book
2012年8月21日
二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
読んだのはいくらか前で、彼女が買った本だったのでページを折っていないのでどの箇所が面白かったのか今は判然としないのだけど数日であっという間に、ちょっと時間があけば本を取り出しページを繰り、という感じで読破したのでたいそう面白かったという記憶だけが残っている。
ポルノやSFやヴァンパイアものを書いている主人公が監獄の死刑囚に乞われ伝記を書くことになって、当然新たに起きる事件に巻き込まれて、いくつもの美女が現れてその中のどれかとファックして、あれやこれやが起きてそれやに至るいたってまっとうなミステリーで、途中途中に挟まれる主人公が書いた小説の抜粋とかはけっこうどうでもいいなと思うのだけど、だいぶ残虐な殺人事件を起こした死刑囚のダリアン・クレイや、あるいは主人公の家庭教師としての教え子であり作家としてのエージェントみたいな存在になっている大富豪の娘の高校生のクレアや弁護士、弁護士秘書等の登場人物の、ほとんど紋切り型ではあるけれど航しがたく持つ魅力や、『多重人格探偵サイコ』に出てきそうなかなりの残虐描写が読んでいてとても面白かった。
こういうジャンルものが、ロラン・バルトやボルヘスの名前を挙げる作者によって書かれると、いたって単純だけど私はどうもそれだけで信用してみていいかなと思ってしまうらしく(伊藤計劃のときもそれを思った)、そういう素養というか読書背景を持つ人が、いわゆる文学みたいな隘路に入り込まないで伸び伸びとミステリーやそういったなにかを書いていくことをなんというか、積極的な肯定の中で受け止めたい。
text
2012年8月17日
日曜日、それなりに忙しく働きながらふいに佐々木敦の文章を読みたいという気持ちが湧いて、それに従う形で書店で目についた『未知との遭遇』を買って読んでいて、今日そういえばツイッターでフォローしてないなと思ってフォローしてみたところmoe and ghostsというヒップホップユニットの宣伝をおこなっていて貼られていたリンク先の動画を見たら凄まじく格好良かったのですぐに買おうと思いitunesストアで買おうとしたところapple idが無効ですだかなんだかのエラーが出て買い物ができない。どうもmountain lionだっけ、OSのアップデートをしたときからおかしいような感じでそもそもmountain lionもポンドで購入していて、なんでだろう、と思っていたのだけど今日購入履歴を見てみたらなんだか買った覚えのないものが入っていたりして、どうなっているのだろうとitunesサポートみたいなところにメールを送っておいた。無事解決するといいが、moe and ghostsを聞きたい衝動は留まらなかったのでここ何年か行っていなかったような気がするタワレコに足を運びヒップホップの棚に行ってみたが見当たらず店員の方をつかまえて探してるんですがと尋ねたところ扱いがないとのことで落胆意気消沈。帰宅後、しょうがないからototoyで買った。こういうどうしても今日聞きたいんです、聞きたい気持ちを抑えられないんです、という衝動はとても久しぶりの気がする。いったいなにがそんなにあれだったのか、今これを打ちながら聞いている。とてもとても変。
夜、事実誤認から、それを是正する余地も与えられないまま人間が判断されることについて考える。人間の社会なんて大体がそういうことで成り立っているのかもしれないけれども、苛立ちがどんどんと増す。私は正当に評価されたくて仕方がないのか、そういうことがまかり通っていたことを事後的に知っただけで、無性に怒りが湧き抑えがたくなった。人間がぜんぶクソみたいに見えた。小さな駅のホームには一年で一番多い人口があった。若い人間が多く、長袖を着て襟足を伸ばして部分的に金色に染めて、みたいな集団は黄色い線を超えていなければ気が済まないらしく中にはふちに座り線路に足をぶらぶらさせている者もある。喫煙をしている者もある。とちゅう駅員が近寄って煙草は吸わないように、そこに座り込まないようにと注意をおこなうもまるで聞く様子なし。警察を呼べ、即刻警察を呼べ、補導しろ、逮捕でもなんでもいいから追い払え、なめられてるんだ、青ざめさせろ、法によって殺せ、そんな虫けらども、と思った者もあった。少し離れた高校生ぐらいの男四人はへらへらとマジカルバナナを改変したゲームをおこなっていた。その世代にそんなものが継承されているのかと驚きながら、偉そうなやつが偉くなさそうなやつを小突いたりしているさまを見るにつけ、虫けらどもは抹消されてしかるべきなんじゃないかと思う者もあった。姿は見えないがホームの端からでも聞こえそうな大声で何ごとかを笑い続けている女たちもあった。3両編成の電車がきた。岡山行の最終だった。喫煙をしていた連中とは違う車両に乗り込んだが、似たような連中はこの車両にもやはり入り込み、我が物顔をして汚いスニーカーでシートを踏む。ピンク色の浴衣の女たちは優先席に座り、なんの音なのか、バタンバタンとうるさい。うるさいだけなら構わないにせよ、横に座るのが母親と乳幼児であり、そのバタンバタン運動が何か乳幼児に危害を加えるのではないかと気が気でないというか、母親は本当にきついだろうなと勝手に忖度する者があった。うんざりする。未来、と思いながら、いったいどんな未来が、と思いながら、ホームから続いていた気分の悪さが頭の中をうずまく騒音でずっと強くなり、苦しかった。もはや人ごみや不愉快な騒音に耐えられない体になってしまったのかと心配になった。パニック障害を親しく感じるような気分だった。こんなふうだとしたら怖ろしいと思った。
傍若無人の若者たちを見ながら静かに彼らを侮蔑する者があったが、だが彼は勝者ではなかった。切り裂かれる状況があった。仮に彼が若者たちに罵倒の言葉でも浴びせようものなら、あるいは侮蔑を表した視線を向けるだけでも、彼は袋叩きにされただろう。彼は体を鍛えているわけではなかったし、どれだけ鍛えようとも、相手が多数ならばまず勝ち目は少ない。彼は彼が見下す者たちに勝てないというアンビバレントの中で持病の偏頭痛を呪わしく思った。
その外れた土地の花火はまったくの意想外なことに迫力が大きい。近さからだろうか。光の滝が完全に地面に落下していく様にわっとなり、着火地点も目視できる極めて近い距離からあがる仕掛け花火は最後、クライマックス、目がぜんぶ光でおおわれ、耳がぜんぶ音で圧せられ、現実がぜんぶそれに隠されるような気配があって、その瞬間、私は何によったのか、涙を目から伝わせた。花火で泣いたのは初めてだった。
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2012年8月5日
友人たちの記すフジロック日記であったり感想であったりが忌々しくて仕方がないなりに読んでしまう自分もいるわけで現在に関しては過度の飲酒のために口が乾いている。私の過度はビール4杯で達成される。また来年、see you next year、スィーユーネクストイヤー、ジュヌセパ、知るか、サリュー、サリュー、サリューあるいはアデュー、アデュー、アデューという気分だけれども、孤独だけが強くなる。すべての光景がクリアに見える。どこに記されているどの光景も、私には全部見える。そこでこうなって、あそこでああなったんだよね、その砂利道の感覚、乾いた太陽の喜び、耳と体を圧する音、グルーヴ、何十回目の乾杯、全部わかるつもりだよと思う。口が気持ち悪い。体が弱っているのか、昼にオムライスを作りそこねて出来たスクランブルエッグを食べて以来胃が気持ち悪くて、今嘔吐してもいいと言われても私はそうするかもしれない。フラク・ポーセージかポセージと思っていたらamazonだったらフランク・ポーザージ、Wikipediaだったらフランク・ポーゼイジ、どれが正しいのかわからないけれど、私だって彼の『第七天国』を見たい。アテネフランセで、それを見て、それと一緒に見たのはリリアン・ギッシュの『風』だったか、それはまた別の日だったか、忘れたけれど、見終えて、呆然の体で、廊下を進んだところにある喫煙スペースで落ち合った友人たちと「あれは、いったい、なんだったのか」というか「あれはwwwいったいwwwなんだったのかwww」みたいなトーンで興奮の口吻を飛ばして、それは、私にとっては人生で一番いい時間の一つだったのかもしれない。人生において一番いい時間なんてたくさんある。苗場だってそうだろうし、店をやっている中でのあれやこれやの時間だってそうだろうし、素晴らしい映画を見たときあるいは見ているその時間だってそうだろうし、とにかく、そういう、素晴らしい時間をたくさん過ごせればそれでいい。タベルナ・ロンディーノでパスタを食べている時間だってそれかもしれない。『オープニング・ナイト』を見ていた時間だってそれだろう。クソみたいだ。消えてなくなってしまいたい。ヴァニッシングポイント。羊皮紙みたいな、そういうイメージが好ましい。ヴァニッシュという響きがとてもいい。シャーって消えていく感じがする。砂になる。とか言いながらしょうもないこの生とおさらばできるほど私の人格はできていなくて/崩壊していなくて、もはや、何が正しいのか、そんなのは全部わからない。こんなくだらない日記はフェイスブックで「ブログ更新しました」とかやらない。ほとんど見も知らぬ人が文章も読まないのに「いいね!」とかつけてきたらアホらしくて仕方がない。フェイスブックに居場所なんてない。激安の共感なんて犬に食わせればいい。しょうもない社会性なんて禽獣に食わせればいい。世界を嫌悪し、ヘイトし、同様の力で羨望し、切望する。犬に食わせればいいのは俺なのかもしれないね。
cinema
2012年8月3日

カサヴェテスにはこれまでまるで縁がなく、それこそ高校時代か大学時代に『アメリカの影』を見ただけでここまで来てしまったわけで、彼のフィルモグラフィーがどんな感じだかも、どれだけの数の作品を残しているのかもまるでわかっていない。今ググればすぐにわかることだとはわかっているのだけど特にそうしたいという気にもなっていない。
そんな中で大阪にワイズマンを見に行き、せっかくなのでと第七藝術劇場まで出向き、レイトショウで『オープニング・ナイト』を見てきた。ちょうど前日に読んでいた濱口竜介のインタビューの中にも名前が出てきた作品だったしおあつらえ向きだった。
前夜ほとんど寝ていなかったこともあり、ワイズマンは寝ずにいけたけれど、もう見る前から目がしばしばしているし絶対に寝るなと思っていたが、144分、強い緊張のまま目を見開き続けることになった。ただただ圧倒された。
冒頭の、出待ちをしていたファナティックな少女の目深にかぶった帽子の陰から若い鼻とあごが覗き、そこに雨が落ちる、それだけで何かただならぬものが画面に映り込んでいるようだった。あるいは演出家の妻が寝室で見せる素晴らしい悪ふざけと運動。それらだけで私は「映画!」となるから実に簡単。
そこから先は、日中に会った友達からも予告されていた通り、ひたすらにジーナ・ローランズだった。生身、という言葉がずっと頭にあったのだけど、そこに晒されているジーナ・ローランズはどこまでも生身で、生身のジーナ・ローランズがスクリーンから溢れ出て、こちらの目と頭に向けて押し寄せてくるようだった。
いつ訪れてもおかしくない破綻を待つような、あるいはどうにかやり遂げろと応援するようなどっちともつかない心持ちで、ジーナ・ローランズ/マートル・ゴードンの芝居を見続ける時間は心臓に悪い。夫役の男にビンタをされて立たない/そのまま立たないのか/いつ立ち上がるのか。泥酔で現れるオープニング・ナイト開演時間、そこから彼女はいったいどんな芝居を見せるのか。何が壊れ、何が獲得されるのか。そこで私たちが見届けたものは、いつだって愚鈍あるいはどこまで実直とも言える客たちによるスタンディングオベーションと喝采に終わったあれは、いったいなんだったのか。
カサヴェテス全部見たい。
cinema
2012年8月3日

いつかの誕生日にそう親しくない友人とアテネフランセに見に行った『DV』が初めてのワイズマン体験で、そのあとは『チチカット・フォーリーズ』や『アメリカン・バレエ・シアターの世界』、『臨死』、『パリ、オペラ座のすべて』とちょこちょことは触れていたのだけど、去年あった特集上映は神戸か山口に行ってやろうと思っていたら気づいたときにはとっくに終わっていて、今作も岡山には来ない、バレエじゃなきゃ人が呼べないとでもいうのか、と憤りながら大阪まで見に行った。
今作は、これまでのワイズマン映画を見てきたときと比べて、何か、どこか、刺激に欠けるような印象だった。高速バスとは言え映画を見に行く交通費としては十分に高いものを払って見る以上、期待はものすごい大きかったのだけど、あれ、こんな感じだったっけ、と少し気が抜けた。これはとても残念だった。その気持ちを必死に否認したかったが、多分できなかった。
なんでだろうと考えると、わからないけれど、どこか本番で演じられるダンスありきで編集されているというか、稽古風景や舞台裏やミーティングが、どこか本番への補助線みたいな形で編集されているような感じがしたからだろうか。『アメリカン・バレエ・シアターの世界』のときも、稽古風景にはやたらに感動していたのに、いざ本番となったら一気に退屈になったという記憶があり、それに近い感覚かもしれない。
もちろん、クレイジーホースのショーはすごくものすごくて、ダンサーたちの体が切断されて陳列されるような、パーツとしてのみそれぞれが称揚されるような、あるいはスクリーンとしてそれらが利用されるような、見たことのないもので、見ながらこれは一度は実際に行ってみたいものだ、しかしデフォルトでシャンパンとか出されるしいったいどれだけ入場料取られるんだろう(今公式サイト見たら載ってて意外に安かった)、と思う、きわめてユニークでハイクオリティのもので、それだけで十分に見る価値のある映像だとは思うのだけど、何か、ワイズマンの映画が持つ力はそんなものじゃないような気がこちらはしているから、というか、本番の映像だけならワイズマンじゃなくたっていくらでも撮れるような気がしているからか、何か物足りなさを覚えてしまう。
私が面白く、そして「映画!」と感動しながら見るのはダンサーたちの舞台裏のけらけら笑いであったり、稽古中の試行錯誤であったり、老いてなお最上級にチャーミングな衣装担当の女性のミーティング時の弁舌であったりで、たぶん、それは不完全で不定形な「人間!」という姿の方で、そういう意味では何か消化不良のものが残る鑑賞になってしまった。
とは言ったものの、それが充実した画面の連鎖による類まれなる134分だったことは間違いないとは言い添えておく。
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2012年8月2日
午後4時、カレー、アイスコーヒー。午後7時、ホットドッグ、コーヒー。午後11時、ねぎ塩豚丼。実に不健康で、なんというか、不毛な気分。新大阪、ネットカフェ泊。
5都市ぐらいかと思っていたのだけど改めて劇場情報を見てみたら岩手だとか熊本だとかまであって、20都市近くやるというのに、岡山には今回はワイズマンはやってこず、憤りを覚えながら朝早い高速バスに乗って大阪まで出て『クレイジーホース・パリ』を見た。感想はまた改めて書くけれど期せずして映画の日で1000円で見られたので満足しました。そしてこんなに人が入るのかと驚いた。平日の13時の回で、しかもワイズマンで、8割方は席が埋まっているという事態をどう飲み込んだらいいのか、私にはよくわからなかった。いずれにせよ、前夜3時間ほどしか寝られていなかった中で最後まで見通せたことは私にとっては大きな自信につながることだった。
映画館で落ち合い、まるで別の席で見た友人と中崎町のカフェに行って長い時間を掛けて会話をした。飲食店を始めるらしく、それはとてもいいことだと思うと発言した。ちゃんと実現してほしい。今年のフジロックは最後まで雨が降らなかったらしく、そんな年もあるのかと驚いた。苗場に降らなかった雨が梅田に少しの時間、さーっと降った。それに濡れた。コンビにの前の喫茶店の軒先で猫が雨宿りをしながら顔をしきりに掻いていた。軽い足取りで私たちの近くを通り過ぎていった。
6時ごろ別れ、勝手を知らない町の暮れていく時間は私を不安にさせた。旅行に向いていない体質なんだろうと感じた。茫漠とした心細さを感じながら十三に出て、喫茶店に入って帰りの高速バスの払い戻しの手続きをするべく電話を掛けるが何度掛けてもつながらず、これは払い戻しをさせじとしているのではないかと訝り始めたころにようやく繋がってキャンセルできた。岡山大阪間の高速バス料金は片道2600円とかで大変安い。
それからロベルト・ボニャーロの『野生の探偵たち』を読み始めた。もう絶対に面白いんだろうなと思う。タイトルや装丁だけでそう確信させるのはすごいことだ。
第七藝術劇場は初めて行く映画館で、同じ通りにはさまざまなお店があり、ミニスカートをはいた若い女がキャバクラの中に消えていった。たくさんの人がさまざまな欲求にしたがって歩いていた。私は6階に上がり、カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を見た。見る前から眠かったが、見ているあいだは眠気から一番遠いところにいた。すさまじかった。新大阪まで出て、ネットカフェに来て明朝のアラームをセットしてフラットシート。メディアカフェポパイはすべての店がそうなのか知らないが、扉が透明で居心地が悪い。眠ってしまえばそんなことは関係なかった。
book
2012年7月27日
ムーンライト・マイル (角川文庫)
友人のブログで知り読んでみた。本当はシリーズの最初の作品を買うつもりだったのだけど本屋に行ったらこれしかなく、シリーズ最終作から読むことになってしまった。訳者あとがきでも前作の『愛しき者はすべて去りゆく』から読むべきだと書かれているのでやっちまったなという感は否めないのだけど、それでも十分に面白かった。キャラクターがものすごく魅力的であるとか、ユーモアの効いた文体がいいとか、情景描写がいいとか、シリーズの他の作品を知らず時間的な厚みが欠けているせいもあるかもしれないけれども個別に見るとどれも取り立てて私を強く惹きつけるというものではなかったけれども、早く早く、次のページ次のページというふうに読み進めさせられるのはやはりストーリーテリングの妙なのだろうか。探偵ものはやっぱりいいね、というところだった。
今読んでいるデイヴィッド・ゴードンの『二流小説家』でもそうだし、そんなキャラクターは大勢いるから物珍しくもなんともないのだけど、本作でいうところのアマンダのような頭がキレキレの少女というのはやはりめっぽう強くて魅力的で、もうその手はずるいだろと思う。パトリックとアンジーシリーズの他の作品も順次読んでいきたい。
cinema
2012年7月27日
映画館でも眠くなるものは眠くなるというのを久しぶりに思い出させてくれたという点でいえばありがたい作品というか何がありがたいのかはまるで判然としないけれども、久しぶりに映画館でうとうとするという時間を経験できたことは行幸というか何が行幸なのかはまるで判然としないけれども、”Tinker Tailor Soldier Spy”というやたらに魅力的な原題および原作を持つこの映画は、予告編を見て「ワクワク」と思っていた感覚を見事に裏切る、鈍重で眠気ばかりを誘う作品だった。
たぶん、原作はすこぶる面白いんじゃないかと思うのだけど、多分に複雑な相関や過去や出来事をどうにか2時間にまとめようとしたところうまく回収できなかった、というのがこの映画なんじゃないかと、うとうとして最後どうなったのかわからない状態の私が思ってみたところで何の説得力もない。とは言え、話を追えなくなることで見続けるのがしんどくなるというのはよき映画ではないはずだとも思うので、まあいいやということにする。
しかし、映画にとって音楽と踊りというのはやっぱり大きな武器らしく、パーティーのシーンはよかった。音楽が鳴って、人々が踊って、見つめ合ったり飽きたりして、酒を飲んだり声を張り上げたりして、そういうのはやっぱりとてもよい。
cinema
2012年7月27日
実際、これは、マックス・ノセック監督の『犯罪王デリンジャー』(一九四五)のようにクラシックでも、ジョン・ミリアス監督の『デリンジャー』(一九七三)のようにロマンチックでもなく、三〇年代のまだ舗装もされていない地面を舞う褐色の土煙のように、はかない物質性をまとった厳かな作品なのである。大恐慌時代の合衆国を、衣装や装置ではなく、荒れた地面に捲き上がる砂塵で描いてみせるマイケル・マンの演出のリアルな即物生に、人は深く心を打たれる。
(…)「失敗」の記憶につらなる砂塵のイメージは(…)その口からもれる吐息の思いがけぬ白さのイメージに受けつがれる。その白さも、艶めかしいまでにリアルだからだ。いきなり氷点下の夜の冷気を顔一杯に受けとめるわれわれは、アメリカ映画でスターの口からもれる白い吐息を最後に目にしたのはいつのことだったのかと、むなしく思いをはせるしかない。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)
残念ながら白い吐息にまつわる記憶など上手に引き出せはしない私だけれども、いくつかのシーンで見られる、というよりもなんというか立ち現れる息の白さにははっとさせられたし、中でも銃弾に倒れいま死ぬ人が最後に吐く吐息の白さおよびそのあとの呼吸停止にはわっとさせられた。全体に、この映画では死ぬ人がとても丁寧に撮られているというか、死ぬ人がとても上手に死ぬのが印象に残った。みんなものすごい死ぬっぽく死んでいった。
それにしても、後半のわりとヒロイン含めピンチというあたりからちょい仰角気味の、リンチを思わせる顔アップが何度も見られて、前半もこんな撮り方していたっけかと不思議な感覚だった。ジョニー・デップは映画俳優らしい声をしていた。
久しぶりに『コラテラル』を見たくなった。親密さという言葉を思うとき、いつも思い浮かべるのは『コラテラル』のタクシーだった。
cinema
2012年7月26日
この閉ざされた空間の対極に、トニー・スコットは、『マイ・ボディーガード』(二〇〇四)や『デジャヴ』の橋や『エネミー・オブ・アメリカ』の高速道路の高架のような宙づりの開かれた空間を決まって位置づけているが、ニューヨークに腰を据えた彼が、これまでの自分の作品を形づくっていた空間の構造をほとんど実験装置のように純化し、いわば批判的に再構築したのが『サブウェイ123 激突』であることは誰の目にも明らかだ。
(…)トニー・スコットの作品を見ることは、閉ざされた狭い空間と開かれた宙づりの空間との関係がどう組織されているかをたどることにほかならない。
(…)よく似た輪郭におさまる二人が遠隔通信を終えれば、開かれた宙づりの空間で対決せざるをえないというそんな空間的なハイチの機微を小気味よく楽しんでいる余裕が、はたして二十一世紀の観客に残されているだろうか。(蓮實重彦『映画時評2009-2011』講談社、2012年)
そんな余裕は特にはなかったのだけど、司令室とジャックされた車内の通信にほぼ終始する内側の静けさというか地味さというかそういったものと、金を運ぶ車やバイクのやたらに激しい衝突転落の騒々しさというか派手さというかのバランスであったり、ジョン・トラボルタの弱々しい笑みや人懐っこさ、あるいは激昂しやすさ、ジャックしながらPCを気にする繊細さ、タクシーの中での満面の笑み云々の複雑なキャラクターであったり、市長の振る舞いであったり、デンゼル・ワシントンの重そうな体であったり、なかなかたどり着かない警官隊であったり、向けられた銃口であったり、満足気な帰宅であったり、全体になんとも歯切れの悪いというか、割り切れないものの残る素晴らしい映画だった。はいこれが出来事のあらましでした、と放り投げられて事実は事実として確認したうえでどんな態度を取るべきなのか決めかねるような、なんとも奇妙な映画だった。
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