう体が割れたところからなんか出てくるやつ見たことある気がする」というかすみの言葉に反応および興奮した前田がいくつもの映画のタイトルをあげるが通じないし、めげずに「タランティーノは好き?」と聞いてきた前田に対してかすみは「好き」とはいうものの、どの映画が好きかと問われたら「人がたくさん死ぬやつ」と答えるにとどめ、タイトルを言おうとしない。お前絶対タイトルまで把握してるだろ!と私は突っ込みながら、固有名詞を通さないことでかろうじて共犯の関係にならない場所に立ち止まるかすみの姿に、何か、双方にとってとびきり残酷な事態が起こっているような気がしてならなかった。かすみはその後、放課後の教室で彼氏と話しているときにも、「何を見たのか」と問われても「なんかマニアックなやつ」と言うだけで、その姿がとても切ない。どうせ言っても通じないし、そういう面を知られたくもないし、ということで拒絶された感のある彼氏のそのときの反応も切ない。映画に関することに限らずかすみが全編に見せる曖昧さは、相手にとっても自身にとっても残酷なものだったように見えた。

 

そこまで見るものにどんなカタルシスも与えずに、緻密に緻密に、ひたすら緊張感を高めながら練り上げられて迎えた最後の屋上の場面は、もう本当に最高で、最高で、もちろん、文化部員たちのスクールカースト上位陣に対する反逆の喜びもあったけれども、そういった物語上の次元を超えたところで大きな解放が私を包み込むようで、二度とも私はあごを震わせ鼻水で唇まで濡らしながら泣いた。吹奏楽部が演奏する「エルザの大聖堂への行列」という曲をバックに、桐島を求めて屋上に押しかける上位陣、そこで粛々と撮影をおこなっていた映画部が対峙する。橋本愛の平手打ちを合図に神木隆之介が彼らを襲えと言う。食い殺せと。ダイアリー・オブ・ザ・デッド。それまでほとんどセリフもなかった映画部員たちがゾンビと化して次々に上位陣に襲いかかり、その様子を中腰の神木隆之介が8ミリカメラで撃ち続け、大きな口をあけて叫び、橋本愛が美しいとしか言いようのない顔で立ち尽くす。その首筋に最後のゾンビが襲い掛かる。もうどうしようもなく素晴らしかった。もうどうしようもなく…… いやほんと最高すぎて何がなんだかわからないです。うれしくてうれしくて仕方がないです。

 

なんかよくわからないことになったけれど狂おしいまでにとてもよかったということです。


8月、ロベルト・ボラーニョ、柴田聡子

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たぶんわりと最近できた、いつもよく人の入っているスペインバルのある四つ辻には街娼が何人も立っている。お兄さんマッサージはいかがと、問うというよりは虚空に向けて放つその口調から察するに彼女たちは故国をほかに持つ者たちで、立ち退くよう警察から指導されることもない。この町から警察が消えたら私たちの商売は上がったりだよ、あとは先生と公務員。

 

日曜の夜の岡山は、まだ8時や9時だというのに人通りもまばらで、私は居心地のそうよくない喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。日に日に体が疲れていく。疲労の蓄積はまた、金銭の蓄積にもつながることであるので喜ばしいことには違いがないのだが、朝起きるときの起きにくさが日に日に強くなっていく。8月がこんなに忙しかったなんて、去年のデータは教えてくれなかった。じわじわと、ジャブのように私たちの体を責め、シャブのように私たちの体を蝕んでいく。金が手元にある。それを外貨に換えてから飛行機に乗った。街娼たちの家族に手紙を届けるためだった。メールをすればいいじゃないかと私は言ったが、彼らはアドレスを持たないと言った。それならば、こうやって手紙を手にしたところで、いったいどうやって探せというのか。途方に暮れて入った汚い飲食店の汚いテーブルのうえにその手紙を置いてきた。善行がこんなに難しいことだなんて、去年のデータは教えてくれなかった。

 

そのあとハンバーガーを食べる店に入った。フジロックに出店していた、それがやたらに美味しく、期間中に3回も食べた、と友人から聞いたためだった。店員の方がハンバーガーを出してくれた。僕のためにハンバーガーをこしらえてくれてありがとうございますと言った。パンとパンのあいだにはジューシーな肉とアボカド等が入っていた。ポテトを一緒に頼んだ。美味しく食べ、ハイネケンを飲みながら引き続きロベルト・ボラーニョの『野生の探偵たち』を読んだ。半分を過ぎたくらいのところでこれは勢い良くいきそうだと下巻を買っていたがまだ上巻で、なかなか思ったようには進まない。探偵がウリセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノに関係した人物たちにひたすら聴取していく形式で、メキシコからパリ、バルセロナに探偵は足を運んだ。いまふたたびメキシコに戻ったらしい。二人の詩人の行く末がどんなことになるのか、ろくでもない死を死ぬだけだろうか。ときおり訪れるはっとする瞬間を頼りにしながら少しずつページを繰っている。詩人という存在には、自分があまりに縁遠いからか興味がわかない。詩人とはなんなのか。職業なのか、属性なのか、存在を規定する何かなのか。

 

柴田聡子の『しばたさとこ島』は「詩人」という言葉から始められる。素晴らしいアルバムで、何十回と聞いている。歌も歌詞もメロディーもぜんぶ、本当になんだかものすごくて、ものすごいといってもこちらを圧してくるような力強さや権力とは無関係の、回避したい言い方を使うならば等身大の、やわらかな、だからといってこちらを包み込んでくるわけでもなく、ひとりで立ってひとりで歌う。耳に残り続け、気を抜けばいつでも頭のなかに流れ始めるから本当に厄介だ。

その柴田聡子のライブがこの金曜日に私たちの店でおこなわれた。

と、ここで問題が浮上する。敬称の問題だ。柴田聡子と言ってしまっていいのか、という問題だ。柴田聡子さんというのが妥当かつ穏当なのではないかという問題だ。私は音楽をやる人や、小説を書く人や、映画を撮る人を語るとき、「さん」なんて付けるべきではないといつでも思っている。そんなことはせずに、ショーン・マーシャルをショーン・マーシャルさんではなくショーン・マーシャルと呼ぶように、個人的にどんな関係にあろうとも敬称略で呼ぶべきだと思っている。敬称をつけることは作業者に対する失礼なのではないかと思っている。敬称をつける行為は、ショーン・マーシャルと柴田聡子を同列に語ることを妨げるだけのことだと思っている。だからここは断固として柴田聡子と敬称略で書きたいのだけど、心のなかでは完全に「柴田さん」と呼んでいるのだけど、でもこれはテキストであり、柴田聡子なのだけど、柴田聡子のライブがだから先日あった。

営業中にこれでもかと流しまくったり、柴田聡子関連のツイートをRTしまくったりして、できる範囲とはいえ珍しく躍起になって宣伝して、少しでも多く来てほしいと思っていたのだけど、蓋をあけてみれば超満員といっていい入りで、立ち見が出るほどだった。広くもない地下室が50人もの人で埋まり、その光景に私は感動した。お客さんの顔ぶれを見る限り私たちの宣伝による影響はそんなにないような気もするけれども、とても嬉しかった。そしてライブは本当によかった。

「アルバムほんとすごくいいから」と言って人々をライブに呼ぼうとするときにはもちろんそんなことは言っていなかったのだけど、一抹の懸念があった。『しばたさとこ島』の素晴らしさは、もしかしたらすごく充実したアレンジに負っているのではないか、ということだった。ラブクライやテニスコーツやナツメンやジム・オルークバンドといった、少し知っている人であれば「わ」となるプレイヤーを集めたこのアルバムの演奏は本当によくて、一音一音が充実している。聞くたびにこんな音が鳴っていたのかと驚いて耳が楽しむ。それらがあまりいいものだから、柴田聡子の歌はこれらの演奏のうえでこれだけ輝いているのではないか、弾き語りあるいはシンプルなバンド編成で奏でられるそれは、もしかしたら少し見劣りするものにはならないか。それが一抹の懸念だった。とは言え実際にこの懸念は一抹のものであり、彼女の声を聞いていれば、きっとそんなことはないだろうなというふうには思っていた。

実際まったくそんなことはなかった、ということがたちまちに証明された。ギターがぽろんと鳴らされ、声がひとつ発されただけで、肌が震えた。あの声はなんなんだろうか。喉から押し出すか絞りだすかするような、消えそうでずっと続きそうなあの声はなんなんだろうか。柴田聡子関連ツイートをRT目的でtweetdeckのカラムにずっと表示させていたときに「存在自体が才能」とか「うたっている顔がほんとうにかわいい」とか「母音「う」の何度キスしたいと思ったか」とかあったけれど、どれも本当にそうだった。最高にチャーミングで最高に切実だった。いつまでも見、あるいは聞いていたかった。

まるで馬鹿みたいな言い方だけれども全曲名曲だった。「名盤とか名曲とか、言葉に垢がつきすぎて馬鹿らしくて使いたくない」とむかし友人が言っていたが、すごくわかるのだけど、それでもやっぱり奏でられるそれらは全曲名曲だった。でかい声に反応するのは安いし易いことだけれども私はやっぱりそうなってしまってその結果として特に印象に残ったのは「カープファンの子」で、何度も繰り返されるうちにどんどんぶっきらぼうにやけっぱちになっていってほとんどシャウトといっていいほどまでに展開されていって、私は簡単にできているから涙した。弾き語りだけでなく、DJぷりぷりと貝和由佳子を交えたバンド編成での数曲もとてもいいあんばいですごくよかった。ギターと鍵盤ハーモニカとキーボードだけであんなグルーヴというか熱量が生まれるのかと驚いた。

何人かの人からライブのあとに言われたように、アンコールというか、決まった儀式としてのアンコールというよりはただ単純にもっと、あるいはずっと聞きたいという欲求からアンコールを聞きたかったけれど、それはなんというかその場のお客さんたちのある種の控えめさから実現しなかったけれど、2時間ぐらい聞いていたかった。持ち歌ぜんぶなくなりましたというぐらいに聞いていたかった。

いい夜だった。ライブが終わり、営業が終わり、家に帰ってからも『しばたさとこ島』を聞き、翌日も聞いた。今日も聞いた。猿みたいに聞き続けている。ライブのときに買ったデモ音源2枚はまだあけてすらいなくて、おいしいらしいと聞いて買ってみたワインをさていつあけようか、というのに感覚が似ている。


オペラは踊る(サム・ウッド、1935年、アメリカ)

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マルクス兄弟はこれまでそれこそダックスープだっけ、『吾輩はカモである』しか見たことがなかったのだけど、以前にレコード屋で500円DVDで売っていたので買っていて、それをふいに彼女が流し始めたので見た。すごく面白かった。映画はやっぱりこんなのがいいなと。すべてのシーンが見所みたいな、こんなのがいいなと。

オペラの男女の別れの歌い合いとか、船室にギュウギュウに人が入っていくあの滑稽さとか、それから船外で綱を握りしめてあっちこっちいかされるハーポ、船上でゲリラ的に沸き起こる歌唱、ダンス、演奏、演奏時のハーポのあの真剣な眼差し!人々がミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチあるいはハマグチ、ハマグチ、ハマグチと叫ぶならば私は少なくともこの映画を見ているあいだはハーポ、ハーポ、ハーポと3回叫びたいところなのだけどクライマックスの地上数メートルで舞台を、画面をぶんぶんと横切り続けるハーポの躍動の素晴らしさといったらなかった。

無邪気に楽しめる映画というのが一番いいなと。ただ、マルクス兄弟というのがどういう存在なのか全然知らないのでそれが特徴の一つなのかもしれずこんなことを指摘するのは無粋以外何ものでもないのかもしれないけれどマルクス兄弟には悪意を感じるというか、ちょっと普通にそれ迷惑でしょ、そういういたずらは自制しなさいよ、度を過ぎてますよ、という常識人的な困惑を私は覚えてしまった。喜劇には違いないのだけろうけれど、彼らの活躍によって迷惑を被っている人たちがいるという事実についてはどう捉えたらいいのか。周りにいたら超迷惑だなと思いました。


きっとここが帰る場所(パオロ・ソレンティーノ、2011年、イタリア/フランス/アイルランド)

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以前ペドロ・アルモドバルの『私が、生きる肌』の感想に書いた通りの映画だった。懸念された通りというか以上にどうでもいい映画で、ショーン・ペンの演技は相変わらず好きだったし本人役のデヴィッド・バーンの前で自身の現在の状況について悲壮に叫ぶ様にはぐっと来たといってもいいけれど、ナチスの残党狩りの後味の悪さとか、それは別にいいとしても全体にどうでもよかった。予想していた通りトーキングヘッズというかデヴィッド・バーンバンドというのか、のライブシーンには、「This Must Be The Place」の演奏には動揺してかき乱されてあられもなく涙してしまったけれど、それ以上では決してなく、というかこの曲をみだりに使いすぎていていろいろと興ざめしてしまてって、もっと落ち着いてくれよ、もっと、せっかくの曲なんだからカバーバージョンとか聞かさなくていいから、とっておいてくれよ、大切なその一点に、と、思って、途中で出ようかと思ったぐらいにどうでもよかった。
今回の上映で一番よかったのは予告編で流れた『霧の中の風景』で、9月からアンゲロプロスの追悼特集が遅くも岡山に回ってくるのでそれがとても楽しみです。


ダークナイト・ライジング(クリストファー・ノーラン、2012年、アメリカ/イギリス)

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見たのはもうずいぶん前のことで、いまさら感想も特にはないのだけど「見た」ということの備忘だけのために。

 
ライジングが、というかこのタイトルに関してどうしても気になってしまうのが原題の「Rises」が邦題では「ライジング」になっていることであり、これに終始するのであり、三部作の最初は「ビギニング」じゃなくて「ビギンズ」って言えたんだから、最後もがんばって、それはもちろん、ライジズってなんとなく響きも字の並びも悪いのはよくわかるしぱっと見たときに日本人的には意味も取りにくいような気もわかるのだけど、なんというか、ほんとうに悪しきことなんじゃないかととても強く思う。というか恥ずかしい話だけどいまウィキペディアを見ていたら初めて「ダークナイト」の「ナイト」が夜じゃなくて騎士の方だと知った。恥ずかしながらずっと暗黒の夜だと思っていた。猛烈に恥ずかしい。しかしそんなに恥じる必要はあるのだろうか。というかいま本当に最初は「ビギンズ」だったんだっけ、見てないし、と不安になってググったわけですが、そのときに私は「バッドマンビギンズ」と打ったわけでした。

結局これなのかなと思ったりもするわけで、バットマンをバッドマンと打ってしまえるこの私のなんというか素養のなさこそがライジングを楽しみきれなかった一番おおきな原因なのではないかと思う。楽しみきれなかったというと語弊があって実際さいしょの飛行機のアクションシーンであるとか、最後の方の警官対市民のわーっていう暴動的なものとか、わーって思いながら圧巻とか思って見てはいたのだけど、悪役の大きな男の人とかはさっき見たウィキペディアによれば原作ではけっこう大きな敵だったみたいだけどまったく知らずに見ていると冒頭で出てきたときには「ちょい役なんだろうな」、地下組織のところで出てきたときには「まあなんか牛耳ってるんだろうな」、だんだん本ボスがこいつだとわかり始めたときには「こんな巨漢が悪の最たるものだなんて許容していいのか!」となってしまったわけで、だからけっきょくバッドマンじゃなくてバットマンに触れた経験が前作だけしかない人間にとってはジョーカーだっけ、なんかそういう名前の悪い感じの人、あの人の印象に強く引っ張られすぎて、ああいった大きな悪い人にはびっくりしてしまった。

それを人に言ったら「そういう声はよく聞きます」と言われ、だから私はとても素直な、凡庸なところで落ち着いてしまった。

アン・ハサウェイのアクションはとてもよかった。軽やかでセクシーで。名前いつまでたっても覚えられないけど『(500)日のサマー』の青年の警官はいい人そうだった。『ミッドナイト・イン・パリ』で素晴らしかった女優の方は見るたびにもっさりしてくるような感じがあって最初同じ人だとはにわかには信じられなかった。


佐々木敦/未知との遭遇

book

未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ

ハーバート・A・サイモン、東浩紀、クリストファー・チャーニアク、中森明夫、大塚英志、宮崎勤、オウム真理教、新世紀エヴァンゲリオン、岡田斗司夫、CURE、九鬼周造、ヒミズ、一ノ瀬正樹、リチャード・テイラー、マイケル・ダメット、大森荘蔵、入不二基義、マクタガート、ウェス・アンダーソン、ディスコ探偵水曜日、バリー・シュワルツ、西尾維新、本谷有希子、スラヴォイ・ジジェク、デメキング、ポツドール、歌野晶午、涼宮ハルヒの憂鬱、森見登美彦、グリーンヒル、イアン・ハッキング、木原善彦、デイヴィッド・ルイス、ソール・クリプキ、ネルソン・グッドマン、小沼丹、ジャック・リヴェット、グレッグ・イーガン。

 

これらの数々の固有名詞を軽やかに鮮やかに跳躍しながら語られる人生論。前向きに生きましょうという感じだった。ところどころに私には難解な議論も出てきて一読では消化不良だけれども佐々木敦を形成する膨大なデータベースと経験が調理されていく手付きは圧巻だった。出てきたものをあれこれ手にとってみたいという欲求だけがどんどんと募る。